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紙屋研究所


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2017-05-15 「感謝」すれば殺していいのか 『マンガで学ぶ動物倫理』

伊勢田哲治・なつたか『マンガで学ぶ動物倫理 わたしたちは動物とどうつきあえばよいのか』


 日経新聞によれば、イタリア法律では、

生きたエビを氷の上に載せておくのは虐待に当たり、禁錮刑や5000ユーロ(約67万円)から3万ユーロ(約400万円)の罪になる。

http://www.nikkei.com/article/DGKKZO95101870U5A211C1NZ1P00/

という。

 動物の命を奪っていいのか。あるいは、どういうふうになら奪っていいのか。あるいは、そんな問い自体が無意味なのか。


 小4の娘といっしょに劇を見に行ったのだが、「命」を考えるというその劇の中で「『いただきます』と言って食べよう、命をいただくのだから」的なセリフが出てきた。

 親子で見たその劇の、教条ともいうべき薄っぺらさが気になった。

 「いただきます」と「感謝」さえすれば、命を奪っていいのだろうか。

 ペットや実験動物虐待には反対するが、害獣は殺していいのだろうか。

 外来生物生態系を壊すというが、その生態系はせいぜい江戸末期のもので、それをどうしても守らないといけないのだろうか。


マンガで学ぶ動物倫理: わたしたちは動物とどうつきあえばよいのか 『マンガで学ぶ動物倫理』(化学同人)を読むと、動物の権利、動物をめぐる倫理にかかわって、こうした境界部分の疑問が次々と押し寄せてくる。

 著者の伊勢田哲治科学哲学倫理学)は、筆者として、例えば「動物の権利」を認めることに反対するためにこうした疑問を並べているわけではない。読者に考えてほしいので、こうした際どい問いを次々と投げかけるのである。


 「ペットのしつけ」「殺処分と去勢」「化粧品動物実験」「肉食と集約的畜産業」など10章にわたるテーマが描かれる。

 「マンガ」なので、高校生の今上琳太郎と幼なじみの根岸清音が、高校の部活(ミステリー研)の活動として「生き物探偵」をするというストーリーだ。

 なつたか、というマンガ家が描いているが、解説マンガとして非常によくできていると思う。

 まず、ネームが長くなりすぎるという解説マンガの悪いクセはまったくない。

 そして、世の中の学習・解説マンガにやはり多く見られる、マンガ部分はただのギャグで、「解説」になっていないという事態(小学館の「ドラえもんの学習まんが」シリーズにこの傾向が強い)にもおちいっていない。なつたかのマンガを読むことそのものが、その章のテーマを基本的に理解するようにできている。

 そして、ライトな恋愛要素が、自然に入っている。今上と根岸は恋愛感情があるのではないか? とぼんやり思わせ、そのことがうるさすぎずに読者に効いてくる。まあ、絵がぼくの好みなんだけどね。

 筆者の伊勢田は、「おわりに」で、編集者から「マンガで学ぶ」シリーズを出してみないか誘われた話を書いている。

 倫理学をマンガで表現できるものかと半信半疑だったが、先行の『マンガで学ぶ生命倫理』を実際に読んでみて、

思った以上のクオリティに驚き、わたしもやってみたいと思いました。(本書p.141)

 『マンガで学ぶ生命倫理』も、マンガ担当は、なつたかだったから、この描き手の質の高さがわかる。


 マンガが解説としてうまくいっているのは、マンガ家によるところも小さくあるまいが、何と言っても伊勢田のスタンスがいいのだろう。

 主張を押し付けるのではなく、対立的な考えをじっくりと考えてもらう立場に徹しているから無理がないし、マンガにしやすいのである。


 冒頭にぼくが見た劇が提示した問題は、例えば本書で伊勢田はこう書いている。

●感謝すれば何をしても許されるのか

 最後に琳太郎たちが話していた、「牛や豚にちゃんと感謝して食べる」という意見について考えてみましょう。

 動物という文脈を離れて考えてみたとき、「相手の苦しみの上に自分の楽しみが成り立っていても、相手に感謝すればその楽しみは正当化される」と言えるでしょうか。いじめっ子がいじめられっ子に「いじめられてくれてありがとう」と言えばいじめ正当化され、そのまま続けていいのでしょうか。「それはあくまで人間の話で、相手が動物のときは話が違う」という返事が返ってくるかもしれませんが、どう「話が違う」のでしょう。ちゃんと筋道だてて説明できますか。(本書p.55)


ぼく自身はどう考えているか

 人間の中の権利が、男性から女性、成人から子ども、自国民から他民族・「人種」へと広がっていった。そして、そういう広がりの先には、境界にある動物の権利が見えてくるし、そこが当然問題になってくる。


 ぼくは、高校時代に本多勝一の影響を受け、自然の中で人間が特別に扱われるべき存在であるという無条件の命題を「信じる」ことを自分の指針にしてきた。*1「あらゆる命は平等」ではなく、すべて人間の都合だ、という立場である。この指針を長く続けてきたのは、ぼくが高校以降に「ペット」(伴侶動物)を飼わなかったという事情も反映しているに違いない。

 したがって、実験動物イルカ、閉じ込められた家畜などは、大きな「問題」としてはぼくの前に現れてこなかった。

 もちろん、例えばネコエアガンで撃ったり、それを見たりするのは、心理的に抵抗がある。しかしそれは、あまりにも人間に近すぎる「愛玩動物」であり、ぼくらがその動物に感情移入しているために、まるで小さな子どもいじめているような錯覚を引き起こすからだろうと思っていた。

 つまり、その虐待人間社会の倫理を侵食してしまうためにやめたほうがいいのであって、あくまで人間社会が脅かされるという論理だ。動物そのものが「権利」を脅かされていたり、かわいそうなわけではない、というのがぼくの立場であった。もし動物の権利というロジックに踏み込めば、決して家畜の肉などは食べられないからである。

 先日も獣害を引き起こすイノシシ、しかもやっとウリ坊から成獣になったばかりのイノシシを射殺する現場に立ち会った。かわいそうだという感情は引き起こされたが、それ以上のものではなかった。


 感謝すれば殺していいか、という問いに対しては、どうか。感謝すれば食肉のために殺していい、というのは整合的な論理になり得ないと思う。

 論理上は、人間と動物に絶対的な境界が引かれる。

 ここが基本。

 ただし、例えば動物を育てる中で一定の感情がわいてくることはあり得るし、育てたニワトリをシメて食べるということに感情が揺さぶられることはありうる。「できるだけ苦しませずに殺してやろう」という感傷が起きるだろうが、それはあくまで自然な感傷である。殺されるプロセスを見ない、日々ぼくらが口にするブタやウシについては、なんの感傷も引き起こさないだろう。何かの命を犠牲にしたな、という感情は、育てる・殺すといったプロセスの中で自然に呼び起こされるもので、「感謝しよう」と言葉だけで呼びかけることに意味はない。つうか偽善では。


 ぼくにとって、この枠組み(人間と動物に絶対的な境界を引くこと)は修正を迫られながも、本書を読んだ後も、あまり変わっていない。

 ただ、本書には、巻末にたくさんの入門的な参考文献、映画・小説・マンガが載っている。ぼく自身、もう少しいろんな立場で考えてみなければならないと思った。

*1そもそも人間の命でさえある条件下では「奪っていい」ものだという倫理の中でぼくらは生きている。死刑判決を受けた人間の命は「奪っていい」とされ、侵略者に対して防衛的に反撃するのであれば侵略軍の兵士の命は「奪っていい」とされている。

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