アーサー・エカーチ、アメリカ軍国主義について

Ralph Raico, Classical Liberalism and the Austrian School.

一七八三年、大ブリテン島とこれに謀反する北アメリカ東海岸植民地の交戦を終結する条約がパリで調印された。彼らとしては、「ブリテンの陛下は、いわゆる合衆国、すなわちニューハンプシャー、マサチューセッツ・ベイ、ロードアイランド及びプロビデンスの諸プランテーション……」――ここに残りの十三の植民地が続く――「を、自由な主権を有する独立国家であると承認する」と宣言し、イギリス国王は「それと同じところ及びそこのすべての部分」に対するすべての権利を放棄することになった。

驚くべきことに、職人と、商人と、概ね農民の集まりが、ヨーロッパの一大軍事機械を、かの最大の帝国を公然と無視し、これに勝利したのである。それは自由と共和制政府を愛する者を喜ばせた大勝利であった。

今では、この決定的に並外れている合衆国が、それ自体をして世界最大の軍事機械であり、他に例を見ない帝国権力である。なんだってこんなことが起こったんだ? アーサー・エカーチは『文民と軍人』で、この驚愕的な変貌を少なくとも(彼の序文含め)一九七二年に遡る。

マレー・ロスバードは、エカーチの作品を「素晴らしい」と称し、これを「二十世紀の三つの大戦すべてに関する修正主義的な考え方の見本」と褒め称える。ロバート・ヒッグズは、彼の独立研究所のエカーチ『アメリカ自由主義の衰退』新版の序文で、アーサー・エカーチの生涯と学会での非常に生産的な経歴を要約した。彼はエカーチが第二次世界大戦で良心的兵役拒否者に登録したにもかかわらず木こりとして、そして後に学校で精神遅滞者のための無償労働を宣告されるという、この威勢のいい学者にアメリカ国家を慕わせなかったところの経験を書き留めた。

軍国主義とは市民社会への軍事的な制度と影響力と価値観の浸透と定義されることができる。英米の明示的な反軍国主義の文化継承は、十七世紀イギリスで、特にレヴェラーズの形成と常備軍への抵抗に始まった。

この伝統はアメリカ合衆国になったところでのイギリス系定住者の間でも続いていた。それはアメリカ革命の指導者の態度のうちに明白である。たとえばジェームズ・マディソンが述べるには、

公共の自由にとってのあらゆる敵のうち、おそらく、戦争が最も恐るべきものである。なぜならばこれが他のすべての病原菌を含み、これを発達させるからだ。戦争は軍の親であって、ここから負債と課税が生じるのであり、軍と負債と税は少数派の支配の下に多数派を置くための装置として知られている。

反軍国主義と外交政策での不干渉主義――そのずる賢い政敵が「孤立主義」とレッテル張りしおおせたもの――の結合は反乱植民地の間で頻りに示されてきた。エカーチは「[未]」と指摘する。急進的共和主義的な立場はジェファーソンによって大胆に述べられた。いわく、「私は全民族の自由通商と政治的無接続に賛成し、外交機関のほとんどまたはまったくの欠如に賛成する」。

しかしジェファーソンと特にマディソンは大統領に在任期に不干渉主義と反戦主義の立場を覆した。彼らの党の戦争タカ派はカナダの獲得を望みながらイギリスとの衝突を求めて喚き散らした。これは不可能だと判明したけれども、マディソンの一八一二年戦争は成功だったと考えられる。戦争ヒーローの通俗的お世辞と六月四日の軍事パレードの誇示に示されるとおり、戦争の精神が目を覚ました。

メキシコとの戦争が近づくにつれて、ダニエル・ウェブスターはジョームズ・ポーク大統領を批判した。彼の言葉はサムター要塞の手配以降の、アメリカの将来の戦争への鍵となるものであった。「もしも大統領が彼自身の権威でそのような軍事運動を、戦争を引き起こすべきものにしてもよいのであれば、〔議会に唯一の宣戦権力を与えるという〕この憲法条項の価値は何だ?」しかしながらメキシコに対する快勝は軍事精神を一層活気付けた。

もしもジェファーソン派がその原理を捨てたかどで非難されてよいならば、一九世紀と二十世紀前半の世に知られた反国家主義者の幾人かについて、我々は何を言うべきであろうか? ヘンリー・デイヴィッド・ソーローはその良心がアメリカの対メキシコ戦争に反乱したが、彼は奴隷制度州に対する「正戦」の熱狂者になった。彼はジョン・ブラウンを崇め、内戦開始に役立ったと「信用される」運動、南部の奴隷数百万人のうちに反乱を起こそうと試みた彼を指して、十字架のキリストと称した。この恐ろしい殺戮は約六十二万人の命を犠牲にした。

