英米経済学におけるフランス自由主義学派の無視:容認説明批判

Joseph Salerno, “The Neglect of the French Liberal School in Anglo-American Economics: A Critique of Received Explanations.”

およそ十九世紀の最初の三四半世紀にかけて、「自由主義学派」がフランスの経済思想と経済教育を隅々まで牛耳っていた。[1]かかる学派の信奉者はアメリカ合衆国とイタリアにも見受けられ、かかる学派の自由主義的な学説がドイツとイギリスの傑出した経済学者に深い影響を及ぼしていた。その人数と権威は一八七〇年代以降萎縮し始めたけれども、かかる学派は一九二〇年代までフランスで活発なまま影響力を残していた。第二次世界大戦後でさえ、かかる自由主義的な伝統の知的末裔と考えることができる注目に値する少数のフランス人経済学者がいた。

自由主義学派の大なる長寿と広きにわたる影響力にもかかわらず、その科学的貢献と、ヨーロッパ・アメリカの経済思想の発達に対する――特に限界主義経済学の先駆者、創始者、および初期解説者と現在認識されている経済学者への――そのインパクトは、二十世紀英米経済学者と思想史家によって見くびられてきたか単純に無視されてきた。

ヨーゼフ・シュンペーターを含む教義上の学者は英語圏の文献での当学派の奇妙な無視に注目し、この説明を試みた。しかしながら彼らの説明は、かかる学派の「分析的な不毛さ」や「純粋理論への無関心」をその無視の主な原因に挙げながら、最も際立った事実、すなわち、十九世紀と二十世紀初期を通してずっと経済分析に貢献してきた数多の傑出した経済学者たちが自由主義学派の純粋に理論的な貢献について高い評価と重い知的負債を表明してきたという事実を、知らん振りしてきたのだった。

私は本稿で、分析的アプローチとイデオロギー的選好にかけて、オイゲン・フォン・ベーム=バヴェルク、ヴィルフレド・パレート、フランチェスコ・フェッラーラ、グスタフ・カッセル、オトマール・シュパンほど異なっていた多様な経済学者たちがさまざまな自由主義的経済学者の作品に科学的功績を見出していたと証明する証拠を提出する。くわえて私は、後のフランス自由主義経済学者の作品にて体現され拡張されていたテュルゴ‐セーの主観的価値の伝統が二十世紀英米経済学の進化の二つの重要な運動にとって主要な科学的インスピレーションの元になっていたと示唆する。

そのような運動の一つには、一八五〇年代と同六〇年代に堕落しながらも頑強だったリカード‐ミル正統派に反対するイギリス連邦の経済学者の著述が含まれる。主観主義的な自由主義経済学者への彼らの明示的かつ徹底的な基礎付けが、意義重大なる限界主義的洞察で成り立った代替的な理論的オルガノンを構成させたのだった。この運動はウィリアム・スタンリー・ジェヴォンズの記念碑的な作品(Jevons [1871] 1970)の出版で絶頂を迎えた。

第二の運動はフランス自由主義者フレデリック・バスティアに深い恩義を受けたものであり、冷戦後のアメリカ合衆国で発生し、その基礎を人間的欲望の主観的データに置く交換純粋科学あるいは交易論として経済学を徹底的に作り直そうとする試みに携わった。アメリカ交易論的経済学者はまた、初期フランス自由主義経済学者わけてもデスチュ・ド・トラシー伯爵に遡ることができる、貨幣、銀行、マクロ経済変動の伝統を完成させもした。アメリカ合衆国の交易論的伝統の重大な要素は世界的認知を得た最初のアメリカ人経済理論家の一人たるフランシス・A・ウォーカーに体現された。

本稿の第二節では、英米の教義上の文献におけるフランス自由主義学派の無視についての重大な証拠を提示する。第三節では、この見落としに関して初期の著述家が提出した説明を調査し、これらの説明が十九世紀第三四半世紀の一般的経済理論の進化への自由主義経済学者の広範な影響力を認め損ねていると提言する。その次の節では、この影響経路の幾つかについての詳細な探査が引き受けられる。本稿は、この論点の代替的解決が求めらるべき方向についての短い提案で締め括られる。

無視の証拠

後期イギリス古典学派の指導者は同時代のフランス人をせいぜいアダム・スミスとデイヴィッド・リカードのエピゴーネンだと片付けていた。マリアン・ボーリー([1937] 1967, 85)が指摘するには、リカードの抽象的分析と比べて、「セーの作品は必然と皮相的に見えたし、専らリカード派が市場価値の単純問題と見なしたものの解明にしか向けられていなかったと思われる」。

たとえばリカード派筆頭のJ・R・マカロック([1864] 1965, 13-14)は、セーの価値と価格の理論への効用アプローチに追随する「大陸経済学者のほぼ全員が科学の戸口の真上でつまづいており」、「いまだに最も単純な要素も身に着けていない」と非難した。

J・E・ケアンズの見解([1873] 1965, 232)では、「経済科学の進歩の偉大な一歩一歩はすべてイギリス人の思想家が収めたものだ(私は重要な例外を挙げることができるとは思わない)」。ケアンズはフランス自由主義学派を尊重しながら、「政治経済学のイギリス学派の最も特徴的な学説は……ドーバー海峡の向こう側で最も力強い擁護者と最も技巧的〔原文ママ〕な解説者を幾人か見出した」と記した。ケアンズは、JBセー、ジョゼフ・ガルニエ、クルセル=スヌイユ、A・E・シェルビュリエを含む指導的な自由主義経済学者を「アダム・スミスとマルサス、リカードとミルの同郷人への通訳者」と特徴付け続けた([1873] 1965, 313)。

ケアンズは自由主義経済学者を古典派学説の普及者にすぎないと描写するに飽き足らず、彼らの科学的方法に疑義を差し挟んだ。彼はセーについて「経済問題に関する彼の推理は徹底して、蔓延せる社会主義的な学説を横目で見ながら行われている」(Cairnes [1888] 1965, 30)。特にケアンズ([1888] 1965, 31)は、多様な所得が「土地、資本、労働それぞれが究極的生産物の創造に果たす機能の効用」に依存してシェアされると考えるセーの要素価格決定の前限界生産性理論の価値中立性に疑問を抱いた。ケアンズ([1888] 1965, 31)によれば、この理論での「経済法則は……既存の社会構造を擁護するような道徳的議論を導入するために、まごつかされている」。[2]概して、ケアンズは「フランス学派の特徴」を「……さもなくば明快にした問題をぼんやりさせる……悪い一般化」と考えた。[3]マカロックとケアンズの言明で典型的に代表される、自由主義学派は科学的経済学に独創性と有用性のどちらでも何一つ貢献しなかったというイギリス古典経済学者の態度は、新古典派時代の英米の主流派経済学者に引き継がれた。T・W・ハチスン(1973, 177)が書き留めるには、

十九世紀の前期や第三四半世紀の経済思想史は、イギリスでかくも長らくそのような甚だしい優勢を勝ち取った理論が……ヨーロッパの他のところで似たような影響力と権威を享受していたとはいえ、非常にイギリス中心的なタームで描写されていたし、いまなおそうされている。

これは標準的な英米経済思想史が典型的には大陸の古典的思想の例として一人か二人の孤立的なフランス人経済学者を、普通セーとバスティアを含めているという事実に最も明白に証拠付けられる。経済学の特にフランス的な伝統を同定する著者はそれでも最終的には自由主義学派と古典学派を合成することになる。

たとえば、ルイス・ヘイニー(1949, 847)は「自由主義者のフランス学派はその思想に関して決してイギリスの学派とすっかり同一ではなかった」としっかり認識している。しかしながら、ヘイニー(1949, 856)は二つの学派間の学説上にどんな実質的相違も認めないし、究極的には「自由主義者」を「フランスでの古典学派の代表者」と判断する。

エリック・ロール(1953, 319—21)はセーの作品がコンディヤック神父のような十八世紀イタリア系フランス人の著述家に始まった価値論の効用アプローチに硬く根付いていると指摘する。このアプローチの発達と改良について、ロール(1953, 323)はセーを「現在の価値論の本質である形式主義的均衡分析の主な創始者の一人」と見なしている。彼はまた、セーが「伝統を築く際にほぼ即座に威信を得た。彼の後のフランス人経済学者がリカード派の価値論に退くことはなかった」と書き留める(Roll 1953, 323)。けれども同じ作品(318—19)で、セーは「スミスの即時の最も忠実な弟子」で「主人の学説に奇妙な『ねじれ』を加えた」とも特徴付けられている。バスティアの作品を特徴付けて「楽観主義」だの「摂理の調和」だのと非難がましく言及するところを例外にすれば、ロール()はセーの主観価値伝統のフランス人後継者のことを論じていない。

かかる自由主義学派はもっと近頃の経済思想書でもこれよりうまくやっていけてはいない。二つの例証で十分だろう。

ヘンリー・ウィリアム・シュピーゲルは彼の経済思想のテキスト(1983, 257—60)で、セーの貢献を「スミスのシステムの詳細とセーのその再組織化」と題した章の終わりでほんの数ページで処理した。シュピーゲル(1983, 258)にとって、セーの『概論』はそれ自体で良い科学的な貢献ではなく、「十九世紀初期にスミスの思想を普及する第一級の媒介」であった」。シュピーゲルはセーの本のこの水準での大成功を「フランス人著述家には、秩序正しく一貫して解説し、特に媒介の目的に適した仕方で論理と一貫性を提示する偉大な才能がある」という事実に帰する。最終的にはシュピーゲル(1983, 259)によって、セーは「一人前の理論〔主観価値説〕以上の、フランス経済思想の早期パイオニアの思想以上の先駆者」であったと主張され、主観価値の伝統でのセーの立場に短い告解が与えられる。この見解に沿って、スピーゲル(1983, 340)は「古典派経済学はバスティアのような説得上手な弁明者を得たが、セーの伝統を継承する科学的作品はほとんどなかった」とコメントし、セーの自由主義学派の後継者を要約的に片付けてしまう。

同様に、D・P・オブライエンは古典派経済学者の調査に際し、セーを越えて拡張して言ったフランス独特の経済学での伝統を認識している。かくて彼が記すには、「セーはデスチュ・ド・トラシーに追従されたが、後者は二流の著述家であり、少なくともセーの価値理論に関して言えば、彼自身の影響力は概して制限されていた。主観価値論の伝統はトリニティー・カレッジのダブリンでしか続けてられていなかった」(O'Brien 1975, 106)。

オブライエンの言明は現代英語圏の経済学者はおろか思想史家をも特徴付ける十九世紀フランス経済学に対するほぼ丸ごとの無視の諸々を集約している。実際には、私が以降で論じるとおり、セーの『概論』の出版以降一世紀以上にわたり、フランスの理論的経済学の要石はまさしくセーに定式化されたとおりの主観価値論だったのである。

