ゆとり世代で良かったと思うことなんて一度もなかった。
ゆとり=お馬鹿みたいな刷り込みのせいで、誕生年月日を聞かれたときも「うわっゆとりじゃんw」と笑われることもしばしば。そんな環境の中で何が一番悪かったのかって、私がそんな周りの無責任な意見を跳ね除けて「どう言われようが私は私」と割り切れなかったことだ。
最近はゆとりネタを出されると「はい、ゆとり世代に生まれてしまってすみません。」と答えるようにしている。相手がそれでどう思おうと私ができる一番の抵抗だった。
ゆとり世代は怒らずに褒めて伸ばそうなんてノウハウ書籍が蔓延しているけれど、どれもほとんど上辺だけの内容だ。私は自分のこういった自尊心の低さや、他人の評価を気にし過ぎてしまうことをわかっていてくれる人であれば、怒られたって構わない。むしろそれだけ自分の内情を受け止めてくれる人になら怒られたって構わない。
要はどれだけ心が深く、自分を尊重してくれているかとらいうところにつきるのではらないだろうか。
心と心のぶつかり合いなくして、信頼関係ができるわけがない。それなのにマスコミやら有象無象のものたちはゆとり世代という言葉を便利に利用しているだけなのだと思う。
もう一度言うが私はゆとり世代で良かったと思うことなんて一度もなかった。ゆとり世代である私を見てほしいのではない。私は私を見てほしい。どんなことで悩んでいて、それをどうやって乗り越えようとしているのか、そういう私自身のみっともなさを嘲笑ってほしいのだ。
ゆとり世代という言葉は便利だ。該当世代に落ち度を見つけたらその世代のせいにすればよいのだから。しかし団塊にしろさとりにしろ、「この年代に生まれてきて良かった」と思うことなどあるのだろうか。恐らく得られるのはささやかな優越感程度のものであろう。世代というカテゴリに安易に頼らずに、1人1人の人となりを見れる人間になりたいものである。