1298年のことである。イタリア北部、ジェノヴァの牢獄につながれていたヴェネツィア人、マルコ・ポーロ(Marco Polo, 1254-1324)は、同室の囚人であったピサのルスティケッロ(ルスティケッロ・ダ・ピサ Rustichello da Pisa)なる人物に、自らの四半世紀に及ぶ東方世界への旅のことを語って聞かせた。マルコが投獄されたいきさつははっきりしていないのだが、一般的に伝えられているところによれば、第2次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争(1294-99)の最中、当人が乗っていたヴェネツィアの軍船がジェノヴァの軍船と戦って敗北し、そのため捕虜になったのだという。13世紀から14世紀にかけてのヴェネツィア共和国とジェノヴァ共和国は、ともに東方世界との交易を盛んに行っていた都市国家としてライヴァル関係にあり、たびたび交戦を行っていた。
そして、このマルコの語った話をルスティケッロがまとめたのが、いわゆる『東方見聞録』である――と、少なくとも同書、それも今日広く流布している版の序文では、そのように説明されている。
つまり、この書物は口述筆記による回想録なのであり、マルコがどこまで正直に語ったのか、また、ルスティケッロがそれをどこまで正確に記したのか、という問題を抱えていることになる。
しかも、この書物の原本は残念ながらとうの昔に失われている。原本はおそらく『イル・ミリオーネ』(Il Milione)(*)という題名で、中世イタリア語で書かれていたと推定されているが、なにぶん現存しないので確かなことが言えるわけではない。現在残されているのは、様々な言語に翻訳された古写本や古版本のみで、その数は実に140余種にのぼり、大別しても6系統があるとされている。そして、筆写や翻訳の過程で、その内容に様々な食い違いや矛盾が生じているのである。そもそも題名にしてからが、『イル・ミリオーネ』のほかにフランス語の『世界誌(世界の記述)』(Le devisament dou monde)や『驚異の書』(Livre des merveilles)、英語の『マルコ・ポーロ旅行記』(The Travels of Marco Polo)など数種類が知られており、じつは定まった題名というものは存在しないのだ。なお、『東方見聞録』は日本での通称である。また、内容的に見ると、マルコ本人の行動よりもそれ以外の地理的な叙述のほうがはるかに多くの割合を占めており、「旅行記」や「見聞録」というよりはむしろ地理書と呼ぶべき書物である。
(*) イタリア語で「百万」の意。『東方見聞録』序文にもあるように、マルコには「イル・ミリオーネ」というあだ名があり、この題名はそれに由来する。この通称の由来について、かつては、マルコが東方の富を得て百万長者になったからとも、また、東方の富についてことあるごとに「百万」単位で語ったからともいわれてきた。しかし、いずれも確たる根拠があるわけではなく、エミリオ(Emilio)あるいはヴィリオーニ(Vilioni)の転訛である可能性も指摘されている。
以下では、主として東洋史家の愛宕松男(おたぎ・まつお)(1912-2004)による平凡社東洋文庫版の翻訳をもとに記述を進めていくが、以上のような問題があることをあらかじめ念のためお断りしておく。特に、数字や綴りなどの細かい部分をそのまま鵜呑みにするのは危険である。
ともかく、マルコ・ポーロの語るところによれば、彼は父のニコロと叔父のマテオに連れられて東方世界を旅し、カタイ国の都、タイドゥあるいはカンバルックに住まう、世界中の全タルタール人に君臨する大皇帝、クブライ・カーンに謁見したという。そして、17年間にわたってクブライに仕えたのち、1295年にヴェネツィアに戻ってきたという。彼の旅は前後26年間に及んだとされている。
まず、「カタイ」とは中国の北方に遼(916-1125)を建てた遊牧民族のキタン(契丹)族に由来する語で、中国(特に華北地方)のことを指す。「タイドゥ」は中国語の「大都」であり、また「カンバルック」すなわちカーンバリクはトルコ語で「カアンの都」という意味で、いずれも大元大モンゴル国の首都・大都、すなわち現在の北京のこと。なお「カアン」(qa'an. 現代モンゴル語では「ハーン」 khaan)はモンゴルの最高君主の称号である。「タルタール」(Tartar)とは、モンゴル系の一部族の名である「タタール」(Tatar; 韃靼[だったん])と、ギリシア語で「地底の冥界」「地獄」を意味する「タルタロス」(Tartaros)とを掛け合わせた名で、モンゴル人のことを指す。そしてクブライ・カーンとは大元大モンゴル国の大カアン、クビライ・カアン(在位1260-94)のことである。
