フランス自由主義学派についての論評

Joseph Salerno, Comment on the French Liberal School.

今日の英米経済学にはフランス自由主義的経済学派の作品と業績に対する正真正銘の「黙殺の陰謀」が存在する。これは同時に、経済学での公平無私な歴史的学識の状態に関する惨めな実録であり、トマス・クーンの科学的進歩の理論とその社会科学への応用可能性の目覚しい確証である。[1][2]いわずもがな、ジョン・メイナード・ケインズの業績を絶賛する流れでセーの販路の法則への精通をひけらかすだけでは「陰謀論」を掘り崩せないし、ましてや大学生の教室でバスティアの『ロウソク業者の嘆願』に許容可能な演出を加えたり、これはもちろん幼稚産業には当てはまらないと警告したりすることでも同じである。歴史の見晴らしのうちにこの学派を配置し、その最も著名なメンバーに注目することで、速やかに、誠心誠意、この「陰謀」を打ち破ろう。

フランス自由主義学派の誕生は一八〇三年、ジャン=バティスト・セーの『経済学概論』と同時に起こった。[3]その影響力は十九世紀の終わり以前には衰え始めていたものの、古典的自由主義的な世界観を消散せしめた第一次世界大戦の到来がこの衰退を確固たるものにし、快活なるギュスターヴ・ド・モリナーリの一九一二年の死去をもって、学派の逝去が記録される。一八三〇年から第一次世界大戦まで、コレージュ・ド・フランスの政治経済学部での威信ある教授職は専らこのメンバー、すなわち、セー、イタリア人ペッレグリーノ・ロッシ、ミシェル・シュヴァリエ、およびシュヴァリエの養子たるポール・ルロワ=ボーリューが、かかる順に勤めていった。他の著名なメンバーには、デスチュ・ド・トラシー伯爵、シャルル・デュノワイエ、フレデリック・バスティア、スイス人アントワーヌ・エリゼ・シェルビュリエ、ジャン=ギュスターヴ・クルセル=スヌイユ、エミール・ルヴァスール、それともちろん、ベルギー系のモリナーリがいる。

学派はその後年には「パリ・グループ」として知られるようになった。[4]なぜならば、彼らは『経済学者ジャーナル』、コレージュ・ド・フランス、新辞書のような、パリでの多様な出版物、組織、制度に対し完全な支配を及ぼしていたからだ。パリ・グループと自由主義学派の全体は、シュンペーターによって適切にも「反国家主義者」と記述されていた。[5]シュンペーターによると、パリ・グループは特に

経済学者の主な仕事は社会主義的な教義に反論し、あらゆる種類の社会改革と国家干渉の計画すべてに含まれる酷い誤謬と格闘することであるという信念に耽っていた。特に、彼らは無条件自由貿易とレッセフェールの垂れ旗を頑強に掲げていた。[6]

実に、パリ・グループのフランス経済学での優勢はかくも徹底的であって、その過激レッセフェール原理への踏み込みはかくも頑固であり、ゆえに政治的に不愉快であったから、フランス政府自らその影響力を彫り崩そうとしていたのだった。それで、経済学者業に就く人がみなパリ・グループに共感的な人物であるわけではなくなったのは、政府が全フランス大学の法学部に政治経済学の教授職を設置した一八七八年のことであった。これは自由主義学派が疑問の余地なき権威の地位から追い払われるよう揺さぶるのに役立ち、引き続く三十五年間はフランス経済学での当学派が影響力の漸進的な衰退にまみえた「けれども、確信の強さと同じだけ長命で目立ったレッセフェールの猛者の小集団は、レオニダス王のテルモピュライ戦でのスパルタ軍のように持ち堪えていた」。[7]

しかしながら、フランス自由主義学派の冷遇は、現代の英米経済学者にとっても差し支えないそのような良性の無視で急停止するものではなかった。彼らの貢献を認識していた英語話者の経済学者の手ですらこの学派が悪し様に扱われてきたというのが遺憾な事実である。JEケアンズは、バスティアの価値非中立的な方法論と「サービス」価値説のさもなくば正当だった批判に際して、フランス自由主義学派を次のとおり特徴付けた。

