古典的な自由主義、その台頭、衰退、および再生
Ralph Raico, The Rise, Fall, and Renaissance of Classical Liberalism.
古典的自由主義――あるいは、世紀の変わり目までの呼び名のとおり、単に――自由主義は、西洋文明の特色となる政治哲学である。自由主義的な観念を仄めかし示唆するものは、他の偉大な文化でも見つけられる。しかし自由主義の苗床として尽くしたのは、ヨーロッパ――とヨーロッパの出先機関、わけてもアメリカ――に生み落とされた独特の社会であった。かかる社会はそれから自由主義的な運動により形成されていったのであった。
脱中央集権と権力分割がヨーロッパ史の特徴であった。ローマ崩壊後、かかる大陸を支配できるような帝国は存在しなかった。その代わりに、ヨーロッパは競争する民族と公国と都市国家の複雑なモザイクになったのである。さまざまな支配者が、自分たちは互いに競争していると気づいた。彼らのうち誰か一人が略奪的な課税や財産の恣意的な没収に耽るならば、彼は自身の最も生産的な市民たちに見捨てられるのも当然であった、というのも市民たちは彼ら自身の資本とともにその国から「退出」できたからである。王はまた、国際的な教会に後援された野心的な男爵たちと宗教的な権威たちが自分の強力なライバルであることにも気づいた。王の課税権力を制限する議会が発生し、商業エリートに任せる特許を得て、自由都市が台頭した。
中世までにはヨーロッパの多くの部分、とりわけ西ヨーロッパで、財産権と貿易に好意的な文化が発達した。哲学的な水準では、――ギリシアとローマのストア派の哲学者に由来する――自然法の学説が、自然秩序は人間の設計とは独立であり、支配者は正義の永久法に従属する、と教えていた。自然法学説は教会に支持され、オックスフォードとサラマンカからプラハとクラクフまでの大学が普及した。
近代が始まるにつれて、支配者は大昔からの慣習的な権力制約を振り切り始めた。王権絶対主義が当時の主な傾向になった。ヨーロッパの王は奇抜な主張を行った。すなわち、彼らはあらゆる生命と社会での活動の源泉たる神に任命をされたのだと宣言したのである。これに応じて彼らは、宗教、文化、政治を、とりわけ経済生活を指揮しようとした。かかる支配者たちは自分の急成長中の官僚制と恒常的な戦争を支持するために、かつてなく増加した額の税を要求し、彼らはこれを判例と慣習に逆らう形で臣民から搾り取ろうとした。
このシステムに最初に反逆した人々はオランダ人であった。数十年にわたって続いた闘争の後、彼らはスペインから独立を勝ち取り、ついで独特の政体を構成しに取り掛かった。急進的に分権化した国家としてネーデルラント連邦共和国と称された彼らの国には王がおらず、連邦水準での権力もほとんどなかった。彼ら多忙なる製造業者と貿易商人の情熱は金を儲けることに向いており、異端者を狩ったり新観念を弾圧したりする暇はなかったのだった。かくして、事実上の宗教的寛容と多方面での出版の自由が優勢になった。オランダ人は産業と貿易に専念し、法の支配および財産と契約の神聖さに固く基づく法的システムを確立した。税率は低く、万人が働いた。オランダの「経済的奇跡」は当時の驚嘆の的であった。ヨーロッパ中の観察者が大きな関心をもってオランダの成功を書き留めていた。
北海を越えたところで、多くの点でホラントに似た社会が発達していた。十七世紀、イギリスもまたスチュアート朝の形での王権絶対主義に脅かされていた。その反応は、革命、内乱、或る王の斬首ともう一人の王の追放であった。この動乱の世紀の成り行きにおいて、曖昧さなく自由主義的と同定されることができる最初の運動と思想家が現れた。
