普遍教会、小国家、私有財産

Ralph Raico, The European Miracle.

ヨーロッパの成長の歴史に関わる学者の何人かは一定の明確な要素を強調する解釈へと転向する傾向があった。……この観点は……「ヨーロッパの奇跡」アプローチとして言及されていい。

当該「奇跡」は単純だが重大な事実からなる。人類が長期間にわたる一人当たりの経済成長を初めて達成し始めたのはヨーロッパにおいてだったのだ――アメリカも結局はヨーロッパの範囲である。このように、ヨーロッパ社会は、新たに数千万人が生き残ることができ、以前の人類の大多数が経験してきた絶望的な窮乏を人口全体で免れることができるようにしながら、「マルサスの罠」を避けて通ったのだった。疑問が生じる。「なぜヨーロッパで?

  1. 「ヨーロッパの奇跡」
  2. ヨーロッパの独特さ
  3. 中世の重要さ
  4. 発展のケーススタディー
  5. ヨーロッパとロシアの対照
  6. マルクス主義者の修史の没落
  7. 結論

経済発展に関する著者の間では、P・T・バウアーが歴史的知識の深さのために、そして成長という現象を理解する際の歴史的研究の不可欠性の強調のゆえに著名である(ウォルターズ1989, 60、またドーン1987も見よ)。バウアーは他の理論家の作品を調査する際に、彼らのあからさまな「時間次元の切断」に対して不満を述べた。

歴史的背景は経済発展の価値ある議論には欠かせないし、社会の歴史的進歩に不可欠な部分である。しかし、発展について最も広く出版された著物の多くが、歴史的な背景と過程としての発展の本性を事実上無視してしまっている。(バウアー1972, 324–25)

この領域であまりにも多くの著者が実証主義的強迫観念とたまたま数理技術に適ったデータを組み合わせる専門的な過剰特化に屈服してきた。その成果は、ほとんど現実と繋がりのない発展モデルだった。

能力と態度、風習と制度は、一般的には、解明の方法で定量化することができない……。けれどもそれらは明らかに、貿易、外貨準備高、資本・産出高比率、外部経済のような用語でコンセンサス文献の紙面を埋め尽くすトピックの影響よりも経済発展に関わっており、それらよりずっと重要である。(同上326)

著者が歴史的な主題にアプローチしているときでさえ、存する制度的かつ社会心理学的な要素を無視するために定量化可能なデータに集中することは、年代学的な展望を短縮させる傾向があり、ゆえに結果を損なう傾向がある。

十八世紀と十九世紀のヨーロッパ情勢を発展の初期条件に相当するものとして言及することは紛らわしい。そのときまでには西洋は今日の南アジアよりはるかに交換経済と技術時代に相応しい態度と制度に席巻されていた。これらの態度と制度は八世紀の期間をかけて少しずつ発生してきたものである。(同上219–20)[1]

バウアーに批判されたアプローチの根には、個人的人間行為者と彼らの行為が生み出す制度を無視しつつ集計を操作することを好む、方法論的な全体論があるようだ。けれども「人々の能力と態度および彼らの制度の違いは遠大で根深いし、経済パフォーマンスおよび物質的進歩の水準と比率の違いを大部分説明してくれる」(同上313–14、強調は追加)。

かくてバウアーの批判は、産業革命に先行するヨーロッパ史の数世紀と、この期間の「社会的、政治的、および法的な制度の相互関係」の両方を研究することの必要性に注意を向けさせる(同上277)。[2]ここで、彼の評価はちょうどこの点を強調する近年発生してきた学識の印象的な本体と結びつく。

「ヨーロッパの奇跡」

どんな一枚岩の分析の存在を仄めかすのも間違っているだろうが、ヨーロッパの成長の歴史に関わる学者の何人かは一定の明確な要素を強調する解釈へと転向する傾向があった。したがって我々は便宜のため、思想学派を形成するような彼らの違いにかまわずに彼らのことを語ってもいいだろう。この観点は「制度的」――あるいはこの分野で最も良く知られている或る作品のタイトルをもって――「ヨーロッパの奇跡」アプローチとして言及されていい。[3]

当該「奇跡」は単純だが重大な事実からなる。人類が長期間にわたる一人当たりの経済成長を初めて達成し始めたのはヨーロッパにおいてだったのだ――アメリカも結局はヨーロッパの範囲である。このように、ヨーロッパ社会は、新たに数千万人が生き残ることができ、以前の人類の大多数が経験してきた絶望的な窮乏を人口全体で免れることができるようにしながら、「マルサスの罠」を避けて通ったのだった。疑問が生じる。「なぜヨーロッパで?」

可能な答えの一つには、西洋と発展途上国当局の知的界隈で力強い支持を受けていた、社会主義的ひいてはマルクス主義的な教理にかなり影響されたものがある。[4]ヨーロッパの異常な成長の原因は、――帝国主義、奴隷制と奴隷貿易、小作農の搾取、および国内的労働者階級の搾取をとおした――資本の「原始的蓄積」と組み合わさった、科学の多かれ少なかれ自生的な前進のおかげとされていた。その結論は明らかだった。ヨーロッパの異常な成長は、語られざる数百万の奴隷にされた者と虐待された者の負担のおかげであり、ヨーロッパの経験は模範よりは訓話として発展途上国の意思決定者に役立たせられるべきである、と。

