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私情最大の喧嘩(壱)
古都の朝の静寂は常ならぬ喧騒によって破られた。
三十輌を越える馬車が、通りを縦横に駆け巡っている。
普段であればまだ古都の大門が閉まっているはずの時間だ。
寝ぼけ眼を凝らした人々の半分は、馬車に飾られた紋が帝家のものであることに驚いたが、残るもう半分はさらに大きな衝撃を受けた。そこには隣国であり、ともすればいつ敵国になってもおかしくないと言われる東王国の紋が刻まれていたからである。
「大した騒ぎだな、ゼバスティアン」
欠伸を噛み殺しながらコンラートは馬車の中で伸びをした。
痛飲したが、酔いはもう残っていない。酒に飲まれるようでは、帝国皇帝は務まらないのだ。
コンラートよりもよほど杯を重ねたはずのゼバスティアンもけろりとしている。
テングマイという無色透明な異国の酒が甚く気に入ったようで、店主に無理を言って一瓶譲り受けたほどだから大したものだ。普段から近隣諸国の酒を飲みあさっているだけあって、珍しい酒が好きなのだろう。
酒の買い付けに託けて密偵を諸国へ送っていうのは周知の事実だ。
帝国側の馬車十五輌は定められた宿の前に滑るように停まっていく。
これは予め定められた手順だ。
今日の見合いの主役である皇帝コンラート五世も王女摂政宮セレスティーヌ・ド・オイリアも互いに敵の多い政治家だった。
見合いは非公式だが、公然の秘密だ。襲撃される恐れがある。
念には念をと言うことで両国と古都参事会が協力して、直前までどの宿で見合いが行われるかを伏せた状態で準備が進められてきた。
「“備えぬ者の言い訳には耳は貸されぬ”とも申しますからな」
「漏れていると思うか、情報が」
ゼバスティアンは肩を小さく竦めると鼻で笑ってみせる。
「漏れるも何も、東王国の奇譚拾遺使はセレスティーヌの直轄組織です。普段は下から上に上がる情報が、今日は上から下に下りるだけです」
「それもそうだな」
奇譚拾遺使やその下部組織が帝国内で様々な工作活動を行っているということは硝石収集局が掴んでいた。連合王国へ振り向けられていた人数も帝国へ回されているというから、よほどのことだ。
今いる古都にしても、ダミアンという名の小者がセレスティーヌの指示で動いていたのではないかという報告は受けていた。
どんなつもりで王女摂政宮はのこのこと見合いの席に出てくるのだろう。
コンラートからすれば、破壊工作を仕掛けていた敵国へ嫁ぐなど素振りを見せるだけでもありえない。何を考えているのかすら、分からなかった。
ならばこれは欺瞞か。
その可能性は十二分にあり得る。帝国の奥深くに自らが刃となって潜入し、内側から帝国を切り刻んでいく。悪辣極まりない王女摂政宮のやり口を考えれば、こちらの方を警戒すべきだろう。
「警備は十分にしておりますが、相手がどれだけいるか分かりません。お気をつけを」
「十分に警戒されている中で余が何かしようとしても無駄だろうに」
「心構えだけでも重要です」
ああ、と髪を掻き揚げながら上の空で答える。
気になるのは、祖父である先帝のことだ。
東王国の王女と結婚することの利は分かる。将来にわたって帝国は東王国の継承問題に介入できる貴重な手札を得ることになるからだ。
だが、相手はあの王女摂政宮だった。“厩を貸して宿を盗られる”ということになりかねない。
どうしてこのような莫迦げた見合い話を受けたのだろうか。
考えれば考えるほど、分からなくなる。
耄碌したというわけではない。それはないと断言できる。尊崇の対象である先帝の事を、コンラートは誰よりもよく知っているつもりだ。
「……会って、真意を確かめねばならんか」
「それがよいでしょう」
朝だというのに、居酒屋のぶには暖簾が翻っている。
店の前を掃き清めながら、しのぶはもう一度小首を傾げた。
妙な時間から店を開けることになったのは、ラインホルトに頼み込まれたからだ。
どうしても今日だけは朝から店を開けて欲しい。
そう常連に頭を下げられると嫌だとは断りにくい。貸し切りは困るが、時間外に開けるのは応相談というのはゆきつなの頃からだ。
夜半からの雪も止み、今日の古都は気持ちのいい晴れ空が広がっている。
平和だ。
店の前を悠々と歩く二尾猫の姿を見ると、このまま暖簾を仕舞ってもう一寝入りしたくなる。
「なぁしのぶちゃん」
硝子戸の隙間から信之がひょいと顔を出す。遅くまで店を開けていたのに妙に元気なのは、興味のあることがあるからだ。
「しのぶちゃんは昨日の二人、どういう関係だと思う?」
弾んだ声で尋ねられて、しのぶは盛大に溜め息を吐いた。
「あのね、大将。お客さんの詮索をするなんて……」
「それはまぁそうなんだけどね」
頭を掻いて引っ込む信之を見送りしのぶは掃き掃除を続ける。冬の朝の澄んだ空気が心地よい。
全く気にならないと言えば、嘘になる。
気になるのは、コンラートと名乗った男の方だ。
直接会ったことはないはずだが、客の一人と面影が似ている。
しかし、そのお客の血縁者は極端に少ないと聞いていた。
となるとまさか、コンラートというのは。
そこまで考えたところで、通りの入り口の方から一輌の馬車が駆けて来るのが見えた。反対側からももう一輌、近付いて来る。
二輌はちょうど店の前で向かい合うように、停まった。
一輌からはコンラートと鷲鼻の老人。
そしてもう一輌からは、しのぶの思った通りの人物が随行を伴って降りてきた。
「おはようございます、お祖父さま」
「おはよう、我が孫」
コンラートからの挨拶に泰然と答えたのは、紛れもなく帝国先帝その人だ。その孫ということは。
「では参ろうか、コンラート。いや、皇帝陛下とお呼びすべきかな?」
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