私有財産と家族の起源について

ハンス=ヘルマン・ホッペ著

舞台:歴史

人類史が始まるのを五百万年前(五,〇〇〇,〇〇〇年前)からにすること、すなわち、人間の進化的な先祖の系統が、非人間的な最近縁種たるチンパンジーから分離したときにすることは理に適っている。もしくは、二百五十万年前(二,五〇〇,〇〇〇年前)の、ホモ・ハビリスが最初に出現したときや、二十万年前(二〇〇,〇〇〇年前)に、「解剖的現生人類」最初の代表者が登場したとき、または十万年前の、解剖的現生人類が人類の標準的な形態になったときから始めるのも理に適う。そうではなく、私はほんの五万年前(五〇,〇〇〇年前)から、「解剖学的現生人類」が「行動的現生人類」に進化したときから始めたい。これもまたきわめて理に適った開始点である。[1]

「行動的現生人類」は狩猟者・採取者の存在に言及しており、彼らは今日でさえ幾つかの小さな地域に残っている。考古学的な証拠によれば、十万年前に生きていた人類はどうやらまだ概ね狩猟には不向きであったらしい。彼らは確かに大型で危険な動物を獲ることができなかったし、明らかに釣りの仕方を知らなかった。彼らの道具はほとんど専ら石と木で作られていたし、地方原産の材料で作られていたので、これはなんら長距離の移動や交易がなかったことを示している。はっきりと対照的にも、約五万年後から、人間の道具一式は新しく、大いに発達した外観を呈していた。原材料に石と木以外のものが用いられるようになり、骨、枝角、象牙、貝殻が頻りに遠くからやってくるようになった。ナイフ、針、尖頭器、ピン、錐、刃物を含む道具は、もっと複雑で技巧的に作られるようになった。(弓が発明されたのはほんの二万年前であるにせよ、)ミサイル技術、あるいは投擲技術は大いに改善されており、高度に発達した狩猟の技能が示されている。同様に、人は魚の釣り方を知っており、明らかに船を作ることができていた。そのうえ、飾り気ない機能的な道具のかたわらで、装飾品、小立像、鳥の骨製フルートなどの楽器のような、見たところ純粋に芸術的な用具が舞台に現れたのもこのときである。

この重大な発展を可能にしたものは、言語に発生に通ずるところの遺伝子の変化であると仮定されており、これが人の学習し革新する能力の抜本的な改善を伴っていた。旧人類――ホモ・エルガステル、ホモ・ネアンデルターレンシス、ホモ・エレクトゥス――は言語を操らなかった。確かに、彼らが多くの高等動物のようにいわゆる言語の低級機能、すなわち表現的または症候的な機能と、引き金または合図の機能を使っていたということは、安全に推測されることができる。[2]しかしながら、彼らはどうやら、言語の二つの高級な認知機能、すなわち記述的機能と、とりわけ論議的機能を遂行することができなかったらしい。「これ(主語)は『A』(述語)である」と、真理であることを主張するような、単純な記述的言明(命題)を形成し、とりわけ「これは『A』であり、すべての『A』は『B』であるから、これは『B』である」と、妥当であることを主張するような議論(命題の連鎖)を提示するという、人間に特有な――我々の存在から離れてこれらのことを考えることは内的な矛盾に陥らずにはできないほど、かくも人間に特有な――能力は、どうやらほんの五万年前に発生したようである。[3]

言語がなかったら、人間的な協調は、人間が本当に少ししかもっていない本能を通してか、もしくは物理的な指揮や操作によって起こらなければならなかったし、学習は模倣を通してか、または内的(暗黙的)な推論によって行われなければならなかった。はっきりと対照的にも、言語――一定の客体と概念(特徴)を連想し、これと論理的に結合した音、つまり言葉を伴うもの――があれば、協調は単なるシンボルで達成されることができるだろうし、かくて学習は感覚的印象(観察)とは独立になり、推論は外的(明示的)に行われることができ、ゆえに間主観的に再生産可能かつ支配可能になるだろう。すなわち、言語を用いれば、(もはや知覚とは結合しなくなった)知識が、離れた空間と時間に伝達されることができるし、人は時間と空間で遠く離れていても事柄(獲得され蓄積された知識)について伝達することができる。そして我々の推理の過程ゆえに、我々を一定の推論と結論に導く思考の連鎖は、時間と空間を通して容易に移転されるのみならず同時に公的に批判され、改善され、矯正されることができるような、外的に「客観化」された、間主観的に確証可能な議論になる。そしたら、言語の発生と一緒になって、技術の革命的な変化が生じたことは不思議ではない。

約十万年前、我々の直近の先祖たる「現生人類」の人口規模は、約五万人であったと見積もられており、アフリカ大陸を越えて、今日のイスラエルの地域たる中東へと北方に分布していた。[4]約八万年前から七万年前までに、地球は重大な寒冷期を経験した。結果としてネアンデルタール人は、ヨーロッパで暮らしており、数千年の間に寒冷気候に適応していたが、南方に移住することになり、ここで彼らは自分たちの近縁種のアフリカ人と衝突し、どうやらその大部分を駆逐したらしい。くわえて、約六万年前に始まった長い乾燥期が「現人類」からその生存の基盤の多くを奪ったので、約五万年前、「現生人類」は五千人を越えていなかったかもしれず、北アフリカに閉じこもっていた。[5]

しかしながらそれ以来、現生人類の台頭は途切れることなく、全世界中に広まり、最終的には旧人の近縁種すべてに取って代わった。ジブラルタル近くの洞穴に篭っていた最後のネアンデルタール人は、約二万五千年前に絶滅したと信じられている。ホモ・エレクトゥスの残存者はインドネシアのフローレス島で発見されており、一万三千年ほど遡られる。

「現生人類」はノマド的な狩猟採取の生活様式を送っていた。諸社会は十人から三十人の小さな一団構成されており、これらが時々出会っては、約百五十人の、そして最高で五百人(遺伝学者によって劣性効果を避けるために必要だと発見された規模[6])になったかもしれないような、共通遺伝子プールを形成していた。分業は限定されており、女性――概ね採取者として行為する人々――と男性――概ね狩猟者として行為する人々――の間で主な分担を行っていた。道具と用具の私有財産は知られており認識されていたけれども、ノマド的な生活様式はわずかな所持しか許さず、ゆえに狩猟採取社会は比較的に平等主義的であった。[7]にもかかわらず、生活は最初のうちは我々の先祖にとっては良いものであったようだ。[8]ほんの数時間の定職で、良い(高タンパクな)栄養とたっぷりの余暇を伴った快適な生活を送れていた。実際、化石の発掘(骨格と歯)は我々の狩猟者・採取者の先祖が優に三十歳以上の平均寿命を享受していたと示しているようであり、これは十九世紀にようやく再び達せられたものだった。[9]ホッブスの意見に反して、彼らの生活は決して不潔でも、残忍でも、短命でもなかったのである。[10]

しかしながら、狩猟者と採取者の生活は根本的にして究極的には回答不可能な大問題に直面した。狩猟採取社会は本質的に寄生的な生き方をしていた。すなわち彼らは、自然所与の、つまり天与の財の供給に、何も加えなかったのである。彼らは(わずかな道具の他には)生産せず、消費しかしなかった。彼らは何も育てず飼わず、自然が再生し補給するのを待っていなければなかった。彼らが成し遂げたことはせいぜい、自然の再生過程が歪曲されず、ましてや完全停止など起こさないように、過剰狩猟や過剰採取をしないことであった。いずれにせよ、この形態の寄生主義が明白に伴っているのは、不可避的な人口増加の問題であった。上述の快適な生活が許されるためには、人口密度がきわめて低いままに保たれなければならなかった。一人か二人の人物を快適に持続するためには、一平方マイル、あるいは一.六平方メートルの領土が必要とされたし、それより不毛な地域ではもっと広大な領土が必要とされたと見積もられている。[11]それでは、人口規模がこの幾分狭い制限を越えたときにすべきことは何か?

もちろん、人々はそのような人口圧力が生じるのを防ぐよう努めることができただろうし、実際に狩猟採取社会はこの件で彼らの最善を尽くしていた。彼らは堕胎したし、嬰児殺、わけても女児殺に従事したし、長期の哺乳に従事することで妊婦の人数を減らした(これは恒常的に移動し運動する女性に特徴的な低い体脂肪と組み合わさって女性の妊娠率を減らした)。これは問題を緩和したけれども、これを解決しなかった。人口は増加し続けた。

人口規模は固定的な水準では維持できないことを鑑みれば、着実に発生する「過剰」人口にはただ三つの代替案しかない。人は、有限の食糧供給をめぐって闘争するか、移住するか、もしくは、もっと大なる人口規模に同一の所与の領土上で生存することを許す、新しい、技術的に先進的な社会組織の様式を発明し、採用することができるだろう。

第一の選択肢、つまり闘争に関しては、わずかな所見で十分だろう。文献の上では、原始人は平和的であり自然と調和して生きていると頻りに記述されてきた。この点で最も通俗的なのはルソーの「高貴な野蛮人」の描写である。侵害と戦争は私有財産制度の上に築かれた文明の結果であると頻りに考えられてきた。実際には、事情はほぼまさしく正反対である。[12]ああそうだ、現代戦争の残酷さは未曾有の大量虐殺を生み出している。たとえば第一次世界大戦と第二次世界大戦の両方は数千万人の死者に結果し、諸国全土を荒廃させた。さりとて人類学的な証拠は原始人が当代人よりそれまで相当に好戦的であったことを申し分なく明白にしてきた。平均して原始の全男性の約三十パーセントが不自然な――暴力的な――原因で亡くなったと見積もられており、この点で、現代社会で経験される何かをはるかに越えている。[13]ローレンス・キーリーの見積もりによれば、部族社会は平均すると毎年その人口の約〇.五パーセントを戦闘で失っている。[14]これは二十世紀の人口に適用すると、実際の「ほんの」数億人ではなく、二十億人もの死傷率に相当する。もちろん原始の戦争は現代の戦争とは非常に違っている。それは戦場の常備軍ではなく、抜き打ち、待ち伏せ、騙まし討ちで行われていた。しかしながらあらゆる攻撃がこの上ない残忍さに特徴付けられており、慈悲はなく、つねに致命的な結果に至っていたし、相互の攻撃で殺害された人々の数は少なかったけれども、これらの絶え間ない侵害的な遭遇戦の本性がすべての男にとって暴力的な死を(そしてすべての女にとって拉致と強姦を)常のものにしていた。[15]そのうえ近年では人食い風俗の普及に関する増加中の証拠が蓄積されてきている。実はカニバリズムはかつてほぼ普遍的な風俗であったらしい。[16]