しかしながらもっと新しいモデルへの貢献者はこの神さびた伝説を拒絶する。彼らが関わる比較経済史では、ヨーロッパを他の偉大な文明、わけても中国、インド、イスラムの文明から分け隔てるような、ヨーロッパ的発展の起源が捜し求められてきた。なぜヨーロッパで?という疑問に対する或る程度の答えは、ヨーロッパが政治的制約の相対的な欠如を享受したから、である。ジャン・ベシュレルが開拓的な作品で辛辣に表現したとおり、

経済効率性の最大化の第一条件は国家に対する市民社会の自由化である。資本主義の拡張はその起源と存在意義を政治的アナキーに負う。(ベシュレル1975, 77, 113、強調は原文ママ)

ヨーロッパの独特さ

ジョン・ヒックスは後の一九六〇年代において、このアプローチの輪郭を部分的に示した。[5]ヒックスが『経済史の理論』において、拡大する経済発展の商業段階での「主たる必要」 ――財産の保護と契約の執行―― を 説明し、次のとおり述べる。

商業経済はその第一局面では、それ自体の政治的権威を作り出す場合を除けば、政治的権威からの逃避であった。それから中間局面では、それが正式に伝統的政治権威のもとに戻ったとき、その権威はそれを支配するほど強くはなかった。(Ibid., 33, 100)

しかしながら、ヒックスの説明は、それ自体を経済分析に限定しており、政治的、宗教的、科学的、および他の要素を慎重に無視していることを脇に置いても、あまりに図式的すぎることが分かった。(バウアー1971を見よ)。ヒックスと同じ頃、デイヴィッド・ランデスがもっと新しい見解の要点をスケッチしていた。彼は産業革命のブレイクスルーがなぜ西ヨーロッパで最初に起こったのかという疑問に答えを求める際に、「ヨーロッパを世界の残りから隔てた」二つの要素である「私企業の範囲と有効性、理性的操作によって調えられた人間的および物質的な環境の高い価値」をハイライトした。(ランデス1970, 14–15)。ランデスの見解では「西洋での私的企業の役割はおそらく独特であり、これこそ他のどんな要素にもまして現代世界を作ったものである」(同上15)。

しかし何が私的企業に開花を許したのか?ランデスは新たな解釈に不可欠であろう環境――ヨーロッパの急進的分散――を正確に指摘した。

(東洋や古代の世界を網羅するものとは対照にも、)西洋では、多重の競争する政治形態の背景の上で、私企業が産婆と機関として決定的な役割を担ったので、先例も類似物もない社会的および政治的な多様性があった。(同上、強調は原文ママ)

ヨーロッパの一部地域での状況は、政府による有害な侵略が起こったことで軍事的価値観への社会的選好を条件付けたが、「しかしながら結局のところ私企業の場所は安全だったし、時とともに改善していった。そしてこれは富の獲得と支出を統治した制度的整理において明らかである」(同上)。

経済拡張の先行条件は、政治的権威に抵抗する財産権の定義と防衛であった。これがヨーロッパでは早々に起こったのである。ランデスはヨーロッパの標準的な課税の方法(担税階級を代表する集団に監修されるシステム)を、「罰金と棒脱が手っ取り早い歳入の源泉だっただけでなく社会的統制の手段――俄か成金の要求を抑制し体制権力構造への挑戦を鈍化する装置――でもあった……大アジア帝国と中東イスラム諸国で」優勢な「略奪」(同上16–17)のシステムと対照する。[6]

ランデスの洞察は彼の『解き放たれたプロメテウス』の導入の数ページで手短にスケッチされたものだが、新しい学派によって非常に詳しく述べられてきた。結果は、次のように述べられうる西洋史の全体的な解釈となっている。

西洋の発達の鍵は、地理的要因も一定の役割を演じたけれど、ヨーロッパが単一文明――ラテン的キリスト教界――を構成しつつも同時に急進的に分散したという事実に見出されるべきである。[7]他の文化――わけても中国、インド、イスラム的な世界――とは対照的だが、ヨーロッパは分割され、ゆえに競争的な権力と管轄のシステムから構成されたのであった。

ローマの没落後、普遍的な帝国が大陸に台頭することはできなかった。これこそ最も重要なことだった。ジャン・ベシュレルはモンテスキューの格言を引きながら、「すべての政治的権力は、その外側のすべてを弱らせようとする。その成功を防ぐには強力な客観的障害が必要である」(ベシュレル1975, 79)と指摘する。ヨーロッパではまず何よりも競争する政治的権威が「客観的障害」をもたらした。ヨーロッパは普遍帝国の覇権を経験する代わりに、王国、公国、都市国家、教会領、およびその他の政治的統合体のモザイクが発達したのである。

このシステムの内部では、他所では慣習的なはずの仕方で財産権を侵そうとする所業は、どんな王子にとっても酷く軽率であった。王子たちは互いの恒常的な競争において、あからさまな徴収と押収的課税と貿易障壁が無処罰では済まないことに気づいた。かかる処罰はしばしば資本と資本家の移動による自分のライバルの相対的経済進歩を目撃するよう強いるような処罰であった。地理的な密集と特に文化的な親和によって容易化された「退出」の可能性が、国家を「抑制された略奪者」に変質させるよう作用したのである(アンダーソン1991, 58)。