12世紀末、中国北方の草原地帯に住まう遊牧民の中から、ひとりの英雄が現れた。テムジン、すなわちチンギス・カン(1167?-1227)である。彼は1206年に遊牧民たちを統一して「大モンゴル国」(イェケ・モンゴル・ウルス。「ウルス」はモンゴル語で「人々」転じて「国家」の意)を建国し、さらに周辺諸国の征服へと乗り出す。以来、もともとはチンギスの所属する一部族の名にすぎなかった「モンゴル」という名は、この国の建てられた草原地帯――モンゴル高原――の名として、またこの国に集った遊牧民たちの総称として用いられることになる。
チンギスの後を継いだ三男のオゴデイ(在位1229-41)は、大モンゴル国の最高君主の称号として「カアン」を用い始めた。この当時、中国は北部の金(1115-1234)と南部の南宋(1127-1279)とに分裂していたが、オゴデイは金を滅ぼして中国北部に進出する。また、チンギスの長男ジョチの子バトゥ(1207-55)は、現在のロシアの地を征服し、さらに東ヨーロッパにまで進出、ジョチ・ウルス(キプチャク・カン国、1243-1502)を築いた。オゴデイの没後、その子グユク(在位1246-48)の短い治世を経て、オゴデイの弟トルイの子モンケ(在位1251-59)が大カアンに即位する。モンケの代に、その弟フレグ(1218-65)はアッバース朝を最終的に滅ぼして中東に進出、フレグ・ウルス(イル・カン国、1260-1353)を築いた。かくて、東は日本海・東シナ海から西は黒海・地中海にまで及ぶ、史上空前の世界帝国がここに出現する。
また、この間に朝鮮半島の統一王朝である高麗(コリョ/こうらい)(918-1392)も、モンゴルへの服属を余儀なくさせられている。モンゴル軍の高麗への侵攻は1231年に始まった。高麗王高宗(在位1213-59)は江華島(カンファとう)に立て籠って抵抗を続けるが、ついに1259年に屈服し、モンゴルに降伏したのである。その後も三別抄の乱(1270-73)などの抵抗運動が起きるが、いずれも鎮圧されている。
1260年、モンケの弟クビライが第5代大カアンに即位した。彼は1271年に帝国の国号を新たに「大元大モンゴル国」(ダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス)と定めている。また彼は、金の旧都・中都の故地の近くに新しい都城の建設を始め、1272年に「大都」と命名した。これが今日の北京の起源である。彼は、モンゴル高原の上都(*)を「夏の都」、大都を「冬の都」と定めた。さらに彼は、1279年には南宋を滅亡に追い込み、中国を再統一している。
(*) 現在の内モンゴル自治区ドロンノール附近。マルコは「シャンドゥ」と呼んでいる。なお余談ながら、この都は英語ではザナドゥ(Xanadu)の名で知られ、特に、詩人サミュエル・コールリッジ(1772-1834)の、クビライを題材にした幻想詩『クーブラ・カーン』(Kubla Khan, 1798執筆)に登場することで有名。
なお、モンゴル帝国はあまりにも広大であったため、最高君主たる大カアンを中心としつつも、チンギスの子孫たちによって分割統治されていた。
マルコの東方旅行は、ちょうどこのクビライの時代に行われたものである。ポーロ一家はヴェネツィアの東方交易に従事する商人一家であったと考えられている。なお、マルコの旅行年次についてはいくつかの説があるが、愛宕松男は、マルコは1270年にヴェネツィアを出発、陸路を経由して1274年に中国に到達し、足掛け17年間にわたって中国に滞在したのち1290年に帰途につき、海路を経由して1295年にヴェネツィアに戻ったものと推定している。
ただし、マルコ・ポーロ一家、あるいはそれらしき人物が中国にやってきたことを裏付ける史料は、どういうわけかいまだ一つも発見されていない。『東方見聞録』によれば、マルコは自分は皇帝に重用され、あまつさえ3年間にわたってヤンジュー(揚州)の統治にあたったことすらある、と主張しているのに、である。また『東方見聞録』には、実際にクビライの近くにいた者でなければ知りえないと思われることが多々記されているいっぽうで、それにしては妙に不正確な部分も少なくない。そもそも、じつは1298年という成立年代にも疑義がある。同書末尾にはジョチ・ウルスの内乱についての詳しい記述があるのだが、この内乱が起こったのは1299年のことなのである。ついでにいえば、この時代のヴェネツィアにマルコ・ポーロなる人物がいたことは確実であるが、この人物ははたして『東方見聞録』の語り手と同一人物なのか、ということすら確定できていない。
こうしたことから、マルコ・ポーロ――あるいはそう自称する語り手――が自分で述べている行動はどこまで事実なのか、という疑問が古くから持たれてきた。また、同書の伝写の過程で後から付け加えられた知識がまぎれ込み、その内容が増殖を重ねていった可能性も指摘されている(フランシス・ウッド『マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか』、杉山正明「マルコ・ポーロはいなかった?」等を参照)。つまり、現行の『東方見聞録』には、(自称)マルコ・ポーロが語ってもいないことが含まれている可能性もあるわけだ。しかしながら、同書に貴重な情報が多々含まれていることもまた否定しがたい事実である。まことに厄介な史料といわねばなるまい。