もっと重要なことに、原始人の好戦性に関するこれらの発見は単なる人類学的な好奇ではない、すなわち、狩猟採取社会の真の本性にとっては付随的であると考えられてもいいような特色ではない。対照的にも、周囲の土地がすべて占領されているせいで互いに逃れられる可能性が前もって封じられている場合は特に、なぜそのような社会が絶え間ない戦争に特徴付けられて平和的な関係が達成されることがほぼ不可能であったのかについて、根本的で理論的な理由が存在する。その理由は、異なる狩猟採取部族のメンバーが、植物と動物を狙った多様な探索に際して、多かれ少なかれ定期的に互いに遭遇することが不可避になるからである。実際、人口規模が増加してゆくにつれて、そのような遭遇はかつてよりさらに頻繁になっていった。そして狩猟者と採取者は天与の財の供給に何も加えずただ自然に提供されたものを消費していただけなので、食料をめぐる彼らの競争には必然的に敵対的な本性があった。私が実を摘み獣を狩るか、それともあなたかそうするか、どちらかなのだ。或る部族のメンバーは他の部族のメンバーと本質的に同一の活動に従事していたし、誰一人として他人の余剰財と交換できるような財の余剰を蓄積していなかったから、異なる部族のメンバー間には、交易も交換もほとんど、あるいはまったくなかった。根絶不可能な紛争しか存在しなかったし、紛争が多いほど、各部族の人口はその最適規模を上回った。この状況においては、あらゆるものが或る人物(または部族)に専有されたところは即座に消費され、財の総供給は自然の力によって厳格に制限され、人々の間にはただ致命的な敵対だけが存在できたのだった。ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスの言葉では、人々は「互いに致命的な敵、自然に提供された生存手段の稀少な供給の分け前を確保する努力における和解不可能なかたき」となって、「各人は互いをみな彼の敵対者とみなすことを強いられていただろうし、彼自身の食欲の満足への渇望は彼をその隣人全員との執拗な紛争に追いやっただろう。このような状況の下ではどんな共感が発達することも可能ではなかっただろう」。[17]彼の敵対相手の死だけが彼自身の生存欲求に解決を与えた。実際、他人の命の存在を惜しまないことは、かかる他人に対してさらに多くの子孫を生み出すための備えを残してしまい、ゆえに彼自身の将来の更なる生存の見込みを減らしてしまうのであった。[18]

着実に再発生中の過剰人口問題を処理するための、第二の可能な選択肢は移住であった。移住は決して無費用ではなかった――とりわけ、慣れ親しんだ領土から親しみのない領土へと離れなければならない――が、特にオープン・フロンティアが存在したかぎり、(闘争と比べれば)しばしば低費用な選択肢と思われたに違いない。それゆえ、彼らの故郷の東アフリカから出発して、それまで人間には占領されていなかった領域に新しい社会を形成すべく同属と袂を分かった人々の群れが、次第に地球全土を征服していった。

この過程も約五万年前、行動的現生人類の発生と造船能力の獲得の直後に始まったらしい。このころから約一万二千年乃至一万一千年前まで、地球の気温は次第に下がってゆき、それに応じて海面も下がっていった(それ以降、我々は間氷温暖期にある)。[19]人々は、当時は島が点在する単なる狭い水隙だったバブ・エル・マンデブ海峡の紅海を、(当時は比較的雨季を享受していた)アラビア半島の南部の岬に渡っていった。そこから先へは、人が適応してきた熱帯気候地帯に留まることを好みつつも、(おそらく多くても百五十人の)移民は東進を続けた。人が馬の手懐け方を学ぶ約六千年前までは船の輸送形態が足での旅より早くて便利であったから、旅は概ね船で行われた。それゆえ、移動は海岸線に沿い――そこから河谷を通って内陸へ進み――、まずははるばるインドに向かって起こった。遺伝学的な証拠が示しているとおり、人口移動はそこから二つの方向に分裂したようだ。一方はインド半島を巡って東南アジアと(当時はアジア本土に接続していた)インドネシアへ進んでおり、最終的には、当時は短い距離の島を横断できるような島々が点在する広い海峡でアジア大陸と六十マイルしか分離していなかった(そしてオーストラリアとニューギアナとタスマニアからなる約八千年前まで接続していた)サフル大陸に至り、また同様にして海岸沿いに中国へ、そして最終的に日本へと北進していった。他方の移動過程はインドから北西に向かい、アフガニスタンとイランとトルコを通って、究極的にはヨーロッパへ及んだ。またこの移動の流れから分かれつつ、人々は南シベリアの方向へと北東に押しかけていった。後者の移動は三度の波があったようであり、第一波は約一万四千~一万二千年前にシベリアからベーリング海峡――当時(から約一万一千年前まで)は地峡だった――を通ってアメリカ大陸へ行き着き、ほんの千年後にパタゴニアに達していたらしい(南チリでの人類残存に関する考古学的な発見は一万二千五百年前まで遡っている)。最後の移動ルートは五千年前に占領された台湾から出発し、太平洋からポリネシア諸島に渡り、最終的にはほんの約八百年前にニュージーランドへ行き着いた。[20]

この過程は本質的にはつねに同じであった。或る集団が領土に押し寄る、人口圧力が上がる、幾人かの人々がその場に留まる、下位集団がさらに移住する、そうして代々海辺に沿いつつ川辺と獲物を追い、砂漠と高山を避けていた。アフリカからはるかオーストラリアまでの移動には約四千年から五千年かかっており、かたやヨーロッパまでの移動には七千年がかかり(現生人類に帰せられる最古の人工物はブルガリアで見つかり、約四万三千年前に遡る)、西スペイン到着にはさらに約七千年かかっている。[21]いったんばらばらになったら事実上、多様な狩猟採取社会間にはどんな遭遇も存在しなかった。したがって、最初のうちは直接親戚関係を通して互いに密接な血縁関係があったにせよ、これらの社会は別々の遺伝子プールを形成し、異なる自然環境に直面することで、自然淘汰と相互作用する突然変異と遺伝的浮動の結果、時の経るうちに、彼らははっきりと異なる外観を呈するようになった。多様な社会の遺伝的な違いは、概して言えば諸社会の空間的な距離と彼らの分離期間の持続に相関して増加した。[22]異なるエスニシティーが発生し、後に、はっきりと異なる人種も発生した。これらの新生の、遺伝子に基づいた相違は、肌の色と、肉体的な体格と強度、冷機と多様な病気への抵抗、一定の物質への耐性のような事柄に関わっていた。しかしながら、これらは認知的な事柄にも関わっていた。かくて、人間の脳の大きさと認知的な力に関する二つの重大な発達について、遺伝学的な証拠が存在する。そのような発達の一方は約三万七千年前に発生して、ヨーロッパと東アジアの人口のほとんどに影響した(しかしアフリカにはほとんど痕跡が残っていない)。もう一方は約六千年前に発生して中東とヨーロッパのほとんどの人民に影響した(しかし東アジアにはそれほど、そしてサブサハラにはまったく影響しなかった)。[23]

そのうえ人間の地理的かつ相関的な遺伝的分化と一緒になって、言語的な分化が進行した。幾人かの言語学者、わけてもメリット・ルーレン[24]は、遺伝的(生物学的)な証拠に支持されて、非常に多くの同意をもちつつ、ジョゼフ・グリーンバーグの先駆的な作品の足跡を追いながら、すべての人間語を多かれ少なかれ遠い親類として派生することができる単一の人類祖語に賛成するもっともらしい主張を立ててきた。約五万年前にアフリカの故郷から最初に出国した移民は明らかに同一言語を話していただろうし、そしたら、上述の人口移動と、多かれ少なかれ時間と空間で互いに分離した相異なる遺伝子プールへの集団の分裂は、言語の文化と、異言語の言語族への集団化と、言語族のさらに広い大語族への集団化が密接に反映されているはずなのは、到底驚くに値しないように思われる。[25]同様に、言語の拡散過程は予想可能な様式に従ってきたようだ。第一に、狩猟者・採取者として世界中で人間が増加したことと、これに付随して、別個の分離した遺伝子プールの拡散に伴い異なる言語の数が次々と増加したことが知られている。かくてたとえば現在でも話されている六千の異なる言語のうち、約千二百言語は世界に残る最も「原始的」な地域の一つたるニューギニアで話されており、それらの半分は多くても「マジック」ナンバーの五百人しか話者がいないし、それらのいずれも十万人を超えない。しかしながら約一万千年前に人間の定住が開始し始めて、それ以降、農業への変遷とこれに随伴する分業の(時が経るほどいや増す)拡張と増大が始まったとき、相殺どころか反対すらしているような傾向が生まれたようだ。というのは、遺伝子プールが拡大していったと思われるちょうどそのときに、話されていた異なる言語の数が次々と低減していったのである。

問題:理論

約三万五千年前、すなわち最初のアフリカ出国から一万五千年後、ヨーロッパとアジアとオーストラリア、それともちろんアフリカの事実上全域が我々の先祖たる現生人類に占領され、旧人類たるホモ・ネアンデルターレンシスとホモ・エレクトゥスは絶滅に瀕していた。約一万二千年前に、人間はアメリカ全土にも広まった。ポリネシア諸島を別とすれば、すべての土地と、すべての地上(経済)財の天与供給、つまり動植物が、人間の所持品になった。そして狩猟者・採取者な寄生的な生活様式を鑑みれば、人間はこの土地と天与の財供給に何も加えず、単に自然変化に反応していたにすぎなかった。

これらの変化は時に非常に劇的であった。たとえば地球の気候の変化はどれほど多くの可住な土地が、ひいては自然植生と動物集団が利用可能であったかについて、有意に影響できただろうし、影響したのであった。考慮中の三万五千年前から一万千年前までの二万年超の期間には、そのような自然条件の劇的な変化が生じていた。たとえば二万年前の最終氷期最盛期として知られている期間は気温が急落し、北ヨーロッパとシベリアのほとんどが住めなくなってしまった。ブリテン島とスカンジナビア全土が氷河で覆われ、シベリアのほとんどは、はるか南の地中海と黒海、カスピ海にまで広がる極地砂漠とステップツンドラに様変わりした。その五千年後の約一万五千年前に、かかる氷河は退き始め、人々と動植物に以前見放された土地を再占領させた。しかしながら二千五百年後には、気温はほんの十年だけ、再び以前の凍てつく条件へと急落し、そしてわずか千年後の約一万千五百年後、再びまったく突然に、気温は長期持続的な増加を経験し、地球は最新のいまだ続いている間氷河温暖期、いわゆる完新世に突入した。[26](サハラは三千年前より後から現在のきわめて高温な砂漠に変わり始めた。ローマ時代より前には、サハラ――同様にして中央アジアの砂漠地帯――はまだ有り余る野生生物を供給する緑豊かなサバンナであった。たとえばカルタゴの権力と魅力は概ねその後背地の小麦生産の中心地としての肥沃さに基づいており、この事実こそローマがカルタゴ破壊と北アフリカ領土支配獲得を願望する重要な理由であった。[27]

いずれにせよ、いかなる複雑な詳細にも、疑いなく将来の経験的研究が前述の歴史物語にもたらす変化にもかかわらず、人間の欲望を満たす役に立つランドマスは或る時点でもはや拡大できなくなった。経済学的な専門用語で言えば、生産要素「土地」の供給が固定的になり、人口規模の増加は土地の同一で変化なき量によって扶養されなければならなくなった。増加中の人口圧力に対しての先の三つの可能な選択肢、移動するか、闘争するか、発明するかのうち、後の二つだけが残された。この変化に直面したら何をすべきか?

