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異世界居酒屋「のぶ」 作者:蝉川夏哉/逢坂十七年蝉
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〆のおじや

「こんなに忙しいのに、ごめんね」

 ワンピース姿のしのぶが申し訳なさそうに裏口で手を合わせて拝んでくる。
 本当は猫の手も借りたい状況だったが、だからこそしのぶには出掛けて欲しかった。

「タイショー、テーブル席、オジヤです」
「カウンターもオジヤの注文だよ!」

 エーファとリオンティーヌの声を受け、おじや用のご飯を準備する。
 ハンスも鍋の準備にてんてこ舞いだ。
 居酒屋ノブで、おじやが空前のブームになっている。
 原因は先日婚約を大々的に発表した皇帝コンラートと皇妃セレスティーヌだった。
 二人が立ち寄った店、というだけで問い合わせが殺到していたところに、ローレンツが火に油を注いだのだ。

「先帝陛下と皇帝陛下、それに皇妃陛下が居酒屋ノブでミズタキを召し上がった。〆はウドンではなく、オジヤをお選びになった。それほどオジヤは美味しいものだ」

 この噂は瞬く間に古都に広まり、サクヌッセンブルク領はおろか、広く帝国北部全域の知るところとなった。
 オジヤ、という聞き慣れないもの食べようと馬を走らせてやってきた貴族もいる。
 当然の如くクローヴィンケルやブランターノも食べに来たし、噂を広めるのにも一役買った。

 鰻の時にもとんでもない騒ぎになったが、今回はその比ではない。ただの居酒屋だというのに予約をしなければ入れないという有様になっている。
 夕方からの営業にしたいのだが、一人でも多くのお客さんを迎えたいという気持ちから、今では昼過ぎから暖簾を掲げていた。

 それでも引っ切り無しに訪れるお客様には無理をお願いすることがある。相席をお願いするのは忍びないが、古都ではそれが当たり前と言うこともあって、苦情は今のところ聞こえてこない。

「やっぱり私、手伝おうか?」
「大丈夫。なんとかなるさ」

 無理にでも出掛けさせたいのには、理由があった。
 今日しのぶが会いに行くのは、彼女の家族だ。家出のような格好で転がり出てきてから一年半、一度も会っていないと聞いている。
 料亭ゆきつなで会うのはさすがに気が重いだろうということで、ホテルのラウンジで会う約束になっているという。
 今回の話はしのぶから言い出したことだ。先日のお見合いを見て思うことがあったのだろう。

「……やっぱり」
「いいからいいから。さ、行ってらっしゃい」

 追い出すように裏口から見送りながら、信之は小さく溜息を吐いた。
 今日の結果次第では、この店は信之だけでやっていくことになるかもしれない。
 下手をすれば、無くなってしまうこともあるだろう。
 そうなったらどうしようか。
 相席までお願いしてごった返す店内で美味そうに水炊きやおじやを食べる客の笑顔を見て、この店を閉めるという考えは一瞬で消えた。
 この店は、続ける。しのぶには帰って来て欲しいが、もし帰って来なければ自分ひとりでも続けていく。いや、それでもしのぶには帰って来て欲しかったが。

「タイショー、こちらにもオジヤをお願いします!」
「はいよ」

 エーファの声に答えながら、おじやの仕度をする。
 繁盛するのはいいが、水炊きとおじやの仕度だけでは腕が鈍ってしまわないか心配だ。今日は店を開けてから水炊きとおじや、それにするめの天ぷらしか注文を受けていない。
 ただ、それも恐らくもうすぐ解消する。

「タイショー、繁盛してますね」

 暖簾を潜って来たのはアイゼンシュミット商会のイグナーツとカミルだ。
 おじやに使っているササリカ米はこの二人から仕入れていた。

「どうだい、ササリカ米の方の調子は」
「凄い売上ですよ。アルヌ侯爵閣下も驚いてました」
「これもタイショーたちのお陰です」

 水炊きとおじやは古都の家庭でも作ることができる。
 こちら流にアレンジしたレシピは何も言わなくてもハンスが考え出してくれた。
 コツは、ボルガンガの魚醤を入れることだ。ポン酢は再現の仕様がなかったが、水炊きを食べるのに必ずポン酢が必要だと言うわけでもない。流行りで予約待ちのオジヤが家庭でも作れるとあって、レシピはかなりの速さで広まっているようだ。

 評判も悪くはない。
 当然、ササリカ米が売れている。
 これまで食べ慣れなかったササリカ米も、アルヌが安く市場に放出してくれているので特に抵抗なく受け入れられているようだ。
 最初は米で大損するかと怯えていたイグナーツとカミルだったが、今では来年の仕入れをどうするかと検討するまでになっている。