以前の説明の試み

第二次世界大戦以降、大陸経済学の発達に精通した学説上の学者がフランス自由主義学派に合致した認識の英米文献での欠如を説明し矯正しようと試みたことがあった。ヨーゼフ・シュンペーター(1954, 491)は彼の記念碑的な『経済分析の歴史』で、セーを「スミス派の英知を出世させることはできたがリカード派のそれをはできなかった」人と見る長く頑固なイギリス古典派の見解に挑みかかった。シュンペーター(1954, 492)はセーの作品が「純粋にフランス的な源泉から成長し」、スコラ学派に遡る偉大な「カンティロン‐テュルゴの伝統」の発達に相当すると見る洞察をもって反撃した。もっと重要なことに、シュンペーター(1954, 497)はセーの「その精神と学説の」後継者を『概論』の登場に遡る「約一世紀の歴史を誇る」自意識的な思想学派たりと注意を促した。

くわえて、シュンペーターは自由主義学派の正統な認識を妨げがちだった要素を幾つか示唆した。第一に、セーの明晰かつ簡略に表現する能力あるいは「解説の皮相性」は――リカード派が犯したように――「思想の皮相性」と気楽に混同される。皮肉にも、「彼はA・スミスの単なる普及者だったという診断を当代と後代の批評家に裏付けさせた」のはセーの『概論』の成功そのものであった(Schumpeter 1954, 491)。第二に、セーの後の追随者は一八四八年に先立つフランスでの社会主義者の強いプレゼンスに反動してレッセフェールと反国家主義の学説と政治を騒がしく支持し、シュンペーター(1954, 497)によれば、「これが〔セーに対する〕現代の批評家の敵意を説明する」。ついには彼らのほぼ専ら経済政策への焦点化の結果、フランス自由主義経済学者は「純粋に科学的な疑問への関心を失い、ゆえに分析的業績に関してほとんどすっかり不毛になった」(Schumpeter 1954, 497)。

シュンペーターの作品の出版に七年先立って、モーリス・ラモンターニュ(1947)は経済理論へのフランス人の貢献に関し、シュンペーターが主張する主な点の幾つかを先取りするような、無視されているが重要な記事を出版した。[4]ラモンターニュはこの記事(516—17)で、セーはガリアーニとテュルゴとコンディラックのような十八世紀のイタリア人とフランス人の主観価値理論家たちからインスピレーションを得ていたと書き留める。セーに追従する自由主義経済学者は効用に基づく価値と価格の説明を墨守したおかげで、イギリス古典学はとはまったく異なる自意識的な思想学派を構成したのだった。ラモンターニュによると、「コンディラックの作品にかくも明晰に表されている価値の心理的な側面はフランス人の経済文献から決して消え去ったことがなかった。セーと彼の直近の弟子は決してイギリス古典派を自認しなかったという理由で、彼らでさえかかる伝統に従っていたのだった(522)。

そのうえラモンターニュは、セーのフランス経済学への影響力が二十世紀まで貫かれていたと証明した。「十中八九、セーはフランスで最大の影響力を及ぼした経済学者であり、もしもかの国で経済思想が沿っていった潮流に完全な説明を与えたいならば、我々は彼に遡及しなければならない。彼は現在の文献でさえ今なお強固な伝統を築き上げた」と彼は結論している(LaMontagne 1947, 523)。

最後に、ラモンターニュ(1947, 528)はシュンペーターのように、自由主義学派に対する現代の無視を、ワルラスの時代以降の純粋理論での革新の欠如に帰する。[5]しかしながら彼はシュンペーターとは違い、かかる学派の申し立て上の理論的不毛さをセーの方法論的な「形式数学の使用」への嫌悪に訴える(LaMontagne 1947, 523)。彼はさらに、ローザンヌ学派と限界効用理論がフランスに根を張ることに失敗した理由も、経済学での数学の使用に対するセーの酷評で説明されると論じる。

ヨーロッパで教育を受けた経済学者たる後のカール・プリーブラム(1983, 191)は、近頃の経済思想論考で、「経済理論の問題に対する十九世紀フランス人経済学者のかなり一般的な無関心」を強調した。彼は社会主義の主張に反論する自由主義的経済学者の最も重要な責務でこの事実が完全に説明できるとは信じていない。

むしろ、プリーブラム(1983, 191)はラモンターニュの筋に沿い、最初にセーに負わせられた方法論的な訓示の厳格な固執が「もっと高度な抽象概念の推敲と、洗練された仮説的推理の手続きの発達を妨げた」と論じるのである。プリーブラム(1983, 190)によると、セーの立場は「事実に完全に基づいてはいなかったような抽象的原理から始めた」リカード派の経済理論化に対する反動であった。セーは「経済分析の排他的用具としてベーコンの観察の方法を使用せよと強弁した」。かくてセーにとって、政治経済学の任務は「観察される事実間の結合」を確立することであった。[6]

近頃、ペーター・グレーネヴェーゲンはテュルゴのセーと自由主義学派への影響を再肯定し詳述した。グレーネヴェーゲン(1983, 599-605)は、テュルゴのセーとフランス経済学への影響が最も強かった領域こそまさしくイギリス古典派とフランス自由主義学派の相違が最も大きい領域であると証明している。フランス自由主義に特徴的な「自由貿易条件下の社会調和の存在」という厚生学説でさえテュルゴの著作に前兆が見受けられる(Groenewegen 1983, 603)。一般的に、自由主義経済学者はテュルゴを「彼らの見解の英雄にして偉大な先駆者」と考えていた(Groenewegen 1983, 602)。

グレーネヴェーゲン(1983, 605)はまたテュルトの経済学が二十世紀に蒙った無視は大いに「彼の妥協なき経済自由主義の立場がフランス学派に飛びつかれ完全に不当利用されて極端に持っていかれた」という事実のせいであるとも論じている。またテュルゴの理論経済学の影響力の担ぎ手である自由主義学派が「経済分析に強くなかった」という事情はこの無視に役立たなかった(Groenewegen 1983, 603)。

要するに、学説上の専門家は英語圏の経済学者がセーとフランス自由主義学派を無視するよう寄与した三つの要因を挙げてきた。第一に、セーをそのスタイルの類まれなる明晰性ゆえにスミス派学説の皮相的な解説者と知覚する傾向がある、と。第二に、セーと自由主義学派が社会主義と政府の経済干渉に反対する際の不屈さは自由主義経済学者一般がせいぜい超レッセフェール自由主義の論客と弁明家でしかなかったという特に現代の批評家の見解を刺激してきた、と。最後に、かかる学派は経済理論の革新、わけても限界革命到来後の革新を開始したり吸収したりすることに外見上の不本意や無能力がある、と。

自由主義学派が受け取る認知の欠如を丸ごとこれら三つの要因に帰することの問題点は、十九世紀中と二十世紀初期のヨーロッパ全体とアメリカ合衆国の多くの傑出した経済学者たちが、かかる学派の純粋に理論的な貢献に対して強い評価を表明していたという、最も顕著な事実を説明しかねることである。以降の節は、大陸の指導的な経済学者が自由主義学派に呈した態度の調査と、リカード古典派正統説を拒絶したイギリス人とアメリカ人の傑出せる経済学者に対して自由主義経済理論が及ぼした影響力の査定、以上を提出する。

自由主義学派の経済理論への影響

大陸経済学者の概観

大陸の指導的な経済学者ははフランス自由主義学派とその科学的貢献を非常によく認識していた。これは大陸著者の学説的に多様な集団の科学的作品における自由主義経済学者個人個人への膨大な参照で例証される。

スウェーデン人グスタフ・カッセル(1903, 25)は「純粋利子の着想を科学に導入した」のと「資本家の職能を『企業家』の職能と分離し、商売能力を資本と分離し、利子をそのような能力への報酬と分離し」たのはセーの功績であったと信じている。カッセル(1903, 25)はまたセーの「市場メカニズムの非常に完全で深遠な分析」に評価を表明している。セーはこの分析をもって「〔利子〕問題の個別的な点や面の説明すべてが有機的な全体の一部に収まるに違いないような一般的体系を与えた」。

しかしながらカッセルの目には、セーの市場メカニズムの説明は利子理論の狭い範囲をはるかに超えた経済科学への含意があったように映った。カッセル(1903, 27)によると、セーの「最大の名誉は、初めて生産の需要と価格と費用の相互依存を述べた」ところにある。カッセルがセーの市場過程の相互依存分析と考えたものに比べれば、かなり後にオーストリア学派が与えた市場メカニズムの説明は、カッセル(1903, 26 n. 1)いわく、「かなり劣っている」。

また、カッセル(1903, 39-40, 62)は貸し手の職能の着想に関するフレデリック・バスティアの「価値ある発言」に注目し、「ベーム=バヴェルクが用いたのと非常に似た言葉で」時間選好の観念を定式化したが彼より早いころの著述家としてバスティアを指し示した。

最後に、カッセル(1932, 310)は「労働生産性に賃金の本質的決定因を見る」ゆえ要素価格決定の限界生産性理論を前触れするような賃金理論の種子的な発達をアメリカ人フランシス・A・ウォーカーと同様ポール・ルロワ=ボーリューに帰する。

クヌート・ヴィクセル([1934] 1977, 4-5, 27-28)は、彼らのアプローチにまったく共感しなかったけれども、バスティアを含む「調和経済学者」と「異なる諸国での彼らの大勢の弟子」に認識を示している。特に、ヴィクセル([1934] 1977, 146)はバスティアとJ・R・マカロックの利子本性の着想を前ベーム=バヴェルク派の代表であると同定した。

ベーム=バヴェルクは彼の記念的な『利子理論の歴史と批判』(1959)で詳細かつ広範な調査のために幾人かの自由主義経済学者の利子論を選り抜いた。これには、セー、ペッレグリーノ・ロッシ、バスティア、クルセル=スヌイユが含まれる。

ベーム=バヴェルクはセーへの強い批判にもかかわらず、十九世紀の利子論の発達における彼の偉大な影響力を認めている。ベーム=バヴェルク(1959, 80)は、「セーは彼の見解の難解さにもかかわらず、利子論史で際立った地位を占めている。彼はある種、経済科学の最も重要な理論的支流の二つがそれぞれの道を行き始めるところの合流点を構成している」と記す。

ベーム=バヴェルクはバスティアの利子理論の手厳しい論駁を引き受けた(1959, 191)けれども、かかる理論が「〔バスティアの〕当時に大興奮を生み出し……現在まで相当の影響を及ぼしている」(1884)と認めるよう強いられた。

しかしながら、ベーム=バヴェルクは自由主義経済学者のこの領域での努力の科学的功績を概して評価している。たとえば、彼はシェルビュリエをシニアの節制利子説に固執する「経済学者の中で彼らより卓越している」一人と言及した(Bohm-Bawerk 1959, 190)。モーリス・ブロックは「我々の主題の不穏な討論」でペンをとる「傑出した学者」にして「精通した輝ける著者」として挙げられている(Bohm-Bawerk 1959, 426)。ルロワ=ボーリューの分配理論の作品は「富の分配に関してフランスに登場した最も評判高いモノグラフ」と歓迎された(Bohm-Bawerk 1959, 88)。そして利子論での生産性と節制の折衷的な組み合わせを申し出た多くの経済学者を代表するものとしてはロッシが選ばれた(1959, 323)。なぜならばある程度は、ロッシの「生産性理論の見解には幾つか独創性の印がある」から、と。