さて、前置きが長くなったが、「はじめに」でも述べたように、この書物には、日本に比定されている「チパング」(ジパング)という島国が登場する。このチパングの記事は、マルコが中国からの帰途に立ち寄ったという、インド洋周辺の諸国について触れたくだりの最初に挙げられている。
マルコは中国を、北部の「カタイ」(華北、旧・金領)と南部の「マンジ」(華中・華南、旧・南宋領)の二つに分けている。そして、このマンジの東方に「チン(Chin)海」という大洋があり、その中にチパング諸島が浮かんでいるという。また、このチン海には7448もの島々があり、「その大部分に人が住まっている」という。ただし、マルコ自身はこの箇所について、「《チン海》やチパング諸島は何しろ我々の帰路からはずれることすこぶる遠い地域であり、それにわたくし自身もまだ親しくそこに赴いたことがない」と、伝聞情報に基づくことを断っている。
第72葉(部分)。 cipngu, ciping, Cypngu と3種類の綴りが用いられているのがわかる(杉山正明『モンゴルが世界史を覆す』, p. 137)。 |
チパングの綴りは何種類もあって、どれが正確かははっきりしない、ということは最初にも述べた。この問題はかなり厄介で、例えば、もっとも根本的な写本とされるビブリオテーク・ナショナル(BnF, フランス国立図書館)所蔵 Fr. 1116 写本では、同じ1ページの中ですら Cipngu, Ciping, Cypngu とてんでんばらばらな表記がなされている(杉山「マルコ・ポーロはいなかった?」)。また15世紀末の刊本の中には、「コンパンジウ」(Conpangiu; ニュルンベルグ、クロイスナー刊、1477、ドイツ語。現存最古の刊本)、「チャンパグ」(Cyampagu; アントウェルペン、リーユ刊、1483-85頃、ラテン語)、「シムパグ」(Cimpagu; ヴェネツィア、セッサ刊、1496、イタリア語)など、一般的に流布しているものとはかなり異なるものもある(渡辺宏「マルコ・ポーロのジパング島」)。なお、現在一般的に知られている「ジパング」(Zipangu)という綴りは、ヴェネツィアのジョヴァンバッティスタ・ラムージオ(Giovanbattista Ramusio, 1485-1557)が編纂・翻訳し、その没後の1559年に刊行されたイタリア語版で用いられたものである。これも、発音は「ジパング」ではなく、イタリア語で「チパング」に近い発音が想定されていたのではないか、とも考えられる。
また、チパングは大陸から1500マイルの距離とされている。「マイル」という単位は時代や場所によってかなり長さが異なるが、仮に1マイル=約 1500m とすると、1500マイルは約 2300km となる。基点をどこに取るかにもよるが、上海・長崎間の直線距離がせいぜい 820km 程度であることを考えると、かなり過大な数字にも思える。ただし、マルコは中国の「里」を「マイル」と表記している可能性もある。だとすれば、中国里は時代にもよるがおおむね 500m 程度なので、1500里は 750km 程度となり、おおむね妥当な数値となる。まあ、このあたりはあまり深く追求することでもないだろう。
チパングの富についての描写は「はじめに」で引用した。いま要点のみ挙げると、(1)チパングでは莫大な黄金を産する、(2)その黄金は国外に持ち出されたことはない、(3)チパング王の宮殿は黄金ずくめである、(4)チパングでは真珠も大量に産する、といったところである。
なお、(3)の黄金宮殿のくだりについては、奥州藤原氏の祖、藤原清衡(ふじわらのきよひら)(1056-1128)が天治元年(1124)に建立した中尊寺金色堂(岩手県西磐井郡平泉町)のことが誤って語り伝えられたものだとされることが少なくない。しかし、実のところこの説は、時代が合うというだけで、さほど根拠のあるものではない。とりあえずここでは、金色堂は「国王」の「宮殿」などではなく、あくまで一地方豪族の建立した仏堂兼墓堂にすぎないこと、また金色堂建立以前から存在するワークワーク伝説の中でも黄金宮殿の存在は語られていることなどを指摘しておこう。
むしろ不審なのは(2)のほうである。マルコは、カタイからチパングへ渡った者は誰もいない、とまで述べている。チパングが日本を指すのだとすれば、これはまったく事実に反する。日本産の金は一貫して中国に輸出され続けていたのだから。
