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私情最大の喧嘩(弐)
茶目っ気溢れる先帝に対して、皇帝コンラートは憮然とした表情を隠そうともしていない。
店に招じ入れると二人は奥のテーブルに隣り合って席に座った。
不思議な座り方だ。後からまた別に客が来るのだろうか。鷲鼻の男は、二人の後ろの壁に旗を掛けた。三頭竜に鷹の爪。これは確か先帝の紋章だ。
コンラートが口を開く。
「お祖父さま、これはどういうことでしょうか?」
指先でとんとんとテーブルを敲くコンラートに先帝は申し訳なさそうな表情を浮かべてみせた。
「ああ、確かにこれについては説明が必要だろうな」
「ええ、必要です。大いに」
「……居酒屋を会場にしたのは目眩ましでな」
瞑目した先帝は重々しい口調で続ける。
「有名な宿を会場にすることも考えたが、今回の会場をこの居酒屋にしたのは敵の裏を掻こうという言わば奇策の類だ。相手に伝えてある会場に伝令が待たせてあるから、そこで話を聞いた相手はこの店を遅れてやって来る、ということだな。それにここの料理は相当美味い」
美味い、と言われて信之の包丁の拍子が変わった。褒められると素直に喜ぶのが信之の美点だ。
「そういうことを聞いているのではありません!」
思わず声を荒げるコンラートに先帝は頷く。
「分かっている。そなたがそこまで激昂するのは珍しいな」
「当たり前です。急に見合いなどと。それも相手は王女摂政宮ですよ!」
見合い、と聞いてしのぶの胸がじくりと痛んだ。
また生乾きの古傷に無遠慮に何かを押し付けられたような気がする。
しのぶが家出をして、結果として居酒屋のぶをここで開くことになったのは、意に染まぬ見合いをさせられそうになったからだ。
もう一年以上前のことだからすっかり忘れられたと思っていたが、意外に傷が深かったらしい。
ただそれよりも気になるのはコンラートのことだ。
あれだけ幸せそうにしていたセレスという女性はなんだったのだろうか。
少し歳の離れた二人だったが、部外者であるしのぶから見ても相思相愛だとはっきり分かる。
それが昨日の今日でもう見合いというのはどういうことなのか。
信之も首を傾げている。
「そうだ。王女摂政宮だ。歳は些か離れているが、器量もいいと言うし。何より聡明だ」
「しかし、敵国の姫ですよ。しかも政治の実権を握っている」
「それを言うならそなたは帝国の皇帝だ。敵国の指導者と結婚するのが嫌だと言うなら相手も同じことだろうに」
「それがなんだというのです。お祖父さまもあの女の悪辣極まりない手腕をご存じないとは言わせませんよ? あの女と比べればタランクス山に住まう有角の魔女でさえ霞んで見えます。何故あの女が今回の見合いを受けたとお考えです? これは策謀ですよ」
「しかし、その悪辣さこそそなたの政治に最も欠けているものだ」
湯飲みの玄米茶を先帝が美味そうに啜る。大市の時からのお気に入りだ。
「私の政治に悪辣さが欠けている、と」
「欠けている。そなたの政治は清く、評判もよい。だが、悪辣さや濁りが足りない」
「よいではありませんか。青臭い事を言うようですが、そういうものには手を出さずにいられるのなら手を出さない方がいい」
「そう。そしてその役目は誰かが負わねばならない」
先帝の鋭い視線が、入り口近くに侍する鷲鼻の男を射抜いた。ゼバスティアンと呼ばれていたその男は目を伏せ、小さく咳払いをする。
しのぶには政治のことは分からない。だが、仕事のことなら分かる。
若く清廉な二代目が社長として活躍するためには、老練で清濁併せ持つ重役が脇を固めなければならない。今の帝国で言えば、それが先帝であり、ゼバスティアンなのだろう。
コンラートは、歳にしては考え方が幼い。いつまでも支えられればいいのだろうが、先帝もゼバスティアンも高齢だ。
先帝は続けた。
「今の帝国は平和だ。ここ百年で最も、な。平和は尊い。平和は守らねばならぬ。そのためには、全てに備えなければならんよ」
「平和が大切なのは分かりますよ。それと王女摂政宮との見合い、どう関わってくるのです」
「さて、な」
皇帝は先帝の言いたいことが分かった上ではぐらかしている。
性格の違う相手と結婚して、よいものを取り入れろ。そういうことだろう。もちろん、それ意外にも色々な政治的駆け引きがあるはずだ。
ただ、祖父として孫に言えるのはこれだけだということだろう。
皇帝も湯飲みに口を付け、茶を啜る。沈黙に、茶を啜る音だけが響いた。
しのぶは、内心でコンラートを応援している。
政略結婚させられそうになった自分を重ねるわけではない。重ねているわけではないが、何処かで重なっているところもあるかもしれない。
これから一緒に歩んでいく相手を自分の意思で選べないことに、抵抗を感じてしまう。
口を挟める筋合いではないが、それでも何か言いたい。
そう思ったところで、コンラートが口を開いた。
「私は、この見合いに反対です」
きっぱりとしたコンラートの物言いに、瞑目していた先帝の片目だけが開かれ、また閉じられる。
「珍しいな。そなたがそうもはっきりとした物言いをするのは」
「私とて、言うべきときには言います。これまではその機会がなかっただけのこと」
「なるほど。そういうこともあるか」
反論されているというのに、先帝の口元には微笑が浮かんでいた。
それがコンラートの怒りに油を注いだらしい。
「東王国は、敵です。そして王女摂政宮はその敵国の王女です。この見合いは外患を招くことになりかねない」