王の逝去に伴い、レヴェラーズと呼ばれる中流階級急進派の集団が発生した。彼らは、議会でさえ人民の神授自然権を侵害する権威はもたないと抗議した。彼らが宣言するには、宗教は個人的な良心の問題であった。それは国家と関わるべきではなかった。国家保証の独占も同様に、自然的自由の侵害であった。
後の世代のジョン・ロックは、スコラ神学者が庇護し推敲した自然法の伝統に則って、人間と社会と国家の自由主義的な力強いモデルを打ち出した。彼が思うに、すべての人間は生まれながらにして一定の自然権を授かっている。それらは彼の財産であるもの――すなわち、彼の生命、自由、および「財産」(あるいは物質的な財)――への根本的な権利から構成される。政府とはただ財産への権利を保全するためだけに形成される。政府が人民の自然権を保護せず、むしろ人民に対して戦争を行う場合、人民はこの政府を変更または廃止してよい。ロックの哲学はイギリスの来たるべき数世代において影響力を及ぼし続けた。やがて、その最大の力は北アメリカの英語圏の植民地に及ぼされるようになった。
絶対主義に対する勝利の後でイギリスに生じた社会は経済的および文化的な生活で驚きの成功を収め始めた。大陸わけてもフランスの思想家が関心を募らせた。ヴォルテールとモンテスキューのような幾人かが、これを私たち自身にも、と考えるようになった。ちょうどホラントが先のモデルとして機能したように、今ではイギリスの例が外国の哲学者と為政者に影響し始めたのである。つねにヨーロッパを特徴付けていた分権制が、イギリス「実験」が起こるのを許し、その成功が他の民族に奮起を許したのであった。
十八世紀、社会生活に関する重大極まりない事実が発見された。人々が自然権を享受する状態を所与と鑑みれば、社会は多かれ少なかれ自ずと立ち行けるのだ、と。スコットランドではデイヴィッド・ヒュームとアダム・スミスを含む輝かしい一連の著述家が社会制度の自生的秩序の理論を概説した。とてつもなく複雑で決定的に有用な制度――言語、道徳、コモンロー、とりわけ市場――が、社会工学者の設計精神の産物ではなく、個人的目標を追及する社会人全員の相互作用の結果として、いかに生成し発達するか、その仕方を論証したのである。
フランスでは、経済学者たちが似た結論に達していた。彼らの中で最も偉大な人物たるアンヌ=ロベール=ジャック・テュルゴは、自由市場に賛成する根拠を明らかにした。
したがって、追求すべき政策は自然の成り行きに追随することであり、これの指揮を気取ってはならない。なぜならば、貿易と商業を指揮するためには、最も有能で活発な委細承知の政府でさえ物理的に獲得不可能なほどの詳細さで、欲望と、関心と、人間的な産業の変動の知識をすべて得ることができなければならないからである。そしてそのような大量の詳細知識を得た政府でさえ、その知識の結果は、ちょうど物事が自由競争に促進された人間的関心の行為だけで自ずと為すとおりに、為すに任せるべきことであろう。
フランス人経済学者は経済的生活の自由政策を造語した――いわく、レッセ=フェール〔為すに任せよ〕。この十七世紀初期から、主にイギリスから来た入植者が北アメリカの東岸に新社会を創立し始めた。入植者が携えた観念と彼らが発達させた制度の影響の下、またとない生き方が現れることになった。そこには貴族制がなく、何はに付けて、非常に小さな政府があった。政治権力への渇望の代わりに、入植者は彼ら自身と彼らの家族のまともな生活を築くために働いたのである。