分権はまた多様なヨーロッパ政治形態の国内的調停の印にもなった。ここでは封建制――これは国家奉仕よりもむしろ封建的権利に根付く貴族を生産した――が不可欠な役割を演じてきた、と数人の学者に考えられている(たとえば、ベシュレル1975, 78を見よ)。王国内での権力闘争を通して代議的組織が現れるに至り、王子は服従者の要求を聞き入れるよう強いる権利章典(たとえばマグナカルタ)によって自分の手が縛られていることに頻りに気づいたものだった。ついに権力は、ヨーロッパの比較的小さい諸国家の内部でさえ、大邸宅、修道会、特許商業区、宗教的共同体、企業、大学などに、それぞれ保証された自由をもつ形で分散した。法の支配が大陸中で確立されるに至ったのであった。

かくて、ヨーロッパの奇跡に決定的な基礎を設えたものは、ジョーンズの言葉で「略奪的政府の課税行動の抑制」と「競争的政治アリーナに整えられた恣意性の制限」(ジョーンズ1987, xix, xxi)であったという一般的な同意がある。時が経つにつれて、――人自身の人格への権利を含む――財産権はもっと鋭く定義され、所有者に投資と改善の利益をもっと多く勝ち取ることを許していった。(ノース1981)もっと自由な私有財産の裁量権が、市場で試みられた継続的な革新の可能性をもたらした。ここでもまた競争的な国家システムがとても好ましかった。ヨーロッパ諸民族は「資源と自由を一覧化する暗黙の趣意書をもった合本制株式会社の集合として」、そのような仕方で「システム全体において新奇と非正統の抑圧に抵抗すること」(ジョーンズ1987, 119)を保障すべく機能した。新たな社会階級が台頭し、「変化と成長と革新に反対するおぞましい社会的強制力の介入を免れた」(ローゼンバーグとバーゼル1986, 24)商人と資本家と製造業者を構成していた。

経済はついに短期間で世界のどこにも前例のない或る程度の自治を達成したのであった。ジョーンズが述べるには、

ヨーロッパ型の経済発展は結局、私有財産に関する恣意的な政治的行為からの自由を要求した。生産要素と財は自由に貿易されなければならなかった。価格とは何の財とサービスが本当に需要されているかを示す歪みなき信号であるべきとくれば、これは無条件の交換で定められなければならなかった。(ジョーンズ1987, 85)

私有財産の所有と配置を保護するシステムはヨーロッパで徐々に――少なくともバウアーが研究した「八世紀」にわたって――発達していった。したがって、実に論理的にも、「いかに西洋が豊かになったか」に関わる経済歴史家は彼らの注目の多くを中世の期間に向けているのである。

中世の重要さ

ルネッサンスの人文主義者と啓蒙哲学者に育て上げられた中世即「暗黒時代」というステレオタイプは、もちろん、学者によってかなり昔に捨てられている。バウアーによって誤りを見出される「コンセンサス」の著者は、いまだにヨーロッパの成長への中世の重要性――十八世紀ヨーロッパのユダヤ人の経済的かつ文化的な成功の説明の始まりとして大部分の筋が通る何か――を大いに無視しているが。しかしながらベルギー人の歴史家アンリ・ピレンヌ(ピレンヌ1937)の先例に倣う経済歴史家には中世の期間についての非常に異なった評価があった。カルロ・M・チポッラは「産業革命の起源は十一世紀と十三世紀の都市コミューンの台頭を伴う観念と社会構造と価値システムの深い変化に遡る」と断定する(チポッラ1981, 298)。

十世紀から十四世紀までのヨーロッパについてロバート・S・ロペスが述べるには、

ここは、低発達社会が大部分自分の努力で自身を発達させることに史上初めて成功したところであった。……それは一千年にわたり事実上間断なき成長を成し遂げるために欠かせない物質的および道徳的な条件を創造したのであり、これは一つ以上の在り方でいまだに我々とともにある。(ロペス1971, vii)

ロペスはヨーロッパの進化を隣の文明たるイスラムと対照する。イスラムは政治的圧力が経済的盛り上がりへの潜在力を窒息死させた、

イスラム拡張の早期の数世紀は貿易商と小売商に大きな展望を開いた。しかし彼らは自分たちの進歩に不可欠な自由と権力を町に築くことに失敗した。軍事貴族と土地貴族の厳しい掌握の下で、十世紀には間近であった革命が勢いを失い失敗したのである。(同上57)

ヨーロッパでは通商産業が発達するにつれて人々は「商業が自由のおかげで栄え、収縮から逃げ出し、そして普通、最も繁栄した都市は最も自由主義的な政策を採用したところであった」(同上90)ことを発見した。ヨーロッパの進歩の恒常的な要因だった――そして、ヨーロッパが競争的管轄の分散的システムだったからこそ存在できた――「実演効果」“demonstration effect”は、最初に自由主義的政策をあえて実験した町に繁栄をもたらした自由主義の、他所の町への流布に役立った。

中世ヨーロッパの発展を理解しようと試みるチポッラとロペスのような学者は、観念、価値システム、道徳的条件、および同様の文化的要素につねに言及する。[8]バウアーが強調してきたとおり、これはその制度的歴史と分け隔てられないヨーロッパの特徴的な進化の一部である。中世に関しては、多くの著者の観点で、主たる重要性がキリスト教に添えられる。ハロルド・J・バーマン(バーマン1974)[9]は、ローマ没落およびゲルマン人とスラブ人とマージャル人などの最終的な改宗でもって、キリスト教的な観念と価値観が、開花したヨーロッパ文化全体を覆ったと強調してきた。キリスト教の貢献は、奴隷制の緩和と家庭内でのもっと大きな平等性から、不当な支配者への抵抗の正統性を含む自然法の概念までに渡る。教会法は西洋法システムに決定的な影響を及ぼした。「現代法システムのようなものを西洋人に最初に教えたのは教会だった」(Ibid., 59)。