問題を一層緩和するためには、まず狩猟採取社会内の明らかにかなり限られた範囲の分業にもう一つもっと詳細な注意を払うことが役に立つ。

ここまで、所与の一団や一族での協力――平和的協業――が存在することは当然視されたうえで、異なる一団や一族のメンバー間の敵対が説明された。しかしそうであるはずなのはなぜだ。集団内協業はほぼ普遍的に当然のことと決め付けられている。それでもやはり、この有限な協業の程度さえないような世界は確かに思い浮かべられるのだから、これにも説明が要求される。確かに、幾つかの形の人間的協業には生物学的な基礎が存在する。「男女相互の性的魅力は人間の動物的な本性に生得であり、どんな思考と理論化からも独立している。これは本来的、自律的、本能的、または神秘的と称することが許される」とミーゼスは記す。[28]母子関係にも同じことが言える。もしも母親が長期間にわたる子孫の世話をしなかったら、子供たちは直ちに死ぬだろうし、人類は破滅の定めにあるだろう。しかしながらこの必然的な、生物学的に決定された協業の程度は実際に狩猟採取社会で観察されるものとは大違いである。かくてミーゼスが続けるには、

同棲も、これに先行するものや後続するものも、社会的協調や社会的生活様式を生み出さない。動物もまた交尾に際して結びつくが、社会的関係を発達させはしなかった。家族生活は単なる性的交渉の産物ではない。家族が一緒に暮らすように親と子が一緒に暮らすことは決して自然的かつ必然的ではない。交尾関係が家族組織に結果する必要はない。人間の家族とは、思考、計画、行為の結果である。この事実こそは我々が比喩的に動物家族と称する動物集団と家族をラディカルに区別するのである。[29]

たとえば、各男女はなぜ幼少期を終えた後、孤立して狩猟なり採取なりを行っていたわけではなかったし、行きずりの性交のためだけに出会ったわけではなかったのだろうか? なぜ人間集団に生じたと記述されたことが、すでに個人の水準では生じていなかったのだろうか? 厳格に制限された天与の財の供給に直面して、土地がすべて所持されて万人に対する万人の戦争が勃発するまでの間に紛争を避けるためお互いに関係を絶つ、一人一人の水準では、なぜ? これの答えは、協業が孤立的な自給自足行為よりも生産的であったという認識ゆえに、である。分業とそのような分業に基づいた協業は人間的労働の生産性を増加させた。

これには三つの理由がある。第一に、単一の人間の力を超えており、成功裏に遂行されるためには代わりに幾人かの人々の共同努力を要するような仕事が存在する。たとえば一定の動物は単一の個人が狩猟するにはあまりに大きく、あまりにも危険かもしれないので、多数の人々の協調的な参加を必要とする。あるいは、原則的には単一個人にも実行できるけれど孤立的な個人にとっては最終結果が努力に値しないほど時間を食うような仕事が存在する。ただ共同行為だけがこの仕事を価値ありと考えるに十分短い時間でこれらの仕事を達成できる。たとえば食用の動植物を探すことは不確実性に満ちている。或る日は適当な植物や動物がすぐにひょっこり見つかるかもしれないが、他の日は限りない徒労に終わるかもしれあに。しかしもしも人がこのリスクをプールするなら、すなわち、大人数の狩猟者と採取者が別々に探索を始めて彼らのうち誰かが探索にかけて幸運だったと判明したら互いを呼び合うならば、狩猟採取は各参加者にとって日常的に成功する努力に変えられるかもしれない。

第二に、たとえ各人が直面する自然環境が多かれ少なかれ同じであるかもしれなくとも、各人は(同一の双子でさえ)互いに異なっている。たとえば男は女とは能力が有意に異なっている。彼らの本性ゆえ典型的には、男性は女性より良い狩猟者であり、女性は男性より良い採取者である。大人は子供とは能力が有意に異なっている。幾人かは力強く、幾人かは素晴らしい器用さを見せる。幾人かは背丈が高く、幾人かは身のこなしが速い。幾人かは視力が良く、幾人かは嗅覚が良い。そのような相違を所与と鑑みれば、快適な生活を確保するために遂行する必要がある多様な仕事を、各人が他人より優位な活動に特化するような仕方で分担することは明らかに優位である。女性は採取し、男性は狩猟する。長躯が高木から木の実を採り、矮躯がキノコ狩りに特化する。速い走者が伝言を取り次ぐ。目の良い人は遠くの出来事を見分けるだろう。子供は小さく狭い穴の探検に役立つ。器用な人々が道具を生産する。強者はとどめをさすことに特化するだろう。

そのうえ第三に、或る部族のメンバーは或る人物があらゆる想像可能な仕事で他の人より効率的であるよう互いに区別されるとしても、なお分業は孤立的労働より全般的にもっと生産的である。たとえば成人はどんな仕事でも子供より上手いかもしれない。しかしながらこの考えうる最悪のシナリオにおいてさえ、時間の稀少性という不可避な事実を鑑みれば、成人の(子供と比べて)もっと大なる効率性が特にはっきりしている仕事に成人が特化して、後者の全般的にもっと小なる効率性が比較的に小さい仕事を遂行することを子供に任せることは、経済的に意味をなす――すなわち、そうすることで労働単位あたりに生産される財のもっと大なる物的産出に至る。たとえ成人は小さな薪を集めるのが子供より効率的だとしても、成人が大きな獲物を狩ることのはるか大なる優位性は彼が木を拾い集める時間を無駄にするだろう。その代わりに、彼は子供に薪を集めてほしいだろうし、彼自身の貴重な時間をすべて、彼のもっと大なる効率性が特に際立つ仕事、つまり大型の獲物の狩猟を遂行することに費やしたいだろう。

分業で生じるこのような優位は部族内協業を説明することができるし、このように最初はおそらく純粋に「利己的に動機付けられた」共同作業に基づいて、近しい血縁間の標準的友好以上の特別な関係にとってどんな生物的な基礎が存在したにせよこれを超えてゆく、同胞への共感(善意思)感情の漸進的発達を説明することもできるが、この説明はここまでしか行かない。狩猟採取社会に独特の寄生的な本性を鑑みるに、土地を固定的と仮定すると、人々の数が最適集団規模を超過して、以前にはどれほど集団内の一致団結が存在したにせよこれを脅かしながら平均的生活水準が低下する瞬間が例外なくやってくるに違いない。[30]

この状況は経済学的な収穫の法則に捕らわれており、これによって説明される。

収穫の法則、通俗的には収穫逓減の法則とやや誤解を招きやすい名でも称されている法則は、二つ以上の生産要素のどんな組み合わせにも最適な組み合わせが存在する(この組み合わせからのどんな逸脱も物質的な無駄または「効率ロス」を伴う)と言明する。[31]この法則は、二つの本源的生産要素たる労働と土地(天与の財)に適用されると、もしも土地と実用可能な技術(狩猟と採取)が固定されたままで労働量(人口)が増加するならば、ゆくゆくは、労働単位投入あたりの物理的産出が最大化する点が達せられることを含意する。この点が最適人口規模を表している。もしも利用可能な追加的土地と技術が「所与の」水準で固定されたままであるならば、最適規模を超過したどんな人口増加も一人あたり所得の漸進的減少に追い込んでゆく。生活水準は平均して低下してゆく。(絶対的)過剰人口の点が達せられてしまったのだ。これこそミーゼスがマルサスの人口法則と称したものである。

このマルサスの人口法則の根本的な重要性ゆえ、どんな可能な誤解も防ぐために、この法則が言明していないことも明示しておくのが賢明である。この法則は、最適な組み合わせの点がまさに存するところ――たとえば平方マイルあたりにどれほどの人数か――については断言しておらず、ただそのような点が存在するのだとしか言っていない。そうではなく、もしもたった一つの要素(労働)を増加することで、他の要素(土地)を変化させないままであらゆる産出量を生産することができるならば、後者(土地)は稀少であることをやめる――ゆえに経済財ではなくなる――だろうし、土地の規模の拡張を考慮することなく、いかなる土地の一区画からの収穫もこの区画に適用される労働投入を増加するだけで限界なく増加させることができるだろう。また、この法則は、固定的要素(土地)に適用される一要素(労働)のあらゆる増加が産出のもっと小なる比例的増加に繋がるに違いないと言明してもいない。実際、最適組み合わせ点に接近するにつれて、所与の土地区画に適用される労働の増加は(収穫を増加しながら)産出のもっと大なる比例的増加に繋がるかもしれない。たとえば、一人の追加的な男はこの割り増し狩猟者がいなければ狩猟できなかった動物種が狩猟されることを可能にするかもしれない。収穫の法則は単に、明確な限界がなければこれは生じえないと言明しているにすぎない。また、この法則は最適組み合わせ点が右や外に移動できないとも断言してはいない。実際、以降で説明されるとおり、最適組み合わせ点は技術的な前進のおかげで同じ量の土地の上でもっと大なる人口にもっと高い平均的生活水準を享受させながらそのように移動することができる。収穫の法則が言っていることは、技術的な発展(生産様式)の状態とこれに対応する特化の程度を所与と鑑みれば、労働供給増加が必然的に産出のもっと小なる比例的増加に至らしめるかまったく増加しないような、或る最適組み合わせ点が存在する、ということでしかない。

実際、狩猟採取社会にとってマルサスの絶対的過剰人口の罠を逃れることの困難さは収穫法則に関する条件が仄めかしているより一層厳しい。というのもこれらの条件は、罠を逃れるために必要とされるのは技術革新「だけ」だという印象を与えるかもしれないが、それは完全な真理ではないからだ。単なる普通の技術革新では逃れられないのである。狩猟採取社会は説明されたとおり「寄生的」社会であり、財の供給に何も加えず、ただ自然が提供するものを専有し消費するにすぎないから、この生産様式の枠組みでのどんな生産性増加も、生産された財(採取された植物や狩猟された動物)のもっと大なる産出には結果しない(または有意な結果には至らない)で、むしろ単に(または概ね)本質的には変化しない産出量の生産に必要な時間が短縮されるにすぎない。たとえば約二万年前に行われたと思しき弓矢の発明は消費に利用可能な動物性食肉のもっと大なる量に導くほどではなく、ゆえにもっと大勢の人々に対して所与の消費水準に達せさせるかこれを超えさせるのではなくて、むしろ、同数の人々に対して食肉消費のタームで変化なき生活水準でもっと多くの余暇を享受させるにすぎなかった(さもなくば、もしも人口が増加するならば、もっと多くの余暇時間の増大は一人あたり食肉消費の縮小によって支払われなければならない)。実は狩猟者・採取者にとっては、弓矢の発明のような技術革新で成し遂げられた生産性増大はちっとも祝福ではなかったか非常に短期間の祝福にすぎなかったと判明するだろう。なぜならば、たとえば、そうして生じたもっと大なる狩猟し易さは過剰狩猟、つまり乱獲に至らしめ、短期的には一人あたり食肉供給を増加させるが、動物の自然繁殖率を減少させ、または動物を狩猟しきって絶滅させることで、長期的には食肉供給を除去するかおそらく除去し、ゆえに人口規模の増加すらさせず、マルサスの問題を悪化させるかもしれないからである。[32]

解決:理論と歴史

そしたら、着実に発生し再発生する人口の「過剰」とこれに付随する平均的生活水準の低下という問題を(少なくとも一時的に[33])解決した技術革新とは、生産様式全体の革命的な変化であった。それは寄生的生活様式から生粋の生産的生活への変化を伴っていた。自然が提供したものを単に専有し消費する代わりに、いまや消費財が能動的に生産されて、自然は増大され改善されるようになったのである。

