マルサスの罠から産業革命へ:社会進化の省察

Hans-Hermann Hoppe, A Short History of Man.

経済学

経済学には富を増やして豊かになるにはどうしたらいいかという疑問に単刀直入な答えがある。

答えは三つの要素からなる。あなたが豊かになるには、(a)資本形成、すなわち、中間的な財なしの場合よりも単位時間あたりにもっと多く消費財を生産したり、単なる土地と労働だけではまったく生産できない財を生産したりできるようになるための、中間的な「生産」財あるいは「資本」財の構成と、(b)分業への参加と統合、そして(c)人口統制、すなわち最適人口規模の維持、以上を通さなければならない。

島で独りのロビンソン・クルーソー は本源的には彼自身の「労働」と「土地」(自然)しか好きに処分することができない。彼は自然が彼を豊かに(または貧しく)させるがままに豊かである(または貧しい)。装備は素手だけで、彼は最も喫緊に感じられる欲望の幾つかを直接満たすことができる。最悪でも、彼はいつでもこの方法で、つまり即座に、余暇への欲求を満たすことができる。しかしながら彼のほとんどの欲望の満足には素の自然と手以上のもの、すなわち幾つかの間接的あるいは迂回的な――そして時間消費的な――生産方式が要求される。ほとんどの、実際ほぼすべての財とこれに関連する種類の満足は、間接的にしか有用でないような道具の助けを、生産財や資本財の助けを必要とする。素手でも生産できる (余暇のような) 財を単位時間あたりにもっと多く生産することや、土地と労働だけではまったく生産できない財を生産することは、生産財の助けで可能になる。素手で獲れるより多くの魚を獲るために、クルーソーは網を拵える。また、素手ではまったく建てられない避難所を建てるために、彼は斧を作らなければならない。

しかしながら、網や斧を拵えるには犠牲(貯蓄)が要求される。確かに、生産財の助けでの生産はその助けがない場合よりもっと生産的であることが期待されるが、もしも網がないよりもあった方が単位時間あたり多くを捕まえられるだろうと期待をしなかったら、クルーソーは網を拵えることに時間を費やさないだろう。にもかかわらず、生産財を拵えるためには時間がかかるが同じ時間は余暇などの即座に利用可能な消費財の享受や消費には使うことができないから、生産財の生産は犠牲が伴う。クルーソーは、生産性を強化する網を拵えるか否か決定する際に、さらに待つことなく今得られる満足と、もっと長い待機時間の後でしか得られない満足の、二つの期待上の満足の状態を比較して格付けするに違いない。クルーソーは網を拵えると決定する際、今の、現在のもっと大なる消費の割愛された価値、つまり犠牲を、後の、将来のもっと大なる消費の価値、つまり報酬の下に格付けするよう決意したのである。そうではなく、彼がこれらの大きさを別様に格付けしていたら、彼は網作りを控えていただろう。

将来財とこれに関連する満足に対する現在財の比較考量と可能な交換は時間選好で決定される。現在財は将来財よりも不変に価値があり、我々はプレミアム付きで、割り増し付きでしか、前者を後者と交換しはしない。しかしながら、現在財が将来財より選好される程度、あるいは、可能な現在消費をもっと大なる将来消費のために割愛する本意、すなわち、貯蓄する本意は、人ごとにも時ごとにも異なっている。クルーソーの一個人的な時間選好の高さに依存して、彼は多かれ少なかれ貯蓄し投資するだろうし、彼の生活水準は高くも低くもなるだろう。彼の時間選好が低いほど、すなわち期待される将来のもっと大なる満足と引き換えに現在の喜悦を見送ることがクルーソーにとって容易であるほど、クルーソーが蓄積する資本財はもっと多くなり、彼の生活水準はもっと高くなる。

第二に、人々は分業に参加することで彼の富を増加させることができる。クルーソーがフライデーと合流したと仮定しよう。彼らの自然な、物理的な、または精神的な相違や、彼らが直面する土地(自然)の相違のせいで、多様な財の生産での絶対的および比較的な優位がほぼ自動的に発生する。クルーソーはフライデーより良く或る財を生産する備えがあり、フライデーは同様に他の財を生産する構えがある。もしも彼らが各々特にうまく(良く)生産できるところに特化するならば、彼らが特化せず孤立的で自己充足的な生産者の立場に留まるよりも、財の総産出がもっと多くなるだろう。また、もしもクルーソーかフライデーのどちらかがあらゆる財の優れた生産者であるならば、なおも全般的に優れた生産者は彼の優位が特に大なる活動に特化すべきであり、全般的に劣った生産者は彼の劣位が比較的小さい活動に特化すべきである。それによってまた生産される財の全般的産出量は各人が自己充足的な孤立のままである場合よりも大きくなるだろう。

第三に、社会の富は人口規模に依存する、すなわち、人口がその最適規模に保たれているか否かに依存する。富が人口規模に依存することは「収穫の法則」と、ミーゼスが「偉大な思想的業績の一つ」として次のとおり賞賛した「マルサスの人口法則」から出てくる。

これは分業の原理とともに近代生物学と進化論の基礎となる。人間行為の科学にとっては、これらの二大根本定理は市場現象の絡み合いと連鎖の規則性および市場データによるその不可避的決定の発見に次ぐ重要性をもつ。マルサスの法則ひいては収穫の法則に対して提起された反論は空虚であり、取るに足らない。両法則には異論の余地がない。[1]