フランス自由主義学派は十九世紀と二十世紀初期のイタリア経済思想の発達過程に深い影響を与えた。

フランチェスコ・フェッラーラ[7]は一般的には十九世紀後半のイタリアでの科学的経済学復興の主要人物と認識されている。[8]彼は自由主義経済学者の物怖じせぬ崇拝者であって、彼らの理論的学説と同様に、政治的学説のほとんどを採用した。実際、フェッラーラの見解は現代の各節上の学者が彼を事実上自由主義学派のメンバーと見なすほど、かかる学派の見解に緊密に類似している。かくてシュンペーター(1954, 513)はフェッラーラを「超自由主義者」と言及し、ヘイニー(1949, 833)は彼の経済学の方法と理論と政策の見解を「バスティアとフランス楽観学派」のそれ」に似ていると記述した。[9]

フェッラーラは自由主義経済学の提唱者として、セーをアダム・スミスの最も高名な継承者と考え(Weinberger 1940, 95—96)、またフランス自由主義経済学者のシャルル・デュノワイエとミシェル・シュヴァリエに高い敬意の念を抱いていた(Cossa 1893, 494)。同時に、フェッラーラはリカードの重要性が「過剰評価」されていると考え、ミルの作品の功績を軽く見た(Cossa 1893, 494)。この光に照らせば、フェッラーラの「再生産費用」価値論の革新が意図していたのはリカード古典派労働価値説の単なる改善ではなく、これに対しての自由主義的主観主義的な見方からの決定的な応答であったことは明らかである。

ピエロ・バルッチ(1973, 260)がイタリアでの限界主義の普及に関する重要な記事で論じたとおり、フェッラーラの価値論は

主観性のどんな要素も目に入れなかったリカードの労働価値説への批判的な応答のつもりであった。彼は費用の要素と財の効用の要素の両方を説明するような価値論の問題を再生産費用で解決することを意図していた。こうして、財の価値とは、主体が財自体に帰する効用と、彼が財の再生産で生じるはずと考える費用、両者の比較なのであった。実際、この理論は財の効用の事実を強調していた。[10]

フェッラーラは一八五〇年代から同八〇年代までイタリアの経済思想で優勢となった学派を創始した。[11]フェッラーラのように、彼の学派のメンバーは「キャリーとバスティアを賞賛し、リカードとスチュアート・ミルを危険な洗練された理論家と見なし、ドイツの経済学者を〔社会主義と干渉主義の提唱者として〕憎悪した」(Loria 1900, 116)。一八七〇年代イタリアでの歴史主義者とリカード派の反動はフェッラーラと彼の直近の指導者を圧倒したが、イタリア経済学への自由主義学派の影響を終わらせはしなかった。[12]実際には、フェッラーラの主観主義的で前オーストリア派的な価値と分配の理論は、バルッチ(1973, 264)が「限界主義自由主義軍団」[13]と称した、主としてオーストリア学派の影響力の下で一八八六年から九〇年までの間にイタリアで結合したもの[14]に対し、基盤を用意していたのだった。一八九〇年までには、限界効用学説はイタリアで要塞を築いており、「フェッラーラが根気強く用意した作品が最後まで完成された」のだった(Barucci 1973, 264)。[15]

公共財政理論を革命した後のイタリア人限界主義者の中でも、ヴィルフレド・パレートとジョヴァンニ・モンテマルティーニは相当量の知的負債をフランス自由主義経済学者のギュスターヴ・ド・モリナリに負っている。パレートとモンテマルティーニは現代公共選択理論を先取りしつつも、モリナリの草分け的な社会経済学的国家分析にかなりを頼っていた。具体的にいえば、パレート(1966, 18, 108-11)は自身の貴族制理論を発達させる際にモリナリの「後見」概念を利用していた。[16]パレート(1966, 136—37)はまた彼の有名なエリートの周流理論をモリナリの「沈黙の革命」の概念と統合した。[17]パレートはいかにして政界の要職と課税の過程が社会の或る階級に他の階級から略奪できるようにする手段として求められるかに関する『手引き』の結論(1971, 347 n. 8)で、読者に「G・ド・モリナリの膨大な諸作品」のことを教えている。最後に、我々はS・E・フィナーを通し、モリナリは「パレートが没する日まで賞賛していた男」であったと伝えられている。

モンテマルティーニは、利潤をあさる「公的企業」たる国家の前公共選択分析の古典において、モリナリの思考の鍵となる要素を利用した。モンテマルティーニ([1900] 1958, 142-43)はモリナリの、戦争とは覇権の拡張とライバル国家の人民への課税権力の拡張を可能にすることで国家の事業主(政治家と官僚)が所得を獲得し確保すべく設計された公的企業間の政治的競争であるとする特徴付けを受け入れる。[18]モンテマルティーニ([1900] 1958,141-42)はまた「政治的企業はつねに高費用な企業の形態であり、また私的イニシアチブの自由な遊びを許さないから、あらゆる政治的企業の鎮圧は……共同体の費用削減を含意するだろう」というモリナリの要点をも肯定する。国家の全廃という経済的に最適な解決を除けば、モンテマルティーニ([1900] 1958, 142)はモリナリに従って、脱退権と競争的公的企業の編成権がもっと広く行き渡るようになるにつれて費用が削減されることを期待していた。[19]

ドイツ人経済学者はつねにドイツでの理論経済学の進化の発生期にセーと自由主義学派が与えた影響力を認識していた。

ペルヒオール・パーリー(1928, 213)は大陸へのスミス派の観念の導入に関する古典的な議論に際して、「大陸全土でのように、ドイツでの以降の世代にとっても、経済思想の基礎に尽くしたのは、アダム・スミスただ一人ではなく、むしろスミス‐セーの組み合わせであった」と論じた。他方で、「トゥーネンを無視すれば、ドイツ人経済学者にとって、リカードは少なくとももう五十年間のかなり物珍しい世間知らずな幾つかの誇張の元祖のままであり、決して本当に影響力ある人物にはならなかった」(Palyi 1928, 191)。

パーリー(1928, 214-15)は特に価値論の領域で「主としてスミス‐セー型のアプローチの意味での……理論的分析の強い伝統が普及していた」と書き留める。この伝統は「主観的要素の追加的強調」と「古典的著述家の作品より現代の価格均衡概念に近いアプローチ」をもって需給分析を定式化した一連の価格理論家を生産した。かかる伝統はセーに定式された基本概念から初めて「消費者の欲望と所得を強調しながら」価格理論アプローチを発達させ、後に「メンガーの効用分析の出発点として」尽くすに至った、F・B・W・ヘルマンの作品で絶頂を迎えた。

自身の早期の主観主義的アプローチと矛盾するような労働価値説を発達させようと試みた或るドイツ人理論家の場合について、パーリー(1928, 214)は、かかる著者が「大陸側の早期の労働価値説のほとんどのように、おそらくリカードよりも〔自由主義経済学者の〕デスチュ・ド・トラシーの方にもっと影響」されていたと指摘する。パーリー(1928, 209)はまたバスティアの甚大な影響力を、彼の『経済調和』が「レッセフェール学説と自然分業学説を大陸全土の資本家の心に叩き込んだ」と認識する。

ハイエク(1952, 529)は、「価値を効用から丸ごと分離することを拒んだ十八世紀のコンディヤックらフランス人とイタリア人の著述家の伝統が生き続けていたのを原因の一部として」、「古典派の学説はドイツでは決して実際に定着しなかった」と論じている。この伝統の著者は「おそらくヘルマンを最も影響力ある傑出した人物としており……効用と稀少性の観念を価値の説明に組み合わせようと試み、しばしばメンガーが与えた解決に非常に近いところまで達していた」。

シュンペーター(1954, 600)もまた「おそらく部分的にはフランスの影響の下」ドイツで発達した「効用理論の伝統」を書き留めている。シュンペーターに指名された、「生産と分配はサービスの交換に還元される」というセーの洞察に基づいてイギリス古典派の賃金基金説を攻撃した人は、ヘルマンである(1954, 644)。

ベーム=バヴェルク(1959, 124)は使用利子説がセーによる最初の示唆以降「ドイツ人経済学者によって全体的に」理解されていたという事実に注意を促していた。特に、メンガーの完成された定式化に先んじて「この理論を硬い基礎の上に置いた」のはヘルマンであった。

フランス自由主義学派のドイツでの影響力はまたドイツ「普遍主義」経済学の熱烈な反古典派の創始者たるオトマール・シュパンによっても認識される。シュパンは彼の経済学の理論(1930, 108)でセーを「アダム・スミスの学説の大陸への教父」と言及し、彼らが普及する際に注目すべき部分を担ったのはスミスの観念を体系化し提示する際のセーの「鮮やかさ」だったと宣言する。シュパン(1930, 109)はまたヘルマンを最も名立たるメンバーとする長蛇の「ドイツ・スミス派」がスミスの労働価値説を却下し、セーに続いて「価値を効用から発生するものと説明しようと試みた」ことを指摘している。このドイツ「使用価値」学派の初期メンバーたるK・H・ラウ著の教科書は「ドイツ経済思想で半世紀にわたって優勢で、諸外国にも影響を及ぼしていた」(Spann 1930, 109)。

シュパン(1930, 209)はまた「バスティアの教えが……フランスと同様ドイツでも大いに政治的な影響を及ぼしていた」という事実に気づき、ドイツ・マンチェスター学派の理論的下支えを提供した。

シュパン(1930, 307)は同時代の純粋理論の発達を論じる際に、ドイツ「普遍主義理論」と「個人主義的イギリス・フランス学説」間の鋭い区別に導かれている。「個人主義的古典経済学」の重要な教科書として、マーシャルの『経済学原理』とJ・B・クラークの『富の分配』とともに、彼(Spann 1930, 308)はルロワ=ボーリューの四巻の自由主義的経済の理論と政策の論考(Leroy-Beaulieu 1910)を推薦する。

イギリスの反古典派運動

J・S・ミルの『原理』出版から限界革命の二十年間にイギリスで花開き始めた反古典派運動の著名な代表者に対して、自由主義学派は重要な相当の影響力をもっていた。この異端なる反リカード派集団には歴史家だけではなく、また主観価値の伝統にルーツを置く、ヘンリー・ダニング・マクロード、ウィリアム・E・ハーン、そしてもちろん、ジェヴォンズのような著述家が含まれる。[20]

