渡辺綱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
|
---|---|
時代 | 平安時代中期 |
生誕 | 天暦7年(953年) |
死没 | 万寿2年2月15日(1025年3月17日) |
別名 | 渡辺源次、渡辺源二 |
墓所 | 兵庫県川西市小童寺(霊廟) |
官位 | 正五位下、丹後守(氷川八幡神社 箕田碑) 内舎人(『尊卑分脈』) |
主君 | 源頼光 |
氏族 | 嵯峨源氏融流(渡辺氏) |
父母 | 父:源宛、母:不明 養父:源敦 (源満仲婿・仁明源氏) |
子 | 奈古屋授(あるいは松浦久[1]) |
渡辺 綱(わたなべ の つな[2])は、平安時代中期の武将。源宛の子。嵯峨源氏の源融の子孫で、正式な名のりは源綱(みなもと の つな)。通称は渡辺源次。頼光四天王の筆頭として知られる。渡辺氏の祖。
概説[編集]
武蔵国の住人で武蔵権介だった嵯峨源氏の源宛の子として武蔵国足立郡箕田郷(現・埼玉県鴻巣市)に生まれる。摂津源氏の源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の養子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺(現大阪府大阪市中央区)に居住し、渡辺綱(わたなべ の つな)、あるいは渡辺源次綱(わたなべ の げんじ つな)、源次綱(げんじ つな)と称し[3]、渡辺氏の祖となる。
摂津源氏の源頼光に仕え、頼光四天王の筆頭として剛勇で知られた。また先祖の源融は『源氏物語』の主人公の光源氏の実在モデルとされたが、綱も美男子として有名であった。大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻橋の上で鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話で有名。謡曲『羅生門』は一条戻橋の説話の舞台を羅城門に移しかえたものである。1020年、主君である頼光が正四位下・摂津守に叙されると、綱も正五位下・丹後守に叙された[4]。
子孫[編集]
その子孫は渡辺党と呼ばれ、内裏警護に従事する滝口武者として、また摂津国の武士団として住吉(住之江)の海(大阪湾)を本拠地として瀬戸内海の水軍を統轄し、源平の争乱から南北朝にかけて活躍した。九州の水軍松浦党の祖の松浦久もまた渡辺氏の出である。
徳川家康に仕えて「槍の半蔵」として著名な渡辺半蔵守綱及びその一族の三河渡辺氏も、渡辺綱の後裔とされる。
また、大阪市北区の梅田界隈には源融ゆかりの太融寺があり、その近くにある露天神社(『曽根崎心中』で有名な「お初天神」)の宮司家や、渡辺姓発祥の神社とされる座摩神社の宮司家も渡辺綱の子孫である。
伝承[編集]
生誕地が東京都港区三田の當光寺で、晩年もここで過ごしたという言い伝えもあり、當光寺の山号はこれに因み「綱生山」になったとされる。近隣には「綱坂」や、「綱のて引き坂」等の綱ゆかりの地名がある。
墓所[編集]
関係が深い清和源氏の本拠地であった兵庫県川西市の小童寺に霊廟がある。