小島に取り残されたモンゴル軍の敗残兵たちをサパング軍が包囲しているのに対し、敗残兵たちがこっそりと抜け出してサパング軍の軍船を奪おうとしている場面。1413年にブルゴーニュ公ジャン(無畏公、1371-1419)が伯父のベリー公ジャン(華麗公、1340-1416)へ贈るために作らせた『驚異の書』(『東方見聞録』)の豪華写本の挿画である。『全訳マルコ・ポーロ東方見聞録――『驚異の書』 fr. 2810 写本』(岩波書店、2002)、第72図。 |
マルコは続けて、クブライがチパングを征服しようとして、1269年(1264年、1268年、1279年などとする本もある)にマンジの大都市ザイトゥン(泉州)とキンサイ(杭州)から艦隊を派遣したが、その艦隊は暴風雨のために壊滅したこと、そしてその際、三万人の兵士がある小島に取り残されたことを述べている。この兵士たちは、油断したチパングの王たちが船で島に渡ってきたのを見計らって、船を奪ってチパング本島に上陸し、その首都を占領してしまう。それと気付いたチパング王は本国に戻り、自国の首都を包囲する羽目になる。モンゴル軍は七ヶ月間にわたって首都に籠城したものの、ことの次第をクブライに伝える方法が見つからず、ついに、一生チパングの島を出ないという条件でチパング側に降伏したという。
この話は、モンゴル・高麗連合軍の二度にわたる日本攻撃――すなわち、日本史でいう「蒙古(モンゴル)襲来」(「元冦」は後世の呼び名)について述べたものと考えられており、ジパングを日本に比定するにあたって最も有力な根拠とされている。しかし、それにしてはかなり奇妙な点もある。
クビライは高麗を通じて、1268年(文永5)よりたびたび通交を求める使節を日本に送っている。ところが日本側は、鎌倉幕府も京都の朝廷もともに延々と黙殺を続けたため、業を煮やしたクビライは、ついに1274年(文永11)、最初の実力行使に及んだ。この「文永の役」では、高麗の合浦(現在の昌原[チャンウォン])を出発した連合軍は、対馬・壱岐・平戸などを襲撃したのち博多湾に上陸し、日本軍と激戦を繰り広げた直後に謎の撤退を遂げている(*)。
(*) 文永の役は、有名な割にははっきりしない点の多い戦いである。かつて、元・高麗連合軍は文永11年一〇月二〇日に博多湾に上陸した後、その夜に起こった暴風雨のために打撃を受けて退却した、とする説が広く流布していた。しかし1958年、気象学者の荒川秀俊(1907-84)は、一〇月二〇日(ユリウス暦11月19日、グレゴリオ暦11月26日)では台風シーズンを外れていることや、『八幡愚童訓』など有力な史料の大部分には暴風雨の記述は見られない――ただし、高麗側の史料である『高麗史』(1451)などには撤退中に「大風雨」に逢ったという記事がある――ことを指摘し、連合軍の撤退は暴風雨によるものではなく、予定された行動であったと主張した(荒川「文永の役の終りを告げたのは台風ではない」『日本歴史』第120号、1958年6月)。これに対し、旧説を支持する歴史学者の龍肅(りょう・すすむ)(1890-1964)・中村栄孝(なかむら・ひでたか)(1902-84)らが反論し、論争となった。この論争は今日でも決着が完全についているわけではないが、今日では、少なくとも撤退の主因は暴風雨ではない、とする説が有力となっている。なお近年、服部英雄(1949-)は史料の再検討の結果、博多湾の戦闘は実際には10日近くにわたっていたことを指摘し、連合軍は九州北部制圧に失敗したため、冬季の交通遮断を避けるために引き返した、とする説を立てている(服部『歴史を読み解く・さまざまな史料と視角』青史出版、2003年)。
その後、モンゴル軍は1276年に南宋の首都であった臨安(杭州、マルコのいう「キンサイ」)を陥落させ、残った勢力も1279年までに滅ぼしている。いっぽう、その後の対日交渉においても日本側は使者を殺害するなどの強硬措置を取り続けたため、1281年(弘安4)、クビライは再び日本攻撃を決意した。この「弘安の役」では、連合軍は東路軍と江南軍の二手に別れ、東路軍は合浦から、江南軍は慶元(寧波[ニンポー])から出撃している。東路軍は対馬・壱岐などを攻撃したのち六月上旬に博多湾に進撃し、二ヶ月間にわたって断続的に日本軍と激戦を繰り広げた。江南軍はやや遅れて七月中旬に平戸に到達し、鷹島(長崎県松浦市。中国側史料には「五竜山」とある)で東路軍と合流した。しかし、その矢先、七月三十日から翌閏七月一日(日本側の暦による。元側の暦では八月一日)にかけて北九州を襲った暴風雨(おそらく台風)のために壊滅的な打撃を受け、敗退している。
したがって話の前段は、年代(*)と軍隊の出発地(**)が違っている点を除けば、弘安の役の際の史実におおむね一致している。ところが、後段の首都占領のくだりになると、話がまるで合わなくなる。確かに、実際に撤退中に鷹島に2~3万もの兵士が取り残されており、ここまでは史実と符合する。しかし、中国側史料である『元史』(1370年)によれば、彼等は日本側の捕虜となり、「蒙古」(モンゴル人)「高麗」「漢人」(旧・金の出身者)はみな殺害され、「唐人」(旧・南宋の出身者)は奴隷とされたという。