「二人も食べていくかい、と言いたい所だけど、ちょっと難しいな」
「ええ、大丈夫ですよ。オレ達、仲はいいですから」

 二人がそう言って笑うのは、ミズタキに関してもう一つ噂があるからだ。
 ミズタキを食べれば、仲直りができる。
 そんな話は日本では聞いたことはなかったが、古都ではまことしやかにそういう話が伝わっていた。居酒屋ノブについてに色々な話が混じり合って生まれた都市伝説のようなものだろうと信之は半ば諦めにも似た気持ちでその噂は聞き流している。

 だが、注意深く客席を見ているとそういう効能もあるようにも思えてしまうから不思議だ。
 暖簾を潜るまでは口も利いていなかった夫婦が仲睦まじく鶏肉を分け合ったり、頑固そうな親が息子の為に鶏のつみれ団子をよそってやったりしているのを見ると、不思議な気持ちになった。

「本当は仲直りしたくても、切っ掛けってなかなかないからじゃないですか」

 皿を下げて来たエーファの指摘はいつもながら鋭い。
 仲直りには切っ掛けが必要で、それは些細なことでいいのかもしれない。
 そう思うと、しのぶと家族の今日の会食も上手く行くのだろうか。
 翌日からのササリカ米の仕入れの話が済むと、イグナーツとカミルの義兄弟は長居をせずに帰っていった。

 そうなると後はひたすらに水炊きを出すだけだ。
 賄いだけは他の物をと思うのだが、客の回転が速すぎてそれすらもままならない。
 信之にハンス、リオンティーヌとエーファが大車輪で働いて、客足が引いたのは夜半を過ぎてからのことだ。
 店を覗きに来たベルトホルトにエーファを送り返してもらい、残った三人で後片付けをする。

「そういえばシノブちゃん、今日はそのまま帰るのかね?」

 テーブルを拭きながら呟くリオンティーヌの言葉に、信之は少しぎくりとする。
 今日帰って来ないのは織り込み済みだが、本当に明日は来てくれるのだろうか。
 来てくれると信じているし、必ず来てくれるだろう。

 だが。
 胸に湧いてくる雑念を払いきれない。本当は包丁も研いでおくつもりだったが、明日に回す。
 こういう気分のときに刃物を触って何かいいことがあった例がない。下手に怪我でもしてしまえば、店が回らなくなってしまう。

 信之の様子を察してか、ハンスもリオンティーヌも何も言わない。
 気を使っているのかそれとも疲れているだけなのかは分からなかったが、それでもこの沈黙は今の信之にとっては何よりもありがたかった。
 片付けも済んだから、そろそろ二人を帰らせよう。
 そう思って声を掛けようとしたところで、裏口が開いた。

「たっだいまー!」

 底抜けに明るい声は、聞き間違えようもなくしのぶのものだ。

「し、しのぶちゃん?」
「ごめんね、今日は営業時間中に帰って来られなくて」

 ほんのり頬を赤く染めているところを見ると、飲んで来たのだろう。

「そんなことはどうでもいいけどさ、大丈夫なのかい?」

 リオンティーヌはしのぶが酔っているのを見た事がなかったらしい。そういえばこの店を開けてからと言うもの、しのぶが酔うほどに飲んだことはほぼないはずだ。
 いつも気を張り詰めていたのだろう。
 もう少し負担を軽くして挙げられなかったかな、と信之は鼻の頭を掻いた。

「それでシノブさん、ご家族とはどうだったんですか?」
 おっかなびっくりという風にハンスが尋ねると、しのぶは大きくブイサインを作ってみせる。
「大喧嘩しちゃった」
「お、大喧嘩ってホテルの最上階のレストランがどうとかいってなかった?」
「うん、だからそこはスープしか飲まずにさっさと切り上げて、駅前の焼き鳥屋でバーンと!」

 苦笑しか出ないが、却ってよかったのかもしれない。
 思えばしのぶはこれまで家族と喧嘩したことなどなかったのだ。
 蝶よ花よと育てられ、やっと大人になったと思ったらあの見合い話だった。そう考えれば、今日のことは何か一つの切っ掛けになるだろう。
 しのぶにとっても、料亭ゆきつなにとっても。

「大将、お腹減った。何か作って」

 だらしなく椅子に身を預けるしのぶに、信之はやれやれと肩をすくめた。
 さっきまで心配していた自分がなんだか馬鹿らしくなってしまう。

「はいはい。と言ってもおじや位しか作れないけど」
「私、大将の作るおじや大好き! おじや作って!」

 好きと言われて悪い気はしない。
 何せ相手は“神の舌”をもつしのぶだ。
 腕によりをかけておじやを作ろうと言うところで、ハンスとリオンティーヌが席を立った。

「今日は疲れたんで、お先に失礼させてもらうよ」
「タイショーもシノブさんも、お疲れ様です」

 最近少し仲のいい二人を夜の通りに見送りながら、信之は古都の夜空を見上げる。
 名も知らぬ星座が輝く冬の空を、流れ星が一筋、線を描いた。
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