フランス自由主義に対する古典派の優勢な態度に対して最も重い抗議を発したのはジェヴォンズであった。ジェヴォンズは偏狭なリカード正統派から自由に仕事をと熱望し、大陸わけてもフランスの経済思想にインスピレーションとガイダンスを期待した。かくて、ジェヴォンズ([1871] 1970, 261)は「ボードーとル・トローヌからバスティアとクルセル=スヌイユまでの長蛇のフランス人経済学者」に評価を表明した。彼が論じるには、「デイヴィッド・リカードとミル父子、正統リカード学派を正統たらしめてきたホーセット教授らには、彼らの作品の優秀さは理解されなかったから」、これらの経済学者は不当に無視されている。

二年後に、ジェヴォンズはケアンズの『経済学論集』のレビューでケアンズの批判に反してバスティアを強く擁護し、彼の科学的功績を支持した。ジェヴォンズは有効な一節(1873, 6)でバスティアが事実上J・S・ミルをやすやすと凌いでいると称えた。

ミル氏の最も誤っているところとして彼は富の消費が政治経済学の一部門であることを否定したが、他方でバスティアは論理的にも人間の欲望から始め、その帰結たる商品の需要と消費を人間の富の科学の自然な基礎にした。かかる科学の取り扱いの真なる論理的な秩序が慎重に再考されるようになるとき、ミル氏に採用された秩序が拒絶され、バスティアのそれがもっと従われそうでありうる。

ジェヴォンズは『経済学の理論』の第二版の長たらしい序文で経済学への彼の数理的および主観的なアプローチの前任者を骨折り同定している。或る点で、彼は古典派の賃金基金学説を退け、「真の学説には」セー、デスチュ・ド・トラシー、シュトルヒらを経て、バスティアとクルセル=スヌイユのような自由主義学派のメンバーを含む「偉大なフランス時経済学者の著作物を通して、多かれ少なかれ明白に遡ってゆけばよい」と論じている(Jevons [1871] 1970, 67)。かくてジェヴォンズ([1871] 1970, 67)は次のとおり結論するに至った。

真の経済学の体系に到達する唯一の希望は、リカード学派の迷宮的で前後不覚な仮定をこれっきりで投げ捨てることにある。我々イギリス人経済学者は愚者の楽園で暮らしていたのだ。真理はフランス学派にあり、我々がこの事実を認識するのが早いほど、古く誤れる学説に対して克己を許すにはあまりにも深く傾倒してきたおそらく数少ない者を別とした、全世界のためになる。

ジェヴォンズ(1905, 6)は包括的な経済理論論考にするつもりだったものの断片を救い出す際に、ついに経済科学を効用に基礎付けたのであり、彼は効用こそが「明らかに経済学の始まりから終わりまでの主題」であり「かかる科学のアルファとオメガ」であると宣言している。このアプローチを採用する際、ジェヴォンズ(1905, 7)は「経済学のほぼ誕生のときから彼らの論考の始まりに『ブゾワン』〔欲望〕の章を置いてきた」フランス人経済学者を明示的に追いかけている。鋭く対照的にも、「ほんの幾つかの例外はあるが、イギリス人経済学者は彼ら自身の科学の根本原理にまったく気づき損ねてきた」(Jevons 1905, 7)。

最も重要なことに、この作品にはジェヴォンズ(1905, 4—5)が限界概念それ自体を価格形成の説明に向けてセーと自由主義学派の効用アプローチを修正し完成するための手段として知覚するようになっていたという明白な徴候がある。[21]同じ調子で、ケアンズ([1874] 1967, 17)はジェヴォンズの価値論を、申し立て上ではすでにリカードに反論されたはずのセーの理論を復活するための器用な試みでしかないと批判した。

自由主義学派に相当の知的負債を負っていたもう一人の重要な反古典派の著述家は、アイルランド系オーストラリア人の経済学者、歴史家、兼法理論家たる、ウィリアム・E・ハーンである。[22]ジェヴォンズの同時代人たるハーンの経済学の主著、『財富学』(Hearn 1864)はオーストラリアで一八六三年に出版され、ロンドンでは後年に初めて刊行された(Copland 1935, 19; La Nauze 1949, 96)。同書は最初に出版されたときは批判的な関心を受けなかったけれども、後にイギリスで大学の教科書として使用されていた(Copland 1935, 19)。

かかる作品は最終的にはジェヴォンズとマーシャルとエッジワースとF・A・ウォーカーとシジウィックとイングラムを含む著名な経済学者から高い賞賛の言葉を集めた(La Nauze 1949, 49-52; Copland 1935, 18-19)。現代の経済学者での、ハイエクがハーンに「偉大な経済学者……最も適切かつ明快な言葉で鋭く独創的な観察を述べる素晴らしいギフトをもった」と言及した。

ジェヴォンズはハーンをリカード正統派に対する闘争にかけて同類の精神をもっていると認識していた。ジェヴォンズは『経済学の理論』の本論で幾度にもわたって『財富学』を好ましげに引用しながら、節の締めくくりの章を『ハーン教授の見解』に捧げている。この節でジェヴォンズ([1871] 1970, 258-59)が宣言するには、「経済学の一般問題に関するこれらのやや異端的な見解はハーン教授が到達したものとほとんど同一であるから、私はこれらの見解を推し進めることに喜びと自信がある。……我々の意見の一致を正確に突き止めるのはやや長引くような仕事になるだろう」。

ハーンとジェヴォンズの間のこの「意見の一致」について、シュンペーター(1954, 826 n. 2)は、特にハーンの作品が限界効用逓減の概念の明瞭な言明を含んでいるという事実に照らせば、かかる作品は「部分的には不思議なほどジェヴォンズ的に読める」と認める。しかしながらシュンペーターはあわてて「効用の側面に関するジェヴォンズの独立」を擁護したのだった。[23]

ハーンの経済学の学説上のルーツの論点に向かうに、彼の論考の題名それ自体がフランスの強い影響を示唆している。ハーンが説明で書き留めたとおり(1864, 7)、「プルートロジー」(『財富学』)は傑出した自由主義経済学者のクルセル=スヌイユから借用されており、彼はかかる用語を経済理論の「純粋科学」を指すために採用し、[24]これを経済政策の「術」たる彼が「エルゴノミー」と称したものと区別している。

ハーンの論考の内容を調査すると、自由主義学派との学説上および解説上の深い親しみがさらに明らかになる。ハーンはバスティア後のフランス人経済学者のほとんどのように、人間の欲望の章から始めている。現代の或る著述家(La Nauze 1949, 56—58)が適切に評したとおり、

論考を人間的欲望の章から始め、欲望の満足の中心的な主題にすることは、……イギリスの政治経済学では革新であった。しかしこれはイギリスの著作物でしか革新ではなかった。ハーンが欲望に与えた卓越性は単純に彼のフランス文献の読書が反映されたにすぎない。彼の章はバスティアの『調和』からの写し代わりであり、彼の副題はバスティアが頻りに繰り返したフレーズたる「欲望、努力、満足」を踏襲している。[25]

意義重大なことに、この章でこそハーン(1864, 17-18)は限界効用逓減の概念を定式化したのだった。ハーンが提示するとおり、かかる概念は人間の欲望が無限であり階層的に順序付けられるというバスティアの公準からの論理的演繹である(Bastiat 1964, 34-46)。[26]

ハーン(1864, 237)は交換を分析する際にはバスティアの努力節約アプローチの洗練された説明を採用しており、これは各取引人が「欲望満足や目的達成の手段をさもなくばの場合より少ない費用で獲得する」という事実から交換の相互利益が導出されることを強調する。しかしながら、ハーン(1864, 238)は二財の交換がそれらの価値の平等性を反映するというバスティアの誤った演繹を超えて前進し、「人々は、それほど望まない対象を与えて、その見返りに、それより望む対象を得る」というジェヴォンズ派の立場を先取りしている。

ハーン(1864, 244-53)は市場価格の決定を説明する際にセーの需給アプローチを利用する。セーの「効用」と「稀少性」に相当する「望ましさ」と「難しさ」はそれぞれ需要と供給の基礎をなす要素と見られている。需要は暗黙のうちに、価格に対する購入量の表という現代的な意味で扱われており、ハーン(1864, 249-51)は需要の弾力性あるいは「望ましさの程度」について文字通りの明瞭な解明を与えている。[27]また、「消費者余剰」の概念に関する議論がある(Hearn 1864, 333, 338)。[28]

フランス自由主義学派とイギリス古典学派の相違が最も深まる傾向がある分配理論においては、ハーンは討論中の論点のほとんどで前者の側に立つ。

ハーン(1864, 329)は企業家を資本家とは明示的に区別しており、動態的な残余所得としての利潤を利子とは分けて扱っている。彼は賃金と利子をば、所得シェアの集計的分配の問題としてではなく、セーに従って、「他のあらゆる価格問題と同じ仕方で」説明可能な「交換の普通の場合」として分析する(1894, 329)。土地地代の論点では、ハーン(1864, 318-19)はバスティアと彼の追随者に特有の「人間の産業では自然の協力はつねに無償である」という学説を無条件に受け入れる。この見解では、あらゆる賃貸所得は理論的に、人間の欲望を満足するための自然資源の変形への労働と資本の適用から導出される賃金と利子所得に分解可能である(Hearn 1864, 318—25)。

ラ・ノーズ(1949, 65-71)が主張するとおり、ハーンは資本の議論で大いにジョン・レイに影響されているかもしれないけれども、資本蓄積が利子率の漸進的削減を導き、ゆえに労働者に対する資本家の最終生産物相対シェアの漸進的削減に導くというフランスに特徴的な学説を採用している。[29]

ハーン(1864, 389—94)は自由主義経済学者のほぼ全員のように、マルサスの人口学説に関するもっと悲観的な含意を強く拒絶する。彼の反対は、もっと大なる人口がこれにもっと大なる一人当たり所得と富をもたらすというバスティアの議論(Bastiat 1964, 412—42, 557—67)に拠っている。この結果は次のとおり、もっと大なる人口の観察上の結果から推論されている。すなわち、第一に市場の拡張とこれに付随する分業と特化の増大を容易にし、第二に増加した資本蓄積ともっと激しい規模の経済の資源開発を刺激する。そして今度は、人々が豊かであるほど、その増加へのチェックがもっと力強く、積極的とは逆の予防的な作用をする。

リカード学派にはかくも強調されるような、農業の収穫逓減の法則から引き出される悲観的な含意もない。ハーン(1864, 116)は「収益逓減に向かう着実な傾向」は土地に固有ではなく、あらゆる「自然エージェント」に適用されると論じる。ハーンが正しく説明するとおり(1864, 117)、

かかる比較は一般的には、土地部分と、無限に表現されるところの量に対する他の幾人かのエージェントの間で行われるのであって、当然されてはならないとおり、それぞれの特定部分間では行われない。もしも我々が他のどんな自然エージェントのそのような明確な部分にせよ注意を向けるならば、それが土地と同じ現象を示すことはすぐに観察するはずだ。

そのうえ、ハーンが認識するとおり、かかる法則の作用は静態的な技術と資本蓄積の中止を仮定している。しかしながらハーン(1864, 118-19)によると、

収益低減の法則が稼動するところの条件は決して実現されない。かかる条件は労働者の技能と力が変化しないことを仮定している。しかし知識と技能の状態および労働者自由になる労働を助けるような資源は決して不変のままではいられない。