この人間的生産様式の革命的変化、すなわち狩猟採取による食糧生産から動植物の世話による食糧生産までの変遷は、一般的には「新石器革命」と称されている。[34]これは約一万千年前に中東で、概して「肥沃な三日月地帯」と称される地域で始まった。同じ発明が中国中部で二千年弱後に再び、どうやら独立して行われ、数千年後(約五千年前)にはみたび西半球で、メソアメリカと南アメリカと現アメリカ合衆国東部でも行われた。これらの発明中心地から、新技術が事実上地球全土を征して広がっていった。

かの新技術は根本的な認知的偉業に相当し、この偉業は二つの相関する制度的な発明に反映され、そこにおいて表現されており、それ以降今日に至るまで人間的生活の優勢な特色になっている。すなわち、地表土地の私有財産としての専有と利用、家族と家族世帯の確立だ。

これらの制度的発明とこれに存する認知的偉業を理解するためには、まず狩猟採取社会による生産要素「土地」の扱い方を見ておかなければならない。

私有財産が部族的世帯の枠組み内にも存在したことは安全に推測されることができる。一人格的な衣類と道具と器具と装飾のような物に関しては確実に私有財産が存在した。そのような品目が特定の同定可能な個人に生産されたり、彼らのような本源的な作り手から贈与や交換を通して他の人に取得されたりした範囲においては、これらの物は個人的財産と考えられていた。他方で、財が幾人かの連合的か共同的な努力の成果であった範囲においては、それらの物は共有的世帯財と考えられていた。後者は部族内分業の成果として採取された果実と狩猟された獲物に対して、つまり生計手段に対して最も明確に適用された。そしたら、狩猟採取社会では共有財産が高度に卓越した役割を演じていたことは疑いないし、これゆえに原始的部族経済を記述するため「原始共産制」という用語が頻りに利用されてきたのである。各個人は「能力に応じて」世帯の家計所得に貢献したし、各人は(集団内の既存ヒエラルヒーに決定されたとおりの)「必要に応じて」共有所得から受領した――「現代」世帯での「共産制」と大して違わない。

けれどもすべての集団的活動が起こる地表土地についてはどうなのか? 狩猟採取社会で地超土地が私有財産と考えられていた場合は安全に無視していい。しかし共有財産だったのか? これは典型的にはほとんど当然のこととして事実と決め付けられてきた。しかしながら問題は実際にはもっと込み入っている。なぜならば第三の代案が存在するからだ。地表土地は、私有財産〔プライベート・プロパティー〕でも共有財産〔コレクティブ・プロパティー〕でもなく、環境、もっと詳しく言えば行為の一般条件、あるいは「共通財産」〔コモン・プロパティー〕、略して「コモンズ」とも称されるところの部分を構成していた、という可能性があるのである。[35]

この疑問を解決するには、標準的な人類学的研究はほとんど、またはまったく役に立たない。その代わりに、幾つかの正確な定義を含め、幾つかの初等的でまた根本的な経済理論が要求される。人の行為が起こる外界は二つの範疇的に判明な部分に分割されることができる。一方では――あるいは経済財と――つまり手段と見なされる物があり、他方では――あるいは何か、やや誤解されやすい用語法では、自由財とも称される――環境と見なされる物がある。外界の要素が手段あるいは経済財と分類されるための要件はカール・メンガーによって初めて全き正確さで同定された。[36]かかる要件は三重である。第一に、何かが経済財(以降単純に、)になるためには、人間の欲望、言い換えれば人間の必要(すなわち、未成就の目的、人間の未達成の願望や欲求)がなければならない。第二に、この欲望と因果的に連結し(因果的な連結に連なり)、ゆえにこの欲望を満足させることができるような属性や特徴が備わっていると信じられた物に対する人間の知覚がなければならない。第三に、現在の文脈においては最も重要なこととして、そのように知覚された外界の要素は、所与の欲望を満足させる(求められた目的に達する)べく利用される(能動的に、故意に使用される)ことができるように、人間の統御の下に置かれなければならない。ミーゼスが記すとおり、「物は、人間の理性が目的達成のためにその利用を計画し、人間行為がこの目的のためにそれを現実で利用するとき、手段になる」。[37]かくて、物が人間的な欲望との因果的な連結に持ち込まれ、かつ、この物が人間的な統制の下に置かれる場合にのみ、この実体は専有され――財になり――、ゆえに誰かの(私有か共有の)財産であると言うことができる。他方で、もしも外界の要素が人間的な欲望との因果的な連結に連なるが、誰もこの要素を統制できず、この要素に介入できない(か、統制も介入もできないと信念する)(が、それ自体で自然に変化するに任せて、変化されないまま残さなければならない)ならば、そのような要素は専有の環境の部分と考えられ、ゆえに誰も財産でもないに違いない。かくて、たとえば日光や降雨、気圧や重力は、一定の必要か不必要な目的を満たす因果的な効果があるかもしれないが、人が自分にはそのような要素に介入できないと考えるかぎり、それらは行為の単なる条件にすぎず、行為の部分とはならない。たとえば、降雨は食用キノコの発芽と因果的に連結されるかもしれないし、この因果的な結合は知られているかもしれない。しかしながら降雨に関して何事も行われないならばこの水は誰にも所有されないし、それは生産に貢献する要素かもしれないが厳密に言えば生産要素ではない。自然の降雨に対する実際の介入がある場合、たとえば降雨が桶や池に集積されるにのみ、それは誰かの財産と考えることができるし、生産要素になるのである。

これらの考察を背景にすれば、狩猟採集社会での地表土地の地位に関する疑問に取り組むことができる。[38]確かに、茂みからもぎ取られた果実は財産であったが、もぎ取られた果実と因果的に関連していた茂みについてはどうか。茂みはいったん専有されたら、すなわち、人が茂みと果実の自然な因果的過程に対し、一定の成果(自然に到達されるさもなくばの水準を超えた果実収穫の増加)を生産するために、いったん故意に、たとえば茂みに水をやったり枝葉を刈り込んだりすることで介入したら、そのときにのみ、行為の環境条件かつ人間的欲望の満足への単なる一要因という本来の地位から、財産かつ真正生産要素の地位に救い上げられる。さらに、いったん茂みが世話や手入れで財産になったら、以前に実際に収穫された果実だけは誰かの財産になったとはいえ、将来の果実収穫も彼の財産になったし、そのうえ、いったん茂みが将来の果実収穫を増加するために水遣りで、その自然な、未所有の状態から掬い取られたら、かかる茂みを支える地表土地もまた財産になった。

同様にして、狩猟された動物が財産であったことは疑問の余地がないけれども、この動物が属していた群れについてはどうか。我々の以前の考察に基づけば、知覚上の欲望の満足と因果的に連結すると解釈できる(そして彼がこれを念頭に置いた)ことを何もしなかったかぎりは、かかる群れは未所有の自然と見なされなければならない。いったん望ましい結果を生産するために出来事の自然な鎖に介入するという要件が満たされたらば、かかる群れは財産になった。これはたとえば、人が動物を駆ること、つまり動物をハーディングすること、すなわち、彼が群れの運動を能動的に統御しようとすることに携わるやすぐに実情となるだろう。群れの駆り手、つまりハーダーは、群れを所有するだけではなく、またこの群れから自然に生まれた将来の子孫の所有者にもなったのである。

しかしながら群れの統制的な運動が生じたところの地表土地についてはどうか? 我々の定義によれば、駆り手は地表土地の所有者と考えられることができないし、更なる要件の履行なしでは少なくとも自動的にそうなるわけではない。なぜならば慣習的な定義どおりのハーダーとは群れの自然な運動に単に付き従っていたにすぎず、自然に対する彼らの介入とは動物性食肉の供給への欲望が生じたら群れのメンバーへのもっと容易なアクセスを得るために群れを駆ることに限定されていたからである。しかしながら、駆り手は土地自体には介入しなかった。彼らは群れの運動を統御する際に土地には介入しなかったし、群れのメンバーの運動に介入したにすぎない。ハーダーが駆りをやめて牧畜の仕事を始めたら、すなわち彼らが土地を統制することで、土地のことを、動物の運動を統制するための(稀少な)手段として扱ったらば、土地は財産になったのである。これは土地が囲いで仕切られたり、もしくは動物の自由で自然な流通を制限する(溝や堀のような)何らかの障害物を建造したりして、どうにか土地が境界付けられたときにのみ発生した。かくて、土地は動物の群れを生産する際にただ寄与するだけの要素ではなく、むしろ本物の生産要素になったのである。

これらの考察が証明することは、土地を狩猟採取社会の共有財産と考えることは誤っているということである。狩猟者(ハンター)は群れの駆り手(ハーダー)ではなかったし、ましてや牧畜にも従事していなかった。そして狩猟者は庭師や農夫ではなかった。彼らは世話や手入れによる天与の動物相や植物相への統制を行わなかった。彼らは単に自然からその欠片をもぎ取ったにすぎない。彼らにとっての土地とは彼らの活動の条件以上のものではなく、彼らの財産ではなかった。

せいぜいのところ、彼らの周辺領土が未所有の生存条件として扱われ続け、そのように使われ続けた一方で、土地のとても小さな区画が、余剰財の将来時点での使用のための耐久的な保管所と避難所として、狩猟者と採取者に専有され(ゆえに共有財産に変えられ)たのだった。

そしたら言えることは、増大中の狩猟採取社会が直面したマルサスの罠の(一時的)解決に向けた決定的な一歩となるものは、単なる保管と避難の施設を超えた土地財産制の設立であった。絶対的過剰人口の結果として低下する生活水準に圧迫されて、部族のメンバーは(個別的または集団的に)次々と、以前には未所有だった周辺の自然(土地)をますます専有していった。この周辺地表土地の専有を基礎付け動機付けること――そして以前の保管と避難の場所を定住的な農耕牧畜の中心地に変えること――は著しい知的偉業であった。マイケル・ハートが書き留めたとおり、「穀物を植えて守り、ついにそれらを刈り取るという観念は明白なものでも些細なものでもなく、この考え方を思い浮かべるためには相当程度の知能を要する。かつてこの観念を思い浮かべた猿はいないし、アウストラロピテクスも、ホモ・ハビリスも、ホモ・エレクトゥスはおろか、旧ホモ・サピエンスでさえ思い浮かべなかった」。[39]また彼らの誰も、動物を世話し、飼い慣らし、繁殖させるという一層難しい観念を思い浮かべることはなかった。

以前には、あらゆる消費財は探し回るという可能なかぎり最も直接かつ最速の仕方によって、すなわち、どこであれそれが生まれたところから「もぎ取る」ことで専有されていた。農耕牧畜では対照的にも、地表土地を故意に統制することを通して生産を行うことで、消費財には間接的で迂回的な仕方で到達された。消費財(植物と動物)がもぎ取られるべき単純な「所与」ではなく、それらの供給に影響する自然原因が存在する、しかもこれらの原因は地表土地を統制することで操作できる、という発見に依拠していた。新生産様式は食糧消費という究極的な目的に到達するためにはもっと多くの時間を要する(し、そのかぎりで余暇の損失を伴う)が、それはもっと生産的であって、消費財(食料)のもっと大なる総産出に至ったのであり、ゆえにもっと同じ土地量の上で大なる人口規模を維持させていたのだった。[40]