(*) 「1269年」では南宋滅亡前ということになってしまう。もっとも、マルコはマンジ(南宋)の征服をなぜか1268年のことだとしているのだが、それでもあちこち辻褄が合わない点がある。
(**) マルコは慶元には特に言及していないが、当時、慶元は杭州を省都とする江浙行省の管轄下にあったので、慶元を杭州(キンサイ)と取り違えたとも考えられる。なお、マルコは高麗(カウリ Cauli)については、クビライの支配下にある土地の一つとして名を挙げているだけである。
マルコの主張どおりであれば、彼は弘安の役の際にはクビライの宮廷に仕えていたことになり、したがって詳しい情報を知り得る立場にいたはずである。しかし、それにしては話の食い違いはあまりに大きい。
さらにマルコは続けて、ある「不思議な話」を述べている。モンゴル軍の二人の将軍がチパング人の捕虜の首を斬ろうとしたところ、そのうち8人だけがどうしても斬れないので調べてみると、「彼等は腕の内側で皮膚の下、肉の上のところに一個の石を挿入し、外部からはわからないようにして身につけていた。この石には呪術がかけられていて魔力を発揮し、刃物では絶対に殺されないことになっている」。そのため2将軍は彼らを撲殺したという。
それから、マルコはわざわざ「この一事だけは是非とも知っておいてもらいたいからお話しする
」などとことわった上で、
チパング諸島の偶像教徒[仏教徒を指す]は、自分たちの仲間でない人間を捕虜にした場合、もしその捕虜が身代金を支払いえなければ、彼等はその友人・親戚のすべてに
「どうかおいで下さい。わが家でいっしょに会食しましょう」
と招待状を発し、かの捕虜を殺して――むろんそれを料理してであるが――皆でその肉を会食する。
という恐ろしげな話も述べている(*)。
(*) 『東方見聞録』にはこの他にも、シャンドゥ(上都)にいる「チベットとかケスムールとか称せらている」賢者(チベット、カシミールのラマ僧)が刑死者の人肉を食べる話があるほか、フージュー王国(福建)、小ジャヴァ島(スマトラ)の「ファーレック王国」「ダグロイアン王国」、アンガマン島(アンダマン諸島)などの項に、その地の住民が人肉を食べる話が載せられている。もっとも、「我々は人間など食わないが、あの連中は人食い人種だ」というたぐいの話は、実際の食人習俗(カニバリズム)の存否とは無関係に、それこそほとんど世界中に見られるものなので、この手の話をあまり真に受けすぎるのは危険であろう。
人食いの話はひとまず措いておくとして、「魔法の石」の話については、日本とは無関係であり、むしろ東南アジア島嶼部各地に伝わる説話と一致することが指摘されている(白鳥清「マルコポーロ東方見聞録中の日本伝中に見える不思議な記載」)。このことから、チパングに関する記事には、少なくともその一部に東南アジアに関する知識が混入していることは確実である。なお少数意見ながら、チパングそれ自体が日本ではなく、東南アジアのいずこかだとする説もある。
確かにおかしな点はあるにせよ、「暴風雨による敗北」という劇的な展開は一致しているではないか、と思われるかもしれない。確かにこのことは、ジパングを日本に比定するにあたって、最大の根拠とされている。ところが、これとても弘安の役のみが唯一の事例ではないのである。じつは、ほぼ同時期に東南アジア諸国に対して行われた遠征においても、よく似た事態が引き起こされているのだ。
当時、インドシナ半島東部(現在のヴェトナム)には、北部にチャン朝ダイヴェト(陳朝大越国。1225-1400)、中・南部にヴィジャヤ朝チャンパ(占城国。1000-1471)という二つの国があった。モンゴル軍は1257年、対南宋戦争の最中に雲南方面から陸路ダイヴェトに攻め込んでおり、いったん首都のタンロン(昇竜城、現在のハノイ)を占領している。しかし、このときは短期間の占領ののち、すぐに撤退した。本格的な戦争が始まるのは、その四半世紀後のことである。
1278年、クビライはチャンパに使節を派遣して入貢を促し、チャンパはいったんこれに応じた。ところがその後、モンゴル側がチャンパの海上交易権を直接掌握しようとしたため、チャンパは反発し敵対関係に転じることなる。モンゴル軍は1282年、広東から海路チャンパへと侵攻し、翌1283年にチャンパの首都ヴィジャヤ(現在のビンディン附近)を占領、チャンパ国王はいったん降伏を宣言した。だが、これは時間稼ぎの策略に過ぎず、チャンパ側はダイヴェト、クメール王国(真臘。アンコール朝。802-1431? 現在のカンボジア一帯に繁栄した王国で、アンコール遺跡を遺したことで知られる)、ジャワ島のシンガサリ王国(1222-92)などの周辺諸国に援軍を求めつつ、その後も抵抗を続ける。そのためモンゴルはダイヴェトに対してチャンパ攻撃を求めたが、ダイヴェトはこれを拒絶し、さらにモンゴル軍の国内通過も拒否した。そのため、モンゴルの援軍は海路ビンディンに向かった。ところが、この艦隊は1283年春、暴風雨に逢って壊滅してしまう。このため、モンゴル軍はいったん撤退に追い込まれている。