……政治経済学のイギリス学派の最も特徴的な学説は……海峡の反対岸でそれらの最も力強い擁護と最も技巧的な解説者を幾人か得てきた。セー、デュシャテル、ガルニエ、クルセル=スヌイユ、シェルビュリエのような男たちは、少なからぬ独創的で重要な経済学説の発展に貢献しつつも……、アダム・スミスとマルサス、リカードとミルの同胞人の通訳者なのであった。[8]

ほら、ケアンズの言明はセーらがリカード古典派パラダイムを推敲し改良し拡張することに努めていただの、彼らは実はイギリス古典派学派の偉人の肩に乗っていただのという印象を残す。これ以上に不当な事実描写は想像すらできない。自由主義学派の経済学者は古典派学派のとは急進的に相異なる独特なパラダイムの内部で働いていた。このパラダイムは、コンディヤック、テュルゴ、ケネー、そしてカンティロンからスコラ学派まで遡る長く輝かしい伝統に育まれたものである。この伝統はアダム・スミスと後にリカード古典派学派の薄ら呆けた思考と的外れな解説で低品質化された学者には部分的にしか吸収されなかった。かくしてセーの種子的な『概論』はスミスの輝かしい普及した洞察の単なる厳密な体系化ではなく、むしろそれ自体で輝かしい、カンティロン・ケネー・テュルゴの伝統内部の堅牢な基礎においてスミス派の知覚を提出するものだったのである。

セーの作品が「純粋にフランスの源泉から成長し」、偉大なカンティロン・テュルゴの伝統内に四角四面に収まっていることを初めて指摘したのは、ヨーゼフ・シュンペーターであった。[9]さらに、リカード古典派経済学者とその新古典派の後裔が口先だけで頻りに唱える「皮相性」の非難に反し、セーの作品を擁護したのはシュンペーターであった。けれども、フランス自由主義学派を非科学的で分析的に無能であると高慢に片付けたのも、またシュンペーターなのであった。シュンペーターが記すところでは、この学派全体について言えば、

……部分的には、彼らの心の実践的な転向と、経済政策のみへのあまりにも排他的な専心のせいで、彼らは純粋に科学的な問題への関心を失っており、そのせいで、分析的な業績に関してはほぼからっきしであった。[10]

シャルル・デュノワイエについて言えば、

しかし我々がシャルル・デュノワイエの『労働の自由について』(1845)に見出す――彼の強い感覚と結びついた――本物の才能すべてにもかかわらず、我々はこれを科学的な作品と評価することはできない……。この本は我々の知識や、また事実に対する我々の支配には、何も付け加えない。[11]

バスティアについて言えば、

この本〔『経済調和』〕には良いアイディアが少しもないなどと言い張るはずはない。にもかかわらず、推理力の不足や、いずれにせよ経済学の分析装置を操る力の不足のせいで、ここでは更なる審問が拒絶される。私はバスティアが悪い理論家だったとは考えない。彼は理論家ではなかったと考えるのだ。[12]

パリ・グループについて言えば、

しかし我々にとって重要なことは、政治的にもそうであったように、彼らの分析が方法論的に「反動的」であったという事実である。彼らは単純に、我々の主題の純粋に科学的な側面を気に留めなかったにすぎない。JBセーとバスティア、それと後に少し薄められた限界効用理論で、彼らの科学的な欲求は満足したのだった。[13]

その高慢ちきでシュンペーターすらお凌ぎなされたのはヘンリー・ウィリアム・シュピーゲルさまであり、彼は「セーの伝統を続けてきたところには科学的な作品がほとんどなかった」と宣言することで自由主義学派全体を暗黙裡に却下する。[14]しかしながら、英語話者の論評者全員がこの学派の業績を見くびっていたわけではなかった。偉大な主観主義的革命家のウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズが一八七一年に彼の先駆的作品『経済学の理論』の結論的な段落で記すには、[15]

シニア、ケアンズ、マクラウド、クリフ=レズリー、ハーン、シャドウェルのような著述家の作品には、ボードーとル・トローヌからバスティアとクルセル=スヌイユまでのフランス人経済学者に言及することなく科学の改善に向けた価値ある提言があった。しかしイギリスでは彼らフランス人は無視されている。なぜならばデイヴィッド・リカードとミル父子、正統リカード学派を正統たらしめてきたホーセット教授らには、彼らの作品の優秀さは理解されなかったからだ。[16]

