八幡和郎(徳島文理大学教授、評論家)

 江戸幕府は非常に安定していた。なぜなら、李氏朝鮮(1392年〜1910年)のやり方を取り入れたからであり、それはまた、現在の北朝鮮の安定と非常に似ている。

 つまり、世界の進歩から取り残されても、できるだけ変化をしないようにすることと、自分より下があることを見せて不満をそらすシステムを構築することで共に実現されていたのである。

 別の観点からいうと、じり貧を回避しないという気になれば、国家でも企業でも個人でも長く生き永らえることは可能だといえる。

 儒教は古くから日本に伝えられたとされるが、江戸時代までは処世術の一種みたいなもので、禅宗の教えを具体化するための助けに過ぎなかった。

 ところが文禄・慶長の役で、姜沆(きょうこう)という官僚が捕虜として日本に連行され、相国寺の禅僧藤原惺窩(ふじわらせいか)に本格的な朱子学を教え、惺窩は中国や朝鮮で理想的な統治が行われていると勘違いしてしまった。なにしろ、惺窩は明や朝鮮が日本を攻めて支配してくれることを姜沆に勧めたほどの人物である。

岡崎城にある徳川家康の「しかみ像」
 さらに、惺窩の弟子の林羅山が徳川家康に仕えてから、禅僧に代わって儒者が将軍や大名のブレーン的存在になり、朱子学が江戸幕府の国教的イデオロギーになった。家康の個人的な趣向に合っていたので導入されたのである。

 織田信長や豊臣秀吉は、尾張出身ということもあり、商業主義的で、ベンチャー企業的経営者だ。それに対して家康は、三河出身で百姓的な感覚を持っていた。だから、城下町をつくらせても、信長や秀吉は商業振興を図ったが、家康は商業機能を最小限にとどめたのである。

 信長は安土城下で「楽市楽座」を行い、秀吉とその家来たちは水運のよい土地を選んだ。ところが、家康はそれを好まなかった。浜松、静岡、名古屋、越後高田など海から少し離れたところにあえて城を築いた。江戸は大坂に似た地形という理由で、秀吉が選んで家康に指示したものだから例外だが、そのためか家康は江戸を嫌ってほとんど住んでいない。

 譜代大名の城下町でも、井伊氏の彦根藩の城下には中山道を通過させず、郊外の高宮を宿場町にしたし、酒井氏の庄内藩は酒田を避けて鶴岡を城下町に選んだ。

 人事でも信長や秀吉は思いきった抜擢(ばってき)をした。ただし、信長は突然クビにすることがあったし、秀吉はいったん左遷しても、時がたって反省していると判断したら復活させるという違いはあったが。

 それに対して家康は、抜擢せず恩賞も与えず吝嗇(りんしょく)だといわれた。その代わり、めったにクビにはしないし、戦死者の遺族などを大事にした。

 一言でいえば、信長や秀吉は人事においてもベンチャー企業の経営者だし、家康は大企業の経営者タイプである。

 つまるところ、家康は何も変わらないことを理想としたのである。跡継ぎがなくてお家が断絶したり、不始末をしてクビになる者がいても、それを補充する程度の取り立てをすればよいという考えだ。

 こういうバカなことをやっていたから、秀吉の時代には世界最先進国に近づいていた日本は江戸時代260年のうちに「世界の三流国」に成り下がってしまった。