翌1284年、モンゴルは、今度は陸路、ダイヴェトを経由してチャンパに侵攻しようとした。しかし、ダイヴェトでは名将チャン・フン・ダオ(陳興道、?-1300)の指揮のもと、チャンパと同盟した上でモンゴルに対して徹底抗戦を試みる。チャンパとダイヴェトは長年の宿敵同士であったが、ともに国家存亡の危機にあって互いに手を組んだのである。モンゴル軍は再び首都タンロンを占領するが、各地での激しい抵抗に逢い、1285年春に撤退を余儀なくされる。続いて1287年、モンゴル軍は再びダイヴェトに侵攻し、タンロンをまたしても占領した。しかし、チャン・フン・ダオの指揮するダイヴェト軍は、モンゴルの食料補給ルートを遮断する作戦に出る。それに加えてモンゴル軍では伝染病が流行し、1288年春、ついに撤退に追い込まれてしまう。ヴェトナムは、日本よりもはるかに厳しい状況の中で、しかも自力で侵略を撃退したのである。
なお、『東方見聞録』では、チパングに関する記述のすぐ次に、「チャンバ」(Chanba)すなわちチャンパに関する記述がある。同書によれば、マルコはカタイ滞在中の1285年(1275年、1280年、1288年とする本もある)にたまたまチャンバを訪れたことがあるという。しかし、同書では1278年にモンゴル軍がチャンバを攻撃、チャンバ王が降伏したためにモンゴルは撤退した、と記されており、あたかもモンゴルの勝利に終わったかのような印象を受ける。なお、マルコはダイヴェトには特に言及していない。
また、同書ではチャンバの次に「ジャヴァ」(Java)すなわちジャワが紹介されている。マルコが中国を去ったのは1290年のことと推定されるが、そのすぐ後にモンゴル軍は、今度はジャワを攻撃して、またしても手痛い目に遭っている。
1289年、シンガサリのクルタナガラ王(在位1268-92)がモンゴルの使節に無礼をはたらいて追い返す、という事件が起こった。これに対する報復攻撃として、1292年末、モンゴル艦隊は泉州を出発しジャワ島へ向かった。このとき、南シナ海を渡る途中、モンゴル軍はまたしても暴風雨に苦しめられている。このときは艦隊は壊滅したわけではないが、「風は激しく波は高く、船は大きく揺さぶられ、士卒はみな数日間食事を取ることができなかった」という(『元史』巻162「史弼伝」)。
1293年はじめ、モンゴル軍はジャワ島に上陸した。ところがこのとき、当のクルタナガラは、クディリの領主ジャヤカトワンが引き起こしたクーデタによりすでに殺害されていたのである。ジャヤカトワンはシンガサリに滅ぼされたクディリ朝(929頃-1222)(*)の子孫と称していた。この事態に際し、クルタナガラの女婿ラデン・ヴィジャヤ(?-1309)は巧妙に立ち回った。彼はモンゴル軍と手を組んでジャヤカトワンを倒させたうえ、ついでモンゴル軍を裏切って奇襲攻撃をかけ、退却に追い込んだのである。これにより全ての邪魔者を消し去った彼は、ジャワ史上最大にして最後のヒンドゥー王国・マジャパヒト王国(1293-1527頃)の初代国王クルタラージャサ・ジャヤワルダナ(在位1293-1309)となった。
(*) 前章で触れた古マタラムの後身。929年ごろ、中部ジャワにあったマタラムがとつぜん東部ジャワに移動したもの。移動の原因については、メラピ火山の噴火によって国土が壊滅したとする説のほか、地震説や伝染病説など諸説あり未詳。
ちなみに、14世紀前半に東方世界を旅行し、大都を訪れたこともある北イタリア出身のフランシスコ会士オドリコ・ダ・ポルデノーネ(Odorico da Pordenone, 1286?-1331. オデリコ Oderico とも)は、口述筆記したその旅行記(1330成立)の中で、ジャワ島について以下のように述べている。
この島[ジャワ]の王は非常に素晴しい宮殿を一つもち、非常に巨大で階段は大変大きく高く広く、またその踏み段は一方は黄金で他方は銀でできていて、同じく宮殿の床も一方は黄金の床、他方は銀の床でできている。宮殿の壁面は、その内側はすべて黄金の板で張りめぐらされ、そこには黄金の騎士像が彫刻され、その頭首の周囲には我等の国の聖人達につけられるような黄金の大円光があり、この円光にはすべて宝石をちりばめてある。また宮殿の屋根もすべて純金である。一口で云えば、この宮殿は今日世界にあるどれよりも華麗である。(家入敏光〔訳〕『東洋旅行記』第13章)
マルコのいうところのチパングの黄金宮殿を髣髴とさせる話である。時期的にはマジャパヒトの第2代国王・ジャヤナガラ(在位1309-28)の頃と思われるが、実地の見聞かどうかについては疑問がある。
