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故郷(後篇)
「……ウニ?」
耳慣れない響きだと編み籠を恐る恐る覗いてみると、なるほど確かに栗ではない。
毬の一部が割ってあって、中には橙色をした木の実ほどの大きさの塊が鎮座している。
何故だろうか。見たことのないはずの食べ物に、マルコは心のどこかで懐かしさを覚えていた。
「それとこちらが羅生門の冷酒です」
「ラショウモンのレーシュ」
トリアエズナマと同じく、はじめて聞く名前だ。
小ぶりな硝子盃に、聞いたことのない酒を注ぐ。
トクトクトクと小気味の良い音と共に、谷川の清水のように澄んだ酒が盃を満たす。
これは凄い。これほど澄み切った酒を、マルコは見たことがない。
無色透明の器に無色透明の酒。これだけでもう、マルコの好奇心は抑え切れない。
どんな酒でも、色は付いているものだ。火酒の中には透明なものもあるという噂は聞いたことがあるが、少なくともマルコはまだ飲んだことがなかった。
口を付けると、なめらかな舌触りに驚かされる。
これは、何の酒だろうか。麦ではないし、果実酒でもない。
旅をしていると色々なものを醸して酒にしている人々を目にするが、こういう澄んだ酒は見たことがなかった。味だけで言えば南の方で栽培される米の酒が似ていなくもないが、あれはどろりとした濁り酒だったはずだ。
微かに果実にも似た甘味のある酒は、味わおうと思っている間に空になってしまった。
美味い。
この酒は決して見た目だけの酒ではなかった。エールや林檎種とは全く違った種類の酒だ。酒精は強いが、これならいくらでも飲めるだろう。
このラショウモンは、商売になる。
遍歴商人としてのマルコの勘がそう告げていた。
マルコの生まれたシスティンマーク伯領は、北方三領邦の中でも特に貧しい。
南北に細長い領地は急峻な山々と荒れた海とに挟まれ、人々は魚を獲って日々の糧にしている。
北の海は波が高く、漁師の一生は短い。そういう暮らしが嫌で、マルコは故郷を棄てた。
貧しい親に無理をさせて読み書きと算法を修めたマルコは親戚の伝手を辿って遍歴商人となり、今ではちょっとした身代を築いている。
あと少し。あと少しだ。
あとほんの少し金を貯めることができれば、帝国のどこかに小さな店を出すことができる。扱いたいものは色々あるが、酒というのもいいだろう。幸いにして帝都の造酒司にも人脈があるし、この店で出しているレーシュがあれば良い商いができるだろう。
そこまでしてやっと、人並みになれるという気がする。
故郷を、両親を棄てたからこそ、人並み以上にならなければならない。その思いで今日までがむしゃらに働いて来たのだ。今日の商いの成功も、その努力を神様が見ていてくれたからに違いない。
レーシュの余韻に浸りながら、ウニを見た。
やはり、何処かで見たことがあるような気がする。
靄の掛かった記憶を探っていると、隣から誰かが声を掛けてきた。
「おや、ウニを頼むとはなかなかの通じゃな」
見れば老僧が一人で杯を傾けている。肴は雪割芽を揚げたものらしい。
賽子ほどの大きさの雪割芽はここより北では貴重な春の味覚でマルコも好物だ。
「珍しいものを、と頼みましたので」
「なるほど、そういう注文の仕方もあるのか。旅慣れているらしいの」
「ええ、遍歴商人をしていると、旅が棲家のようなものです」
「旅から旅の人生、か。故郷には?」
「いえ、あまり」
良い思い出がないものでと言い掛けて口を噤む。そこまで言う必要は、ない。
好々爺然とした老人だが、目には不思議な力がある。マルコは何だか見透かされているような気がして、もう一杯ラショウモンを呷った。
エトヴィンと名乗った老僧と、居酒屋ノブという名のこの店の品書きについて色々と聞いてみる。
聞けば聞くほど、面白い店だ。こういうのも巡り合わせというのだろうか。
店を出すのは、古都にしても良い。きっと、大きな利が上げられるだろう。マルコは心の中で神に感謝した。やはり今日は、運が向いている。
「ウニは好き好きがあるが、それには合うと思うよ」
最後にそれだけ言うと、老僧はにこりと笑ってまた自分の世界へ帰っていった。
すっかり忘れていたウニに、マルコは向きあう。どこで見たのだろうか。
一口食べると、濃厚な香りが口の中に拡がった。
海だ。
次の瞬間、故郷の記憶が、一気に呼び覚まされた。
少し濃すぎると感じるほどに強い磯の香りは、マルコの心を揺さぶる。美味しいというより、懐かしい。ウニというこの食べ物を、マルコは食べたことがある。
思い出したのは粗末な藁の寝床と、母の手の感触だ。
流行り風邪でマルコが寝込んだ時、漁り場の仕事で荒れた手で母はマルコの額や頬をずっと撫でてくれていた。