収穫の法則はその最も一般的かつ抽象的な形態では、二つ以上の生産要素のどんな組み合わせにも最適な組み合わせが存在する(し、それからのどんな逸脱も物質的無駄、または「効率ロス」を伴う)と述べる。かかる法則は二つの本源的生産要素たる労働と土地(天与の財)に適用されれば、もしも土地量(と利用可能な技術)が固定されて変化しないまま労働量を継続的に増加するならばついには労働単位投入あたり物的産出が最大化する点が達せられることを含意する。この点が最適人口規模にあたる。もしも人口がこの規模を超えて増えるならば、一人あたり所得は落ちるだろうし、同様に、もしも(効率ロスを伴いつつ分業が縮小するにつれて)人口がこの点以下に落ちるならば、やはり一人あたり所得は減るだろう。人ごとの所得の最適水準を維持するためには人口はもはや増やさず変動なきままにされなければならない。

そのような静態的社会が一人あたり実質所得を増加するか一人あたり所得の損失なく規模を増加するにはたった一つの方法しか存在しない。余暇などの即時消費の差し控えによる貯蓄を通して可能になった、もっと良く、もっと効率的な道具の使用、つまり技術的な発明を通すことである。もしも技術的発明がない(技術が固定的である)ならば、随伴する一人あたり所得の低下なしで人口が規模を増加する唯一可能な方法は、もっと多くの(possiblyもっと良い)土地を使用に入れることである。もしも利用可能な追加的土地がなく技術が「所与」の水準で固定的であるならば、最適規模を超えたどんな人口増加も一人当たり所得の進行的な落下に導くに違いない。

この後者の状況は「マルサスの罠」とも言及されてきた。ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスはこれを次のとおり特徴付けた。

福利に役立つと思われる物質的供給に合目的的に出生率を調整することが、人間的な生活と行為、文明、そして富と福祉の向上に不可欠な条件である。……人口数の過大な増加によって平均的生活水準が悪化すると、妥協不可能な利害の衝突が起きる。生存競争において、各人は再び他の万人のライバルとなり、ライバルの絶滅が自分自身の福祉を増進する唯一の手段となる。……自然の条件がこうであるから、人間には各人に対する各人の情け容赦ない戦争か、社会的協業かの選択しかない。しかし人々が生殖の自然な衝動の赴くままにしていると、社会的協業は不可能である。[2]

これらすべてが狩猟採取社会でどうなったかはすでに前章で記述され説明されている。人類が見かけ上快適な狩猟採取的生活様式をやめなかった場合は思い浮かべられる。これは人類が狩猟採取一団の最適規模(数ダースのメンバー)を超える人口増加を規制することができたらそれだけで可能だったろう。この場合、我々は今日でもまだ、一万一千年前か一万二千年前に生きていた直接先祖のみなのように暮らしていたかもしれない。しかしながらじっさいは人類はそうはしかねた。人口は増加し、それに応じて追加的な土地が入りつくされるまで、ますます広い領土が占拠されなければならなかった。そのうえ、狩猟採取社会の枠組み内での(たとえば二万年前の弓矢の発明のような)技術的な進歩はこの拡張主義を(減速させるよりはむしろ)加速させた。狩猟採取者は(非人間的な動物すべてのように)天与の財の供給をただ枯渇させた(消費した)だけ、財を生産せず、ゆえにこの供給に財を加えなかったし、彼らの手のうちのもっと良い道具は領土的拡張の過程を(遅らせるよりむしろ)早めたのだった。

約一万一千年(一一,〇〇〇年)前に始まった新石器革命は幾らかの一時的な緩和をもたらした。農耕牧畜の発明は同一の変化なき量の土地の上でもっと多くの人々を生存させてくれたし、家族の制度は子孫生産の費用と便益を私有化(内部化)することで、それまで未知だった新しい人口増の管理を提供した。しかしどちらの革新も過剰人口問題の永久的な解決を起こさなかった。人々はいまだ下着を履いたままではいられなかったし、農耕牧畜に象徴される新しい非寄生的な生産様式が生み出したもっと大なる生産性はまたも人口規模の増加で速やかに食い尽くされた。以前よりは有意に大なる人口が地球上で維持できたが、人類はまだマルサスの罠から逃れてはいなかったのだった――いわゆる産業革命が始まる約二百年前までは。

経済史:問題

以降で説明される問題はかたや世界の人口増を、かたや一人あたり所得(平均的生活水準)の発達を図示する二つの表で捉えられる。

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第一の表はコーリン・マクエヴディとリチャード・ジョーンズから引くものであり、紀元前四〇〇年から現在(二〇〇〇年)までの人口増加を示している。人口規模は新石器革命の当初は約四百万人であった。しかし約七千年前(紀元前五〇〇〇年)まで、穀物の地域(初めは単なる肥沃な三日月地帯の一地方、次も中国北部の一地方だった)は世界の人口規模に大なる影響を及ぼすには小さすぎた。人口はその間にも約五百人まで増加した。しかしそれ以降の人口増は急速であった。二千年後(紀元前三〇〇〇年)は千四百万人、ほぼ三倍となり、[3]三千年後(紀元前一〇〇〇年)は五千人、[4]そしてそのほんの約五百年後の、表が始まるときには、世界人口規模は約十億人に達していた。それ以来、表が示すとおり、人口規模は約一八〇〇年までは(約七億二千万人へと)ゆっくりながら多かれ少なかれ着実に増加し続けていった。そしてその終わりに有意な急変が発生し、ほんの約二百年後の現在に七十億人に達するほど、人口規模が鋭く増加した。