ジェヴォンズは同じ作品の一八七九年に著された第二版の序文において、同じテーマでもっと情熱的な詳述を行った。

……その見解をリカード派経済学の迷宮に囚われている者にとっては別として、私はこの賃金の学説がまったく新しくないことを確信している。真の学説には、コンディヤック、ボードー、ル・トローヌから、JBセー、デスチュ・ド・トラシー、シュトルヒらを経て、バスティアとクルセル=スヌイユまでへの、偉大なフランス時経済学者の著作物を通して、多かれ少なかれ明白に遡ってゆけばよい。私が一層明白に到達した結論は、真の経済学の体系に到達する唯一の希望が、リカード学派の迷宮的で前後不覚な仮定をこれっきりで投げ捨てることにあるというものだ。我々イギリス人経済学者は愚者の楽園で暮らしていたのだ。真理はフランス学派にあり、我々がこの事実を認識するのが早いほど、古く誤れる学説に対して克己を許すにはあまりにも深く傾倒してきたおそらく数少ない者を別とした、全世界のためになる。[17]

自由主義学派に対するジェヴォンズの好意的な評価は、かかる学派が根を張っていた独特な伝統に対する彼の明白な認識から生じていることは明白である。しかしそれでは、カンティロン・テュルゴ・セーの伝統がフランス自由主義学派の科学的長所に対するシュンペーターの非難を妨げなかったのはなぜかというエニグマが残ってしまう。この謎の答えはシュンペーターの「……高みの天国においては、セーの真の後継者は実は偉大なるワルラスであった」という信念にある。[18]シュンペーターはセーの作品がフランスの伝統の「計量経済学者」、すなわちボワギルベール、カンティロン、ケネーとフィジオクラートから、テュルゴを経て、割るラスの相互決定的一般均衡システムの着想まで至る「鎖の最も重要な繋がり」であったと強調することに決して飽きなかった。[19]したがって、シュンペーターはセーの分析経済学への最も偉大な貢献を「薄ら呆けた不完全な定式化にせよ、彼の経済均衡の着想」と評したのである。[20]この見地では、フランス自由主義学派はセーの後継者としては「応用経済学、経済政策での態度、体系的協定と……経済理論の低域」の「それほど高くない水準」にしかいなかったのだった。[21]

かくてシュンペーターはフランスの伝統を主に「カンティロン・ケネーの『タブロー』が経済均衡の本性の明示的着想を伝えるために開発された最初の方法であった」ので、[22]そのようにして後のワルラス・パレートの一般経済均衡の概念の種子を孕んでいたから擁護したのである。しかし確かに、シュンペーターでさえ気づいたとおり、カンティロン・ケネー・テュルゴの伝統は単なる「経済生活の循環フロー」の認識より多くの点で区別されていた。この伝統の示差的な特色を叙述する際には、自発的交換の互恵性と市場価格決定の効用と稀少性の中心的役割を強調した後期スコラ学派の価値と価格の理論を組み込んでいたという事実が看過できない。[23]また不確実な世界での企業家の枢要な役割を同定し強調した点も忘れられないだろう。[24]要点は、循環フロー概念を吸収するよりはるかに深く、セーとフランス自由主義学派がこの伝統に染まっていたことである。

セーと特にデスチュ・ド・トラシーは明示的に人間行為学的な方法論を継承した緩いアプローチを形作った。徹底的な人間行為学者であるデスチュにとって、政治経済学とは「或るものが他のものより好ましいことを発見するという一般的かつ普遍的な能力」、つまり意思の結果からの論理的な追跡であり、それ以上でもそれ以下でもない。[25]したがって、彼が考えるところでは、彼自身の輝かしい仕事、『経済学論考』は、

……単なる政治経済論考ではない……。意思の論考であり、知性の論考の続編を形成している。この源泉に遡らないせいでいつの間にか陥ってしまうような錯誤を確実に検出するために、それらが我々の本性と我々の存在の条件からどう導出されるか見ることの大なるに比べれば、私の意図は道徳科学の全詳細を論じ尽くすことにすぎない。[26]

