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ココッチィ

おもしろきこともなき世をおもしろく

母の日に向けて。私のたったひとりの母のこと。

母の日

今日は母の日でしたね。私の母の話を聞いてください。

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「明日は髪を洗ってもらえるから、シャンプー買ってきて。あ、看護師さんに手間をかけないようにリンスが一緒になってるやつ」

 

それが、母の最後の言葉でした。60歳でした。

 

わかった、これから買って帰るから。また、明日来るね。そう言って軽く手を振って、病室を出ました。車に乗ってスーパーに寄り、母の好きなフローラルの香りがするシャンプーを手にとって、カゴに入れようとしたとき

 

着信音が聞こえました。

 

 

母が長くお付き合いしている人からでした。きっと私を元気づけるための電話だと思い、あまり心配をかけまいと元気に電話にでました。

 

もしもし~!

 

「あ・・あの・・お母さんの意識が・・・」耳を疑いました。何かの間違いだと思いました。

 

「とにかく、すぐ来て」

 

それから車で病院に向かいましたが、その時の記憶がほとんどありません。

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母は小学校に勤めていました。小さな頃、私と弟は近くの祖母の家に帰っていました。そして母が仕事帰りに迎えにくる。母は家事も仕事も精一杯こなす人でした。夕食にお弁当を買ってきたことは一度もなく、お惣菜が並ぶこともありませんでした。

 

休みの日は掃除を徹底的にやっていました。私とは正反対の色白で、美人ではないけれど、可愛らしい人でした。花柄のエプロンがお気に入りでした。小学生の時、刺繍が好きだった私は、母のエプロンのポケットに刺繍をして渡しました。喜ぶ顔が目に浮かんでわくわくしました。

 

エプロンのポケットをエプロン本体に縫い付けてしまっていて、ポケットの機能を果たさなくなってしまいました。母はそれでも、嬉しそうに笑いました。ありがとう、と。

 

推理小説を読むのが大好きで、枕元にはいつも何冊も積んでありました。子供の頃、弟とふたり、母が絵本を読んでくれるのが楽しみでした。小学生になると、スチール製の本棚を買ってくれました。伝記やひみつシリーズ、色々な本が並んでいました。

 

中学2年生ごろから私は父と折り合いが悪くなりました。父と私の間に入って、いつも母はヤキモキしていました。どんなに父に怒鳴られても、殴られても睨みつけて言い返す私をみて、羨ましいといいました。母は色々な想いを自分の中でもみ消して生きていたのかもしれません。

 

家事と仕事を両立し続けて、子供達も自立して、やっと退職。これからは時間ができるから、好きな事ができると喜んでいた矢先に母は末期がんを宣告されました。

 

 

余命半年

 

 

その事を聞かされたとき、まるで他人ごとのようで、実感が1ミリもなく、それがどんな事なのか、それが母にとってどんなに辛くて苦しいことなのか、あまりに突然で、それでいて淡々と聞かされて、ドラマでも観ているような別の世界で起きているような感覚でした。

 

母が半年後には、いなくなる。母と半年後には話せなくなる。母の声が半年後には聞けなくなる。おかあさん、そう呼んでも誰も返事をしなくなる。そう考えても、私の心には届かず響かない。

 

手術を終え、3日後。久しぶりによく寝たわ、と笑顔で話す母の顔は余命の事が嘘としか思えないほど優しい笑顔でした。その日が命日になりました。

 

病院に入ると、先生が懸命に蘇生しているのが見えました。その様子をぼんやり見ながら、もういいよ。逝っていいよと心の中で繰り返しました。もっと話したい事も沢山あるし、もっと一緒に行きたい所もありました。何より父と折り合いが悪いままの私にとって、親は母だけです。

 

大人になれば、例え兄弟であっても、してもらえば何かお返しをする。そういう気遣いをするものです。友達なら、なおのこと。けれど母という存在は、与えたからといって、何か返せと考えてもいない、何があっても信じてくれる、全世界の人が敵になっても味方でいてくれる。旦那やパートナーは替えがきくけど、母に替わる人はいない。

 

それでも、私は母に言いました。もう、私の事は心配しなくていいよ。だから、逝っていいよ、と。母がこの世に戻るという事は、死と背中合わせに恐怖を抱えて生きるということです。それが母にとって幸せだと思えなかったのです。

 

2時間後、母はゆっくりと天に昇っていきました。宣告されて2か月後でした。

 

 

母にありがとうも、ごめんなさいも、ちゃんと言えないまま、お別れの日がきました。でも、きっとまた会える。私はそう信じています。

 

 

最後まで、お付き合いくださりありがとうございました。