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第二の表はグレゴリー・クラーク[5]から引くものであり、人類有史の始まりから現在までの一人あたり所得の発達を示している。これもまた一八〇〇年ごろに生じた有意な急変を示している。そのときまで、すなわち人類有史のほぼ全史にかけて、(食料、家屋、衣服、暖房、および照明のタームでの)一人あたり実質所得は向上しなかった。すなわち、十八世紀イギリスでの平均的生活水準は、最古の賃金率と多様な消費財価格の記録が発見できたところたる、古代バビロニアのそれより有意に高くはなかったのである。おのずと、定住的生活と私的土地所有をもって、富と所得の判明なる相違は存在した。定住生活のほぼ最初から、今日の基準でさえ途方もなく贅沢に暮らしていた大土地所有者(領主)が存在した。また、平均的生活水準はいつでもどこでも等しく低くはなかった。たとえば、一八〇〇年のイギリスとインドと西アフリカの実質所得には著しい地域間相違が存在した。そしてもちろん通時的比較に関するかぎり、古代ローマ、ギリシア、中国、またはバビロニアでは知られていなかった多くの技術が一八〇〇年イギリスに存在した。けれどもいずれにせよ、人口の圧倒的多数派、少数の地主とほぼ全員の労働者の大勢が、生存水準近くかそれより若干マシなだけの生活を送っていた。多様な外的出来事のせいで実質所得の浮き沈みはあったが、約一八〇〇年まではっきりと識別できるような一人当たり実質所得の継続的な浮き上がりはどこにもなかった。

組み合わせれば、どちらの表も、以前の人間発展のマルサス段階の有意性――特にその長さ――とまた約二百年前に起きたいわゆる産業革命の世界史的な有意性を捉えている。約一八〇〇年までは、人間経済と非人間的動物経済にはほとんど違いが存在しなかった。動物(と植物)にとっては、その数の増加は生存手段を侵食するだろうし、最終的には過剰人口に、生存手段の欠如のせいで「根絶」されなければならない、ミーゼスいわく「定員越えの者」に至ることは、つねに不変に真である。今では我々は人間に関するかぎり、そうではありえないことを知っている。現代西洋社会から存在を根絶さるべき定員越えの者はいない。しかし人間的生活のほとんどにかけて、彼らは実際に存在したのだった。

確かに、大部分はもっと大なる土地が農業的使用のために占有されたおかげで、そして部分的には、もっと良い技術が生産財に組み込まれ、分業が拡張され強化されたおかげで、人口規模は増加できただろう。しかしそのような経済的「利得」はすべて、人口増加がまたも利用可能な生存手段を侵食し過剰人口に至り、分業の余地がないのでひっそりと死に絶えるか、乞食や浮浪者や盗賊や強盗団または戦士の形で脅威(経済「害」)になる「店員越えの者」が発生することでつねに速やかに食い尽くされた。人類史のほぼ全史を通して賃金の鉄則が支配していた。所得と賃金は、定員越えの大階級の存在のせいで、ほぼ生存水準で保たれたのだった。

歴史、説明さる

なぜマルサスの罠から抜け出すのにそんなに長く時間がかかったのか、そして我々がついに罠から抜け出しおおせたとき何が起こっていたのか? なぜ農業開拓者としての存在を好んで狩猟採取の存在を諦めるまでそんなに長くかかったのか? そしてなぜ農耕牧畜の発明後ですら、人類のマルサスの罠からの見たところ最終的な脱出までに、またもう一万年以上かかったのか? 経済学、あるいは私がこれに関して述べたことは、これらの疑問に答えないし、答えられない。

経済学者、わけてもリバタリアン経済学者の標準的な答えはこうだ。制度的な障害があったのに違いない。それは、速やかな発達を妨げる、特に私有財産権の不十分な保護であり、これらの障害はほんの最近(約一八〇〇年)に除去されたのだ、と。これは本質的にはルートヴィヒ・フォン・ミーゼスの説明でもあった。[6]同様にして、マレー・N・ロスバードも似た観念を提出している。[7]私はこの説明が間違っているか少なくとも不十分であると論じ、代替的な(仮説的)説明の概略を提示したい。

一つには、我々が知るかぎり、狩猟者と採取者は農耕牧畜を発明するための自由時間がたっぷりあった。繰り返し繰り返し無数の場所で、彼らは過剰人口と恒常的に低下する所得を煩っていたけれども、割り切られる余暇の機会費用は低かったに違いないにもかかわらず、数万年間にわたってどこの誰もマルサス条件からの(一時的な)脱出として農耕と牧畜を考えたことはなかった。その代わりに約一万一千年前まで、狩猟採取部族は再発する過剰人口の大問題に対し、(最終的に土地に入りつくす)追加的な土地を使用に入れること、つまり移住か、人口規模が実質所得の低下を防ぐに十分減るよう互いに死ぬまで戦うことか、以上のどちらかで応じていた。また、定住社会での財産権は多くの時と場所でよく保護されていた。私有財産の観念と私有財産の成功裏の保護は最近の発明と制度ではなく、長いこと知られており、定住生活の最初っからほぼ実践されていた。たとえば我々が知るかぎり、一二〇〇年イギリスでの財産権と封建制ヨーロッパでの多くの物事は当代のイギリスとヨーロッパでより良く保護されていた。すなわち、資本蓄積と分業に好ましい制度的なインセンティブがすべてきちんとしていたのだった――けれども、人類人類がマルサスの過剰人口の罠と一人あたり所得の停滞から自らの救出に成功したところは約一八〇〇年までどこにもなかった。かくて、財産保護制度は経済成長(一人あたり所得の上昇)にとって必要条件にすぎず、十分条件とは見なされえないし、見なすべきでない。これをすべて説明するような、他の何か――経済学には現れない、他の何らかの要素――があるに違いない。

