みなさんは読書会に参加したことはありますか?読書会に参加すると自分の読み方と、ひとの読み方の違いに気づくことがあります。今回の記事では、わたしが欧米人の方々との読書会を経験し、気づいたことを書いていきます。
【目次】
わたしが、シンガポールに滞在していた時、知り合ったシンガポール国立大学の教授の方に誘われ、7回ほど読書会に参加しました。参加者は、シンガポール国立大学の研究職の方々で、イギリス、アメリカ、フランスなどの西洋から来た方、そしてシンガポーリアンと、わたしというメンバーでした。
みなさんの学歴は、とんでもないレベルで、ハーヴァード、オックスフォード、ケンブリッジなどの超有名大学で博士を取得していらっしゃいました。シンガポーリアンの先生も、ケンブリッジで学士から博士を取っていたので、アジアで高等教育を受けているのは、わたしだけ、という状態でした。(英語が下手なのも、、、)
みなさんは、歴史学者、人類学者、民族学者、社会学者といった異なる学問分野を研究してらっしゃる方々でした。
それでは、読書会に参加して気づいたことを書いていきたいと思います。
読書会の流れ
読書会は、基本的に月1回で、1冊を扱うことになっていました。
司会に指定された人は、読書会の冒頭の30分くらいを要約や構成の説明をして、その後、参加者全員で討論となります。読書会の時間は、2時間から3時間ほどで、議論が長引いた場合は、近くの食堂で、その本について、ランチをしながら話したりしていました。
読書メモの取り方
わたしがまず驚いたのは、みなさんの読書メモの取り方でした。日本の読書会では、真面目な方は、自分でレジュメを作ったり、ノートやメモパッドに気になった事やコメントを書いておくのが一般的ではないでしょうか。
わたしが参加した読書会のメンバーは、みな、本の裏表紙の裏ページ(?)にすごい量のメモを取っていたのです。
もし、こういう本だったら、、、、
このページです。裏表紙の次のページが、メモでびっしりになっていました。みなさん、ぎっちり書いていました。(わたしは、真っ白ですが、、、)
ここにメモを書くってことは、つまり、、、読書会中に、本の内容を触れることがあったとしても、ページをめくることはない!!ということになります。
討論の内容
討論の内容では、最初から、大きな問題を指摘することになります。それは、本の構成、研究方法、また作者の意図はなんだったのか、などです。「〇〇ページに△△って書いてあったよね。」といった細かい指摘はあまりなく、できるだけ本全体を如何に評価するかが、重要だと考えられているようでした。
わたしが、日本で参加していた読書会が、細やかな問題を指摘した後に、最後に大きな問題へと移行したのに対して、単刀直入に評価をくだしているような印象を受けました。
また、「わたしだったらこうする」といった、その本に対して非常に前のめりな意見が飛び交っていました。
読書会に参加して考えたこと
欧米の教育・研究の方が良い、と言いたいとは思いません。わたしが、読書会に参加して考えたことは、日本の読書会の方法も、良いものだということです。
シンガポールで参加した読書会の方法では、メンバー全体のレベルが非常に高いことが必要になります。また、自分の意見をいうことが、本そのものに対する分析よりも重要視されているようにも感じられました。つまりは、「自分語り」(超高度な)になっているように感じられたのです。
対して、日本での読書会では、参加者の知識を深めることに、注力されているように感じられ、細やかな問題からその作者、本の特質を探ろうという傾向があるように思われます。
「どちらも、良い。読書会って良いな!!」という安直な言葉で、締めたいと思います。
みなさんは、読書会で気づいたことはありますか?