そのうえで、バーマンは十一世紀に始まった決定的な発達に注目する。すなわち、グレゴリー法王七世と彼の後継者による力強い「統合的、階層的な教会の、……帝王と王君と領主から独立し」、かくて一時的権威の権力シーキングをしくじらせうるものの創造である(同上56)。[10]このようにしてバーマンは、記録上の他の偉大な文化と同じようにどんな権力集中の機先も制し、かくて分割され紛争する管轄のヨーロッパを作り出すことで、西洋的な自由を生み出す際のカトリック教会の中心的役割についてのアクトン卿の分析を下支えする。[11]

バーマンは彼の大総合たる『法と革命』で、他の学者が調査してきた発達の法的側面の経済的、政治的、およびイデオロギー的な面を際立たせた(バーマン1983)。「おそらく西洋の法的伝統に最も独特な特徴は同一共同体内での多様な法システムの共存と競争かもしれない。法の至上性を必然かつ可能にしたのは管轄と法システムの多元性である」(同上10)。[12]

バーマンの作品は偉大なイギリス人学者A・J・カーライルの伝統にあり、カーライルは中世における政治思想についての彼の記念碑的な研究の結びで中世的政治の基本原理をまとめた。すなわち、誰もが――王も含めて――法に縛られること、無法な支配者は正統な王ではなく暴君であること、支配者とその服従者の間に契約が存在することだ(カーライルとカーライル1950, 503–26)。

近頃の他の学識がこれらの結論を支持してきた。経済思想の優秀な歴史家たるジェイコブ・ヴァイナーは彼の最後の死後の作品において、聖トマス・アクィナスによる課税への言及が、「これのことを、おそらく道徳的には許されないものではないはずの支配者の多かれ少なかれ異常な行為として扱っている」と注記した(ヴァイナー1978, 68–69)。ヴァイナーは「法に、または教皇からの明確な許可に支持された場合を除き、新しい税を課し、または古い税を上げた」どんな支配者をも破門すると脅した中世の――十八世紀後半まで毎年明らかに再発行された――教皇勅書『イン・チェーナー・ドミニー』を指した(同上69)。西洋世界のあちこちで、パーラメント、ダイエット、三部会、コルテスなどの議会を生じたのは中世であり、これは君主の権力を制限するのに役立った。[13]A・R・マイアーズが書き留めるには、

ラテン・キリスト教界のほぼ全域で、王子の歳入を別とすれば、議会の承認なく税が課せられることはないという原理が折りにつけて支配者に受け入れられた……。〔議会は〕自分たちの金権を使うことで、しばしば支配者の政策に影響し、わけても彼を軍事的な冒険から制限していた。(マイアーズ1975 29–30)

現代の中世学者の近頃の総合では、ノーマン・F・カンターが現行の制度的歴史家に用いられる言葉と驚くほど同じ言い方でヨーロッパ中世の相続物をまとめた。

国家の普遍的な水準の下に、市民社会のモデルで最善かつ重要なものが生じた。それは、家族、芸術、学習、および科学であり、ビジネス企業と技術的プロセスである。個人と手段の仕事があり、国家の参加は遠ざけられて引き離された。国家の飽くなき侵害性と腐敗を遮断し、国家水準以下の市民社会に自由を与えるのは、法の支配である。ほとんどまたはまったく国家の参加なしで、ほとんどの場合に男女が自分の運命を自分で切り開くこと、中世の世界ではこれがかなり起こったのである。(カンター1991, 416)

しかしながら、西洋の前進においておそらくキリスト教と結びついているとても重要な要素の一つが、もっと若い経済史家には扱われずにきてしまった。これは、西洋文化における、制度化された嫉妬の相対的な欠如である。バウアーに支持された作品では、社会学者のヘルムート・シェックが人間社会での嫉妬の偏在に注意を向けてきた(シェック[1969] 1987)。嫉妬はこれ差し向けられた人々に重大な脅威として受け取られるとき、典型的には入念な嫉妬回避行動に結果する。なんであれ悪意的な嫉妬を引き起こした特徴を否定し、偽装し、抑圧することで、その危険を防ぐ試みである。社会的に許された――または励まされすらした――嫉妬と反動的嫉妬回避の反経済的な帰結はとても量化には適していない。にもかかわらず、これらは明らかにとても有害な事例がある。シェックは人類学的な研究に頼り、制度化された嫉妬が経済的および技術的な成長の過程に課しうる危害を強調する(同上73)。西洋文化は、シェックによれば、珍しい程度にまで嫉妬をとにかく妨げることができた。それがなぜかはそれほど明らかではない。シェックはこの事実をキリスト教の信仰に結びつける。「人を妬むも嘲るも断じてありえない超自然的な存在を初めて人に提供したことは、キリスト教が人に革新的な行為を覚悟させ実行させる際の、意図的ではなくとも、その最も重要な偉業の一つだったに違いない」(同上79)。けれども、異なるキリスト教的社会における社会的に許された嫉妬の明白な多様性(たとえば西ヨーロッパに対するものとしてのロシア)はただキリスト教のプレゼンスだけでは十分な説明にはならないと示唆している。

発展のケーススタディー

明らかなことだが、ヨーロッパのすべてが同率で進歩したわけではない。とりわけ、近代において他の国々が衰退する間にもオランダと次にイギリスが経済成長のペースメーカーになったという事実も、この奇跡モデルで説明される。