有名な古典的自由主義者にして自由貿易家であるチャールズ・サムナーは、一八四五年の作品『国民の真の威厳』に「我々の時代において、名誉にならなような平和がありうるのか? 不名誉にならないような戦争がありうるのか?」と記した。しかし彼もまた南部への攻撃に名誉を感じ取った。

後に、個人アナキストのベンジャミン・タッカーは協商国の対ドイツ戦争のチアリーダーになった。彼としては、アナキストのピョートル・クロポトキンが一九一四年、中央権力たるドイツとオーストリア・ハンガリーへの戦争をロシアに急き立てていたところだった。哀れなクロポトキンは、それまで経験されてきたいずれの政権よりボルシェビキの暴君の方がなお悪いと判明して当惑した。その戦争はそれ自体で数百万人の命を犠牲にし、当時のヨーロッパ史で最悪の大量殺戮となった。

要点は、これらの個人主義者はフレデリック・バスティアやハーバート・スペンサーではなかったということだ。「戦」の牽引力に抵抗できなかったのである。エカーチが「断固たる立場をとった」と称した数少ない人物の一人であるランドルフ・バーンの「戦争は国家の健康である」という洞察を、誰も理解していなかった。

アメリカ合衆国は内戦期において、「軍事独裁制に相当するものの下に置かれた」。リンカーンは人身保護令状を停止し、彼の政治に批判的な新聞を弾圧し、数千人を政治犯として逮捕した。徴兵制は特にニューヨーク市で徴兵暴動に至ったが、軍国主義的な先例が定まってしまった。

組合の退役軍人は共和国グランド・アーミーを結成し、年金を要求しながら政府職を選り好んでいる。このアーミーはプレーンズインディアンズ皆殺しキャンペーンにおいて西部鉄道王の納税者出資の後援によって彼らの仕事を正当化し続けていた。軍事的な訓練と「教育」が学校と大学で増殖した。一八八〇年代と九〇年代には、アメリカの産業、わけても鉄鋼業が彼ら自身の既得権益を推し進めるために、海軍主義が急騰した。専ら国土海防のみという――共和国と同じだけ古い――海軍の伝統は放棄された。

新軍国主義に対しては批判者がおり、彼らの中でも『ネーション』のE・L・ゴッドキン、それとウィリアム・グラハム・サムナーが傑出していて、サムナーの『スペインの合衆国征服』(1898)というフィリピン戦争反対エッセーはそれ以降反帝国主義者を奮起させてきた。

しかし彼らは、アルフレッド・セイヤー・マハン、ヘンリー・カボット・ロッジ、セオドア・ルーズベルトの強力な陰謀団に勝ることはできなかった。彼らは帝国への道のターニング・ポイントに相当した。

マハンは大した海軍士官ではなかった(彼の船は衝突しがちだった)が、彼は見事な海軍至上主義のプロパガンダ屋であった。彼の作品『海上権力史論』はドイツと日本とフランスおよびその他の海軍主義者が飛びつくところとなった。これが第一次世界大戦に繋がる軍拡をたきつけたのであり、これは人類にとって大いなる恵みではなかった。

上院ではロッジがフィリピン乗っ取りの対スペイン戦争を、後に対ドイツ戦争を押し進めており、戦後には近い将来までドイツを抑えつける報復的な平和条約を急き立てていた。ロッジは終始、アメリカの新帝国に要求されて、何にも劣らないような海軍を求めて迫っていた。大企業に出資された海軍協会がこの大義を助けていた。

果てしなく再生されるラシュモア山の偶像的記念碑の上で、トーマス・ジェファーソンの真横において、セオドア・ルーズベルトが何をしているのかは神のみぞ知る。彼はジェファーソンを弱虫と蔑んだし、ジェファーソンは彼を戦争屋と蔑んだことだろう。偉大なるチャールズ・バードはルーズベルトについて事実のとおりに、彼はおそらく「戦争それ自体が良いものだと考えた」アメリカ史で唯一の主要人物と記した。

かかる陰謀団にはルーズベルトの下で陸軍長官と後に国務長官となるエリフ・ルートが含まれ、彼は「国の若者に軍事精神を創造」を提唱した。

フィリピン獲得はアメリカ合衆国を極東の、特に日本を含む、帝国主義の闘技場に放り込んだ。反戦派の議員は大海上交通海軍の進撃と軍需産業の結託を暴露したが、そのかいはなかった。