彼らは独立心が強かったが、同時に、平和的な――そして収益的な――財の交換と貿易にも従事していた。取引の複雑なネットワークが発生し、かかる入植者は十八世紀中期までにはすでに、他所の平民より裕福になっていた。精神的な価値観の領域でも、自助が人の手本であった。市民の自発的な協力によって、教会、大学、貸本屋、新聞、講演会、および文化的な結社が花開いたのである。
独立戦争に至るとき、社会に関する優勢な見解は、それは基本的には自ずと立ち行ける、というものであった。トマス・ペインが宣言するとおり、
公式の政府は文明化した生活のほんの小さな部分しか担わない。個人と全体の安全と繁栄が依存するのは、社会と文明の根本的な大原理であり、――その何百万もの経路を通して文明人を活気付ける、利益の不断の循環であり、――最善に設立された政府でさえようやく成し遂げられるよりも無限に多くのことを成し遂げられる、これらの物事である。要するに、社会は政府に帰せられることのほとんどすべてを自ずと成し遂げるのである。社会と文明が不便にも適格ではないほんの少数の場合に供給を行う以上のことには、政府は必要ではないのだ。
自然権哲学の上に形成されたこの新社会はやがて、以前のオランダとイギリス以上に輝く自由主義の実例として世界に轟くこととなった。
十九世紀が始まるころ、古典的自由主義――あるいは、それ以来まさに自由の哲学と知られるようになった言葉のとおり、単なる――自由主義が、ヨーロッパを、ひいては全世界を徘徊する怪物になった。ありとあらゆる先進諸国で、自由主義運動が活発になったのである。
それは、主に中流階級から引き抜かれた、宗教的にも哲学的にも相違の際立つ広い背景を負った人々を含んでいた。キリスト教徒、ユダヤ教徒、理神論者、不可知論者、功利主義者、自然権信奉者、自由思想家、伝統主義者、みなが一つの根本的な目標に向かって、すなわち、社会の自由に機能する領域を拡大し、強要と国家の領域を逓減するために努力することはできると思われていた。
相異なる国々の環境においては、強調点は多様に異なっていた。ときにヨーロッパの中央と東では、自由主義者は絶対主義国家の巻き返しを、そして封建主義の取り残しさえ要求した。これに応じて彼らの闘争は、土地の完全な私的所有権と、宗教的自由と、農奴制の廃止に集中したのであった。西ヨーロッパでは自由主義者はしばしば、自由貿易、完全な出版の自由のため、そして国家役人に対する主権者として法の支配のために戦わなければならなかったのであった。
卓抜した自由主義国たるアメリカでは、主な目的はアレクサンダー・ハミルトンと彼の集権化後継者が進めた政府権力の侵入に抗うことであり、最終的にはアメリカの自由の大きな汚点――黒人奴隷制をどうにか処分することであった。
自由主義の見地からすれば、アメリカ合衆国は最初から著しく運が良かった。当時の指導的な自由主義思想家の一人であるトーマス・ジェファーソンが建国文書『独立宣言』を執筆した。『独立宣言』は自然権を享受し自ら決定した目標を追求する諸個人からなる社会のビジョンを世に解き放った。かかる憲法と権利憲章において建国の父たちは、権力が分割され、制限され、複合的な制約に縁取られるかたわらで、諸個人が仕事、家族、友人、自己陶冶、密集した自発的な結社のネットワークを通して目標実現の追求に取り組めるようなシステムを創造した。この新天地では――ヨーロッパ人の旅行者が驚嘆を込めて書き留めたとおり――ちょっとでも政府が存在していると言うことは到底できなかった。これこそが世界の模範となったアメリカなのであった。
十九世紀初期ジェファーソン派の伝統を不滅にしたのは、ニューヨーク・ジャーナリストと奴隷制反対派のジャクソン民主党員を兼ねた、ウィリアム・レゲットであった。レゲットが宣言するには、
