大人の経験談には美化・誇張された「根性論」がつきもの
受験勉強において大事なのは当然その「質」ですが、もちろん最低限の「量」というのも必要です。しかし自らがはるか昔に受験を経験してきた大人たちの中には、とかくこの「量」的側面ばかりを強調したがる人が少なくありません。そこで頻発されるのが「死ぬ気でやれ」といった類の、脅しのような根性論です。
そういう大人が発する言葉の多くは、遠い記憶のフィルターを経て美化されたものでしかありません。実際には1日正味4時間しかまともにしていなかった勉強が、記憶の中では「あの頃は1日中勉強していた」という大雑把な武勇伝に生まれ変わり、しっかり7時間寝た上で頻繁に昼寝まで繰り返していたという事実が、「若かったからほとんど寝なくても大丈夫だった」という謎の体力自慢にすり替わっていたりするのです。
「死ぬ気でやれ」という励ましの言葉が、勉強を「死ぬほど辛い作業」に変えてしまう罠
そもそも、「死ぬ気」で生きる毎日を1年間続けていたら、確実に肉体も精神も壊れます。もちろんそのように極端な言葉は一種の喩えであり、受験生に発破をかけるために言っている側面もあるのでしょう。しかしそのような無駄に強調された言葉こそが、本来日常的行為の一貫であるはずの勉強を、さも特別な「死ぬほど辛い特別な作業」に祭り上げてしまうことになります。
自ら受験勉強をクリアしてきた人たちは、その思い出の価値を高めるために、自分たちはまるで「他の人にはできない特別なこと」をやってきたと思い込みたがる傾向にあります。しかし勉強の本質とは、そのような「選ばれた人間にしかできない特別な作業」などではなく、誰にでもできる日常的な行為のひとつでしかありません。
勉強とは学校への道のりを歩いたり、昼休みにお弁当を食べたり、掃除の時間に教室を掃除したりするように、日々淡々とこなすべき作業です。「死ぬ気でやれ」という大人たちも、自分たちが受験生だった当時は、日々淡々と勉強をこなしていたはずなのです。毎日続ける行為というものは、力みなく淡々とやるのでなければ、なかなか続くものではありません。
勉強は怖れるほどの相手ではない
受験生の中にはよく、「勉強に集中できない」とか「自分は集中力がないから」という人がいます。しかし勉強というのはそもそも、そこまで特別な集中力を必要とするものではありません。「ものすごく集中した状態でないと、勉強なんかできるはずがない」というのは、どこかですり込まれただけの、単なる思い込みに過ぎません。
何かにチャレンジする際、たいしたことのない相手を必要以上に怖れることで、自分が萎縮して実力を発揮できなくなってしまう、ということがよくあります。
たとえば小論文が苦手な人は、「完璧に構成を決めてからでないと、書きはじめてはいけない」と大きく構えてしまっている場合が多いのです。しかし実はこれも単なる思い込みで、実際にはとりあえず何か書きはじめてしまえば、案外するすると書けてしまう、という人もいます。もちろん、書いたうえで客観的な視点から推敲することは重要ですが、「書くこと」をあまり特別なことだと思わないことが、「良く書く」ための一番のコツであったりもするのです。
「死ぬ気でやる」覚悟より、「死ぬ気でなくとも続けられるペース」を
「死ぬ気でやれ」と言われた普通の受験生は、まずこう考えてしまうのではないでしょうか。
「受かる人は特別努力する才能に恵まれた一部の人たちで、本当に死ぬ気でやってるんだろうな……とても俺にはできそうにない……」
「死ぬ気でやれ」といういかにも力強い言葉の裏には、受験生のやる気を遠ざける、そんなネガティヴな感触が常に貼りついています。
しかし受験勉強とは本来、目標到達に必要な量を自分のペースで、日常の中において淡々とこなすものです。「死ぬ気」の覚悟など、どうせ長くは続きません。そういった過剰な「力み」はむしろ頻繁な気持ちのON/OFFを生み、結果として受験勉強の大敵である「調子の波」を作ってしまうという逆効果につながります。
本当に必要なのは「死ぬ気でやる」覚悟などではなく、「死ぬ気でなくとも続けられるペース」をリアルに想定し、それを地道にキープすることのほうです。間違っても先達の武勇伝を鵜呑みにして、睡眠時間を極端に削ったり、休憩時間がどこにも見当たらない「ブラックな」受験勉強計画を立てることのないように。