答えの一部は明白だ。人類がマルサスの罠を抜け出せていなかったのは、先に書き留めたとおり、人はパンツを履いたままではいられなかったからである。もしもそうしていたら、人口の過剰はなかっただろう。しかしながらこれは答えの一部でしかない。なぜならば、人口統制は実質所得の低下を妨げることができるが、所得を上げることはできないからだ。[8]純粋(先験的)経済学には見つけられない他の何らかの、「経験的」な要因が、マルサスの時代を、そして我々が最終的にそこからどう抜け出したかを、説明するに違いない。この失われた要因は人間知能という歴史的変数であり、そしたら上述の疑問への(以降で推敲さるべき)単純な答えは、人類はほぼ全史にかけて、単純に知的ではなかったというだけのことなのだ――知能を養うには時間がかかる。[9]

約一万一千年前かそれぐらい前まで、人類は十分知的ではなく、最も賢いメンバーでさえ農耕牧畜の元になる間接的あるいは迂回的な消費財生産の観念を思い浮かべることができなかった。まず穀物を植えて、ついで世話し、保護し、最終的に収穫するという観念は明白でも些細でもない。また、動物を家畜化し、節約し、繁殖させるという観念も、明白でも些細でもない。そのような考えを思い浮かべるにはかなりの程度の知能を要する。そのような認知的偉業を可能にするに十分な知能をついに繁殖させるには、狩猟採取条件の下での自然淘汰に数万年がかかった。

同様に、生産性の増加がどんな人口増加をも継続的に凌げるほどの、人間知能の(もっと正確に言えば、高知能に相関する低時間選好の)発達の入り口に達するには、農耕条件の下での自然淘汰でさらに数千年がかかった。新石器革命の始まりから約一八〇〇年まで、(もっと多くの土地の農業的に使用されるに加えて)世界人口の約四千万人から七十二億人(現在七十億人)までの有意な増加を起こすように、賢い人々によって十分な発明(技術的改善)が行われて(知的に劣った他の人々に模倣されて)きた。しかしほぼ全時代にかけて、技術的進歩率は決して一人あたり所得増加を兼ね備えた人口増加を許すほど十分ではなかった。

今でこそ我々は、経済成長に限界を課するものとは消費を少なくして貯蓄を多くすることの不本意だけであることを当たり前だと思っている。一見すると、相異なる財をもっと多く、もっと良く生産するための処方と自然資源は果てしない供給があるし、これらの資源の使用と処方の実用を妨げるのは我々の貯蓄が限られていることにすぎない。けれども、この現象は実際には非常に新しいものだ。人類史のほぼすべてにわたって、貯蓄はこれを生産的に投資する方法、すなわち単なる貯蓄(保存)を生産的な貯蓄(生産財の生産)に変える方法の観念が欠如していたせいで控えられていた。たとえばクルーソーにとって、低い時間選好をもつことは貯蓄するために十分ではなかった。クルーソーはまた、網の観念を思い浮かべなければならず、ゼロから網を作り上げる方法を知っていなければならなかった。ほとんどの人々は何か新しいものを発明し実用するほど知的ではないし、せいぜい他のもっと賢い人々が彼の前に発明したものを多かれ少なかれ完全に模倣できるにすぎない。けれども、もしも誰も発明できないか、他の人が以前に発明したものを模倣できないならば、最も安全な財産権の状態でさえ何にもならない。あらゆるインセンティブはレセプターの働きを必要とするが、もしもレセプターが欠如しているか不十分にしか感受しないならば、異なるインセンティブ構造も何にもならない。それゆえ、財産保護制度は経済成長(一人あたり所得上昇)の必要(だが十分ではない)条件としか考えられないに違いない。同じように、分業の高い物的生産性を認識する知能が要求され、人間繁殖の法則を認識してあらゆる形態の意識的人口統制のうち効果的な――低費用の――統制のみを行う知能が要求される。

(低時間選好を兼ねた)もっと高い人間知能が時を経て繁殖されるメカニズムは単刀直入である。人が身体的に弱く、過酷な自然に対処するには備えが不十分であることを所与と鑑みれば、彼の知能を発達させることは彼にとって好都合だった。[10]もっと高い知能は経済的成功に繋がり、今度は経済的成功が繁殖的成功に繋がる(大勢の生存子孫を生産する)。二つの関係性の存在については大量の経験的証拠が入手できる。[11]

狩猟採取者が存在するには知能が必要であることに疑いは差し挟めない。多様な外的対象を良いか悪いと(財か害に)分類する能力、多数の因果を認識し、距離、時間、速度を評価し、調査して認知し、多様な良いか悪い(財なるか害なる)物を配置し、その場所とその相互関係を記憶する能力、最も重要なのは、言語で他人と意思疎通し、ゆえに協調を容易にする能力だ。或る団体の全メンバーがそのような技能を有するわけではなかった。幾人かは他の幾人より知的であった。これらの知的才能の相違が部族内の――「優れた」狩猟者、採取者、疎通者と、「シラミだらけの」人々の――可視的な地位分化に至ったし、特に狩猟者採取者間で優勢な「緩い」性的モーレスを鑑みれば、今度はこの地位分化が多様な部族メンバーの繁殖的成功の相違に結果していった。すなわち、概して「優れた」部族メンバーは「汚らわしい」人々より大勢の生存子孫を生産し、ゆえに彼らの遺伝子を次世代へともっと成功裏に送り出していった。したがって、もしも人間知能に何らかの遺伝的基礎があるならば、そのかぎりで、狩猟採取条件は時経るほど平均知能が高まる人口を生産(選択淘汰)し、同時に「例外的」知能をますますもっと高い水準で生産していった。

部族内と部族間の競争と、分化せる繁殖的成功率を通した選択淘汰と繁殖は、狩猟採取生活が農耕牧畜を好んで諦められたことではやまなかった。しかしながら、定住条件の下では経済的成功の知的要件がやや異なることになった。