そのうえ、デスチュはこの作品で、確立は同質事象部類の計算しか意図できないし、この同質性が社会現象には必然的に欠如しているというミーゼス的洞察を組み込んだ社会科学における、確立理論の使用に対して痛烈な人間行為学的批判を行った。デスチュの言葉では、

人々の能力と誠実さの程度、エネルギーの程度と、情熱、偏見、習癖の力が、よもや数で評価されることはできない。一定の制度や一定の機能の影響力の程度、一定の体制の重要性の程度、一定の発見の困難さの程度、一定の発明や一定の過程の効用の程度についても同じである。言葉の全き厳密さにおいて本当に評価不可能かつ計測不可能なこれらの量について、我々は限界を決定する際には数という手段によりそれらの結果の頻度と範囲につき一定の点を求めるし、一定の点に到達さえすることを、私は知っている。しかしまた、まったく途方もなくならずにはいられないような他の結果に後に至るための準備的な結果に到達するためにすら、非常に異なる多数の物事を類似するものとして一緒に配置することが必要なので、我々がかつ答えを演繹するために合計すべきであり、かつ完全に類似した物事として一緒に数え入れるべきであるところのこれらの結果において、同時に存在する原因と、影響する状況と、多数の本質的な動機の変更と変量を解きほぐすことは、ほぼつねに不可能であり、またつねに不可能であると言っていいだろうことをも私は知っている。[27]

かくて、自由主義学派を相互決定的均衡システムの「高みの天国」への入場から永遠に締め出したのはその分析的な腕前の欠陥ではなく、社会科学の方法論的基盤に対するその鋭い洞察力であった。現代主観主義者にとって、フランス自由主義学派に適用されるシュンペーターの「非科学的」という罵倒語は「非科学主義的」というシボレテに翻訳される。

[1] Thomas S. Kuhn, The Structure of Scientific Revolution, 2nd ed. (Chicago: University of Chicago Press, 1970).

[2] 人間行為の科学わけても経済学へのクーンの理論の応用可能性について、Murray N. Rothbard, in idem, Egalitarianism as a Revolt Against Nature (Washington. D.C.: Libertarian Review Press, 1974)の"Ludwig von Mises and the Paradigm for Our Age"を見よ。

[3] 英語版のJean-Baptiste Say, A Treatise on Political Economy. trans. by C. R. Prinsep (1880; rep. ed. New York: Augustus M. Kelley, 1963)を見よ。

[4] パリ・グループの議論のために、Joseph A. Schumpeter, History of Economic Analysis, ed. by Elizabeth Boody Schumpeter (New York: Oxford University Press, 1954), pp. 840-843.

[5] Ibid., pp. 497, 841

[6] Ibid., p. 841.

[7] Ibid., p. 843.

[8] John E. Cairnes, “Bastiat”, in idem, Essays in Political Economy (1873; rep. ed. New York: Augustus M. Kelley, 1965), p. 313.

[9] Schumpeter, History, pp. 491-492.

[10] Ibid., p. 497.

[11] Ibid., p. 498.

[12] Ibid., p. 500.

[13] Ibid.. p. 841.

[14] Henry William Spiegel, The Growth of Economic Thought (Englewood Cliffs, N.J. :Prentice-Hall, 1971), p. 340.

[15] W. Stanley Jevons, The Theory of Political Economy, ed. with an introduction by R. D. Collison Black (Baltimore, Md.: Penguin Books, 1970).

[16] Ibid., p. 261.

[17] Ibid., pp. 67-68.

[18] Schumpeter, History, p. 497.

[19] Ibid., pp. 492, 828.

[20] Ibid., p. 492.

[21] Ibid., p. 497.

[22] Ibid., p. 242.

[23] カンティロンとフィジオクラートとテュルゴの学説と分析について、ibid., pp. 209-249を見よ。

[24] Ibid., pp. 222, 492.

[25] Count Destutt de Tracy. A Treatise on Political Economy, trans. by Thomas Jefferson (1817; rep. ed. New York: Augustus M. Kelley, 1970), p. 38.

[26] Ibid., p. 107.

[27] Ibid., p. 25.

(出典: mises.org)