低地帯はバーガンディーの公爵から受け継いだ法的システムで久しく利益を得ていた。これらの支配者は活発な三部会と協力して支配した人々であり、[14]私有財産の保護に基づいて、開放された商業的かつ産業的なシステムを促進していた。「北ネーデルラント」(ネーデルラント連邦共和国、あるいは「ホラント」、「オランダ」)の台頭は、活動中のヨーロッパの奇跡のほとんど完全な例である。まず、この地域は数世紀にわたってヨーロッパの経済的、政治的、社会的、および文化的発達の主要な関与者だった。チポッラが観察したとおり、「十六世紀後半にスペイン帝国主義に反逆し、ヨーロッパの経済的に最も動態的な民族の役割に出世した国は、初めから発展途上国どころではなかった」(チッポラ1981, 263)。その独立をヨーロッパの分散的国家システムに負って、現代初期の経済的奇跡(ヴィアトシャフトヴンダー)に相当するほどの繁栄を伴った、安全な財産権、法の支配、宗教的寛容、および知的自由の組み合わせだった「頭領なき共和国」として――王も宮廷もない、それ自体が分権的な政治形態として生じたのである。ホラントが力強い実演効果を果たしたのは驚くことではない。K・W・スワートが述べるとおり、

ネーデルラント人も外国人も、ネーデルラント連邦共和国は宗教と貿易と政治の領域で前例のないほど自由を許す件にかけて独特であったと信じる向きがあった……。同時代人の目には、この自由と経済的優勢の組み合わせこそがネーデルラントの真の奇跡を構成しているのだと映っていたのである。(Swart 1969, 20)

ホラント実験の成功は、繁栄は自由の褒美であるという観念を受け入れる用意がよくできていた地イギリスで特に、大いなる関心をもって注目された。中世イギリス史での経済個人主義とゆえの発展の深い根は、アダン・マクファーレインに強調されている(マクファーレイン1978と1987)。[15]近世においては、多くの世紀をかけて進化してきたコモンローが、早期スチュアート王たちの政策に抗し、財産および交易と産業への自由参入の保護者として働いた。権威主義的な簒奪に直面して、エドワード・コーク卿と彼の同僚の法律家は、ノースとトーマスの言葉で「財産権の創造を国王の思いつきを超えたところにおき、裁判所に守られた大量の非人格的な法律に既存の財産権を埋め込む」役割を果たした(ノースとトーマス1973, 148)。オランダとイギリスの両方の場合で枢要だったのは、王の未遂の侵犯に対し、決然として支配者の恣意的な課税権を認めなかった伝統的な代表集会の維持であった。ここで、反権威側が「自由」「権利」「自然の法」「憲法」という重要な概念を含む代々受け継いだ説教を爆発させた――そしてさらに発達させたのである。

また、スペインの衰退もまたこのモデルで説明される。ノースとトーマスによれば、スペイン王によるユダヤ人とムーア人の財産押収は、

没収、押収、契約の片務的な変更……あらゆる財産権の不安全のたった一つの兆候は、究極的には農業ともども商業や産業に従事する全集団に影響するような繰り返される現象であった。……財産が安全でないとき、経済的な遅滞は不可避な帰結であった。(Ibid., 131)

スペインの経済的衰退は、次に、政策で潜在的役割を演じたものが他の国々を選択したという否定的な実演効果を差し出す。

経済成長における主要な要素としての略奪者国家の抑制と市場の自治のテーマは非ヨーロッパ文化の調査で追及される。たとえばベシュレルは「中国は政治的に分割されるたびに資本主義が全盛した」と言明し、ヨーロッパのそれに近くなる条件を日本史が明白にすると主張する(ベシュレル1975, 82–86)。アンダーソンはオランダおよびイギリスと同様に宋朝中国と徳川日本の歴史における経済成長を調査した後で、共通の要素は「それらは経済活動への政府制約が緩和したときに起こる」ことだと結論する(アンダーソン1991, 73–74)。[16]

いわずもがな、非ヨーロッパ文明の歴史における経済発展についてもっと多く研究されることが必要だが、それでもこれまでの証拠は制度的アプローチの基本的な趣旨への強い支持を示唆している。

ヨーロッパとロシアの対照

ヨーロッパの奇跡の意味はヨーロッパの発達がロシアのそれと比較されるときにもっとよく理解されることができる。コリン・ホワイトはロシアの後進性を決定する要素として「貧しい資源と敵対的リスクの環境……不都合な政治的伝統と制度的体質の弱さ、および教会や地主の寡頭政治のような国家権力を制限する重要な集団の弱さ」をリストした(ホワイト1987, 136)。タタール人のキエフ・ルーシの破壊とモスクワ・ルーシの台頭の以降数世紀にわたり、ロシアは人身と財産への安全を含む法の支配の実質的な欠如に特徴付けられる。

モスクワ大公国期のロシアの――貧困ならびに――無法状態は悪名高かった。エリザベス1世の特使がイヴァン大王に彼の服従者の地位を尋ねたとき、彼は「みな奴隷」だと告げた(ベシュレルとハルとマン1988, 161のブザンソン)。雷帝イヴァン四世は、ノヴゴロドとプスコフの花開ける商業共和国を壊滅させ、モスクワ国家では許容可能を表すようになった虐殺の熱狂のせいで、帝国のオプリーチニナを解散した。アラン・ブザンソンは冷淡に、「ドラキュラのていで串刺し公ヴラドの君臨を描写する三つ(ルーマニア、ドイツ、ロシア)の伝説のうち、ただロシアのものだけがヴラド公の賞賛を宜っている」と述べる(同上)。