植物についてもっと具体的に言えば、栄養上の目的に適した種と実はもはや単に摘み取られるのではなく、これらをつけた野生植物が能動的に耕作されたのだった。種と実は味を別にすれば、大きさ、耐久性(保管可能性)、収穫と発芽の容易さで淘汰され、これらは消費されるのではなく将来の消費財産出への投入に用いられ、おそらく十二年か十三年の相対的に短い期間で、有意に改善された土地あたり耕作地での新しい栽培化された植物の変種に至った。かくして、中近東で栽培化された最初の植物には、ヒトツブ小麦とエンマー小麦、大麦、ライ麦、エンドウ豆、オリーヴがあった。中国では米とキビとアワ、後になってメソアメリカではトウモロコシとマメ類とカボチャ、南アメリカではジャガイモとキャッサバ、北アメリカではヒマワリとアカザ、アフリカではモロコシ、米、ヤム芋、アブラ椰子があった。[41]

動物の家畜化の過程も似た線に沿って進んでおり、この点で犬の最初の家畜化と繁殖で得られた経験を引き合いに出すことができる。これはいまだ狩猟採取的な条件にあったシベリアのどこかで一万五千年前に生じた。[42]

犬は先祖が狼である。狼は優れた狩猟者である。しかしながら彼らは死肉漁りのスカベンジャーでもあり、そのような生き物として、狼は食べ残しを求めて人間のキャンプ地の周りを定期的にうろついていたともっともらしく論じられてきた。スカベンジャーとして、人間を最も恐れず、人間に最も友好的な行動を示したこれらの狼が進化的な優位を享受したことは明らかだ。幼獣がペットとして部族的世帯に採用されたのや、これらのペットが多様な目的で訓練できることが発見されるところは、これらの半分飼い慣らされてキャンプを追う狼からであるらしい。これらは他の動物の狩猟に使うことができただろうし、牽引にも使えただろうし、寒い夜には良い暖取りになったし、緊急事態には肉の元にもなった。

しかしながら最も重要なことは、(狼は滅多に吠えないが)数匹の犬は吠えることができ、吠える能力は淘汰で繁殖されることができ、そのようにして余所者と侵入者を所有者に警告して所有者を防御するというかけがえのない仕事を遂行することができると発見されたことだった。ひとたび犬が「発明」されるやこの発明がシベリアから全世界へと鬼火のように広まった理由らしきはとりわけこのサービスであった。恒常的な部族間交戦状態の時代では犬の所有が大なる優位であると判明したから、至るところで万人がこの新しい注目すべき種類の動物の子孫を所持したがったのである。[43]

犬が人間的文明の最初の中心地だった近東のあたりへと到達したときは、人間の生産的生活の「実験」とその成功にかなりの勢いを加えたに違いない。というのも、歩哨任務に用いられる犬というものは移動性の狩猟採取者にとって資産になったが、定住性の開拓者にとってもさらに大いなる資産となったからだ。その理由は単刀直入で、なんとなれば、定住的社会には保護すべきものが単純にもっと多かったからである。人は狩猟採取社会では内外の侵害から自分の生命を心配しなければならなかった。しかしながら何かを多く所有するメンバーはいなかったから、窃盗する理由はほとんどかまったくなかった。けれども、定住者の社会では事情は異なっていた。その端緒も端緒から、定住的生活は社会の異なるメンバーに所有される財産と富に重大な相違が出現したことに特色付けられており、ゆえに、(安全に推測されるとおり)どんな仕方や形にせよ嫉妬が存在するかぎり、[44]各メンバー(各分離的世帯)は特に彼自身の部族のメンバー含む他人が彼の財産に窃盗や破壊を行うという脅威にも直面していた。犬はこの問題に対処する際に計り知れない助けを差し伸べた。なぜならば犬は生物学的な事実として、人民一般に対してや、猫のように特定の場所に対してよりも、むしろ個体的な「主人」に愛着を示すからである。[45]そのように彼らは自身をして、共有よりむしろ私有される何かの好例を代表した。すなわち、原始的社会に存在したような私的財産所有に対するタブーに「自然な反証」を差し出したのだった。そのうえもっと重要なことに、犬は疑いなく特定個人の財産であったから、あらゆる種類の「余所者」侵入者から彼らの自然所有者の私有財産を守る際に独特なサービスが可能であることも示したのだった。[46]

動物は多様な理由で人間にとって植物にもまして価値があった。肉、乳、皮、毛皮、毛糸の元として、そしてたとえば潜在的な輸送と牽引の手段として。しかしながら実はほとんどの動物は生物学的には家畜化可能であると判明する。[47]家畜やペットとしての動物「生産」の最初の淘汰基準は動物種の知覚上の飼い慣らし可能性や統御可能性の程度である。仮説を試す第一歩では動物の群れが駆るに適しているか否かが試験された。そしたら、野生動物の群れが畜舎に入れられるか否かが試験された。そしたら次は、一層飼い慣らされた動物を次世代の親に淘汰するだろう――しかしすべての動物が飼育下で繁殖されるわけではない!――などなど。最後は飼い慣らされた動物の多様性から大きさや強さのような他の望ましい属性で淘汰し、ゆえに最終的には新しい家畜化された動物種を繁殖するだろう。かくて(約一万年前)中近東で家畜化された最初の大型哺乳動物は、羊、山羊、(野生のイノシシからの)豚、(野生のオーロックスからの)牛であった。牛はまたインドでもどうやら同時(約八千年前)に独立して家畜化された。おおよそ同じころ、羊と山羊と豚が中近東でのように中国でも独立して家畜化され、(約六千年前)中国はまた水牛の家畜化にも貢献した。(約四千五百年前)中央アジアとアラビアはそれぞれフタコブラクダとヒトコブラクダの家畜化に貢献した。アメリカ、あるいはもっと正確に言えば南アメリカアンデス地方は、(約七千年前)モルモットと(約五千五百年前)ラマとアルパカに貢献した。終わりに当たって、特に重大な意義をもつ「発明」は馬の家畜化であって、約六千年前に今日のロシアとウクライナの地域で生じた。この偉業で土地輸送に真正の革命が始まった。それまで土地上の品減は或る場所から他の場所まで歩いてゆかなければならず、長距離を行く最速の方法はボートに乗ることであった。家畜化された馬の到来によってこれが劇的に変わったのであり、それから十九世紀の機関車と自動車の発明まで、馬は最速の地上輸送手段を提供するものであった。したがって約一万六千年前の犬の「発明」とはまったく異なり、馬の「発明」は鬼火のように広まった。しかしながら約一万年後に生じた後者の発明はもはや前者ほど広く行き渡ることができなかった。犬は事実上世界中の隅々まで普及したが、その間に起こった気候変化は犬と同じ成功が馬の場合にも繰り返されることを不可能にしたのである。その間に、ユーラシア大陸は架橋するには広すぎる水域によって、アメリカ大陸とインドネシアとニューギニアとオーストラリアから分離していた。かくて馬がアメリカ州に導入されたのは千年後、ヨーロッパ人のアメリカ大陸発見後であった。(どうやらアメリカ大陸にも野生の馬は存在したが、絶滅まで狩り尽くされており、独立的な家畜化を不可能にしていたらしい。)

土地を財産として、農耕と牧畜の基盤として専有することは、しかしながら、増加中の人口圧力で生じた問題にとっては片面の解決にしかならなかった。土地の専有によって、土地のもっと効率的な使用が行われ、もっと大なる人口規模が維持されるようになった。しかし土地所有の制度それ自体は、問題のもう一方の面、すなわち新規のもっと多くの子孫の継続的な激増には影響しなかった。問題のこの一面もまた同じく解決が要求される。この激増を統制の下に置く社会制度が発明されなければならなかった。この仕事を成し遂げるために設計された制度こそ家族制度であり、これは土地所有の制度と偶然ではなく一緒になって発達した。実際マルサスが指摘したとおり、過剰人口問題を解決するためには、私有財産の制度とともに、「性交渉」もまた根本的な変化を経なければならなかった。[48]

以前の性交渉とは何であったか、そしてこの件で家族がもたらした制度的な革新は何であったか? 最初の疑問への正確な答えは悪名高いほど難しいが、主な構造的変化を同定することは可能である。経済理論の用語で言えば、かかる変化は、――追加的な潜在的生産者の創造による――子孫創造の便益と、特に――追加的な消費者(食べる人)の創造による――子孫創造の費用の両方が社会化された状況からの変化として記述されることができる。すなわち、生産に伴う便益と費用の両方が、この子孫の「生産者」にではなく概して社会に収穫され支払われる状況から、彼らの生産について因果的に責任を負う個人に対し経済的に転嫁され内部化された状況への変化である。

詳細が何であれ、今日では家族という用語と連合されるような、男女間の安定的な一妻関係とまた多妻関係の制度は人類史上かなり新しいものであり、「制約なき」または「規制なき」性交渉あるいは「集団結婚」と広く定義されてもいいような制度が長い間先行していたようだ。[49]人類史のこの段階での性交渉は一夫一妻の一時的番関係の存在を排除しなかった。しかしながら原理的には、すべての女性がすべての男性の潜在的な性的パートナーと見なされ、逆もしかり。ルイス・H・モーガンの足跡を追いながらフリードリヒ・エンゲルスが記すには、「Männer (lebten) in Vielweiberei und ihre Weiber gleichzeitig in Vielmännerei, und die gemeinsamen Kinder (galten) daher auch als ihnen allen gemeinsam (gehörig). …. jede Frau (gehörte) jedem Mann und jeder Mann jeder Frau gleichmässig

男性は多妻制で、女性は多夫制で(生きていた)。ゆえに子供は(正当に)彼ら全員のものであった。……すべての女性がすべての男性の、そして同時に、すべての男性がすべての女性の(ものである)」。[50]

しかしながらエンゲルスと後の無数の社会主義者が過去――と想定の上では将来――の「自由恋愛」制度を美化する際に気づき損ねたことは、この制度は子孫生産に直接の明白な結果があるという平易な事実である。ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスが評したとおり、「たとえ社会主義的共同体が『自由恋愛』をもたらすかもしれないにせよ、それは決して自由出産をもたらさないというのは確実である」。[51]ミーゼスがこの所見で言い含めたことと、エンゲルスとベーベルのような社会主義者が明らかに無視したことは、効果的な避妊手段が利用可能となる前の時代には確実に、自由恋愛には帰結があること、はっきり言えば、妊娠と出産があること、そして出産は利益と同様に費用を伴うことである。これは利益が費用を超えないかぎり、すなわち社会の追加的なメンバーが財の消費者よりもその生産者を引き受けるかぎりは問題にならない――そしてこれはときには実情であるかもしれない。しかし収穫の法則に従えば、この状況は永遠に、限りなく続けることはできない。追加的な子孫の費用がその利益を越える点が、不可避的にも到達されてしまうに違いない。そしたら、平均的生活水準の進行的低下を経験したがらないかぎり、更なる出産は止められなければならない――道徳的制約が実施されなければならない。しかしながらもしも万人が他の万人と性的関係を楽しんでいるという理由で子供たちが皆の子供であるとか誰の子供でもないとか見なされるならば、出産を慎むインセンティブは消滅するか少なくとも有意に逓減する。人間の生物的な本性のせいで各男女は本能的には自身の遺伝子を種の次世代に広げて増殖するよう駆り立てられている。生む子孫が多いほど、彼の遺伝子が多く生き残るから良い。この自然な人間的本能を理性的な熟慮で統御することができるのは疑いない。しかし、もしも子供全員が概して社会に養われるせいで人が動物的本能に単純に従うために必要な経済的犠牲がまったくないかほとんどないならば、性的な事柄で理性を行為するインセンティブ、すなわち道徳的制約を実施するインセンティブはまったくないかほとんどない。