ハーンの際立って現代的な収益低減法則の定式化は、資本蓄積と労働生産性向上の枢要な結びつきと、これらのどちらも実践的と同様に理論的にも無限であると理解されるという、セーと自由主義学派の前オーストリア派的な強調にインスパイアされている。[30]セー([1880] 1971, 118)が記したとおり、「人の力は資本を集める能力から結果しており、徹底して定義不可能である。なぜならば彼が時間と産業と倹約の助けで蓄積してよい資本には指定可能な限界がないからだ」。

ハーン(1864, 115-16)は土地や自然資源の収益低減の傾向を相殺するに資するもう一つの「労働の助け」として資本とともに「発明」を含めている。『財富学』で発明に与えられた突出した場所は、フランス人わけてもバスティアのハーンへの影響の更なる証拠である。[31]これはラ・ノーズ(1949, 70—71)に認識されており、彼が観察するには、『財富学』で発明に与えられた「非常に突出した場所」は、

イギリスの理論的論考にとって何か新しいものであった。……ハーンが発明に与えた突出は彼の欲望の強調に関係がある。……欲望は経済的生活を強いる力だ。それらの喫緊なプレゼンスが悲惨よりむしろ改善に及んでゆくという信頼が、人の発明能力への自信で強化される。

この期間に自由主義学派の観念に頼ったイギリス反リカード派の注目に値するもう一人は、無影響ではないながら無名な著述家のヘンリー・ダニング・マクロードである。シュンペーター(1954, 1115 n. 7)はマクロードを「あるいは非常に真剣に受け取られるべきですらありながら、彼の多くの良い観念を専門的に容認可能な形態で述べることができなかったせいでやや認知を得ることに失敗した、多くの功績がある経済学者」と要約していた。

彼の努力は一般的には彼の同時代人には無視されていたけれども、マクロードの作品の種子的な重要性はマーシャルとジェヴォンズの両人に触れられていた。マーシャル(Haney 1949, 516-17)はジェヴォンズの前任者たる「一八七〇年以前の彼の著作が、ワルラス教授とカール・メンガー教授……およびフォン・ベーム=バヴェルク教授とフォン・ヴィーザー教授による、価値を費用に比する古典派学説への最近の批判の形式と内容両方を大いに先取りしていた」人物たるマクロードにはっきりと言及している。

ジェヴォンズ自身、彼の『経済学の理論』で幾度もマクロードを挙げている。かかる本の最終段落で、ハーンらイギリス人とフランス人経済学者に添えて、その作品が「科学の改善に向けた価値ある提言」を含んでいたが優勢なるリカード学派の「有害な影響力」のせいで無視されているとして、ジェヴォンズはマクロードを名指しする。同書第二版の序文では、ジェヴォンズは彼自身の思考へのマクロードの影響を打ち明けている。ジェヴォンズ([1871] 1970, 57)は後者の作品の「数理的精神」について語りながら、「確かに私は多くの重要な点で彼とは違っているが、彼の幾つかの作品の使用から私が得た援助を認めなければならない」と宣言する。

経済学へのマクロードの重要な貢献は「かかる科学にまったく新しい基盤を打ち立てる」ための彼の努力から発生している(MacLeod 1857, v)。マクロードは富の生産と分配と消費の科学と普及した経済学の着想に不満であった。マクロード(1857, 12)は「交換の主題」が「純粋経済科学の限界」を構成すると論じる。言い換えれば、マクロード(1857, 12)にとって、経済学は「物の本性が何であれ、実際に存在するにせよ潜在的に存在するにせよ、売られようとも買われようとも、あらゆる物を扱い、あらゆる物を含める。……その適当な限界があり、その対象は、それらの価値を規制する法則を、発見し、確証することである」。

マクロードが彼の交易論的な経済学の着想を発達させたのは彼以前の(ローダーデイル伯爵とリチャード・ウェイトリー大監督のような)イギリス反リカード派およびコンディヤックとセー特にバスティアを含むフランス主観価値伝統の著述家の影響下であったと認識されている(Haney 1949, 513-21; Kirzner 1976, 72-73)。

マクロードはこの交易論的経済科学アプローチを解する際に、前限界主義的な洞察の幾つかに到達した。たとえば、彼は生産者が物に価値を与えるというスミスとリカードの主張を否定しており、彼は「価値を授けるのが消費者であることは疑問の余地なく確実である」と考える(MacLeod 1857, 111、強調は原文ママ)。「価値は生産者の労働からは湧き出ず、消費者の欲望から湧き出る」(MacLeod 1857, 127)。したがって経済学は「社会のメンバーの自然な欲望に基づいている」(MacLeod 1857, xix)。

人間の欲望を経済学の基礎と分析する際に、マクロードはあらゆる快楽主義などの心理学的共示の概念を明示的に追放することでジェヴォンズら早期限界主義者を超えて前進してゆく。かくて彼が推理するには、

経済学とはなぜ人々が他でもなく一定の対象を望ませられるのかの理由とは何の関係もない。……天文学が重力の形而上学的原因に関わらないのと同じだけ、経済学は、なぜ人々が一定の物を望むのかの理由とは何一つ関係ない。それが関わることはすべて、事実を受け入れて、その帰結を辿ることである。

マクロード(1857, 98-99)は「即時の価値」や「取引で実際に支払われる価値」の決定因を説明する際に、「異なる強度のサービス」という見出しの下で、限界効用逓減の原理を明瞭に定式化している。価格が決定されることに応じる一般的規則はマクロード(1857, 100)によれば次のとおり表現される。「価格は行われるサービスの強度で直に異なり、売り手〔すなわち競争者〕に対する買い手の力で逆に変わる」。この規則は「普遍的適用」をさるべきであり、「その本性が何であれ、あらゆる取引を包括する」と考えられている。

「需要と供給の関係が価値の唯一の規制器である」と強調する際に、マクロード(1857, 111)はフランス主観価値理論家コンディヤック神父に共鳴しつつ、市場価値は生産費用で決定されるのではなく、むしろ市場価格が単線的に生産費用を決定すると論じるべきだったオーストリア限界主義者の立場を先取りしていた。マクロード(1857,111)によると、

物はもしも大なる支出で生産されるならば価値がないことは異論の余地なく真であるけれども、人々は他人がこれらを得るために大なる価格を付けるだろうと期待するから生産に多くの貨幣を費やす。……売り手は生産に多くの貨幣を費やしているから買い手は高い価格を付けないが、売り手は買い手がもっと高く付けるだろうと望むから生産に多くの貨幣を費やす。

書き留められたとおり、マクロードの交易論的基礎の上での経済学の再構成と、これが与えたものに対する限界主義的洞察の豊かな収穫は、部分的にはフランス主観価値の伝統の著述家にインスパイアされていた。マクロードは交易論的科学としての経済学の発達を遡る際に自らこの伝統のメンバーの重要な後見を強調している。かくて、フィジオクラートは「経済科学の真の創始者」と指名され、ケネーは「現代経済学の長老」、「経済学のコペルニクス」に名指しされる(MacLeod 1857, 4-5)。

コンディヤックは、マクロードによればアダム・スミスとともに「かかる〔フィジオクラートの〕学派から発した」最も重要な著者の一人と見なされる(MacLeod 1896, 69)。『国富論』と同年に出版されたコンディヤックの論考は「真の経済学の広い一般的要旨を打ち据えた」。そのうえ、「科学的精神にかけてスミスより果てしなく優れていた。それまで経済学について著されてきたもののなかで、あらゆる疑問を超えて、最も注目に値する作品であり、科学史の最も重要な部分を担っている」(MacLeod 1896, 73)。特に、コンディヤックは古代と十九世紀イタリア人経済学者のように、「価値の起源と源泉を置くあてが人間精神であって、労働ではなかったのであり、これがイギリス経済学の破滅であった」(MacLeod 1897, 70)。「スミスとリカードの経済学への致死的な移動」を送る、ウェイトリー大監督に後に用いられたのは、コンディヤックに定式化された「根本的な学説」、すなわち、生産物の価値がその生産で発生する費用を決定すること、逆ではないことである(MacLeod 1896, 71)。

マクロード(1896, 113)は十九世紀フランス人経済学者を査定する際に、セーについて、経済学を富の生産と分配と消費の科学と定義することで経済学への交易論的アプローチを放棄したかどで厳しく批判した。セーはまた対象の内在的質たる非主観的で矛盾した効用の観念に価値を載せたかどでも非難されている(MacLeod 1896, 114)。

これらの批判にもかかわらず、マクロード(1896, 111, 120)はセーを経済思想上の傑出した人物を見ており、彼を「非常に著名なフランス人の著述家」と言及し、ジョン・スチュアート・ミルについては彼が「交易または交換の科学、あるいは価値の理論であるという経済学の根本的概念」を拒絶する点で彼を「セーの弟子」と言及している。マクロード(1896, 120)はミルの「先験的科学」としての経済学の特徴付けを批判する際に、またも「彼の主人セーに対して活気なく謀反中である」と述べており、マクロード自身は経済学を、観察される事実と非仮説的な仮定から推理する「実験的」科学と同定する際にセーに従っている。マクロード(1896, 135)は終わりにあたって、一世紀半にわたり「J・B・セーの経済学はフランスで比類なく君臨し」、ミルによって「多くの多様性があるものの」イギリスに導入されたと告げる。

マクロードはどうも最初の経済学再構成の試み以前にはバスティアの作品を読んだことがなかったらしいけれども、彼(1896, 148)が最も賞賛する経済学者はバスティアであった。バスティアはマクロードには「これまで経済の科学を引き立ててきた最も鮮やかな天才」と記述されている。「セーとミルのシステム」を「完全に放棄」し、これに代えて「交換の科学」あるいは「価値の理論」たる経済の着想を用いたのはバスティアの偉業であった、と(MacLeod 1896, 135-36)。マクロード(1896, 138)は「かくてバスティアは完全にJ・B・セーの悪質な影響力から自らを解放した。……彼はアダム・スミスとリカードの経済学をそれたらしめる有害な誤謬を根っこまで引きちぎった。……彼は単純に、驚くほどの混沌と混乱と、アダム・スミスとJ・B・スミスの矛盾の塊を片付けたのである。」と記述するとき科学的なたくわえをすべて打ち捨てているように見えるほどバスティアの貢献を高く考えている。

アメリカの交易論的伝統

南北戦争の後、特にセーとデスチュ・ド・トラシーとバスティアの作品で提示されたような自由主義経済学の学説に重い恩義を負ったアメリカ経済学では、交易論的かつ主観主義志向の運動が舞台に現れたこのアプローチの信奉者には、アマサ・ウォーカーとアーサー・レイサム・ペリー、および後者の息子フランシス・アマサ・ウォーカーのような著名な経済学者が含まれる。