農耕牧畜の発明はそれ自体をして傑出した認知的偉業であった。それは長期化した計画水平線を要した。それはもっと長い準備を要し、自然の因果の鎖に対するもっと深い洞察、もっと遠くに及ぶ洞察を要する。そして狩猟採取条件の下でよりも、もっと働き、もっと忍耐し、我慢することを要する。さらに、数え、測り、比べるための、或る程度のニューメラシーを身につけることが農場主の成功に役立った。部族間分業の優位を認識し自己充足を放棄するには知能を要した。契約を設計し、契約的関係を確立するには、リテラシーを要した。そして、経済的に成功するためには貨幣計算と会計の技能を要した。農場主がみな等しくこれらの技能に適しているわけではなかったし、等しく低い時間選好の程度を有しているわけでもなかった。対照的にも、各世帯が自分たちの消費財と子孫の生産に責任をもち、狩猟採取の条件下でのようなどんな「ただ乗り」ももはや起こらない農業的な条件の下では、人の自然な不平等と、これに対応する多かれ少なかれ成功した部族内と部族間のメンバーの社会的分化が(特に土地保有規模を通して)ますます際立って可視化する。したがって、経済的(生産的)な成功と地位が繁殖的成功になること、すなわち経済的成功者による比較的大勢の生存子孫の繁殖に繋がることは、いっそう直接的かつ目立ったものになる。

さらに、このもっと高い知能を選択淘汰する傾向は「厳しい」外的条件の下で特に著しいだろう。もしも――或る日がすっかり他の年に似ている季節なき熱帯地方のように――人間の環境が変わらず恒常的であり「優しい」ならば、高知能や例外的知能は、大きく変動する季節的多様性がある住むに適さぬ環境でほどの優位にはならない。環境が挑戦的であるほど、経済的成功ひいては繁殖的成功の要件として知能に置かれるプレミアムは高くなる。それゆえ、人間知能の成長は人間居住の厳しい(歴史的には、一般的に北方の)地域ほど最もはっきりとするだろう。

人間は動物と植物で生きてゆく――動植物を消費する――そして動物は他の動物か植物で生きてゆく。かくて植物は人間的食物連鎖の発端に属する。植物の成長は次の四つの要素の存在(か欠如)に依存する。すなわち、二酸化炭素(これは地球全土に均等に分布するのでここでは関心がない)、太陽エネルギー、水、それと非常に重要な、ミネラル(カリウムやリン酸塩など)。[12]最初の現生人類が暮らしていたところ近くの赤道では、三つの生物的成長条件のうち二つが完全に満たされていた。日の光と雨が豊富に存在した。ほぼ毎日、予想可能に降雨した。昼と夜は等しい長さで、気温は年中快適な暖かさ、昼と夜の、夏と冬の気温には、ほとんどかまったく違いがなかった。熱帯雨林では気温は滅多に三十度(ファーレンハイトで八十六度)を超えないし、二十度(六十八度)を下らない。一般的には風は穏やかで、突然の短い嵐しか割り込まなかった。人間居住の条件は非常に魅力的に見えただろう。けれども、かつてアマゾンの熱帯雨林では砂漠や北極のごとき人口密度の低さに近かったように、熱帯地域の人口密度はさらに北(と南)の地域と比べてきわめて低いし、つねにきわめて低かった。これの理由は熱帯での土壌ミネラルの極端な不足である。

熱帯の土壌は、地理学的に言えば(特に地球史上の一連の氷河期と間氷期に影響された地域と比べて)古いものであり、(たとえば実は人口密度がつねに有意に高かったジャワなどのインドネシア諸島のように火山――ミネラル生成――活動がある赤道地域を除けば)ほぼ完全にミネラルが抜けている。結果として、熱帯に特徴的な膨大なバイオマスが、新しい余剰または過剰な成長を生み出している。成長は一年中だがゆっくりであり、総バイオマスの増加には結びつかない。雨林は、いったん成長したらただ自らをリサイクルするにすぎない。そのうえ、このバイオマスの圧倒的な割合がゆっくりと成長する広葉樹の形態に、つまり死んだ物体の形をしており、ほとんどの熱帯植物の葉は赤道の強烈な日光からの保護(冷却)という独特の必要のせいで、硬いだけでなくしばしば毒があるか、少なくとも牛や鹿のような草食動物と人にとって不味い。余剰成長の欠如と、熱帯植物の特別な化学的性質は、頻繁に想像されるイメージとは対照的にも、熱帯が驚くほど少なく小さい動物しか養わないという事実を説明する。実際、大量に存在する唯一の動物はアリとシロアリである。ヘクタールあたり千トン以上の(木がほとんどの)熱帯バイオマスが、肉(動物マス)を二百キログラムしか、植物マスの五千分の一しか生成しない。(対照的にも、東アフリカ草原のサバンナでは、平方キロメートル(百ヘクタール)あたりほんの五十トンの植物マスが、ゾウと、バッファローと、シマウマと、ヌーと、アンテロープと、ガゼルの、約二十トンの動物マスを生成する。)けれどもかくも少数の非巨大動物しかいないところでは、ほんの少数の人間しか維持できない。(実は、熱帯で生きていた人々はほとんどが川辺に住んでおり、狩猟採取よりむしろ魚釣りで暮らしていた。)