そしたら純粋に経済的な見地では、過剰人口問題の解決法は直ちに明白となるはずだ。子供の所有、あるいはもっと正確に言えば、子供の信託は私有化されなければならない。子供を「社会」に信託された共有物と考えたり、出産を未統制で統制不可能な自然事象と見なし、ゆえに子供を(単なる好ましいか厭わしい「環境的変化」として)誰にも所有されないか信託されないものと考えたりするより、むしろ子供は以前に生産されて私的ケアに信託された実体と見なされなければならない。トーマス・マルサスが初めて知覚鋭く指摘したとおり、これこそ本質的に家族の制度で成し遂げられることである。

最も自然で明白な(人口)管理は万人に彼自身の子供を設けさせることであると思われる。これは或る点で人口増加に際しての処置と指針として働くだろう、というのも扶養手段を見つけられない人が誰も世界に生まれないことが期待されるだろうからだ。にもかかわらずこれが実情となってしまったところでは、そのような行いに伴う不名誉と不便がその個人に降りかかり、ゆえに彼自身と無実の子供たちが悲惨と欠乏にわずかに苛まれるのは必然的であると思われた。婚姻制度、あるいは少なくとも、万人が彼自身の子供を扶養するという何らかの表現や、仄めかされる責務の制度は、我々が考えてきた困難な状態の下における共同体でのこれら理性的思考の自然な結果であったように思われる。[52]

そのうえついに、一妻的または多妻的な家族の形成をもって、もう一つの決定的な革新が発生した。以前には、部族のメンバーは単一の統一された世帯を形成しており、部族内分業とは本質的に世帯内分業であった。家族の形成でもって、統一された世帯が幾つかの独立した諸世帯に分解し、また「それぞれの」――あるいは、私的な――土地所有が形成されたのである。すなわち、先に記述された土地専有とは以前は未所有だった何かが所有されるようになったという単純な状況の変遷ではなく、もっと正確に言えば、以前には未所有だった何かが分離的な世帯に所有される何かに変わった(ゆえに、また世帯間分業をも発生させた)というものである。

したがって、土地の所有によって可能となったもっと高い社会的所得はもはや、社会のメンバーの「必要に応じて」という以前の場合のようには分配されなくなった。むしろ、分離した各世帯の総社会所得シェアは、生産に投資された労働と財産に経済的に転嫁した生産物に依存するようになった。言い換えれば、以前には充満していた「共産制」はいまなお各世帯の家計で継続しているが、共産制は異世帯のメンバー間の関係からは消滅したのだ。異なる世帯の所得は投資された労働と財産の量と質に依存して異なったし、他所様の世帯のメンバーに生産された所得を請求する者はいなかった。かくて他人の努力への「フリーライダー」は、すべてではなくとも概ね不可能になった。もはや、働かざる者なお食うは期待できなくなったのである。[53]

かくて、悪化する人口圧力に応えて、新しい社会組織様式が成立するに至り、人類史の大部分を特徴付けていた狩猟採取的生活様式に取って代わったのだった。ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスが事態を要約したとおり、

生産手段の私的所有は、社会の内部において、消費者の少しばかり有限な増殖する能力でもって、社会の自由に処分可能な有限な生存手段に釣り合いを保つ規制的原理である。社会の各メンバーへ、すなわち彼の労働と彼の財産へと経済的に転嫁された生産物に対して彼の負いが依存するよう社会的生産物のシェアを割り当てることで、植物界と動物界で荒れ狂うような生存競争による余剰人員の除去が、社会的な力による出生率の削減に置き換えられる。社会的地位に応じて課せられた子孫の制限、つまり「道徳的制約」が、生存闘争に取って代わるのである。[54]

最初に幾つかの耐久的な保管と避難の場所が設立されてから一歩一歩、周辺土地を農業的生産と家畜飼育の基地として専有し、かつての保管と避難の中心地から、分離的な家族会計で占拠された家族と村落で構成される拡張した開拓地に変形することで、他の原初の人間開拓地の人々と同じく中近東の人々の新生活様式が外側へ、ゆっくりと、しかし不可避的に、広がっていった。[55]原理としては、この拡散の生じ方には二つの様態が思い浮かべられる。原初の開拓者が新たに耕作さるべき土地を求めて次第に近隣のノマド的部族に取って代わっていった(人員的拡散)か、後者が新生活様式を自分たちのイニシアチブで模倣し採用したか(文化的拡散)。最近まで一般には、第一の拡散様態が優勢的であったと信じられていた。[56]しかしながら新しく発見された遺伝的な証拠に基づくと、少なくとも中近東からヨーロッパまでの新しい定住的生活様式に関して言えば、今ではこの見解は疑わしいようだ。もしも現在のヨーロッパ人が新石器革命当時の中近東人の子孫であったならば、これをトレースする遺伝子が存在するにはずだ。しかしながら事実としては、そのようなトレースは現在のヨーロッパ人のうちには非常にわずかにしか見つけられなかった。かくて、新しい定住的な生活様式は専らではなくとも概ね後者、第二に挙げられた道筋を通して発生し、原初の中近東の定住者がこの過程で果たした役割はマイナーなものでしかなかった、ということがもっとありそうだ。おそらくそのような少数の開拓者が北方と西方に押し寄せ、そこで彼らは近隣の新しい上出来な生活様式を採用することで近隣の人々に吸収されたのであり、これは原初の中近東地点からの距離が増加するにつれて、彼ら自身の遺伝的な痕跡がますます薄まってゆく結果を伴っていたのだろう。

いずれにせよ、新石器革命によって、以前には普遍的だった狩猟採取的生活様式は本質的に廃れるか、人間居住地の外縁に追いやられていった。新しく発展した農業共同体がノマド的な急襲者にとって魅力的な標的であったことは疑いないし、そのもっと大なる機動性のおかげで、近隣のノマド的な部族は長らく農耕開拓者に対し深刻な脅威を押し付けていた。しかし究極的には、ノマドは彼らに適わなかった。なぜならば開拓者の方が多かったからだ。もっと具体的に言えば、軍事的優越性を勝ち取ったのは、諸世帯の共同体――互いに物理的に近接した分離的世帯の立地――に人員数が多い方の組織であった。部族内交換に関するかぎり、共同体生活とは単なる取引費用の低下ではなかった。共同体生活は外的侵略の場合には、容易に俊敏に協調した共同防衛の優位をも提供したのである。そのうえ、もっと大なる人数の強みを別にしても、定着した農業的な共同体はまた増大し拡張した分業ともっと大なる貯蓄を許し、ゆえにノマドの団体に利用可能な何よりも優れた武装の発達をも容易にした。[57]

五万年前の人口規模は五千人ほどの低さか、ことによると五万人であったと見積もられている。東アフリカのどこから原初の故郷から数千年かけて広がってゆき、新石器革命の開始時たる約一万千年前、本質的に言えば地球全土が狩猟採取者に制覇されていたときには、人口規模は約四百万人に達していたと見積もられている。[58]それ以来ゆっくりながら着実に、新しい生産様式、すなわち私的(か集団的な)土地所有に基づき分離的家族世帯周辺に組織された農耕牧畜の生産様式は、次々と原初の狩猟採取的秩序に取って代わっていった。ひいては西暦紀元の開始時、世界人口は一億七千万人に増加しており、千八百(一八〇〇)年の、いわゆる産業革命の開始と農地時代の終焉あるいは「古い生物的秩序」とも称される時代の終焉を記録したころには、七億二千万人に達していた。(今日の世界人口は七十億人を超えている!)この農地時代の間には、都市の規模はときに百万人の居住者に達したりこれを越したりもしたが、とうとう大都市に住む人口は二パーセント未満であり、経済的に最も先進的な国でさえ人口の八十から九十パーセントが農業的生産に従事していたのだった(この数は今日では五パーセント未満にまで減っている)

[1] 以降について、Nicholas Wade, Before the Dawn (New York: Penguin Press, 2006)を見よ。

[2] 言語の「低級」と「高級」の機能について、Karl Buehler, Sprachtheorie. Die Darstellungsfunktion der Sprache (Stuttgart: UTB, 1982; originally published in 1934)と、特にKarl R. Popper, Conjectures and Refutations (London: Routledge, 1963), pp. 134 fと同Objective Knowledge (Oxford: Oxford University Press, 1972), chap. 3, pp. 119–22とchap. 6, sections 14–17を見よ。

[3] Luigi Luca Cavalli-Sforza, Genes, Peoples, and Languages (Berkeley: University of California Press, 2000), p. 93は、言語の起源を約十万年前に日付するが、先に引用された考古学的な証拠を鑑みるに、もっと後のほんの五万年前がもっとありそうだ。

[4] 同上, p. 92.

[5] Wade, Before the Dawn, pp. 8, 58。カヴァッリ=スフォルツァの見積もりは有意に高く、五万人である (Genes, Populations, and Language, p. 50)。

[6] Cavalli-Sforza, Genes, Peoples, and Languages, p. 30.

[7] しかしながら狩猟採取社会の平等主義は過剰強調されたり理想化されたりすべきではない。これらの社会はまた著しく階層的な特色でも特徴付けられた。動物界から知られることと大して違わず、男性は女性より上位に列し、女性を支配していた。女性はしばしば男性によって「外」界の財が取られて扱われるのように「取られ」て扱われていた。すなわち、すなわち、専有され、窃盗され、使用され、虐待され、交易されたのである。未成年は青年より下位に列していた。そのうえ、階層は社会の男性メンバー内と女性メンバー内にも存在し、君臨するアルファな男女から社会の最も卑しいメンバーまで下っていった。身分闘争が発生し、誰であれ既設の序列・秩序を受け入れない者は過酷な処罰に迫られた。もっと高い身分をめぐる闘争での敗者は傷害はおろか死亡にさえ脅かされ、最善でも部族から追放された。一言で言えば、たとえ部族的生活が有り余る食料と余暇のタームで快適な生活水準を提供したとしても、今日の愛しい「個人的自治」のタームでは何ら快適ではなかった。対照的にも、部族的世帯での生活は、規律、秩序、服従を意味した。

[8] Richard Lee and I. De Vore, eds., Man the Hunter (Chicago: Aldine, 1968)と、Marvin Harris, Cannibals and Kings: Th e Origins of Cultures (New York: Vintage Books, 1977), esp. chap. 2を見よ。

[9] Harris, Cannibals and Kings, pp. 19 f.

[10] しかしながらこの言明は平和な期間の狩猟採取生活にしか言及していない。頻繁な交戦状態と不自然な死因について、以下〔原典pp. 27 ff〕を見よ。

[11] かくてたとえばHarris, Cannibals and Kings, p. 18が記すには、「石器時代後期のフランス全土には、多くても二万人、おそらく一万六千人ほどの少なさの人間がいた」。

[12] Wade, Before the Dawn, chap. 8, and pp. 150–54と、またLawrence H. Keeley, War Before Civilization (New York: Oxford University Press, 1996)を見よ。

[13] Napoleon Chagnon, “Life Histories, Blood Revenge, and Warfare in a Tribal Population,” Science 239 (1988): 985–92.