セーはアメリカ経済思想に過剰評価するのが難しいほどの影響を及ぼした。特に、彼の『概論』が学説上の学者に甚大な影響があったと認識されている(Haney 1949, 880; Ferguson 1950, 239; Conkin 1980, 28; Bell 1953, 486; Dorfman 1946, 2: 513-14)。同書は一八二一年に英訳され、多数の版を重ねていった。これは南北戦争以前には大学の教科書として広く用いられており、一八八〇年代後半にも幾つかの学校で用いられ続けていた。そのうえ、「普通使われていた」アメリカの教科書は「J・B・セーの教えに合わせられていた」(Pribram 1983, 206)。

セーのアメリカ交易論的経済学者への影響力はさまざまな領域で見ることができる。一つは方法論であり、セーは経済科学を少数の一般的かつ「観察可能」な経験の事実からの定理演繹システムとしてアプローチした(Roll 1953, 322-23; Rothbard 1979, 45-48; Salerno 1985, 312—14)。「価値と分配を一つの問題の二つの部分と受け取る」セーの分配理論への交易論的アプローチのように、価格理論に対するセーの効用と稀少性アプローチまたは需要と供給アプローチは無条件で受け入れられていた(Davenport [1908] 1964, 114)。資本化の役割とは異なるという企業家あるいは「請負人」の役割に対するセーの強調はその表明がアメリカの交易論的伝統の諸作品の幾つかに見つけられる。

トラシーの経済学論考(Tracy [1817] 1970)は未発表のフランス語の手稿から彼の友人兼弟子たるトーマス・ジェファーソンの監督の下で英訳された。[32]同書は一八一七年、セーの『概論』英訳より四年早く出版された。トラシーの作品が経済学「教育の初等書」になるだろうとはジェファーソン公認の望みであった(Tracy [1817] 1970, i)が、かかる作品は「大学では少ししか認知されなかった」(O'Connor [1944] 1974, 25)。にもかかわらず、トラシーの作品はジェファーソニアン経済学の発生期に影響を及ぼしており、ジェファーソン自身と彼の早期の追随者たるジョン・テイラー[33]の著述を通して、トラシーの観念は後のアメリカ人経済学者に伝わっていった。[34]

アメリカ人経済学者の作品に反映されたトラシーの思考の一要素は彼の純粋に交易的な現象としての社会の強調的描写であった。トラシー([1817] 1970, 6, 15, 92)はこれを次のとおり述べた。

社会とは専ら純粋に一連の連続的な交換である。それは、最も未熟な開始段階からその最も偉大な完成に至るまで、その持続のどんな瞬間においても、決して他の何ものとはならない。そしてこれこそは我々が社会に与えうる最大の賛辞である。というのも交換とは契約する二当事者がつねにともに利を得るところの賞賛すべき取引であるからだ……。商業は社会の全体である

したがって、政治的権威が事実上市場取引を妨げるような一般価格統制を押し付けるとき「厳密な意味で……社会は溶解する。というのもそこにはもはやどんな自由な交換もないからである」。

しかしながら、その作品でアメリカ交易論的運動に即時の明示的なインスピレーションを与えた自由主義経済学者はバスティアである。

この運動の創始者はアマサ・ウォーカーであり、彼の主著『富の科学』(1875)は一八六六年に出版されて、速やかに「教科書として広い人気を博した」(Ferguson 1950)。[35]これは版を八つ重ね、イタリア語にも翻訳された(Newton 1968, 6)。一八七一年には要約された「学生版」が出され、一八七五年にはすでに第四版が売り切れた(Walker 1875, v-x)。

ウォーカー(1875, v-vi)はセーの伝統において、経済学が「あらゆる真なる科学のように、事実の観察に則っている」と考えた。科学の基礎は二つの事実にある(Walker 1875, 18)。いわく、「かかる科学の第一の事実」(強調は原文ママ)にして「万事の基礎」は人が「欲をもつ」ことである。第二の事実は「これらの欲望が努力でしか満足させられない」ことである。その前提がこのように証明可能に真理であるから、J・S・ミルに反対してウォーカー(1875, 19)が論じるとおり、経済学は「実証的」であり、「仮説的」科学ではない。

一方の欲望や要望の要素は人の存在の構成に確定されており、他方の要素――それらとの労働や努力の関係――は、自然の恒常性と、我々がこの創造された世界に帰する永遠性に固定されている。……しかし、人の存在と自然の法則が経験に見出されるので、経済学は実証的科学と見なされるべきものである。その根本原理に仮説的なものや問題が残るものはない。

オコナー([1944] 1974, 264)が書き留めていたとおり、「ウォーカーは経済学を制約する傾向性を価値の科学に拡張している」。ウォーカー(1875, 22)によれば、経済学とは「『富』という用語が価値の対象をすべて含み、他は含まない」ような富の科学である。経済学は厳密な正確さにおいては「価値の科学」であるが、という用語は「もっと通俗的であり、言葉の慣例的な使用にもっと近いものとして」保持される。翻って、価値は「或る商品が他との関係で備える交換力」と交易論的に定義される(Walker 1875, 23)。

ウォルカーに利用された富と価値の考え方はバスティアの『調和』から直接に来ており、実際、ウォーカー(1875, 24)は「かかる主題の著者全員のうち、価値の定義と例証にかけて、バスティア氏より完全かつ明晰であった人はいないようだ。」と宣言している。ウォーカー(1875, 24—27)は『調和』からの引用と例のほぼ三ページに続けてこれを宣言しており、物の価値が「彼の判断で決定されるとおりの購買の意思」に依存することと、「交換を受けるのはサービスか労働である」であること、以上の二重の命題を確立するつもりでいる。

ウォーカーの理論的システムを詳細に調査せずとも、彼の学説は生産と分配の部門では古典学派よりもセーとバスティアと自由主義学派の方にかなり大なる類似性を示していると言えば十分である。[36]

たとえば、ウォーカー(1875, 27-31)はバスティアのように、自然が無償で「効用」を提供する、「無に価値を加える」から、土地は純粋に自然的なエージェントとして所有者に所得収益を生み出さない、と考えている。ウォーカー(1875, xiv, 325-26)に思い浮かべられたとおりの地代は「固定資本の報酬」、すなわち土地に投資された資本への利子収益」である。

ウォーカーはセーに従って、多様な生産要素に発生する分配的シェアを、交換を支配する法則に、つまり交易論的に決定されると見なしている。かくてウォーカー(1875, 276, 316-17, 320, 332)によると、

価値法則は賃金法則である。……〔賃金は〕本質的には費用の条件、需要と供給に依存する。平均的収益率は賃金のように同一法則で決定される。利潤とは単に、雇用者が受け取る賃金にすぎない。……ちょうど雇用者や事業請負人のように、もしも欲しいより多くの労働者がいるならば賃金は下がり、少なくいるならば上がる。……利子は需給の法則に支配されてゆく。これは議論や証明が要らないほど明白である……賃金はそれ自体を規制する、あるいは言い換えれば、価値法則の作用で全面的に支配される。

ニュートン(1968, 6)は「アメリカの理論の発達という視座から見た〔ウォーカーの作品の〕主たる貢献は資本化とは区別さるべき別の生産的要素としての企業家の着想である」。これはもちろんウォーカーの経済学の主たる影響元がフランス主観価値の伝統であったおいうテーゼと完全に一貫しており、テュルゴの時代から資本家の職能は「請負人」の職能と鋭く区別されていた。[37]

ウォーカーは彼の親密な友人たるアーサー・レイサム・ペリーにバスティアの作品を紹介した(O'Connor [1944] 1974, 265; Dorfman 1946, 2:981)。ペリーのバスティア読書は経済学を「富の科学」から「交換の科学」へとラディカルに変形する試みをインスパイアした。[38]

この点でのペリーの努力の記述は役に立つ。なぜならばこれは彼の思考へのバスティアの深い影響に光を投げかけるからだ。ペリーは経済学で扱われる現象を包括するにはという用語は適切だろうかと早期に抱いた不安を詳述した後、次のとおり宣言する(1878, vi)、

わが友アマサ・ウォーカーがバスティアの『経済調和』を薦めてくれたのは、私の心は今でこそ長年にわたって完全な落ち着きをもってよりかかっているところの結論にもう少しで達しそうなときであった。[39]私はちょうど今日のように科学の畑が私の心の前に広がったとき、この注目すべき本をかろうじて十ページほど読んだ。その結果どれほど多くのことがもたらされたか、これに向かってどれほど多くのことがバスティアから得られたかは、私には分からない。私に分かるのは、あの時以来、私にとって経済学は新しい科学であったということだけである。

ペリーの手で、経済学は「買いと売りの科学」と再定式化され、その領域は「価値、または販売、または交換」になった(Perry 1891, 61, 66)。したがって、「需給の法則」は「経済学の最も包括的な美しい法則」として中心的段階に与えられ、ペリー(1891, 52)はこの法則を「満たす」ことに彼の論考を捧げる。

ペリーはバスティアのように、かかる科学の基礎を、人間の欲望とその満足で連結する主観的現象に求めている。これは彼の次の格言が反映されている。

交換で連結して感じられる不可視の欲望と満足は人間本性の最も恒常的な要素の中にあり、推論と結論はおろか予言でさえ、経済学の立つ硬い基礎を与えているこれらすべてから引き出されるかもしれないが、これらは……努力と表現の相対的にもっと一時的(ながら可視的)なデータを生み出す。(Perry 1891,31-32)。

経済活動の主観的基盤に関するペリーの理解は彼を、ラディカルで非リカード派的な、経済のデータと結果の固有の変化可能性と予言不可能性に導く。これは次の引用で鮮明に例証される(Perry 1891, 42)。

経済学の主な魅力の一つは公然の秘密だが、それが硬直性と固定不可能な量と数学的な量と物質の不変法則ではなく、欲望と評価と目的と満足のうねり立つ役割を扱うことであって、それらはすべて心の状態であり、機械論のとは非常に異なる種類の法則ではあるものの、確証可能な法則に一般的な主題である。価値が来て、これらが出てくるのだ。一定の限界と一定の条件の中で、これらは予想はおろか予言すらされるかもしれないが、決して月食や既知の科学的な組み合わせの結果のような正確さはない。……〔価値の科学〕は第一にを扱い、第二にのみを扱う、物質を扱わず心を扱う科学である。……そしてこれがすべてそうなのは、価値が相対的だからであり、今日の市場での発表は明日とは別様で、来年とは非常に別様かもしれないからであり、そしてひたすら人々の欲望と労働と流行と企画の絶えざる変化に応じて、古い価値は丸ごと消滅し、多くの新しいものが現れるかもしれないからである。

ペリーの交換と厚生の理論は彼の人間的欲望の理論と論理的に結びついている。交換は増加した欲望・満足を賄う互恵的な企てである。この企てに対する政府干渉のようなどんな障害もその事実によって経済厚生を減少させる。かくて自由主義学派のレッセフェール政策は交易的科学の論理的な基礎の上に与えられる。[40]