あらゆる政府は人身と財産の保護のために制定される。自民はこの目標に不可欠である権力を彼らの支配者に委任するにすぎない。人民は、彼らたちの私的合意を規制したり、彼らの産業の成り行きを規定しその利潤を罰したりするような政府を欲しない。彼らの人身と財産を保護せよ、他はすべて彼ら自身でできることだ。
このレッセフェール哲学が、全階級の無数のアメリカ人たちが根底に置く信条となった。これは来たる世代で共鳴を見出すところは、エドウィン・ローレンス・ゴドキン、アルバート・ジェイ・ノック、ヘンリー・ルイス・メンケン、フランク・チョドロフ、レナード・リードのような自由主義的な著述家の作品である。これこそが、世界の他所のところに対してアメリカに示差的、特徴的な考え方であった。
その間に、ヨーロッパ世界でゆっくりと勢いを増してきた経済的な前進が、大躍進に乗り出した。初めはイギリス、次はアメリカと西ヨーロッパにおいて、新石器時代以来の変え方で、産業革命が人の生き方を変えた。変えられない宿命として受け入れて育った遠い昔の悲惨さを、今では人類の大多数派が避けられるようになった。旧秩序の非効率的な経済では死に絶えていた数千万人が、生存できたのである。ヨーロッパとアメリカの人口が未曾有の水準で膨張するにつれて、新しい大衆は、以前の労働者が想像だにしなかった生活水準を徐々に獲得していった。
産業的な秩序の誕生は経済的な混乱を伴っていた。はて、別のやり方はあるだろうか? 自由市場派の経済学者が解決案を説いた。資本形成を促進する財産の安全保障と硬貨、生産効率を最大化する自由貿易、革新に熱心な企業家のための自由な領域である。しかし保守主義者はその長年にわたる地位を脅かされて、新システムに対する文字通りの強襲を初動し、産業革命に対していまだ完全には拭いきれない悪名を付けた。現れ始めた社会主義的知識人の集団がこれを大喜びで取り上げたのはすぐだった。
それでも、十九世紀半ばまでには、かかる自由主義者たちは次々と勝利を重ねていった。基本権の保障を含む憲法が採用され、法の支配と財産権に固く根付いた法的システムが実施され、金本位に基づく世界経済を生み出しつつ、自由貿易が普及していたのだった。
知的前線でも前進があった。リチャード・コブデンはイギリス穀物法廃止キャンペーンの陣頭に立ったあと、平和の基礎としての諸外国の事情への不干渉の理論を発達させた。フレデリック・バスティアは古典的な形態での自由貿易と不干渉と平和の賛成論を説明した。トーマス・マコーリーとオーギュスタン・ティエリのような自由主義的歴史家は西洋の自由の根源を暴いた。この世紀では後に、カール・メンガーにより発足したオーストリア学派の台頭に伴い、自由市場の経済理論が安全な科学的基盤の上に据え付けられた。
自由主義と宗教の関係は特別な問題を提起する。ヨーロッパ大陸とラテンアメリカでは、自由思想自由主義者がときにカトリック教会の影響力を削る目的で国家権力を使用し、かたや幾人かのカトリック指導者は時代遅れな神権主義的支配の観念にしがみついた。しかしバンジャマン・コンスタン、アレクシ・ド・トクヴィル、ジョン・アクトン卿のような自由主義思想家は、そのような無益な討論を超えたところを見ていた。彼らは政府権力とは分離された宗教が中央集権国家の成長を妨げる際に担いうる枢要な役割を強調した。彼らはそうして自由と宗教信仰の和解に基礎を築いたのである。
その後、理由はいまだ不明瞭だが、潮流は自由主義者に逆らい始めた。確かに、理由の一部は至るところで増殖した新階級の知識人たちが台頭したことであった。彼らは資本主義的システムが作り出した富に彼ら自身の命の恩義を負っているけれども、この事実は、彼らに指摘できる近現代の全問題点を資本主義に擦り付けこれを告発することにより彼らのほぼ全員が絶え間なく資本主義を蝕むことを防げなかった。