その時に、ウニを食べたのだ。食事としてではなく、薬として。
子供が近寄ってはいけないという岩場から、父が手ずから獲って来てくれたのだと言葉少なに語る母の声が耳の奥に蘇る。
ウニという名前ではなかったと思うが、病床で見た毬は間違いなくウニと同じだった。
あの味だ。でも、何かが足りない。
「お聞きしたいのですが、雪割芽はまだありますか?」
カウンターの向こうに立つ黒髪の料理人に尋ねる。
「はるまちめ……ああ、あの蕗の薹に似た。はい、まだあります。近くの森でお客さんが今朝摘んできてくれたものです」
「ああ、それではちょっとお願いしたいんですが」
雪割芽をさっと湯通ししたものを、適当な大きさに千切り、ウニと混ぜて貰う。故郷の村ではこの春の山菜も薬草の一種として使っていたのだ。
「ほほう、そういう食べ方もあるのか」
エトヴィン翁が興味深そうに小鉢を覗き込んでくる。
一口含み、頷く。この味だ。
ウニの味わいに雪割芽の野趣溢れる苦味が加わり、あの時食べた味が口の中に再現された。
懐かしさに思わず涙が零れそうになるのを堪え、ラショウモンの杯を傾ける。
驚くほどに、美味い。
ウニと雪割芽の和え物が流行り風邪に効いたのかどうかは分からないが、酒の肴としては逸品だ。
子供の頃にはただ苦いとしか思わなかった味が、今ではこんなに愛おしい。
故郷。
これまで旅をしていた時に思い返されたのは岩にぶつかって割れる白波や痩せた農地といった何処かくすんだ景色ばかりだった。
それが今では、まるで違う。
春の野山で摘んだ山菜のことや、机を並べて学んだ友人たちのこと。稀に海が見せる穏やかな表情と鳥の声。
今となっては、全てが懐かしい。
ラショウモンをもう一度頼み、今度はゆっくりと舐めるように飲む。
父や母は今頃どうしているだろうか。遍歴商人になったばかりの頃は字の読めない両親にも文も出していたが、それも暫く前に止めてしまっていた。
縄を手繰るように、頭の奥深くから次々と記憶が浮かび上がってくる。
「……帰りたいな」
ウニの最後の一口を飲み込んだ後、自然と言葉が口を突いた。
帰りたい。本当にそうなのか。
棄てた故郷だ。今さら帰りたいという言葉の出て来ることに、マルコは驚いた。
もう少し金を貯めれば、店を持てる。それまでは何があっても帰らないと決めたはずだった。
そこでマルコはふと気が付いた。
何があっても、帰らない。ということは最初から、故郷に帰るつもりだったのではないか。
こみ上げる可笑しさに、マルコは忍び笑いを漏らす。
良かった。自分は故郷を嫌いになってなどいなかったのだ。帰りたいという思いを打ち消すために、必死で自分を欺いて来ただけだった。
エトヴィンとシノブはマルコの百面相に驚いているらしい。それもそうだ。ウニを食べた途端に泣いたり笑ったりしはじめれば、誰でも驚く。
「タイショー、ここは良い店だね」
包丁で魚を下ろしていたタイショーがはにかんだような笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。励みになります」
この店の販路を探って酒を売ろうという気は、すっかりと消え失せている。まるで何かに化かされていたかのような気分だ。いや、今が化かされているのかもしれない。
異国風の店らしく、祀られているのは異郷の神だ。
それでもマルコはこの神に感謝の祈りを捧げたいという気持ちになっている。
この店に出会ったから、次の人生の目標ができた。
故郷に帰って、小さな商会を起こす。伯領の産品を集めて都市で売るのだ。そうやって儲けた金で丈夫な船を買って、故郷を少しずつ豊かにしていく。
街に小さな店を構えるよりも、よほど大きな夢だ。
それでも、マルコにはやり遂げられるという自信があった。あれほど好きだった故郷を離れて、頑張って来られたのだ。次もやり通せないはずはない。
「ありがとう、ごちそうさま。美味しかったよ」
シノブに挨拶をすると、気持ちの良い笑顔が返ってくる。
「雲丹はお口に合いましたか?」
「ええ、とても美味しかった。この店に来られて、本当に良かったと思っています」
お世辞だと思われたかもしれない。遍歴商人は口が上手くないと務まらない生業だが、肝心なところで本意が伝わらないというのが欠点だ。
「ありがとうございます。またいらして下さいね」
これから忙しくなる。また来るのは難しいかもしれない。そう思いながらも、口から出たのはま反対の言葉だった。
「きっと来ます。いや、必ず」
引き戸を出て、もう一度振り返る。
店の名は、心にしっかりと刻み込んだ。
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