ペリー(1891, viii)によると、

人々に普遍的なこれらの行為〔すなわち、買いと売り〕はつねに自発的なので、またこれらを引き起こす普遍的な動機があるに違いないし、互いに対する両当事者各位のこの動機と販売はすべて両者が得られる相互満足に他ならないのであり、したがって、かかる推論は容易にして揺るぎなく、政府の販売制限やその禁止は満足を減らし、人類の進歩を遅滞せしめるに違いない。

価値と交換と福祉の理論に劣らず、分配理論でも、ペリーは自由主義的な前任者、わけてもバスティアによって最初に明確にされた立場に大いに従う気でいる。[41]かくてたとえば、ペリー(1891, 146-47)はリカードの「土の原初の不滅の力」の存在に関する格言を否定し、「多かれ少なかれ人間の労働支出とそのために留保された資本がなければ耕作と販売に適した土地はどこにもありえなかった」という断言で反撃する。そのうえ、土地の力は到底「不滅」ではなく、「その肥沃さを保つためには労働と資本の絶えざる適用を要する」。そしたらペリー(1891, 148)としては、「価値ある土地はほぼすべて資本でもある、すなわち、更なる将来の生産で助けになるために留保された生産物なのである」。

ペリーは「資本」という題の下に土地を含めてから、分配と生産の理論について幾つかの反古典派的で自由主義的な含意を演繹する。

第一に、賃金と利子の本質的な同一性が「建設のためにせよ収穫のためにせよ賃貸された土地の地代は、その本性は融資された貨幣の利子と同一であり、実際の資本使用者に対して所有者が与えたサービスの測定である」(Perry 1891, 151)という命題で強調される。ここから、労働と資本のただ二つだけが生産的要素であるから、分配シェアは利子と賃金のただ二つだけである、ということになる。したがって、「資本家と労働者の共同エージェンシーに創造された集計的生産物は両者の間ですべて分割されるものである。他の請求者はありえない」(Perry 1891, 235)。

第二に、ペリー(1891, 153)は農業での「収益低減の法則」の作用を否定するとは程遠く、ハーンのように、静態的条件の下のみにせよ、あらゆる形態の資本を適用するために、おのずとそれを広げていわく、「新しい発明で改善されず、新しい技能でも元気付けられないような、あらゆる形態の資本と結合した努力の増加は、たとえ実際に集計的収益を増加するかもしれなくとも、……努力の増加に比した増加を確保できない」(強調は原文ママ)。[42]

前述の考察に基づいて、ペリー(1891, 176)はリカードの地代学説が「古びており役立たない」し、そのうえリカードは「万事を生産物の生産費用に変えるが、それは努力であって、生産のための絶えず変わる需要を無視しているのだが、これは欲望なのである」から、かかる学説は主観主義志向の交易論的科学には受け入れられないと結論する。

交易論の境界内にあるペリーの経済学の外接は、分配論の他の領域でも彼に古典派の教えを拒絶させた。たとえば彼は、人口問題は交換に焦点を当てる科学のデータと適切に見なされなければならないという見解に或る程度基づいて、「経済科学にとってのマルサス主義の見当違い」(Perry 1891,217)を論じている。ペリー(1891, 216)が考えるには、

経済学は研究と一般化を始める前でさえ、互いに交換できるし交換が本意である人の存在を先行前提している。彼らがどう出現するか、彼らの自然増加率と、食糧増加までのその増加率は、心理学的疑問としてどれほど興味深くとも、明らかに我々の科学とは関係がない。

くわえて、ペリー(1891, 217)は「人口増加の法則」と「土地からの収益低減の法則」の間には「抽象的な対立」があると認めるけれども、これが現在や将来に実情となるような「実践的傾向」が存在することは否定する。

ペリーは福祉最大化の市場交換過程の論理的結果として分配現象を分析する際に、資本家と労働者が生産過程における自然な盟友であり敵対者ではないという自由主義学説を肯定する。[43]したがって、ペリー(1891, 238)は資本家と労働者の関係を「純粋な売り買いの事例」と特徴付ける。資本家と労働者はこの進行中の交換関係の相互受益者として、「同じ関心事の共同パートナー」として共存し、「彼らの利害は一致する」(Perry 1891, 193)。正常な状況では、「それぞれの階級の、互いの生産物に対する需要は、衰えることなく続いてゆく。利潤と賃金は互いに互恵的に生じるのである」(Perry 1891, 193)。これは「賃金と利潤はどちらも究極的には、資本家と労働者が共同で生産した商品の灰倍から受け取る収益・サービスから支払われるに違いない」から必然的にそうである(Perry 1891, 195)。[44]

所得分配の基礎である相互利益の交易的関係と、「経済学は始まりから終わりまで人間の科学である」という事実を強調するために、ペリー((1891, 181, 183, 238)は標準的な英語の労働資本という用語を労働の遣り手労働の受け手にそれぞれ置き換えており、これは同時代のドイツ人経済学者の用語を英語に翻訳したものである。

最後に、ペリーは古典派の賃金基金説の柔軟な変種を信奉しながらも(Newton 1968, 87; Bell 1953, 500)、[45]資本蓄積はつねに利潤率と利子率の低下に結果し、これに応じて労働の絶対的および相対的な純生産物シェアの増加に結果する、というバスティアに言明されハーンに受容された命題を肯定している(Perry 1891, 233-35)。

ペリーは「アメリカが一八八五年以前に生み出した、最も良く経済学を身につけた経済学者の一人」と評されており(Turner 1921, 179)、彼の作品は合衆国で相当の影響力をもっていた。彼の教科書『経済学要諦』は一八六六年に初出版されて二十二版を重ねた(Bell 1953, 498)。さらにドーフマン(1946, 2:983)が書き留めるとおり、「ほぼ四半世紀にわたってこの国で最も評判の論考だった」。オコナー(1944] 1974, 265)はこれを「この期間の傑出した本」と評価する。

ペリーの教科書は一八七六年には「最も売れた経済学の書籍」十冊のリスト上でミルの『原理』とスミスの『国富論』に次ぐ第三位に格付けられていた(Bell 1953, 498)。また、一八七六年版の和訳は「西洋の観念が日本に採用されていた早いころの経済教育の主な資料の一つになった」(Bell 1953, 498)。

しかしながら、おそらく十九世紀最終四半世紀の最も影響力あるアメリカ人経済学者は、アマサ・ウォーカーの息子、フランシス・A・ウォーカー将軍である。「古典的な理論的観念とはまったく異なる考え方をした」のは若いウォーカーであったと言われている(Ekelund and Hebert, 1983, 402)。そして彼がそのような考え方をしたのはアメリカ交易論運動から吸収した自由主義的経済学説の影響の下であったと言い加えられてもいい。

ウォーカーは父が一八六六年に出版する教科書を用意するのを助けていた(Bell 1953, 495; Newton 1968, 7)。彼は一八八三年に彼自身の一般理論の論考を出版し、「この本は父のと同じ概要に倣っている」(Bell 1953, 507)。若いウォーカーの作品はすぐに「大学の経済学の基礎課程で使われる最も通俗的な論考」になって、かの世紀を跨ぐまでこの地位を教授していた(Newton 1968, 12)。

ウォーカーは父と特にバスティアとペリーとは、射程と方法、分配論、労働政策で別れていたけれども(Newton 1968, 18, 20, 40, 51, 80, 84, 153-54)、一般的には純粋理論のほぼ全部門での自由主義インスパイアの交易論的アプローチを信奉していた。かくてたとえばフランス人思想史家シャルル・ジド(1905, 23 n.l)は、フェッラーラと幾人ものフランス人経済学者に添えて、ウォーカーを十九世紀自由主義学派の「主要な代表者」に含めている。

ウォーカー(1888, 1)は経済学の主題を「富」と同定しており、ここでの富とは「他でもなく価値の全品」からなると定義される。価値はバスティアの意味での「交換力」と定義される。

経済学の適切な方法に関する議論では、ウォーカーは自由主義陣営に加わっている。ウォーカー(1888, 27)はバスティアのような一定の経済学者を厳格な価値中立性からの逸脱のかどで窘めるが、「フランス人の著述家は……概して経済学の性質と論理的方法の理解力にかけてずば抜けていた」と宣言する。かかる科学の仮定は仮説的にすぎないというJ・S・ミルの立場と彼が「先験的」「リカード派」あるいは「イギリス」経済学とさまざまに称するものに反対して、彼は経済学の「前提」は事実的かつ現実的であるに違いないというケアンズの立場――また、ウォーカーは言及しなけれども、セーと彼の父のでもある立場――を支持する(Walker 1888, 12-17)。[46]

また、ウォーカー(1888, 87)は価値と価格の理論でも「生産費用も再生産費用も品の交換される力を決定しない。……価値はつねに需要と供給の関係に依存する」と論じながらアプローチに関して古典派の路線より自由主義への賛意を公言している。

しかしながらウォーカーは単純な需給理論の内容にはよらず、それをジェヴォンズの最終効用理論と統合している。したがってウォーカー(1888, 101)によると、「市場価格はつねに商品の最終効用を測定している、すなわち、それをその価格で買う間まさにそれを価値ありとする最終購買者にとってのそれの効用を測定している」。[47]

普通その創始者をアルフレッド・マーシャルに帰せられているところの価値と価格の理論の諸概念を発達させたのがウォーカーであったことはほんの幾人かの著者(Bell 1953, 508-9; Newton 1968, 104-5)しか注目してこなかった。さまざまな理由で、ウォーカーのこの領域での貢献は相対的に無視されており、彼の同時代人に影響しなかった(Newton 1968, 106-7)。ここで興味深いのは、自由主義的主観主義的交易論的アプローチの枠組み内でこそ、これらの革新がウォーカーに請け負われたことである。

ウォーカーが原初の貢献を果たしたと広く認識されている領域は分配理論である(Bell 1953, 509-11; Haney 1946, 880-81; Newton 1968, 39-97)。シュンペーター(1954, 867)はウォーカーの「経済理論への貢献」リストに、残余請求者賃金説、企業家の役割の強調、賃金基金説批判を入れる。しかしこれらはすべて自由主義経済学者に長らく考えられていた立場である。

テュルゴ([1898] 1971)の時代から、フランス人経済学者はイギリス人とは対照的にも、利潤の受領者たる企業家の動態的で活動的な役割を、生産過程を初動するための貨幣前貸しを行い見返りに利子を受領する相対的に受動的な資本家の役割と、鋭く区別していた。ニュートン(1968, 33)はフランシス・A・ウォーカーが初めて「父から根本的な企業家概念を引き出した」と指摘している。しかしながら若いウォーカーは最終的には「セーの先例を追いながら、企業家の職能を描写して、資本家に稼がれる利子、イギリス古典派の総利潤と区別してきた、フランス人著述家の系統の貢献を完全に認識する」ようになった(Newton 1968, 33-34, n. 21)。