同時に、これらの問題の自発的解決は、勢力圏の拡張に躍起な国家役人が無効化した。民主主義の台頭は昔ながらの政治の特徴――特権への殺到――を悪化させることで自由主義の衰退に一役買った。企業や労働組合、農家や官僚など、利益集団が国家特権を競り合った――彼らの略奪行為を合理化する知的なデマゴーグを探し出した。国家が支配領域を増大するための費用を支払ったのは、ウィリアム・グラハム・サムナーが「忘れられた人」と称した犠牲者たちであった――政府に寵愛を求めず、自分の仕事で全システムを維持する、静かな、生産的な個人である。
十九世紀の終わりまでには、自由主義はありとあらゆるところで虐げられるようになっていた。自由主義に対し、国民主義者と帝国主義者は民族間の男らしく清々しい交戦の代わりにつまらない平和を促していると非難した。社会主義者は「科学的」な中央計画の代わりに「アナキー」な自由市場システムを支持していると攻撃した。教会の指導者でさえ、自由主義はその敵の申し立て上では利己主義と物質主義であるからと軽蔑していた。
アメリカとイギリスでは、二十世紀の始まりの頃の社会改良家が特に小賢しいギャンビットを思いついた。国家干渉と強要的労働組合の支持者は他の国ではどこでも「社会主義者」や「社会民主主義者」を自称していた。しかし英語圏の人々はどういうわけかこれらのレッテルに嫌悪を感じるから、彼らは「リベラル」という用語をハイジャックして「リベラルズ」となったのである。
彼らは最後まで戦ったけれども、末期の偉大な真正自由主義者の間には落胆の雰囲気が染み付いていた。ハーバート・スペンサーが筆を起こした一八四〇年代には、彼は強要的国家機構が実質的に消滅するような普遍的な進歩の時代を待望していたものだ。一八八四年までには、スペンサーは『来たる奴隷制』と題したエッセーを著すことができるようになっていた。一八九八年、アメリカ人のスペンサー派にして自由貿易派兼金本位派のウィリアム・グラハム・サムナーは落胆しながら、アメリカが帝国主義への道を、スペイン・アメリカ戦争での世界的な巻き添えへの道を進んでいると見ており、不気味なことに、この戦争への自分の反応を『スペインによるアメリカ合衆国の征服』と題した。
ヨーロッパのあらゆるところで、政府官僚制の拡張に伴い、絶対主義国家の諸政策への逆転があった。同時に、列強同士が嫉妬深い張り合いで熱狂的な軍拡に走り、戦争の脅威を煽った。一九一四年、山盛りの憎しみと疑り合いの上で、セルビア人の暗殺者が火付け役となり、それまでの人類史上最も破壊的な戦争に結果した。一九一七年、新世界秩序の創造を熱望してやまないアメリカ大統領が、彼の国を殺人的な紛争に導いた。
「戦争は国家の健康である」、急進的な著述家ランドルフ・バーンはそう警告した。そのとおり、と証明されたのだった。この大虐殺の時代までには、古典的な意味での自由主義は死んでいると、多くの人々が信じていた。
第一次世界大戦は二十世紀の転機だった。軍国主義と保護主義のような、それ自体をして反自由主義的な観念と政策であった世界大戦は、あらゆる形態の国家主義を助長した。ヨーロッパとアメリカでは政府が徴兵し、検閲し、金融を緩和し、山のような債務を負い、事業と労働を吸収し、経済の支配を掴み取るにつれて、国家干渉に向かう潮流が加速した。あらゆるところで、「進歩的」知識人は自分たち夢が実現するところを目にした。彼らは古いレッセフェール自由主義が死んでほくそ笑み、将来は集団主義のものになった。唯一の疑問はこうであるように思われた。どの集団主義にする?