人類は原初の場所で、楽園的な、温暖で安定的で予想可能な熱帯環境を離れ、食物を探しに他の地域に入らなければならないような点へと実に速やかに到達した。しかしながら、赤道より北(か南)の地域は季節性の地域であった。すなわち、北(か南)に移動するにつれて、熱帯よりも降雨が少なく、恒常的ではなくなり、気温はますます低下するか、もっと大きく変化するのだった。北方の人間居住地域では、気温は一日で四十度以上、季節温度で八十度以上も容易に変化することがありえた。そのような条件の下で生産された総バイオマスは熱帯より有意に少なかった。しかしながら、さらに赤道から離れるにつれて、土壌は(しばしば)これらの気候的劣位を補って、動物と人間の植物消費、すなわち大勢の大型動物を養えるほど早く生長して大量の新鮮なバイオマス――特に(穀物を含む)草――の季節的余剰を生産するような植物の消費に適した植生の最適な成長条件を与えるに十分どころか余りあるミネラルを含んでいた。

約一万年前に終わった最終氷河期には、この楽園とは程遠い気候条件ながら優れた食糧供給を提供した(評価されている発達のほとんどが生じたところ、ここ北半球に集中している)地域が、(サハラを含む)上側亜赤道アフリカすべてと、(まだ北極の北ヨーロッパとシベリアを除いた)ユーラシア大陸のほとんどを含んでいる。それ以来継続して本質的に今日まで、東に向かって広がる北方の砂漠地帯は季節性地域全体を、南の亜赤道地域と、現在の北ヨーロッパのほぼ全域とシベリアを含む北の地域に区切るようになった。人類発達の狩猟採取段階から本質的に今日まで、最高の人口密度はこれらの「穏やか」な季節性地域に見受けられるだろう(情景の更なる修正には経度しかいらない)。

しかしながらこの文脈では我々が「穏やか」な人間居住地域と評してきたものが実際には非常に厳しい生活条件であって、人間が最初に適応した恒常的に温暖な熱帯のそれと比べてはるか北方の緯度ではさらにきわめて厳しい条件であったと気づくことは重要である。安定的で変化なき熱帯環境とは対照的にも、穏やかな地域は増加した変化と変動を起こし、ゆえにますます難しい知的挑戦を狩猟者と採取者に突きつけた。彼らは(インドネシアの火山性の部分を除けば)熱帯には存在しなかった大型動物の扱い方と運動を学ばなければならなかっただけではない。もっと重要なことに、赤道地域の外では人間環境の季節的な変化と変動がますます大きな役割を担っており、そのような変化と変動を予想し、将来の(動植物の)食糧供給に対するのその影響を予期することがますます重要になった。そうすることに成功できて適切な準備と調整をできな人々は、できなかった人々より生存と繁殖の良い好機を得た。

赤道上の熱帯雨林の外では北(と南)に移るにつれてはっきりとした雨季が存在し、これを考慮に入れなければならなかった。夏季に雨が降り、冬に空気が乾いた。同様にして、動植物の成長と分布は北東貿易風(または南半球では南東貿易風)に影響された。さらに北(か南)の地域では、最終氷河期の終わり以来、(北と南の)砂漠地帯によって亜赤道地域からますます分離されて、冬の雨と夏の日照りに伴い雨季が変化した。雨の分布に影響する風は卓越に偏西風であった。夏は暑く乾燥しており、冬は低緯度でさえ、たとえ短期間にすぎなかろうと、気温が簡単に「致死的」な寒さに達することがありえた。成長季節はこれに応じて限定されていた。最後に、人間居住の最北地域、つまり地中海緯度の北では、東(北アジア)より西(北ヨーロッパ)で大いに、偏西風を伴いつつ、一年中不規則に雨が降った。しかしながら、この人間居住地域では季節的な変化と変動が極端であった。昼(光)と夜(闇)の長さは一年中著しく変わっていった。北の際の地域では、夏の明るい昼と冬の暗い夜がどちらも一ヶ月以上続いた。もっと重要なことに、地域全体で(北東に移るほど特にはっきりと)、冬の間はしばしばきわめて寒冷な条件の長引く期間が経験された。数ヶ月からほぼ一年中続くこれらの期間には、あらゆる植物の成長が本質的に行き詰った。植物は枯れたか発育を停止した。自然は飼料の供給をやめ、人間(と動物)は飢餓と凍死の危険に脅かされていた。したがって、この不慮の事態に備えて食料と避難所の余剰を何とか組み立てることができる生長季節は短かった。そのうえ、長い厳しく凍てつく冬と、短い穏やかで暖かかな生長季節の極端な相違は動物の移動に影響した。動物は、北極の条件に完全には適応せず、「致死的」季節の間は冬眠の形に入ることができなかったのであれば、季節ごとに、はるか離れた立地から多くの場合長い距離を移動しなければならなかった。そして動物は人間的食糧供給の大部分を構成するから、狩猟採取者もまた規則的に長距離を移住しなければならなかった。

山脈、川、水域の存在でさらに道が修正され複雑化された人間生態学と地理学の素描を背景にすれば、最も寒い人間居住地域に向かって北方(また南方)に移るほど、狩猟採取者間で高知能を利する自然淘汰がはっきりしているわけは明白になる。人間が熱帯で成功裏に生きるために重大な知能が要求されることは疑いない。しかしながら均衡にも似た熱帯の恒常性は人間知能の一層の発達に対する自然な拘束として働いた。熱帯では或る日は他の日とかなり似ていたから、即時の周辺を除いて考慮に入れるべき何かや、即時に差し迫った将来以外に計画すべき何かは、ほとんどかまったく存在しなかった。対照的にも、熱帯外の地域の増大する季節性は知的にますます挑戦的な環境を生み出していた。