セーの著作から引き出された交易論的賃金理論は賃金基金の概念とは一貫せず、後のフランス人自由主義著述家はどうしても認めようとしなかった。ウォーカー(1888, 251)自身は「私は一八七四年に賃金気近接の起源と文献的歴史を遡る好機があったが、大陸のこちら側では長らく支配を及ぼしていたこの致命的な学説に感染したフランス人経済学者はたった一人も見つけられなかった」と評している。労働生産性を強調するウォーカーの積極賃金理論もまたそのルーツをセー‐バスティアをもっていた。これは二人の傑出したフランス人自由主義経済学者、ルロワ=ボーリューとエミール・ルヴァスールが独立して同時に非常に似た理論を定式化していたという事実で証拠付けられる(Cassel 1932, 310; Newton 1968, 83; Levasseur 1900, 370-71, 389-90)。

アメリカ交易論運動の著述家はまた貨幣と銀行の理論でも自由主義学説に大いに影響されていた。これは特に百パーセント正貨準備銀行以外のありとあらゆるものに対する頑強な反対に現れていた。

たとえば、アマサ・ウォーカー(1875, 151—241)は彼の四五〇ページの論考の四文の一を、正貨と部分裏付け銀行券と預金からなる「混合通貨」が価値標準や交換媒体として振舞うに相応しくないと論じる一般理論に費やしている。

ペリー(1866, 246—66)は少なくとも彼の早期の著作において、ウォーカーよりさらに進み、「百パーセント準備の紙幣発行」にさえ疑問を付している(Bell 1953, 501)。[48]ペリーにとって、兌換可能な銀行券や「信用貨幣」を含むあらゆる形態の紙幣の「根本的な邪悪」は

その供給に自然な制限がないことである。その無限の増加に比して障害がないから、そのような供給条件に依存する価値は十分な安定性を欠き、ゆえに信用貨幣は必然的に、証明どおり、安定価値の基本方位の金銀貨幣より劣っている、と。

合衆国の「自由銀行」の経験に関してペリー(1866, 258)が論じるには、対外支払赤字のような自然な商業的出来事が引き起こしたパニックは、

全銀行が約束を履行できないと、前から皆が知っていたとおり告白するよう強いた。これらの繰り返される正貨支払い停止はシステム全体が不健全であると物語っている。信用は通貨を作る適切な基礎ではないと示しているのだ……。国全体の全欲望のために金銀通貨を維持する支出は銀行紙幣システムから結果生じる損失に多くの場合で引き合っていただろうと肯定する際に躊躇いはありえない。

また、アメリカ合衆国の自由銀行システムにちょうど取って代わったばかりの国立銀行システムに対して、ペリー以上に関心を寄せていた人はいない。ペリー(1866,260-61)にとって、

それの悪さは、この貨幣〔すなわち国立銀行券発行〕はそれ自体の量を規制できないし、金銀が供給の自然制限で保護されるようには保護されていない。その量を二倍や三倍にするには議会の票で十分であろう。……とりわけ、それに賛成して言うことができることは、信用貨幣から分離不可能な危険を、すなわち、人々の不信、その量の不当な拡大と突然の縮小、それゆえの価値の不安定性、そして不換性を、信用貨幣自身が曝け出したこと、いまだ曝していることである。

最後に、ペリー(1866, 263)はピール条例をイングランド銀行の銀行券発行に対する「よく考えられた制約案」と賞賛している。にもかかわらず、彼はピール条例の作成者の公式意図にもかまわず、「現在のイギリスの兌換可能な貨幣は実際には量と価値に関し、金属貨幣が貿易の衝動の下で変動するほど完璧に変動してはいない」と論じにかかる(Perry 1866, 264-65)。実に、ペリー()はピール条例の存在そのものが「量と価値の悲惨な変動を防ぐためにかくも厳しい制約のシステムが必要と考えられているときは、紙幣に関して何かわざとらしい不自然さがあるのだと示している」と論じるのである。[49]

F・A・ウォーカー([1878] 1968, 524)は彼の影響力ある論考『貨幣』で、部分準備銀行に賛成する多様な議論を批判的に分析し、「償還のために保有されている正貨の量以上に発行された紙幣は、いかに慎重に管理されようと、もっと大なる程度かそれ以下の程度に超過する傾向がある」という命題をもって結論している。[50]ウォーカー(1888, 171)は他のところでは「最も厳格な兌換準備の下でさえ、銀行貨幣には地方的および一時的なインフレーションの潜在性が備わっている」と論じる。

さて、銀行一般とりわけ部分準備銀行に対する敵意はアメリカ経済思想に長い伝統があり、トーマス・ジェファーソンに遡ることができる。銀行に対するジェファーソンの態度は、「強奪されたプラウマンと乞食にされたヨーマンに対して馬乗りの支配をしながら、恵まれた製造業、商業、航海の部門……を装っている、銀行制度と金持ち法人に基づいた」貴族制政府を設立しようと試みていた連邦主義者に対する彼の典型的な攻撃の一つで例証される(Dorfman 1946, 1: 444)。ジェファーソンは「正貨供給を超えた銀行紙幣の発行をいずれも攻撃した」し、一八一九年のパニックに反応して、「永遠の紙幣禁止」に導く計画を提案した(Rothbard 1962, 137, 140)。

指導的なジェファーソン派政治経済学者のジョン・テイラーは連邦主義者の「貨幣権力と貨幣特権の独占に基づく財政貴族主義」への衝動に対するジェファーソンの批判を推敲し体系化した(Wilhite 1958, 335)。テイラー([1814] 1950, 268, 313)によると、

人から人へ、あるいは国民から法人へと……富を移転するのは紙幣通貨のオフィスである。……それが富を表すかぎり、それ〔すなわち銀行〕を創造できる法人は……その手段で残りの国民から富を抜き出すことができる。……もしも国民が金銭的所得を貴人や銀行家の階級に授けるならば、貨幣が表すとおりに、そのサービスのかなり多くをこの階級に移すことになる。……或る階級や集団に通貨の正貨を与えることで、国民が民衆からそれらの階級や集団に対しサービスの全正貨への権原を与えてしまうことと、通貨干渉を通したそのようなサービスへの権原の法律による復活が封建システムの実質的復活であることは明らかである。

テイラーは銀行を特権的で独占的で元々インフレ的な制度と知覚したことで、公的銀行に対してと同じく私的銀行にも反対するようになった(Wilhite 1958, 342; Conkin 1980, 65-71; Dorfman 1946, 1: 301-4)。

ジェファーソン‐テイラーの銀行分析は、今度はデスチュ・ド・トラシーの作品に直接に遡ることができる。近頃レナード・リッジョ(1984, 81—82))が強調したとおり、銀行理論に関して、「十九世紀アメリカ経済思想は、イギリスの経済著作物ではなく、ジャン=バティスト・セーとデスチュ・ド・トラシーの経済論考に支配されており、これらはどちらもトーマス・ジェファーソン大統領の努力によりアメリカで出版されていた」。

トラシー([1817] 1970, 104)は短くも鋭い部分準備銀行分析で、「これらの巨大会社」はつねにその起源が政府から授かった独占特権にあり、彼らは低利や無償の貸付と引き換えに政治的権威を受け取ると強意的に論じている。「かくて、それは一方が保護を売り、他方がこれを買うことである」(Tracy [1817] 1970, 105)。しかしながら、特権的銀行の銀行券発行は銀行が兌換性を維持できないような範囲まで不可避的に拡張し、その未払い券債務の払い戻しの停止という追加的な特権を政府に求めるよう強いられる。銀行が正貨支払いの停止の許可を受け取るとき、「社会は紙幣でいっぱいの状態にあると分かる。……これがあらゆる特権的企業の成れの果てである。それらは根っからの悪であり、すべての本質的に害なるものはつねに酷い終わりを迎える」(Tracy [1817] 1970, 105)。

インフレ貨幣の経済中への拡散とその非中立的な「分配」の効果を強調する洗練された貨幣インフレーションの説明の後で、トラシー([1817] 1970, 93-94)は次のとおり結論する。

紙幣がこの過剰まで乱用されはせずに使用されるかもしれないと言うのは無駄で、絶え間ない経験が逆を証明しているし、経験とは独立に、理性は……乱用する目的で、いわば強制流通、貨幣を刷っているのだと証明している。あらゆる紙幣が血迷った専制の狂乱である。

銀行が不換紙幣の「恐るべき危険」を生み出さないほど「洗練されている」場合でさえ、彼らに約束されるようなこの好都合はどうしたって幻想であるかまったく取るに足らないし、国民的な産業と富の塊にほとんど何も加えることができない(Tracy [1817] 1970, 105)。したがって、トラシーは百パーセント正貨通貨を選好する。

結論

本稿での私の目的は、現代限界主義経済理論の発達初期に重要な役割を演じたと一般に見なされている幾人かや、そのような発達を予期してこれに影響を与えた幾人かの経済学者には、フランス自由主義学派の経済理論への貢献が認識され利用されていた、と論証することであった。もしもこれが概ね受け入れられるならば、英米での自由主義学派の無視を当学派の分析的な不毛さや無関心で説明するシュンペーターら学者たちの試みは速やかに陥落する。代替的な説明はなされていないものの、研究の焦点を申し立て上の自由主義学派の分析的な短所から離し、自由主義的経済学の実質的な理論的内容に対する英語圏経済学者(のほぼ全員)の認知を妨げた制度的な要因の同定へとラディカルに移すことで、相当の進歩がなされてきている。


[1] 当の学派はおそらく英米経済学者には「楽観」学派としてもっと知られている。しかしながら後者の名はこの学派の敵対者に発明された罵倒語であり、指名するつもりの相手によって明示的に拒絶されている。

[2] 皮肉にも、ケアンズ([1888] 1965, 31 fn. 2)はこの理論がセーの賃金決定への需給アプローチとは「疑問の余地なく和解できない」と特徴付けた。

[3] この言明はケアンズが一八七〇年にJ・S・ミルに宛てた手紙に見受けられ、ド・マルシ(1973, 92)に引用された。ド・マルシ(1973, 92 fn. 45)はまたミルがケアンズへのもっと早期の手紙で「フランス人政治経済学者は概ね『密接性と正確性で最善のイギリス人に決定的に劣っている』フランス人哲学著者一般の欠点を共有している」という意見を表明したとも報告している。

[4] シュンペーターは『経済分析の歴史』(Schumpeter 1954)でラモンターニュを引用していないから彼の貢献に通じていたとは思われない。マリアン・ボーリーはこの領域でシュンペーターに無視されていると思しき貢献をしたもう一人の著述家である。ボーリー([1937] 1967, 66-116)はナソー・シニアの主観主義志向の価値理論アプローチの学説上のルーツを論じる際に「大陸」の主観価値の伝統を素描した。

[5] ワルラスは確かにセーの伝統から生まれたけれども、数理経済学の妥協なき拒絶を含むフランス自由主義学派の主流派から彼を分離させる重要な方法論的問題があった。

[6] 事実的前提からの演繹的推理の手続きを強調するセーの方法論の扱いについて、Roll (1953, 322-23), Rothbard (1979, 45-49), and Salerno (1985, 312-14)を見よ。

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(出典: mises.org)