ロシアでは、マルクス主義的革命派の小集団が戦争の混沌に乗じて権力を握り、世界革命の大本営を設立した。十九世紀に、カール・マルクスが世俗宗教を強力な魅力と混合していた。マルクス主義は、複雑でしばしば厄介な市場経済の世界を、意識的、「科学的」支配に置き換えることで、人類の最終的な解放を約束していたのである。
マルクス主義的経済実験は、ロシアでウラジミール・レーニンとレフ・トロツキーに実行され、大惨事に結果した。続く七十年で、赤い支配者たちは次から次へとつぎはぎのその場しのぎを打ち出した。しかし、テロルが彼らをしっかりと政権に据え付け、史上最も膨大なプロパガンダ努力で、共産主義は実際に「全人類の輝ける未来」だったのだと、西洋と台頭中の第三世界の知識人に確信させた。
ウッドロー・ウィルソン大統領ら連合国の指導者が急拵えした平和条約はヨーロッパに騒然たる怨恨と憎悪の危険状態を残した。国民主義的デマゴーグに誘惑され、共産党の脅威に恐怖し、数百万人のヨーロッパ人が、ファシズモおよび国民社会主義あるいはナチスムスと呼ばれる形態の国家崇拝に転向した。これらの学説は、経済的な過ちばかりだったけれども統合的国家の社会支配による繁栄と国民的権力を約束し、その一方で、もっと多くの戦争を、もっと激しい戦争をと扇動していた。
民主主義諸国ではもっと緩い形態の国家主義が慣例になった。その中で最も狡猾だったのは、一八八〇年代にドイツで発明された形態であった。ここで鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクは国家が経営する老齢年金、所得保障、傷害保険、疾病保険の社会保障制度を考案したのである。当時のドイツ人自由主義者はそのような計画を絶対君主パターナリズムへの逆戻りにすぎないと論じた。ビスマルクが勝ち抜き、彼の発明品――福祉国家――は最終的には全体主義諸国も含むヨーロッパ全土にコピーされた。福祉国家はニューディールの形でアメリカにも到来した。
それでもなお、私有財産と自由交換は西洋経済の基本的組織原理であり続けている。競争、利潤動機、(人的資本含む)資本の着実な蓄積、市場の完成、増大中の専門特化――これらすべてが効率性と技巧的進歩を奨励し、人々にもっと高い生活水準を促進するよう働いてきた。この資本主義的生産性原動力はかくも立ち直り早く力強く、広範な国家干渉と強要、労働組合主義はおろか、政府が生み出した恐慌と戦争でさえ、長期的には経済成長を阻害できないことを証明した。
一九二〇年代と三〇年代は二十世紀古典的自由主義運動のどん底に相当する。特に、金融システムに干渉する政府が一九二九年大暴落と大恐慌を引き起こした後、競争的な資本主義と自由主義的な哲学の歴史は終わったというのが優勢な意見となった。
もしも古典的自由主義の再誕が暦付けられるならば、それは一九二二年、オーストリア人経済学者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスが『社会主義』を出版した年になるだろう。かかる世紀の最も注目すべき思想家の一人であるミーゼスは、また毅然とした勇気のある男でもあった。彼は『社会主義』で、資本主義の敵たちに挑戦を叩きつけた。彼が言ったことは要するにこうだ。「あなたがたは私有財産制度をありとあらゆる社会的邪悪の元凶だと糾弾し、これは社会主義でしか直せないと主張する。よろしい。それで、恐れ多くもこれまであなたがたが一度もなさらなかったことを、これからはご親切に何かしてくださるのか。複雑な市場システムが、資本財市場なし、ゆえに資本財価格なしで、いったいどう機能できるのか説明してくれるかね?」ミーゼスは、私有財産がなければ経済計算ができないと証明し、社会主義が熱狂的な妄想であることを暴露したのである。
優勢な正統派に対するミーゼスの挑戦は、ヨーロッパとアメリカの思想家の心を開いた。ミーゼスが自由市場派に転向せしめた人物の中には、フリードリヒ・アウグスト・ハイエク、ヴィルヘルム・レプケ、ライオネル・ロビンズがいる。そしてミーゼスはその非常に長いキャリアを通し、彼の経済理論と社会哲学を推敲して洗練させ、広く認められる二十世紀一等の古典的自由主義思想家となっていた。
ヨーロッパ、特にアメリカ合衆国では、散り散りになった個人と集団が、古い自由主義の何かを生き永らえさせていた。ロンドン経済学派とシカゴ大学では、一九三〇年代と四〇年代になっても、まだ学会には少なくとも自由企業観念の基本的妥当性を擁護する者が見受けられた。