チパングを日本ではなく東南アジア島嶼部に比定する説は過去に何度か出されおり、近年では的場節子氏が、マルコは泉州で、「諸蕃(ジアパン tjiapan)国」と漠然と呼ばれていた東南アジア諸国の情報を得たのではないか、とする説を提唱している(的場『ジパングと日本』)。もっとも、東南アジアに比定したところで、諸矛盾が完全に解決するわけではない。なんといっても、マルコが語っている通りの過程で起きた戦争は存在しない――少なくとも、中国側の記録には無い――のである。また、たとえば、マルコがチパングを中国の「東」だと語っていることは、どう解すればよいのだろう。
チパングについてのもうひとつの大きな問題は、『東方見聞録』がそのほとんど唯一の情報源である、ということである。
モンゴル帝国には少なからぬヨーロッパ人宣教師が訪れており、彼らは様々な形で記録を残している。よく知られたものとしては、1245~46年に当時モンゴルの首都だったカラコルムを訪れたローマ教皇特使プラノ・カルピニ(1180?-1252)、1254年にカラコルムを訪れたフランス王ルイ9世(在位1226-70)の特使ギヨーム・ド・ルブルク(リュブリュキ。1220?-93?)、1294年より大都でカトリックの布教に従事したジョヴァンニ・ダ・モンテ=コルヴィノ(1247-1328)、モンテ=コルヴィノの後任として1342年に大都を訪れたジョヴァンニ・ディ・マリニョーリ(1290?-1357)、それにオドリコなどがいる。しかし、彼等はいずれも、チパングに関しては何も語っていない。言い換えれば、ヨーロッパ人の中でチパングとその黄金について語り伝えた人間は、実質的にはマルコただ一人にすぎない、ということになる。
とはいえ、イスラーム圏にまで目を広げれば、マルコ以外にもチパングに関する記録を残した人間がいないわけではない。
14世紀はじめ、フレグ・ウルスの宰相ラシードゥッディーン(Rashīd al-Dīn [Rashid al-Din], 1247-1318. ラシード・ウッディーン)は、ガーザーン・ハーン(在位1295-1304)およびウルジャーイートゥー・ハーン(在位1304-16)の命により、『歴史集成(集史)』(Jāmi' al-Tawārīkh [Jami' al-Tawarikh], 1310)を編纂した。その中の「モンゴル史」の一節に、以下のような記述がある。
[大カーンに対する反逆者は]ジュルジェ(女真)およびカウリー(高麗)両地域の海岸近く、大海のなかに浮かぶチマンク(ch-m-n-ku)という大きな島である。その周囲はおよそ四百ファルサング(二千四百キロメートル)、内部に多くの町や村を擁すと伝えられ、一人の国王を立てて反抗を続けている。その住民は背丈も首も短いが、腹は大きく、その土地からは多くの鉱物を産すという。(杉田英明『日本人の中東発見』, p. 164)
なお、『歴史集成』はペルシア語で書かれている。ペルシア文字では原則として母音を表記しないので、 ch-m-n-ku をどう発音するのかはこれだけでは確定できない。ただ、語形の類似からみて、「チパング」と同じものとみるのが妥当であろう。ここでは黄金については特に触れられていないものの、「多くの鉱物を産す」ことは記されている。女真(金を建国したトゥングース系の民族)や高麗の近くの島だとされていることからみて、これが日本を指していることはほぼ間違いない。
不審な点が多々あるとはいえ、やはりマルコのチパングに関する記述は日本に関する情報をもとにしている、と考えるのがいちおう妥当そうである。
ところで、ジパングに関するマルコ・ポーロの記録は、すぐには一般的に受けいられたわけではない。ジパング島が地図に描かれるようになったのは、それから実に150年も後のことである。
ジパングが描かれた現存最古の地図は、ヴェネツィアの修道士フラ・マウロ(Fra Mauro, ?-1459. フラは修道士の意)が1459年頃に作成したマッパ・ムンディだとされている。この地図ではチンパグ島(Ixola de cimpagu)は、ザイトゥン王国(Regno de çaiton; 泉州)とジャヴァ島(Giava; ジャワ)に挟まれた小さな島として描かれている。
東アジアの部分。東側(右側)の南北に長い大きな島がシパンゴ(ジパング)で、「きわめて豊富な黄金ならびに宝石や真珠を産する」という註記がある。ニュルンベルク国立博物館蔵(クエスタ=ドミンゴ『図説 航海と探検の世界史』, pp. 54-55)。 |
