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異世界居酒屋「のぶ」 作者:蝉川夏哉/逢坂十七年蝉
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親子鍋(前篇)

「父さん、それまだ煮えてない」

 入れたばかりの鶏にハシを伸ばすローレンツをハンスは軽く窘めた。
 肉を入れた傍から食べようとするローレンツとは対照的に、フーゴはさっきからハクサイとエノキばかり食べている。ハンスは入れるばかりでまだあまり食べられていない。
 今日の休みをハンスは親子三人で居酒屋ノブに客として訪れている。

「フーゴ、肉も食え肉も。大きくなれんぞ」
「肉を食べてもこれ以上大きくならないよ。それより親方も野菜食べなきゃ」
「工房を出たら父さんでいいと言っただろう、フーゴ。ハンス、今日は祝いなんだからもっとじゃんじゃん肉を入れるんだ。肉を」
「はいはい、畏まりました」

 手を上げてリオンティーヌを呼ぶと、追加で鶏肉をもう三人前注文した。今日の鍋はミズタキで、鶏肉が美味しい。
 祝いに何か美味しいものが食べたいと言い出したのは、意外にもフーゴだった。
 聖堂の司祭であるトマスから請け負ったレンズの研磨の仕事が巧くいったのだ。

 熟練の技を持つローレンツでもどうしても要求に応えられなかったのを解決したのはフーゴの粘り強さだった。普通の仕事が終わった後も毎晩遅くまで工房に籠っての仕事を続けていたことを、ハンスもローレンツも痛いほどよく知っている。
 やり遂げた仕事が認められて、喜んだのはフーゴよりむしろローレンツの方だったのは無理もないことだった。

「しかし腕を上げたなぁ」

 何杯目か分からない酒を干しながら、ローレンツは上機嫌だ。

「親方、じゃない、父さん、もうその話は五度目だよ」
「いいんだよ、フーゴ。嬉しい話は何度してもいいんだ。何度してもな」

 ローレンツが酒を呷っているのは、特別に持ち込ませて貰った硝子杯だった。作ったのはフーゴで、ハンスの目から見てもかなりよい。
 薄手で芸術性の高い仕事なら、まだまだローレンツの方が上だ。
 経験豊富なローレンツの創り出す繊細で貴族好みな硝子の色合いは他の職人が真似できるものではない。

 それに引き替え、フーゴの作る硝子杯は何処か優しかった。厚手の硝子には素朴な味わいがあり、酒を注いだ時の持ち重りがなんとも手に馴染む。
 タイショーは随分気に入ったようで、個人的に幾つか発注してくれそうだ。
 しんなりと煮えたキャベツをポンズに付け、はふはふと言いながら食べる。
 まだ寒さの堪えるこの季節に、温かさは何よりの御馳走だ。
 食べていると身体の底からじんわりと熱が拡がって行く感覚がとても心地よい。

「ブギョー、肉が足りない」
「はいはい、父さん。少々お待ちを」

 とろりと酔眼のローレンツに言われるとハンスはすぐに肉を鍋に入れた。
 ノブでは鍋料理の世話をする人間のことをブギョーとか鍋ブギョーとか呼ぶことになっている。
 シノブの話では代官のような職業を指す古い言葉らしいが、いつの間にか客の間でも広まっていて、何人もの名ブギョーが誕生していた。
 ちなみに居酒屋ノブで一番の名ブギョーはエーファで、どうしても鍋がうまくいかない客は彼女にお願いすることになる。

「しかし、今日の酒はいやに沁みるな」

 クマノジをレーシュでくいっと呷るローレンツの顔はどこまでも幸せそうだ。
 妻を二人続けて亡くしてから、男手ひとつで息子二人をここまで育てて来たのだ。ハンスには思いもよらない苦労があったのだろう。
 酒好きなローレンツだが、酔うために酔うという飲み方をする事が多かったのは、寂しさを紛らわせるためだったのかもしれない。
 今夜はそういう翳のない、気持ちのいい酒だ。ハンスも相伴して飲んでいるが、確かに普段よりも沁みるという気がする。

「ならあまり飲みすぎないでよ、おやか、じゃない、父さん」
「いいんだよ、不味いわけじゃないんだ。沁みるってのはいいことなんだよ」

 くつくつと煮える鍋の底から、チリレンゲでトーフを掬う。
 ミズタキの具では、ハンスはトーフが一番好きだ。
 柔らかくて主張せず、それでいてしっかりとした存在感がある。兄のフーゴにどこか似ているところがあるのだろう。

「ブギョー、こっちにもトーフを」
「兄さんは自分でよそえばいいのに」
「いいじゃないか、ハンス。今日くらいはさ」

 普段は飲まないし飲めない兄が、今日ばかりはと酒を舐めている。
 成功したのが余程嬉しかったのだろう。これまでレンズの研磨は聖王国の独壇場で、ゲーアノートの片眼鏡もわざわざそちらから取り寄せたものだと聞いていた。

 もしローレンツの工房がレンズの研磨を上手くやることができるという評判になれば、そこから得られる利益は大きい。硝子の腕がいいだけでは差別化のしにくい時代になっているというから、ローレンツもフーゴも喜びが一入なのだろう。

「いらっしゃいませ!」
「……らっしゃい!」

 ハンスの背後でシノブとタイショーが新しい客を迎えている。
 気配からすると三人連れのようだ。
 ハンスの方からは見えないが、声の雰囲気からして随分と仲がよさそうだ。
 後ろのテーブルに座る客の顔を見るともなしに見ていたローレンツのハシが、止まった。

「……おい、あれって先帝陛下じゃないか」
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