ロシアでの高貴さとは国家奉仕の高貴さであって、どんな独立的基礎も欠かしていた。ホワイトが観察するとおり、「ロシアは決して真には西ヨーロッパ的な用語の意味では封建制ではなかった」(ホワイト1987, 10)。ヨーロッパおよびアメリカと対照すると、町は「単純に国家の片棒」も同然だった(同上137–38)。ロシアと西洋の違いはそれぞれの「絶対主義」という観念に見られる。イヴァン四世の概念はよく知られている。それは、国王絶対主義の擁護者として有名である西洋の政治的著者ジャン・ボダンのものと比べられるだろう。ボダンの絶対主義信仰すべてについてアレクサンドル・ヤノフが指摘するには、

ボダンは市民の財産のことを、君主が人民を支配する際と同様に、彼ら人民の不可譲な占有物と見なした。不可譲な財産の一部たる市民に自発的な合意なく課税することは、ボダンの視点からは、普通の強盗であった。(ヤノフ1981, 44–45)[17]

この点について、ヤノフは説得的な逸話を報告する。フランス人外交官がイギリス人の同僚との会話で、ルイ十四世に表明された王が己の王国内の全財産の究極的な所有者であるという原理(太陽王でさえそれに則って行為する勇気はなかったところの原理)への信念を肯定した。イングランド人は「トルコで公法を学んだんですか?」と言い返した。(同上44 n. 17)

ロシアがキリスト教をローマよりはビザンチンから受け取ったという事実がロシア史の道筋全体を形作った(パイプス1974, 221–43)。リチャード・パイプスの言葉では、ロシアの正教会は他のすべての制度と同じように「国家の下僕」になった。「一九〇〇年以前のロシアでの国家と社会の関係」に関してパイプスが結論するには、

旧体制のいずれの経済的または社会的な集団も、恐れず皇帝に立ち向かって政治的権力独占に抗議することはできなかったしそうするつもりもなかった。なぜならば、皇帝は国宝原理を強いることで、すなわち国土の全領土を財産とし、その全住民を奴隷とする主張を万人に対し効果的に断言することで、独立的な富や権力のポケットの形成を防いでいたからである。(同上、249)

自由主義の観念がロシアに着くこととは、否応なく西洋から来るということであった。アレクサンドル・ラジーシチェフがチャーリの権力に制限を置きうるかもしれないと初めて学んだのはライプツィヒ大学で自然法の講義を聞くことからだった(クラーディー1964, 37–38)。第一次世界戦争以前のもっと市場志向の経済政策への移動の始まりはロシア人大臣が自由主義的経済学者のものを読んだという事実までブザンソンによって遡られている(ベシュレルとハルとマン1988, 166のブザンソン)。

マルクス派の修史の没落

マルクス主義的歴史哲学は、さまざまな、しばしば戦略的な矛盾と曖昧さに満ちている。けれども、「唯物史観」が少しでも何か重要な内容をもつとすれば、それは技術的な歴史解釈としてのことである(ミーゼス1957, 106–12、ボバー1962, 3 –)。ネイサン・ローゼンバーグはマルクスが「技術的要素は社会的変化を生み出す際のいわば独立変数であり、従属変数を構成する」と考えたということは否定したが(ローゼンバーグ1982, 36、また34–51を見よ)、[18]証拠の重みは彼にひどく反対している(コーエン1978, 134–0)。

マルクスとエンゲルスおよび第二次インターナショナルの「黄金時代」の理論家によると、歴史は基本的には「物質的生産力」(技術的ベース)の変化をとおして進行し、これは既存の「生産様式」(財産システム)を時代遅れにする。生産様式は技術的変化のせいで変化を強いられる。これをもって、他のすべて――社会の法的、政治的、およびイデオロギー的な「上部構造」の全体――が変形する、と(マルクス[1859] 1969b, 8-)。マルクスがこれを力強く言うには、「手回し挽き臼は封建領主を支配者とする社会をあたえ、蒸気挽き臼は産業資本家を支配者とする社会をあたえるだろう」(マルクス[1847] 1969a, 130)。

もちろんマルクスは数世代にわたって多くの異なる方面で、歴史の哲学に関しても少なからず、猛烈な反論を受けてきた。ヨーロッパ史のもっと新しい理解は「唯物史観」の奇っ怪な薄っぺらさに注意を向ける点で、その基本的主張に対して特に破壊的である。この新しい理解は、西洋世界の過去千年での技術の途方もない成長それ自体が説明されなければならないと主張する。この理解が差し出す説明では、多くの世紀にわたってヨーロッパで生じた制度的かつ道徳的なマトリクスの見地からその成長を説明する。[19]新しくてもっと生産的な機械は神秘的かつ自生的に湧き出てくるものではなく、また技術的かつ科学的な知識の素晴らしい拡大もどうやら不可避なものではなかった。アンダーソンが証拠を要約したとおり、「宋王朝の、または開花した初期イスラムの著しい達成に続いた科学的かつ技術的な停滞は、科学的探究と技術が必ずしもヨーロッパの経験に仄めかされるダイナミズムをそれ自体に備えているわけではないと示している」(アンダーソン1991, 46)。対照的な話だが、技術と科学は、正統派マルクス主義者が伝統的に社会の「上部構造」だと見くびってきた、政治的、法的、哲学的、宗教的、および道徳的な要素の相関的集合から生じたののである。