その後、フィレンツェの地図学者ヘンリクス・マルテルス・ゲルマヌス(Henricus Martellus Germanus)は、1490年に作成した手描き世界図や、『諸島誌図録』(Insularum Illustratum, 1490頃)所載図の中で、チンパング島(Çinpangu insula)を、中国の東方海上に浮かぶ南北に長い大きな島として描いた。また、ドイツの貿易商人マルティン・ベハイム(Martin Behaim, 1459-1507)が1492年に作成した地球儀(現存する地球儀としては世界最古のもの)でも、シパンゴ島(Cipango)は、中国から経度にして25度も離れた位置にあり、北緯8度から北緯29度辺りにまで及ぶ、やはり南北に長い島として描かれている。ヨーロッパの西端から中国の東端までは経度にしておよそ130度ほどであるが、マルテルスやベハイムは、この距離を実に100度ほども過大に見積もっていた。さらに彼らは、マルコ・ポーロの「大陸の東方1500マイル」という数字をそのまま受け取り、かつ、ジパングを熱帯の島だと考えていた。この結果、ジパングはちょうど現在のメキシコ付近に位置することになったのである。
なお、ジパングが南北に長い島として描かれた理由ははっきりしない。しかし、同時代のヨーロッパでは、大西洋には「アンティリア」(Antillia)という島があると信じられていた(*)。このアンティリア島は一名を「七都市島」(Isla das Sete Cidades)ともいう。711年、北アフリカのイスラーム勢力がジブラルタル海峡を渡って西ヨーロッパのイベリア半島に侵攻し、この地にあったゲルマン系の西ゴート王国(418-711)を滅ぼして、この地を支配下においた。ベハイムが述べているところによれば、このとき(ベハイムによれば734年)、ポルト(現在のポルトガル北西部の都市)の大司教が、6人の司教たちや他のキリスト教徒らとともに、海を渡ってこのアンティリア島に移り住み、7つの都市を建設したという。このアンティリア島も、やはり南北に長い島として描かれているのである。当時の地図では、未知の島を南北に長く描く習慣があったらしい(織田武雄『古地図の世界』、同『古地図の博物誌』)。また、ポルトガルのエンリケ航海王子(1394-1460)の時代に、あるポルトガル船がこの島に漂着した、という話があったという。なお、現在のカリブ海の「アンティル諸島」(Antilles)という地名は、この「アンティリア」に由来する。
グラジオーゾ・べニンカザ(Grazioso Benincasa)が1463年に作成したポルトラノ海図の一部。東側(右側)の陸地はポルトガル。中央に点在する島々はアソーレス諸島。西南にアンティリア島、西北に架空のサルアジオ島(Saluagio)が描かれている(カールスレイ『図説 探検の世界史 1 大航海時代』, p. 40)。 |
(*) 語源未詳。ポルトガル語の「アンテ・イリャ」(ante ilha; 「反対側の島」ないし「前方の島」の意)とする説が有力であり、またアラビア語の「アル・ティン」(Al-Tin; 「海竜の島」)とする説などもあるが、いずれも確証を欠く。アトランティス(Atlantis)と同一視する説もあるが、疑わしい。
当時のヨーロッパでは、このアンティリアのほかにも「聖ブレンダン諸島」(*)や「ブラジル島」(**)などの島の実在が信じられており、少なからぬ地図に描かれていた。
(*) ブレンダン(Brendan. 484頃-577頃. ドイツ語ではブランダン Brandan)はアイルランドのカトリック修道僧で聖人。中世ヨーロッパで広く流布した『聖ブレンダン航海記』(Navigatio Sanctii Brendani Abbatus)という書物によれば、彼は大西洋を航海して様々な島にめぐり合い、ついに「聖者の約束の地」にたどりついたという。「聖ブレンダン諸島」はこの伝説に基づくもの。また、彼がたどりついた地は北アメリカ大陸だとする説もある。ただし、ブレンダン自身は実在の人物であるが、この航海が実際に行われたという確証はない。
(**) ハイ・ブラシル(Hy-Brasil)ともいう。ケルト伝説においてアイルランドの西の彼方にあると信じられた島。語源についてはケルト語の「幸福」(breasail)説、また「ブランダン諸島」(Brandani insulae)の転訛説などがある。ところが、マメ科植物のスオウ(蘇芳) Caesalpinia sappan から採れる赤色染料も「ブラジル」(brazil, brasile)と呼ばれていたため、のちにこれとの混同が生じ、ブラジル島はスオウの産地だと思われるようになった。のち、南アメリカ大陸東岸の森林地帯でスオウの近縁種ブラジルボク C. echinata (パウ・ブラジル Pau-Brasil)が発見され、染料としてヨーロッパに輸出されるようになると、「ブラジル」の名はこの地域を指して用いられるようになった。
当時、当然のことながらアメリカ大陸の存在は知られておらず、チン海と大西洋は直接つながっているものと思われていた。そして、これらのまぼろしの島々をつたってアジアへ到達できるのではないか、ということが大真面目に考えられていたのである。