[14] Keeley, War Before Civilization, p. 33; Wade, Before the Dawn, pp. 151 f.

[15] またSteven LeBlanc, Constant Battles (New York: St. Martin’s Press, 2003)も見よ。

[16] Wade, Before the Dawn, pp. 154–58を見よ。ウェイドは現代人と原始人の獰猛さを比較しつつ、キーリーに従いながら次のとおり書き留める(Before the Dawn, p. 152)。

原始的な戦士は文明社会の軍隊と野戦で遭遇したとき、兵器の膨大な不釣合いにもかかわらず、いつものように自分たちを防衛していた。インディアン戦争では、アメリカ陸軍は第二次セミノール戦争やリトルビッグホーンの戦いでのように野外で見つかったとき「普通手酷い敗北を蒙った」。一八七九年には、大砲とガトリング銃を備えた南アフリカのイギリス軍がイサンドルワナの戦いとメイヤー・ドリフト(船着場)の戦いとショバーナの戦いで、概して槍と牛革の盾で武装したズールー族に敗北した。フランス軍は一八九〇年代にサハラのトゥアレグ族に追い出された。国軍は結局のところ、優れた戦闘技能ではなく敵より大なるマンパワーと消耗戦でしか勝てなかった。

[17] Ludwig von Mises, Mises, Human Action: A Treatise on Economics (Chicago: Regnery, 1966), p. 144.

[18] 狩猟採取社会の枠組み内での異部族メンバー間の和解不可能な敵対に関するこの洞察は間接的にはまた、人々の平和的な協業の要件に関する最初の鍵をも提供する。異部族メンバーが互いを敵ではなく潜在的な共同者と見なすためには、(天与の消費財の単なる専有を超えて)消費財の真正の生産がなければならない。少なくとも本当に最低限の要件として、(将来消費を保存するという)余剰財の貯蔵という意味での消費財の生産がなければならない。人の意図的な努力がなければまったく存在しなかっただろう何かを人が自然に加えるだけで、或る人が彼自身の財のため(彼自身の利己的な動機と彼自身の優位のため)に他の人の生命を許す理由があることになる。確かに、戦争を生み出すのは文明だというテーゼの支持者におかれては、或る人が天与の財の供給に何かを加えたという事実自体、また他の人が彼に対する侵害に従事する、つまり彼の生産物を彼から奪う理由をも提出するかもしれない、と指摘することが好まれている。しかし、何も加えずに与えられたものを単に取って消費する(ゆえに他の人が利用できる残り物を不可避的に減らす)人を殺すことよりもそのような人の方を殺すことには確かにあまり理由がない。そのうえ、或る人が利用可能な財の総供給に何かを加えるかぎり、他の人にとっては彼の活動に介入しないで彼に続けさせる理由もある。彼から利益を得るために、そして彼の活動は彼との互恵的な貿易に従事することで、結果として究極的には仲間に対する共感的な感情を発達させる。かくて、文明は人の侵害的な衝動を除去しないけれども、それらを逓減させ、希釈することができるし、そうしてきた。

[19] 実際、最後の大温暖化期間、またいわゆる間氷河温暖気は、すでに十二万年前に終わっている。十二万年以上前のこの期間にはカバがライン川とテーヌ側に生息しており、北ヨーロッパは何か「アフリカみたいな外観」をしていた。それ以来、氷河は着々と更なる南方に移動し、海抜は最終的には一〇〇メートル以上降下した。以前は北海に注ぎそこから大西洋に流れ込んでいたテムズ川とエルベ川はライン川の支流になった。Josef H. Reichholf, Eine kurze Naturgeschichte des letzten Jahrtausends (Frankfurt/M.: Fischer, 2007), pp. 15 fを見よ。約一万二千年前に唐突にこの期間が終わったときは氷河が急速に溶解し、一年にミリメートルどころではなく非常な速さでほとんど洪水のように海面が上昇した。

実に短い期間のうちに、以前はヨーロッパ大陸と結合していたイギリスとアイルランドが島になった。かくてバルト海と当代の北海が現れた。同じように今日のペルシャ湾は凡そこのときに遡る。同上, pp. 49 f.

[20] 更なる詳細について、Wade, Before the Dawn, chap. 5と、またJared Diamond, Guns, Germs, and Steel: Th e Fates of Human Societies (New York: Norton, 1997), chap. 1を見よ。

[21] Cavalli-Sforza, Genes, Populations, and Languages, p. 94を見よ。

[22] 同上, pp. 20–25.

[23] Wade, Before the Dawn, pp. 96–99を見よ。

[24] Merritt Ruhlen, The Origin of Language: Tracing the Evolution of the Mother Tongue (New York: Wiley, 1994).

[25] 遺伝と語族の相関と血統を示す表のために、Cavalli-Sforza, Genes, Peoples, and Languages, chap. 5, esp. p. 144を見よ。またLuigi Luca Cavalli-Sforza and Francesco Cavalli-Sforza, The Great Human Diasporas: Th e History of Diversity and Evolution (Cambridge: Perseus Books, 1995), chap. 7とWade, Before the Dawn, chap. 10, pp. 102 ff も見よ。

[26] しかしながら現在の完新世においては、気温は重大な変動を示し続けてきた。約一万年前、数千年間の温暖化期間の後に、気温は現在の水準に達した。その後幾度か、八〇〇〇年前から六八〇〇年前まで、六〇〇〇年前から五五〇〇年前まで、五〇〇〇年前から四〇〇〇年前まで、二五〇〇年前から二〇〇〇年前まで、そしていわゆる中世温暖化期の十世紀から十四世紀までに、気温はこの水準を著しく超えて(セ氏二度ほど)上昇した。同様にして、九〇〇〇年前から八〇〇〇年前まで、六八〇〇年前から六〇〇〇年前まで、四〇〇〇年前から二五〇〇年前まで、二世紀から八世紀まで、そしていわゆる小氷河期の十四世紀から十九世紀中葉までに、気温は現在より著しく低かった。Reichholf, Eine kurze Naturgeschichte des letzten Jahrtausends, p. 27を見よ。

[27] 同上, pp. 23 f.

[28] Ludwig von Mises, Human Action, p. 167.

[29] 同上。

[30] 経験的には、かかるマジックナンバー、すなわち狩猟採取社会の最適人口規模は約五十から百平方マイルの領土に五十人から百人ほど(一平方マイルあたり一人)であったようだ。この組み合わせ点のあたりで、分業に差し出された優位がすべて食い尽くされた。この「マジック」ナンバーを超えて人口規模が増えたら平均的生活水準がますます脅かされるようになり、もしも近隣部族が彼ら自身の内的人口増のせいで領土的侵入を増加し、ゆえに第一の部族のメンバーに利用可能な財の天与供給をさらに逓減させたならば、この脅威は一層増大した。外的人口圧力と同様に、内的人口圧力もまた、ますます喫緊な問題となるまったきサバイバルに解決を必要とした。

[31] Mises, Human Action, pp. 127–131と同, Socialism: An Economic and Sociological Analysis (Indianapolis: Liberty Classics, 1981), pp. 174–75と、またHans-Hermann Hoppe, Kritik der sozialwissenschaftlichen Sozialforschung, Untersuchungen zur Grundlegung von Soziologie und Oekonomie (Opladen: Westdeutscher Verlag, 1985), pp. 59–64を見よ。

[32]

実際、動物の乱獲と絶滅は特に弓矢の発明後にのみ占有されたアメリカ大陸では不吉な役割を演じた。アメリカ州は最初のうちはヨーロッパ大陸とほとんど同じ動物相を呈していた――結局数千年の間、動物はベーリング陸峡を通って一方の大陸から他方の大陸へ渡ることができた――が、約五百年後のヨーロッパ人のアメリカ発見までには、家畜化可能な大型哺乳動物は(南アメリカのラマを除き)すべて絶滅するまで狩り尽くされていた。同様にして、かつてオーストラリアに生息した大型動物相も(赤カンガルーを除き)すべて絶滅まで狩り尽くされたようだ。この出来事が起きたのは約四万年前、人類が初めてオーストリアに到着したほんの数千年後であり、弓矢の助けすらなく、非常に原始的な武器と動物を罠にかける火の助けだけで行われたと思われる。これについて、Diamond, Guns, Germs, and Steel, pp. 42 ffを見よ。

[33] 「新石器革命」で起きた変化は有意に高い持続可能な人口規模を許したが、マルサスの問題はやがて再び生じざるをえなかったし、この問題に対する外見上究極的な解決は、十八世紀末ヨーロッパで始まったいわゆる「産業革命」でしか達せられなかった。これについて、以降の章「マルサスの罠から産業革命まで:社会進化の省察」を見よ。

[34] またMichael H. Hart, Understanding Human History (Augusta, Ga.: Washington Summit Publishers, 2007), pp. 139 ffも見よ。

[35] この区別についてMurray N. Rothbard, Man, Economy, and State (Los Angeles: Nash, 1970), chap. 1を見よ。

[36] Carl Menger, Principles of Economics (Grove City, Pa.: Libertarian Press, [1871] 1994), p. 52.

[37] Mises, Human Action, p. 92.

[38] またHans-Hermann Hoppe, Eigentum, Anarchie und Staat. Studien zur Theorie des Kapitalismus (Leipzig: Manuscriptum, [1987] 2005), chap. 4, esp. pp. 106 ffも見よ。

[39] Hart, Understanding Human History, p. 162.

[40] 土地の専有と、これに対応する狩猟採取者から農耕牧畜者への変化によって、同じ土地の量で以前より十倍から百倍大きい人口規模が維持できるようになったと見積もられている。

[41] Diamond, Guns, Germs, and Steel, pp. 100, 167.

[42] Wade, Before the Dawn, pp. 109–13.

[43] ついでだが、遺伝子分析によれば、アメリカ州の犬を含む現在の犬はすべて東アジアのどこかに位置する一つの腹から生まれた可能性が最も高いことを明らかにした。すなわち、犬の家畜化は多様な場所で独立的に生じたのではなく、そこから究極的に地球全土へ広がるような単一の場所で生じたらしい。

[44] See Helmut Schoeck, Envy: A Theory of Social Behavior (New York: Harcourt, Brace & World, 1970).

[45] See Konrad Lorenz, Man Meets Dog (New York: Routledge, 2002; original German edition 1954).

[46] 注目すべきことに、高度に洗練された電子警報システムが利用可能な今日でさえ、夜盗に対する最も効果的な保護を売りにするものには吠える犬が残っている。

[47] 47See Diamond, Guns, Germs, and Steel, chap. 9, esp. pp. 168–75.

[48] Essay on the Principle of Population, chap. 10.