アメリカでは、敵に包囲された輝かしい著述家たち、主としてジャーナリストの旅団が生き残っていた。彼らは今では旧右翼あるいは「オールド・ライト」として知られており、その中にはアルバート・ジェイ・ノック、フランク・チョドロフ、ヘンリー・ルイス・メンケン、フェリックス・モーリー、ジョン・トーマス・フリンが含まれる。これらの著述家はフランクリン・ルーズベルトのニューディール政策の全体主義的な含意に行動を駆り立てられて、伝統的なアメリカの個人的自由の信条と、政府への軽蔑的な不信を繰り言した。彼らはルーズベルトのグローバル干渉政策に対してもアメリカ共和国を転覆するものとして等しく反対した。かかる「オールド・ライト」は少数の勇気ある出版者と実業家に支えられ、ニューディールと第二次世界大戦の最も闇深き日々を通じてジェファーソニアンな観念の情熱を抱いていたのだった。
大戦の終焉に伴い、運動と称してもいいものが生まれた。初めは小さかったそれは、増殖的な流れで広がっていった。一九四四年に出版されたハイエクの『隷属への道』は、西洋が社会主義政策を追求しながらその伝統的な自由文明を失うリスクを犯していると、幾千人に現実を警告した。
一九四六年、レナード・リードはニューヨークのアーヴィントンに経済教育財団を設立し、ヘンリー・ハズリットら自由市場の擁護者の作品を出版していた。ミーゼスとハイエクはともにアメリカ合衆国で仕事を続けていた。ハイエクは全世界から集まった古典的自由主義者の学者、活動家、実業家の集団、モンペルラン協会を設立することになった。ミーゼスは並ぶものなき教師としてニューヨーク大学でセミナーを開き、マレー・ロスバードとイズレイル・カーズナーのような学生を魅了していた。ロスバードは自然法の教えにオーストリア経済学派の洞察を編み込み、多くの若者を魅了する力強い総合を生み出していった。シカゴ大学では、ミルトン・フリードマン、ジョージ・スティグラー、アーロン・ディレクターは政府活動の欠陥の暴露が十八番の古典的自由主義経済学者の集団を率いていた。天才小説家のアイン・ランドは彼女の精巧なベストセラーに徹底的にリバタリアンなテーマを組み込み、哲学学派の創始さえ行った。
真正自由主義の再生に対する一部左翼――「リベラルズ」――もっと正確に言えば、社会民主主義体制派――の反動は予言どおりであり、獰猛であった。たとえば、ハイエクが一九五四年、優勢な社会主義的産業革命解釈に反論する高名な学者たちの論文集を編集したときのことだ。学会の専門誌はハーバード大学教授兼ニューディール政策ゴロのアーサー・シュレジンガー二世に「アメリカ人は学会の輝きにこの召喚令状を加えるためにわざわざウィーン人の教授を輸入するまでもなく、自家製のマッカーシーに十分苦しんでいるだろう」のような言葉遣いでこの本に噛み付くことを許した。
かかる体制派は他の諸作品の黙殺も試みた。一九六二年もの遅きに失してなお、有名な雑誌や新聞のたった一つたりともフリードマンの『資本主義と自由』をレビューすることを選ばなかった。どうであれ、古典的自由主義の復活を率いてきた著述家と活動家は、公衆の間での増大中の反響に気づいた。ありとあらゆる暮らしぶりのアメリカ人数百万人が初めからずっと自由市場と私有財産の価値観を非常に大切にしていたのである。堅くまとまった知的指導者たちの団体の増大中のプレゼンスは、いまや多くの市民に対し、彼ら市民たちがかくも久しく慈しんできた観念のために、決起する勇気を与えたのである。
一九七〇年と八〇年、社会主義計画と干渉主義綱領の明々白々な失敗に伴い、古典的自由主義は世界規模の運動になった。それで西洋諸国では、信じがたいことに、前ワルシャワ条約を締結した諸民族の治政治的指導者たちがハイエクとフリードマンの信奉者さえ自称したのである。二十世紀が終わりに近づくにつれて、古い真正の自由主義が息を吹き返し、百年前より強くなっていた。
けれども西洋諸国では、国家は無慈悲に拡張を続け、社会的生活の領域を次々と植民地化している。アメリカでは、連邦官僚と国際計画者がますます権力を中央に転向させるに伴い、かかる共和国はあっという間に薄れゆく記憶となっている。そんな風に、かかる闘争は続けらるべくして続いているのである。二世紀前、自由主義が若かったころ、ジェファーソンは我々に対してすでに、自由の対価を告げていたのだった。
(出典: mises.org)
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