もしも成功裏に行為して生存し出産したかったならば、季節ごとの変化と変動――雨と日照り、夏と冬、酷暑と酷寒、凪と時化――の存在は、太陽、月、星を含む、もっと多く、もっと遠くの要素と、もっと長く引き伸ばされた時間が考慮に入れられなければならなかった。もっと多く、もっと長い因果の鎖が認識されなければならず、もっと多く、もっと長い議論の鎖が考え抜かれなければならなかった。計画水平線は時間を拡張されなければならなかった。かなり後に成功するために今行為しなければならなかった。生産期間――生産的努力の開始とその完成の間の時間経過――と、準備期間――将来のためにさるべき現在準備(貯蓄)からその将来までの時間経過――は、長期化される必要がある。長い致命的な冬がある最北地域では、食料、衣服、雨風を凌ぐ避難所と暖房が、ほぼ一年中、あるいは一年を超えて続けて行われなければならなかった。日や月の代わりに年タームで計画されなければならなかった。また季節的に広範に移動する動物を追う際に、方向定位と進路決定の例外的な技能が求められる、拡張的な領土を旅しなければならなかった。そのような優れた知的技能と能力をもった例外的な指導者を生み出すに平均して十分な知能の集団だけが、成功――生存と出産――で報われた。他方、これらの偉業を成し遂げることができなかった集団と指導者は、失敗、すなわち絶滅の報いを受けた。

約一万一千年前の農耕牧畜の発明に向かう最大の進歩は人間が居住する最北地域で発生したはずだ。ここでは、狩猟採取集団の内と間の競争が時を経るごとに最も知的な――予見的かつ先見的――な人口を生産してきたはずだ。そして実際、約一万一千年前までの数万年の間、あらゆる重大な技術的前進が北方地域で始まっている。ほとんどはヨーロッパで、そしてセラミックスの分野では日本で始まった。対照的にも、同じ期間に熱帯地方で使われた道具類はほとんど変化のないままだった。

しかし上述の社会進化の説明力はさらに遠くへ及ぶ。ここで提示された認めらるべき仮説的な理論は、なぜマルサスの罠から脱するのにかくも長い時間がかかったのか、そのような離れ業がどうしてちょっとでも可能になったのか、そして、なぜ我々がマルサスの条件に永遠に留まることはなかったのかをも説明できる。人類は単に、人口増加を継続的に凌げるような生産性増加を成し遂げるほど知的ではなかったのだ。平均的および例外的な知能の一定の閾はまずこれが可能になる程度に達しなければならず、そのような水準の知能を「繁殖する」には(約一八〇〇年までの)時間がかかったのである。かかる理論は、諸民族の平均的知能指数が北から南に移るにつれて(北方諸国での約百点以上からサハラ以南での約七十点まで)次第に低下してゆくという、知能研究でよく確立して裏づけされた(のに「ポリティカル・コレクトネス」な理由で一貫して無視されている)事実を説明できる。[13]もっと特定的にいえば、かかる理論は産業革命が他でもなく一部の(一般的には北方の)地域で開始し、それからすぐに定着したわけ、一貫した地域的所得格差がつねに存在したわけ、これらの格差が産業革命のとき以来(減少するよりむしろ)増加したわけ、以上をも説明できる。

また、かかる理論は初見では変則に見えるようなものも説明することができる。というのは、新石器革命が約一万一千年前に始まり、そこから世界の残りを次第に次々と征していった場所が最北地域ではなく、――熱帯よりはなお北だったとはいえ――有意にはるか南方の地域であったわけ、中東、華中(長江)、メソアメリカだったわけについてである。この見かけ上の変則の理由は容易に突き止められる。農耕牧畜を発明するには二つの要素、十分な知能と、そのような知能を適用する好ましい自然環境、以上が必要であった。極北地域に欠如しており、ゆえにその居住者に対して革命的発明を妨げていたのは第二の要素である。酷寒の条件と、成長季節の極端な短さが、かりに農耕牧畜の観念を思い浮かべたかもしれなくとも、それを実践的に不可能とした。かかる観念の実行に必要なのは定住生活に好ましい自然条件であり、すなわち、(適当な穀物と家畜化可能な動物を別とすれば、)長く暖かい成長季節である。[14]先に言及された「温和」な地域にはそのような気候的条件が存在した。ここでは狩猟採取者間での人間知能の競争的発達が(北には遅れたけれども)十分な進歩を成し遂げたので、好ましい自然環境と組み合わさって、農耕牧畜の観念を実行することができた。約一万年前の最終氷河期の終わり以来、温和な気候帯が一層の高緯度に拡張し、農耕牧畜をそこでもだんだんとうまくいきそうなものにした。そこでもっと知的な人々と出会い、新しい革命的生産技法が単に速やかに模倣され採用されただけではなく、これらの技法の引き続きの改善のほとんどがここを起源とすることになった。原初の発明の中心地より南でも、新しい技法が次第に採用されていった――結局、何かを発明するより模倣する方が容易なのである。しかしながらここのあまり知的でない人々と出会っても、もっと効率的な農耕牧畜の習慣の更なる発達への貢献がそこから現れることは、ほとんどかまったくなかったようだ。これらの地域での更なる効率性獲得はすべて、他の更なる北方地域で発明された技法を模倣することで生じていった。

含意と展望

ここから幾つかの含意と忠告が出てくる。第一に、ここで素描された社会進化の理論は、社会科学内で一般的であるのみならずリバタリアンの間でも猛威を振るう、平等主義に対する根本的な批判を含んでいる。そのとおり、経済学者は異なる労働生産性という形態での人的「相違」を認める。しかし一般的には、これらの相違は異なる外的条件の結果として、すなわち異なる基金や訓練の結果として解釈される。内的な、生物学的に係留された特徴が人的相違の可能な源泉と認められることは滅多にない。けれども経済学者は、人的相違は内的な生物学的な源泉にもよると分かりきったことをミーゼスとロスバードのように認めるときでさえ、なおも典型的には、これらの相違がそれ自体をして経済的成功の人的な(心と体の)決定子たる特徴と気質を利する長い自然淘汰の過程の結果であり、経済的成功と繁殖的成功が多かれ少なかれ強い正の相関を示すことを無視している。すなわち、我々近代人が我々の数百年前や数千年前の先祖とはまったく別様に繁殖されていることは、いまなお大いに見過ごされている。