「なりかねない、ということはそうならないこともあり得るということだ。二人仲よく家庭を築くこともできるだろう。結婚とは元来そういうものだ」
「言葉遊びをしているのではありません、お祖父さま」
「儂も空想を弄んでいるわけではないよ。そなたならできると思うからこそ今こうして見合いを勧めるのだ」
「結婚したいと言ったことはありません」
「結婚しろとは言っていない。これは見合いだ」
何処かで見たようなやりとりに、しのぶは小さく溜め息をつく。
「同じことでしょう。皇帝と王女摂政宮の見合いです。破談になれば最悪の場合、戦争ということさえあり得る。ならば見合いをすれば、結婚しなければならないということです」
話している内容はよくある親子喧嘩のようなものなのだが、何せ二人の身分が身分だ。無駄に規模が大きい。それに、しのぶにとっても心穏やかに聞ける内容ではない。
はらはらしながら料理の手伝いをしていると、信之がそっと肩に手を置いてきた。顔を見上げると、真面目な顔で頷いてくる。
客のことは客のこと。今は自分の仕事に集中しろと言っているようだ。
深く考えるまでもなく、その通りだった。自分の話はもう済んだことで、今は準備が圧している。
手を動かしていると、次第に気持ちは落ち着いてきた。
そうだ、自分のことは済んだ話なのだ。それが妙にすとんと腑に落ちた。
「今日の見合いは予備的なものだ。その為に、古都参事会に骨を折ってもらってこういう鄙びた居酒屋を予約してもらった。格式のある宿なら公的な意味合いも含まれるだろうが、ここでならたまたま出会った王族同士が食事をした、ということもできる」
「そんなはずがないではありませんか。古都の外れの居酒屋ですよ? 確かにこの店の食事は美味しいですが、たまたま王族が居合わせるなんてありえない」
はっきり断言されるとしのぶには苦笑することしかできない。
確かにここは古都の外れにあるただの居酒屋だった。それでも先帝の言うようにこの店には不思議と高位のお客も多い。縁が縁を呼んだ格好だ。
「それとも何か。まさか、好いた女子でもできたのか?」
鋭い一撃だった。
コンラートは言葉に詰まり、一瞬目が泳ぐ。
セレスのことだと言うのは態度で分かった。だが、そのことは伏せておくつもりらしい。
結婚するつもりはないと先帝に面と向かって宣言してしまった以上、セレスの名を出すのはこじれると考えたのだろう。
「そんなことよりも、これです」
咳払いしてコンラートが目配せをすると、ゼバスティアンが一枚の羊皮紙を恭しく差し出した。
受け取り、先帝が目を走らせる。が、その表情は変わらない。
「お祖父さまはご存じないではないかもしれませんが、これは王女摂政宮が我が帝国に謀略をめぐらせた確たる証拠です」
「ふむ、ダミアンなる者の解放要求の書類、な」
ダミアンと言えば居酒屋のぶとも関わりがある。トリアエズナマ事件のときも、魔女騒動のときも、ダミアンはのぶの敵だった。
魔女騒動の後、本当なら通り抜けることができないはずの裏口を抜けてどこかへ言ってしまったと思っていたが、いつの間にか捕らえられて今は古都の牢獄に繋がれているという。
解放の請求があったというのは、しのぶもはじめて聞いた。
「王女摂政宮セレスティーヌ・ド・オイリアの署名があります。その者はこの古都で色々と動き回っていた小者で、この者を捕らえた後に信書が参事会宛に届いたとか。古都参事会議長のマルセルからも報告を受けております。あの毒婦がこの国への策謀を巡らしていた証拠でしょう」
「証拠か。しかしこの信書、封蝋の跡がないようだ」
封蝋というのは、蝋を溶かして手紙に封をすることだ。蝋は封蝋用の印鑑で捺すので、誰が送ったものかが特定できる。
「それはそうですが、些細な問題です」
「偽造ということは考えなかったのか?」
「それは……」
封蝋がなければ、誰が書いても同じと言うことだ。
「ゼバスティアン。そなたが付いていながらどういうことだ?」
皇帝の声は低い。ゼバスティアンは恭しく頭を下げる。
「面目次第もございません。使用されている羊皮紙が東王国の親書に使われるものと非常に似通った品質のものでしたので、ついつい信じてしまいました」
「ついついで通じることと、通じないことがある。そなたは今でこそ我が臣ではないから処分はコンラートに任せるが」
「しかしお祖父さま、まだ偽造だと決まったわけではありませんし、偽造だとしても王女摂政宮が潔白なわけでもありません」
耐えかねたようなコンラートの反論に、先帝は頷く。
「そうだ。それでいい」
皇帝の従者が、テーブルの上に鞄の中身を並べる。
並べられた羊皮紙はしのぶの目にはどれも同じに見えた。紙質が同じなのだ。
「謀略を吟味するには情報の質と量が必要だ。質とは封蝋の有無のようなもの。そして量とは、こういうことだ」
「お祖父さま、これは?」
一枚一枚取り上げてコンラートは目を走らせる。顔の前で両掌を組んだ先帝が答えた。
「ここ数ヶ月、帝国内で確認された王女摂政宮名義の信書だ。封蝋がなく、質の高い羊皮紙に書かれているところまで一致している」
「それがいったい……」
「これらは全て、偽書だということだ」
「……偽書、ですか?」
「嵌められているのだよ、王女摂政宮は」
先帝がそこまで口にしたところで、店の前にもう一輌馬車が停まった。
硝子戸を敲いて顔を覗かせたのは、ラインホルトだ。
何処か緊張した面持ちのラインホルトは胸を張り、宣言する。
「東王国王女摂政宮セレスティーヌ・ド・オイリア殿下、到着なさいました」
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