脚がきれいに見えるって、誰の為に脚をきれいに見せなきゃならんのだ。
フラットシューズを履こう。
それの何が問題だ。
敬意の表明を形式化し、人付き合いを円滑にする為の道具だ。
フラットシューズで働けたらいいのに。
それができない理由って何だよ。
マナーって何なんだよ。
爪先立ちの不安定な靴を履けるかって話か?
ヒールを履いた女の方がそそるかって話か?
ふざけんな違うだろ。
痛みを伴う社会常識は守るに値するのか。
互いを敬うマナーを推奨するなら、爪先立ちの靴から労働者を解放する事が筋じゃないのか。
これは我儘なのか。
風呂や剃毛は修行せずとも出来るが、ハイヒールはいきなり履けやしない。
革靴は電車とホームの間にも中々落ちないが、ヒールの踵は側溝に挟まる。
世の中皆がperfumeじゃない。
私に選ぶ権限はなかった。
「履きたくなきゃ履かなきゃいい。
でも履いていないと、履いている人間と比べて不利になる。
だから仕方ない。
皆、履かざるを得ない。
結局、互いを縛るのは互いに過ぎない」
「どうすべきか」の答えはもう少し先だ。
現状は囚人のジレンマ。
AさんとBさんがそれぞれヒールを[履く、履かない]。
履かないBさんの評価が相対的に下がって、社会的に不利になる。
ゆえに[履く、履く]という構図が不利益を防ぐ均衡なわけだが、
実際のところは[履かない、履かない]で公益は最大だ。
我慢するぐらいなら履かない方が良いに決まっている。
じゃあ囚人を解き放つにはどうすればいい。
履かなくても不利にならない状況を作るしかない。
フラットシューズが正装になれば、ヒールと並んだ時に顔をしかめられる事もなくなる。
「履きたくて履いてる人もいる」と別の人は言う。
そりゃそうだ。
履きたきゃ履けばいい。
だが履かなきゃならない理由にはならない。
カレーの辛口は訓練すれば食べられるが、誰もが食べなきゃならない道理はこの世にない。
全員がスカーフを巻かなきゃならないわけでも、サングラスをかけなきゃいけないわけでもない。
履くのが苦痛だという人間の権利も守れたらwin-winだという話だ。
それらが選べるなら靴の種類だって選ばせてほしい。
身だしなみを巡る問題にはそりゃもう色々と感情的な要素が絡んでくる。
だが、これらの意地や怒りは良いものか。
これらに従う事は、少しでも何かを良くするか。
他人の足を引っ張るより、辛い経験を皆で過去に葬った方がいいんじゃないのか。
「なら正装の条件を変えよう」「慣習を逸脱するのは良くない」
堂々巡りの議論はもう沢山だ。慣習が変わればすべて片付く話だろ。