結論

インド発展経済学者のR・M・サンドラムによると、はたして今日のもっと貧しい国々で発展が促進されうるか否かを理解すべきであるならば、過去に発展諸国を変形した歴史的過程を理解しなければならず、なぜこの過程が他の場所では生じ損ねたのかを理解しなければならない(アーント1987, 177からの引用)。これはP・T・バウアーも強く主張してきた立場である。バウアーは経済発展への「時間なきアプローチ」を拒絶しながら、西洋世界での経済成長に要求された幾多の世紀と、その先行条件だった多様な文化的要因の相互作用に重点を置いてきた。最も重要なことは、バウアーの見解では、西洋世界では制度と価値観が私有財産と市場への好意を発達させ、国家に恣意性と略奪への制限を置き、市場での行為をとおして人間の多くの事情を改善できるという革新の感覚を奨励したことである。

近頃、W・W・ロストウは、バウアーのキャリアのまとめに際し、「発展の初期段階における国家の非常に大きな不可避の役割を説明すること」に失敗しているかどで彼を叱りつけた(ロストウ1990, 386)。[20]そのような批判はバウアーが「うわべだけのコンセンサス」だと長年攻撃してきたものの指導者の一人から生じており、驚くに値しない。けれどもここで扱われた歴史家の作品にこの批判への支持はほとんど見つからない。(ロストウは幾つかの理由のために、彼の非常に長い経済成長理論史でこの学識本体全体を無視する)。これらの著者の幾人かは一定の領域における国家の重要な役割――特に財産権を定義し執行する際のそれ――を明記するだろうが、これはバウアーの見解と整合的なのである。そのうえ、彼等の作品の全般的な主旨――西洋の発達における国家活動への制限の重要性を強調すること――はラスコーの立場ではなくむしろバウアーの立場を補強する傾向がある。たとえば、ピーター・バークはヨーロッパ発展の最初期の例――北イタリアとオランダの商業国家――について書きながら、それらのことを、「政府が商人の計画を挫いたり経済成長を遅らせたりすることを相対的にあまりしなかった企業賛成文化、それでもなお彼らの競争者に対する重要な優位をこれらの国々に与えた否定的特徴」と描写した(ベシュレルとハルとマン1988, 230のバーク)。ウィリアム・H・マクニールは「ヨーロッパ自体の内部における、大多数を繁栄させる私的な資本と企業家精神にその活動範囲のほとんどを与えた諸国家と、その一方で、利用可能な資源の大部分を統率するかたや福祉とかたや戦争が足を引っ張られる傾向があったより良く統治された社会」を注記する。マクニールは成長の指導者として「オランダとイギリスのように顕著に過少統治された土地」を引用する(マクネイル1980, 65)。そしてF・L・ジョーンズは成長の説明に際して導きの原理としてアダム・スミスから有名な一節を取りだす。「国家を最低の野蛮から最高の贅沢に至らしめるためには、平和、低税率、耐え忍びうる正義執行の他にはほとんど何も必要ではなく、他はすべて物事の自然な成り行きにもたらされる」(ジョーンズ1987, 234–35、スチュアート[1793] 1966, 68から引用)と。

彼らと他の学者の作品に生み出された新しいパラダイムは更なる主要な研究と総合の作品を作り出すのをすでに助けてきた。[21]いわずもがな、もっと多くの研究が必要とされてゆく。けれども更なる研究はバウナー教授に断固として提示された観点の追加的な具体化を提供しそうである。アンダーソンが観察するとおり、「制約からの自由についての強調は、なぜ幾つかの社会が経済発展を経験し、他の社会が経験しなかったのかについて、実りの多い研究方向を指している」(アンダーソン1991, 73–74)。いずれにせよ、この主題は学者の大きな理論的関心であり続けるだろう――そして発展途上世界での数百万人にとって死活的な問題であり続けるだろう。

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このエッセーはピーター・J・ベッキ編『発展計画の挫折』(1994)に「経済発展の理論と『ヨーロッパの奇跡』」として初出した論文である。

[1] ロバーツ(1985, 75)参照、彼は「経済の一般的自由化」について著しており、これは「一五〇〇年までの西ヨーロッパの至るところで自治に進んでいった。ただし、自治という言葉で意味されるものが、歪曲なき需要信号を提供し、王や領主や強盗の恣意的没収に対する財産権の相当程度の安全保障を提供する価格による規制であるとすればだが」。

[2] ローゼンバーグ(1976, 286)参照、彼は西ヨーロッパ文明が文化的価値観とインセンティブ・システムと組織的素質の独特で力強い組み合わせを進化させることができたのはなぜかという疑問を立て、「この疑問への興味深い答えは社会科学の単一の分野から出てくることはありそうにない」と述べた。

[3] この分野での主著には、ノースとトーマス(1973)、ベシュレル(1975)、ノース(1981)、ローゼンバーグとバーゼル(1986)、ジョーンズ(1987)、ベシュレル、ホール、マン(1988)の特にマイケル・マン、ジョン・A・ホール、アラン・ブザンソン、カール・フェルディナント・ヴァーナー、ピーター・バークの論文がある。学識のうち幾つかの要約は、アンダーソン(1991)、ヴェーデ(1988)と(1990, 40–59)が提出している。またデイヴィッド・オスターフェルド(1992, 43–46)も見よ。マクネイル(1980)のエッセーはこのアプローチの根本的概念の創造的な使用を行っている。

[4] F・A・ハイエクは一九五〇年代に、「経済史の特殊な見解から成り立っている、ここ二、三世代にわたって政治思想を支配してきた社会主義史観」に言及した。ハイエク(1954, 7)を見よ。