エカーチはおそらくウッドロー・ウィルソンに対してあまりにも甘すぎた。ルシタニア号沈没に続くウィルソンのドイツへの抗議文は、ドイツはUボートからの海上でのアメリカ人の死亡に、たとえそれが戦場で軍用品を運ぶ武装イギリス商船での旅行の最中であれ「厳格責任」を負うだろうという合衆国の立場を繰り返したものであって、これはアメリカ合衆国を戦争での衝突の道に置いた。

ここでウォルター・カープの『戦争の政治』はもっと信頼可能な説明を提示している。戦争期間に、スパイ活動法と治安法は意義を抑えつけるために使われていた。クリール広報委員会はそれまでに先例のない範囲へと戦争をプロパガンダした。マスメディアは我々自身の日まで標準となっているようなやり方で、悪魔に準えられた敵に対して世論を刺激した。

歴史修正主義はボルシェビキがロシアのアーカイブを解錠したことに押されて列強のアーカイブが解放されたとき隆盛を迎えた。ヨーロッパ列強とアメリカ合衆国が戦争に参加した陰謀についての真の報告は一九一八年以降の反戦感情の短い繁栄に繋がった。

一九三三年、フランクリン・ルーズベルトは大統領として宣誓を行った。このにこやかな詐欺マスターは海軍拡張の狂信者だっただけでなく、また世界秩序の再編という壮大な計画を胸に秘めてもいた。一九三〇年代ヨーロッパと極東の地政学的状況はルーズベルトにあまりある外国干渉の機会を与えた。一九四〇年には以前の反対党派が、ルーズベルトと同じぐらい干渉主義者であったウェンデル・ウィルキーを大統領候補に指名した。八十万人のメンバーを誇った史上最大の反戦運動、アメリカ・ファースト委員会は、パール・ハーバーで、ルーズベルトが必要とし欲望した戦争を手にしたとき、すぐに潰れたのだった。第二次世界大戦で、アメリカは全身全霊の軍国主義を受け入れた。これが省みられたことはない。

市民的自由に対する最悪の違反は日系アメリカ市民約八万人と(外国生まれのため市民権を得る資格がない)米国居住日本人約四万人の一斉検挙と投獄であった。正戦の中でも最も正当なるこの正戦で生み出されたヒステリーを象徴するように、アメリカ最高裁判所は彼らの監禁を支持した。有名な自由主義者のヒューゴ・ブラック、フェリックス・フランクフルター、ウィリアム・ダグラスは、多数派に合流した。カリフォルニア州知事にして連邦最高裁長官たるアール・ウォーレンは情熱的な主唱者であった。

戦争の結果、ワシントンが醸し出す「永遠の危機と戦争ヒステリーの雰囲気」は和らぐところを知らない。ハリー・トルーマンは、エカーチがいみじくも「冷戦の侵略的アメリカ外交政策」と称するものを開始した。非常に多くの縺れ合った同盟関係が形成され、既存の国際秩序に挑戦する者から、この同盟を国民に防衛させている。世界征服を企む新たな敵がソビエト連合とコミンテルンの形で思い起こされた。この紛争は二つの「熱戦」を含み、莫大な継続的軍事予算を伴い、いまや核兵器も入っている。それは四十年以上続き、市民社会に数兆ドルを払わせた。

アーサー・エカーチが正確に予見したとおり、冷戦の平和的な解決でさえ「アメリカ人民をペンタゴンとその企業同盟の権力から解放するには十分」ではなかった。軍隊の侵略が、ユーゴスラビア、フィリピン、ソマリア、および他のところで発生している。

今ではアメリカ合衆国はイラクとアフガニスタンとパキスタンとイエメンの戦争に関わり、おそらくもうすぐイラク戦争に携わる。

今日のところ、徴兵制度はない。徴兵制がベトナムの月日に軍国主義者の身に引き起こした問題はあまりにも多すぎる。しかし米帝は海外に七百を超える軍事基地を有しており、加えて大洋をパトロールする数ダースの海軍タスクフォースを擁しており、かかる部隊に情報を与える多数の人工衛星を有している。毎年、その「防衛」(すなわち、「軍事」)予算は他の全国家のそれを組み合わせた額にほぼ等しい。アメリカはその沖合に、他所より多くの戦争が、はるかに多くの戦争があることを、いったい誰が疑うのやら。

偉大な社会科学者のヨーゼフ・シュンペーターが帝国主義的国家の軍事について記したとおり、

Created by the wars that required it, the machine now created the wars it required.

機械を要する戦争で創造されたそれがいまや機械に要せられた戦争を創造していた