「帰ってきたヒトラー」は、良質なフィクションであると同時に、現代社会と過去の連続性を切り出す、とても重要な作品だ。
「帰ってきたヒトラー」Amazon レビューより抜粋
原作と映画では結構違いがあります。原作では本を出すところで終わりましたが、映画では本を出した後のことも描かれています。
映画撮影と言うことを隠して、ドイツ国民にインタビューをしたり、ドキュメンタリー風の演出をしたりと、少し風変わりな撮影をした映画でもあります。最初はただの不謹慎な物真似芸人程度の扱いだったのが、少しずつ支持を得ていく様は、映画だと分かっていてもなかなか恐ろしいです。
内容もヒトラーに拒絶反応する人達が安心?する脚色が随所にちりばめられており、目くじら立てる様なスキャンダラスシーンは無いに等しい
帰ってきたヒトラーとは?
この作品は、一部がフィクション、一部がノンフィクションだ。ノンフィクションのパートでは、アドルフ・ヒトラーが現代に蘇ったら?という設定で、実際の街の人達にインタビューを行っている、フィクションとインタビューの融合的作品だ。
主演の(もちろんヒトラーを演じた)オリヴァー・マスッチは、「まるでポップスターだった」と語り、ヒトラーとセルフィーをしたがる国民に驚いたという。
それほど、ヒトラーに対する拒否感は薄れていた。
それは、ある意味で我々の世界とヒトラーのいた時代は地続きではないか、ということを、監督のデヴィット・ベントは言っている。
変わらない世界
世界は好き嫌いで動いている。それは 1933 年も、今も変わらない。一つの人種を憎み、権力のすべてを手にしたヒトラーを、21 世紀の今我々は笑えるだろうか。
トランプはメキシコ人を追い出し、国境に壁を作ろうとしている。移民を追い出すためイギリスは欧州から離脱した。そしてテロはいつもどこかの街角で起こる。
ロンドンでは投票が終わったあとですら、「馬鹿な労働者が」「先の短い高齢者が」間違った選択をした、という声があふれた。
我々日本人も、決してそこから遠い世界に住んでいるわけではない。いつだって選挙で一番重要なのは「誰が嫌いか」だ。あいつに勝たせたくない、あいつに一泡吹かせたい。
我々の周りには、党派やイデオロギーにかかわらず「◯◯党に勝たせればいかなることがおこるか」という言説が、溢れている。
「だから◯◯党に投票するような奴らは馬鹿なのだ」と。
勝ち負けという二項対立に陥ることは簡単で、その穴は深い。
ナチスに対峙した政治家達から学べること
ナチスが権力を掌握し、全ての法律をヒトラーの意思で自由にできる「全権委任法」を成立させた、まさにその時。
唯一壇上に立って反対したのが、ドイツ社会民主党の党首、オットー・ヴェルスだった。
この歴史的な瞬間に、我がドイツ社会民主党は人道、正義、自由、そして社会主義の原理に誓う。全権委任法が諸君らにこの永遠不滅の思想を破壊する力を与えることはないと…ドイツ社会民主党もまた、この迫害から新たな力を得るだろう
ヒトラーは勢力を拡大し、やがて欧州全土を支配するに至り、その帝国は効率的にユダヤ人を殺処分するベルトコンベアと化す。
しかし、事実は、ヴェルスの言った通りだった。ヒトラーは破滅した。ベルリンを灰燼に帰した彼は全てに絶望し、地下で自らの頭を撃ちぬいた。
人道、正義、自由は死ななかった。社会民主党は荒波を乗り越え、未だにその命脈を保っている。
我々が選ぶべきこと
我々が選ぶのは、対立や勝ち負けではなく、普遍の原理であるべきだ。
それは誰もが等しく生きる権利であり、愛する者が結ばれる権利であり、子供が飢えることなく育てられる権利であり、性別や人種に関係なく自分がやりたい仕事を選ぶ権利だ。
普遍の原理は、一国家や一民族だけではなく、東京の真ん中で、香港の高層ビルの上で、イラクの食堂で、モンゴルの草原で等しく適用されるべきものでなくてはいけない。
我々は主権者として一票を投じるとき、自らの敵の泣き顔ではなく、その政治家が普遍の原理を擁護してくれるかどうか、それを想像しなくてはいけない、そう僕は思う。
ヒトラーは言った。「弱者に従って行くよりも、強者に引っ張って行ってもらいたい、大衆とはそのように怠惰で無責任な存在である」
我々が考えることをやめ、普遍の原理をシニカルに見るようになり、自らの敵の敗北を願うようになった時、「彼」はいつだって我々の中に蘇るのだろう。
そしてそれは、イデオロギーや党派にかかわらず、我々の中の怠惰さ、無責任さが引き起こすものだと僕は思う。