[5] ヨーロッパ社会の相対的自由とその経済的成功の強い結合の観念はもちろん、ホイッグ史の伝統に属する歴史家を含む、もっと早いころの著者たちに遡ることができる。ここではそれは近年の主に経済的な修史の文脈で考察されている。

[6] 二次的なテーマ(ランデス1970, 21–22)はヨーロッパ世界観の特徴である。ランデスは、他の文化に相対するヨーロッパ文化での特徴として、キリスト教の要素に育まれ、究極的には魔術と迷信に対するユダヤ教の非難に遡る、その合理性の強調を指摘する。

[7] ベシュレル(1975, 74)参照、ヨーロッパは「決して政治的統一体に、つまり帝国に終わることなく同一の道徳的および物質的な文明に基づいた社会であった」。

[8] ノース(1981, 45–58)のDouglass C. North, “Ideology and the Free Rider Problem”参照。

[9] 私はこの小論に私の注意を向けさせてくれたレナード・P・リッジョ教授に感謝する。

[10] ロバーツ(1985, 67–9)の、ヒルデブラント改革についてと彼のコメント68–69参照、「かくして、自由の観念の維持とその将来への伝承は教会と国家の間の計り知れない量の口論その恩義に負っている」。

[11] アクトン卿の偉大なエッセー『キリスト教における自由の歴史』(アクトン1956)を見よ。いわく、「我々は市民的自由の台頭をこの四百年間の〔教会と世俗的な支配者との間の〕紛争に負っている……自由は彼らが目指した目的ではなかったけれども、それは世俗権力と宗教権力が民族に援助を呼び求める際の手段であった。闘争の交互の段階で、イタリアとドイツの町は参政権を勝ち取り、フランスは三部会を勝ち取り、イギリスは議会を勝ち取った。そしてこれが続くかぎり、神授王権の台頭を防いできたのである」(86–87)。

[12] チロット(1986, 23)参照、「そしたら、西洋の法的合理化の主な原因は、王、貴族、教会、町の、多面的での不断の長い政治的闘争であった」。

[13] A・R・マイアーズ(1975, 24)を見よ、彼はこの議会組織について、「これらはラテン・キリスト教圏全域でおりにつけ繁栄した。これらはまず十二世紀末期にスペインのレオン王国で発生し、十三世紀にはカスティーリャとアラゴン(ならびカタルーニャとバレンシア)、ポルトガル、シチリア、神聖ローマ帝国およびブランデンブルクとオーストリアのような大陸諸国の幾つか、イングランドとアイルランドで発生した。十四世紀には……フランス……ネーデルラント、スコットランド、ドイツとイタリアのもっと多くの国家、およびハンガリーで。十四世紀には……デンマーク、スウェーデン、ポーランドで」と述べている。

[14] チロット(1986, 18)参照、「ブルグント最高議会は一四六四年から一五六七年までに百六十回開催され、多大な財政権力を行使し、町と商人の権利を擁護していた」。

[15] ベシュレル(1975, 79)参照、「もしも西洋の一般的政治構造が経済的拡張に好意的であったならば、それは、政治的権力が最も制限され、市民社会の最大自治に寛容であった国において、最も際立っているだろう」。そのような国は、ベシュレルによれば、イギリスであった。

[16] ジョーンズ1988の宋朝中国と日本の章も見よ。

[17] 次のカーライルとカーライル(1950, 512)からの引用と比較せよ。「そして最も注目すべきは、フランスにおいて最も過激な言葉遣いで絶対君主学説を述べ上げた〔ギョーム・〕ビュデが、同時に、フランス王がパリ議会の判断に従ったという事実に注意を向けるよう強いられていると感じたことであり、それと、王国は単なる王の意思だけではなく法に統治さるべきだから法の過程によらなければ判事は終身で解任不可能である、とボダンが論じたことである」。

[18] ローゼンバーグはマルクス主義的歴史哲学の技術的解釈が少数の、「しばしば激しい討論の合間にさりげなく述べられる、格言風の断言」に依存していると言う(1982, 36)。しかしながら彼はこの論文のどこにおいても、主題の典拠たるマルクスの『経済学批判』(マルクス[1859] 1969b)序言に言及しない。

[19] アンダーソン(1991, 41)は経済成長を説明する独立変数として技術的変化を見ることを拒絶した。「技術はもっと適切には、教育され熟練した健康な労働力として表現される「人的資本」含む資本の利用可能性と制度的構造に従属するものとして見られる。資本の利用可能性が今度は好ましい制度の集合に従属する」。

[20] バウアーを扱う際のロストウの軽蔑的な調子は、ロストウの最高傑作『経済成長の諸段階』に対するバウアーの破壊的なレビューに影響されてのことだというのも無理はない。バウアー(1972: 477–89)を見よ。

[21] たとえば、ロバーツ(1985)とチロット(1986)とケネディー(1987, 19–20)の、この名高い本の著者が次のとおり記すところを見よ。いわく、「〔ヨーロッパにおいて〕分権化し、概して監督されない商業と商人と港湾と市場の成長……そのような経済発展を完全に制圧できるような方法はなかった……これやあれやの商業的発展を事実上停止させることができるような均一な権威はヨーロッパには存在しなかったのであり、その優先順位の変化で特定産業を栄枯盛衰させることができるような中央政府はなかったし、ムガル帝国のインドをかくも遅滞させたような、実業家と企業家に対する税金徴収でのシステマチックで普遍的な略奪がなかったのである」。

(出典: lewrockwell.com)

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