第二に、産業革命が(単なる制度的な成長障害の除去ではなく、むしろ)何よりもまず人間知能の進化的成長の結果であったと気づいたならば、国家の役割はマルサスの条件下対マルサス後の条件下では根本的に異なると認識されることができる。マルサスの条件の下では少なくともマクロ効果に関するかぎり国家は問題にならない。国家は搾取的であるほど、単に(ペストのように)人口数を減らすにすぎないが、一人あたり所得には影響しない。実際、十四世紀中葉のペスト大流行後のように、人口密度が低くなる際には一人あたり所得は上昇すらするかもしれない。そして逆の場合、「良い」、あまり搾取的でない国家は人民の数を増加させてゆくが、一人あたり土地が減少するから、一人あたり所得は上昇しないどころか低下すらするかもしれない。これがすべて、産業革命で変わる。というのも、もしも生産性獲得が恒常的に人口増加を凌ぎ、一人あたり所得の着実な増加をさせるならば、国家のような搾取的制度は一人当たり所得を低下させかつ人口を減少させることなく継続的に成長することができる。そしたら国家は経済と一人あたり所得に対する永遠の足かせになる。

第三に、かたやマルサスの条件の下では優生効果が君臨する。かたやマルサス後の条件の下においては、国家の存在と成長が、特に民主主義的福祉国家の条件の下で、二重の劣生効果を生産する。[15]一方では、福祉国家の主な「顧客」である「経済的なチャレンジド」が生存子孫をもっと多く生産し、経済的な成功者は少なく生産する。他方では、寄生的な国家の着実な成長が、根底の経済成長によって、経済的成功の要件に体系的に影響することを可能にする。経済的成功者はますます政治と政治的才能に、すなわち、他人の犠牲で自分を豊かにするため国家を利用する才能に依存するようになる。いずれにせよ人口ストックは(繁栄と経済成長の認知的要件に関するかぎり)良くなるよりむしろますます悪くなる。

最後に、ちょうど産業革命と付随するマルサスの罠からの脱出が決して人類史の必然的な発達ではなかったように、その成功と偉業もまた不可逆的ではないと結論で注記することは重要である。

[1] Ludwig von Mises, Human Action: A Treatise on Economics (Chicago: Regnery, 1966), p. 667.

[2] 同, p. 672.

[3] Atlas of World Population History (Harmondsworth, U.K.: Penguin Books, 1978), p. 342.

[4] 同, p. 344.

[5] Gregory Clark, Farewell to Alms: A Brief Economic History of the World (Princeton, N.J.: Princeton University Press, 2007), p. 2.

[6] Mises, Human Action, pp. 617–23.

[7] Rothbard, “Left and Right,” in idem, Egalitarianism as a Revolt Against Nature and Other Essays (Auburn, Ala.: Mises Institute, 2000).

[8] オーストロネシアの農夫が最初に開拓してから約千年かおそらく二千年後の一七六七年にヨーロッパ人がタヒチを再発見したとき、その人口は五万人と見積もられた(現在は十八万人)。あらゆる報告によると、タヒチ人は楽園的な生活を送っていた。とりわけポシネシア諸島の非常に好ましい気候条件ゆえに、一人あたり実質所得は高かった。タヒチ人はパンツを履いたままではいられなかったが、彼らの高い生活水準を維持するために、幼児殺しと致死的交戦を含む最も厳格で無慈悲な形態の人口統制を実践していた。場所は楽園だったが、生者だけの楽園だった。それでもやはり、タヒチ人はまだ石器時代に生きていた。彼らの道具類は彼らが最初に島に着いてから本質的に変化のないままであった。更なる資本蓄積はなかったし、好ましい外的環境のおかげで、実質所得は高かったが停滞したままだった。

[9] Michael H. Hart, Understanding Human History: An Analysis Including the Effects of Geography and Differential Evolution (Augusta, Ga.: Washington Summit Publishers, 2007)を見よ。

[10] またArnold Gehlen, Man (New York: Columbia University Press, 1988)も見よ。

[11] またHart, Understanding Human History; Clark, Farewell to Alms, chap. 6と、Richard Lynn, Dysgenics: Genetic Deterioration in Modern Populations (Ulster: Ulster Institute for Social Research, 2011), chap. 2も見よ。

[12] 以降について、Josef H. Reichholf, Stabile Ungleichgewichte: Die Ökologie der Zukunft (Frankfurt: Suhrkamp, 2008)と、またCarroll Quigley,The Evolution of Civilizations: An Introduction to Historical Analysis(Indianapolis: Liberty Classics, 1979), chap. 6を見よ。

[13] Richard Lynn & Tatu Vanhanen, IQ and Global Inequality (Augusta, Ga.: Washington Summit Publishers, 2006)と、Richard Lynn, The Global Bell Curve: Race, IQ and Inequality Worldwide (Augusta, Ga.: Washington Summit Publishers, 2008)、同, Race Differences in Intelligence: An Evolutionary Analysis (Augusta Ga.: Washington Summit Publishers, 2008)を見よ。

[14] アメリカ大陸上でのそのような穀物と動物のもっと大なる稀少性が、メソアメリカでのやや遅れた第三の独立的な農耕牧畜発明の理由でありそうだ。

[15] Lynn, Dysgenics.

(出典: mises.org)

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