[49] これについて、Friedrich Engels, Der Ursprung der Familie, des Privateigentums und des Staates, in: Marx/Engels, Werke, Band 21 (Berling: Dietz Verlag, [1884] 1972)を見よ。

[50] 同, pp. 38 f. 「男性は多妻制で、同時に彼らの女性は多夫制で暮らし、彼らの子供は彼ら全員に属すると見なされていた。……。女性各人が男性全員に属し、男性各人が女性全員に属した」。

ついでに言うと、フリードリヒ・エンゲルスのような社会主義的な著述家は、すでに言及済みの「原始共産」制を美化していたのとまったく同じように、この制度を単に記述していたのではなく美化をしたのだった。いかにも、社会主義者は典型的には私有財産と家族制度の共同発生を実に正しく認識していたし、両制度――土地含む生産手段の私有財産と(一妻)家族――は、十分な富(の供給量)と自由恋愛に特徴付けられる将来の社会主義社会の確立をもって究極的には再消滅するだろうと考えた(そしてそう望んだ)。かくて、悲惨と搾取、それと男性の性的優勢に特徴付けられる、必然だが難儀な歴史の遠回りの後に、人類はついに自分たちの先史の「黄金時代」に特徴的だった制度に――もっと高度な段階で――回帰するだろう。社会主義の下では私有財産とともに一妻婚姻制が消滅するはずだった。性愛の選択は再び自由になるだろう。男女は欲するままに合体し分離するだろう、と。中でも、社会主義者アウグスト・ベーベルが彼の(一八八〇年代と九〇年代当時)非常に通俗的な本Die Frau und der Sozialismusに記したところでは、社会主義は本当は何も新しいものを創造するのではなく、ただ「私的所有が社会を支配する以前のもっと原始的な文化水準では普遍的に有効だったものを、もっと高次の文化水準で新社会形態の下に再創造する」にすぎないだろう。Bebel, Die Frau und der Sozialismus, 1st ed. (Stuttgart, 1879), p. 343と、62nd ed. East-Berlin, 1973: www.mlwerke.de/beb/beaa/beaa_000.htm、またLudwig von Mises, Socialism, p. 87を見よ。

[51] Ludwig von Mises, Socialism, p. 175.

[52] Essay on the Principle of Population, chap. 10.

[53] 家族制度は理性的に動機付けられていたが、「自由恋愛」体制から家族生活体制への変遷は費用なしでは生じなかったし、関連する費用便益は男性と女性にとって異なっていた。

確かに男性の視点からすれば、すべての女性が性的な喜びのためにアクセスできたことは好都合であった。くわえて、これは彼の生殖的成功の好機を大いに改善した。可能なかぎり多くの女性と子供を設けることで彼の遺伝子が将来に伝わる見込みは増加した。そしてこれは、もしも子供を成熟まで養育する責任が概して社会に外部化されることができるならば、表面的には彼にどんな費用もなく成し遂げられるのだった。対照的にも、もしも性的アクセスが(一妻制の場合)たった一人の女性か(多妻制の場合)小数の女性に制限されたならば、性的な喜悦と生殖的な成功の好機は逓減された。そのうえ、男性はいまや性交と出産の是非(便益費用)を――以前にはしなくてよかった何かを――比較考量しなければならなかった。他方、自由恋愛体制の下でさえ少なくとも最終的には決して性的喜悦と生殖的成功が平等ではなかったことについては原始人も気づかずにはいられなかった。幾人かの男性――より強く魅力的な、アルファな男性――が他の人々よりかなり良い好機を得た。実は、動物ブリーダー全員が知っているとおり、すべてのメスを恒常的に受胎させるにはたった一体のオスがいれば十分である。かくて自由恋愛は事実上、男性のほぼ全員が他の男の子供を育てるのを助けるという如何わしい義務をもったかたわらで、非常に少数の男性が女性のほぼ全員を、特に、魅力的かつ生殖的に最もアピールが強い女性のほぼ全員を「もてた」ことを意味していた。きっと、この事実についての最もおぼろげな認識でさえ、たとえばライバル部族に対する防衛に際して求められる部族内団結わけても男性間団結にとっての永遠の脅威となったに違いないし、人口がその最適規模を超えるほど、この脅威は激しく増大したに違いない。対照的にも、一妻制家族の制度と若干劣った程度でまた多妻制家族は、各男性にやや平等な生殖成功の好機を差し出し、ゆえに男性全員が協調的行動に従事し投資するもっと大なるインセンティブを創造した。

女性の視点からは事情が著しく異なっている。とりわけ、性交渉に関連する妊娠のリスクを負わなければならないのは女性である。妊娠期間とその後の出産時に特に傷つきやすいのは彼女たちである。そのうえ、子供との固有の自然な紐帯を有するのは女性である、というのも、父性には常に幾らかの疑惑がありうるのに対して母性に関するかぎり疑問の余地はないからだ。女性はみな、彼女の子供たちが誰であるかと他の女性の子供たちが誰であるかを知っている。この自然な事実に照らせば、女性の見地で見た自由恋愛体制の主な利点は明らかである。女性は性愛に関連するリスクと投資が男性より大なるせいで、交配パートナーに関するかぎり、より淘汰的になる傾向がある。かくて彼女たちは自身の生殖的成功の見込みを増加させるために、健康、精力的、魅力的、聡明などと見える交配パートナーへ、つまり一言で言えば、アルファな男性への強い選好を呈する。そして男性は性の対象の淘汰に際してそれほど選り好みしないから、自由恋愛システムの下では、最も魅力に欠けた女性でさえ、最も魅力的な男性と行きずりに交配することを現実的に期待でき、ゆえに彼女らの「優れた」遺伝子を子孫に伝えることができるかもしれない。明らかに、この利点は自由恋愛体制が家族制度に置き換えられるとすぐに消滅する。各女性はいまや彼女の生殖をたった一人の男性か少人数の男性遺伝子で運試しすべきものと想定されており、大多数の場合において、これらの遺伝子は最善には格付けされない。それじゃあ女性は結婚で何を得るのか? 人口が最適規模かそのあたりにあり狩猟採取部族の生活が快適と豊富に特徴付けられるかぎり、得られるものは寸毫のように思われよう。しかしながらこれは人口がこの点以上に増加するとすぐに変わらざるをえない。人口が最適規模を超えるほど、制限的な食糧供給をめぐる競争が激化する。以前には何であれ存在した女性内の団結がますます弱まる。自然と、書く女性は彼女新の生殖的成功を確保し彼女自身の子供たちが成熟に達するのを助けることに関心を寄せ、ゆえに他の女性たちと彼女の子供たち全員と紛争するようになった。この状況では、彼女自身の子供たちの生存率を上げるために他の女性の子供を殺すことでさえ、いよいよ選択肢と見なされた。(ついでながら、生殖的成功をめぐる同じ種類の女性内競争がいまだ多妻関係の枠組み内の或る範囲では優勢であり、そのような関係に内在する妙な不安定性と緊張はこれで説明される。)この状況においては、各女性(と彼女の子供)は一人格的な保護の必要が増加する。だが誰が本意にそのような保護を提供するんだ? ほとんどの子供は――平均以上の生殖好機を授かった少数のアルファな男性のうちから――同じ父に属するが、母が異なっている。したがって、或る女性と彼女の女性を他の女性から保護することは、かかる子供の父には期待できない。父が同じであることは非常に頻繁だからである。また、他の男性にも期待できない。なぜ或る男性が他の男性と性的関係を楽しむ女性と他の男が設けた子供に一人格的な支持と保護を申し出なければならないんだ? 特に、かかる子孫が彼自身の生活水準を脅かしているのに。女性は自由恋愛の利点をすべて諦めてその代わり彼女の性的な愛顧を専ら或る男性に認め、ゆえに彼女の子供がつねに彼の子供でもあるとうまく彼に保証しなければ、彼から一人格的な保護を確保できない。

家族制確立自体に関するにかぎらず、またその安定性を維持する際の夫婦間の貞操の重要性に関しても、確かに男性的展望と女性的展望が存在する。この件に関する男性と女性の計算の違いは、少なくとも非常に最近の信頼可能な遺伝的実父確定検査の発達まで子供の母親が、子供の父親には利用不可能かつ達成不可能だった程度で――或る程度の確実性をもって――つねに知られていたという自然な事実に理由がある。民衆に知恵のとおり、mother’s baby, father’s maybe。この事実が再び実に「自然」に、夫婦の適切(および不適切)な結婚品行に関して有意に異なる――非対称的な――期待へと導いた。もちろん家族制度の安定性を確保するためにはどんな形の夫婦の不貞も社会的に不承認を受けなければならなかったが、女性の不貞の場合には男性の不貞の場合よりはるかにきっぱりと不承認が申し渡されなければならず、可能な制裁ははるかに厳しくなければならなかった。これは「不公平」に見えるかもしれないが、妻の不貞は裏切られた男性にとって、夫の不貞に裏切られた女性が蒙ったリスクよりはるか大なるリスクを含んでいたから、実際には非常に理性的なのであり、ゆえに「物の道理」、「事物の本性」に従っていたのだった。ちょうど夫の不貞が彼の妻との離婚に至る第一歩でありうるように、妻の不貞は彼女の夫との離婚に至る第一歩でありうる。この点で、状況は両事例で同じ(対照的)であり、犯された「罪」は等しく重い。しかしながら、もしも夫婦の不貞が離婚に至らないならば、その場合にかぎり、女性に犯された「罪」は男性が犯した罪よりはるかに重いと見なされなければならない。なぜならば婚外情事は妊娠に至るかもしれず、もしもそのように妊娠した女性がそれからも彼女の夫と居続けるならば、彼女の非嫡出子を彼女の夫に彼自身の子として託し、ゆえに他人の子供を養育させようと彼を欺こうと魔がさすかもしれないから、身に迫る危険が発生する。反対の場合にはそのような危険が存在しない。男性は真理を知らない妻に彼の非嫡出子を託すことができない。それゆえ、男性の不貞に比してはるか大なる社会的スティグマが女性の不貞に貼り付けられたのだった。(ついでながら――また実に理性的にも――男性の不貞の場合でも似た区別が行われた。男性が未婚の女性より既婚の女性と情事を行った方が深刻な違反だと見なされた。なぜならば既婚者の場合は前者の場合とは異なり、彼は女性の更なる詐欺行為の潜在的な共犯者になるからだ。したがってこの区別の認識において、かなり非差別的な男性の性的衝動に用立てるため、売春はほぼ普遍的な社会制度になった。)

[54] Mises, Socialism, p. 282.

[55] この拡散過程の速度は、考古学的な記録に基づいて、陸上で一年あたり約一キロメートルと見積もられている(海岸と河川沿いよりやや速い)。Cavalli-Sforza, Genes, Peoples, and Languages, p. 102を見よ。

[56] たとえばCavalli-Sforza, Genes, Peoples, and Languages, pp. 101–13; Cavalli-Sforza & Cavalli-Sforza, Th e Great Human Diasporas, chap. 6, esp. pp. 144 ffを見よ。

[57] たとえば一万年以上前にはすでに、現在のトルコのチャタル・ヒュユクのような初期新石器開拓地は居住者四千人~五千人の推定規模に達していた。そのような場所での発掘物は、ストーンヘンジ風の聖地(悲しいかな、六千年以上も古い!)、精巧なる壁画つきの雄大なる石製の家屋、動物レリーフと彫刻つきの巨石円柱、文字様のシンボルつきの彫り物、装飾品、入念なる勲章つきの石瓶、石剣、黒曜石(火山石)製の鏡、骨製の針、色彩豊かな石でできた環と鎖が含まれ、金属製品の先駆けすらあった。

[58] Colin McEvedy & Richard Jones, Atlas of World Population History, Harmondsworth: Penguin Books, 1978を見よ。

(出典: mises.org)

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