十九世紀ドイツの真正自由主義
ドイツの自由主義に対しても、関心は増大してきた。この伝統は数十年間、特に例の帝国の不名誉な敗北と思われたもの以降、不当に無視されてきたものである。
Ralph Raico, Authentic German Liberalism of the 19th Century
本論文では、自由主義とは、保証ある個人的諸権利の境界内において、社会が――すなわち、国家なき社会秩序が――多かれ少なかれ自ずと立ち行けるという学説を意味するものと理解される。個人的な諸権利とは、古典的な声明によれば、生命、自由、および財産への権利のことである。[1]
これは、アメリカ合衆国やイギリスやカナダでのリベラリズム、ましてやドイツ語や他の国々での自由主義が獲得した意味よりも、フランス語での自由主義たるリベラリスムの意味に近い。この点で、フランス自由主義は自由主義の本来的で歴史的な着想に忠実なまま残っている。自由に機能する経済の同義語に、世界中でフランス語のレッセフェールが用いられているのは偶然ではない。
私の信じるところでは、自由主義を社会の自己規制的能力に基づくものと理解することは、アンソニー・ド・ジャセーが記すとおり、自由主義を他の諸々のイデオロギーと区別するためには方法論的に必然的でさえある。[2]しかしながらこのテーゼを論じる余地はここにはない。
近年、自由主義の扱いに関して幾つかの非常に興味深い発展があった。
何よりもまず、学術的な関心の社会主義わけてもマルクス主義から自由主義への大規模な移動が起こったことである。これは世界政治での「現存」社会主義政権の崩壊という周知の出来事に関わっている。これに伴い、私有財産と自由企業が国富促進に不可欠であることは一般的な認識となったのであった。
第二に、自由主義イデオロギーといわゆる「ヨーロッパの軌跡」――すなわち、ヨーロッパとそのアメリカ含む世界中の出先機関を特徴付けた持続的な経済成長への躍進――の密接な結合に対する認知が増大している。[3]社会主義ファンタジーの歴史を精査することに捧げられた数十年間の膨大な努力の後で、学者たちはもっと我々自身の社会の制度的な基礎とこれら制度の進化に随伴した諸観念を詳しく調査することの必要性に目覚めたように思われる。
最後に、自由主義的な諸観念は決して英語圏の諸民族に限られたものではなかったという意識が強化された。限られている、というのがイギリスとアメリカではかつて有力な見解であったことよ。たとえば、長きにわたり、討論に上げられた十九世紀フランス人自由主義思想家は事実上アレクシ・ド・トクヴィルただ一人であった。近代政治思想の主な概説――たとえばオックスフォードのジョン・プラムナッツの二巻の作品[4]――でさえ、バンジャマン・コンスタンに言及すらしておらず、コンスタンのもっと重要な政治的作品集のほんの幾つかがイギリスで読めるようになったのは最近にすぎない。[5]
そしてこれがバンジャマン・コンスタンに当てはまるならば、『ヨーロッパ監査官』集団から、フレデリック・バスティアとギュスターヴ・ド・モリナリまで、幾世代もの連続的な著述家により一世紀の間――実に一九四〇年六月その日まで――パリで生産された、これまで出版された中で最も偉大な自由主義ジャーナル、『経済学者誌』の大勢の寄稿者たちも、ほとんど公平に評価されていないことは容易に察せられる。
また、英語圏の学者の間では、十六世紀後期と十七世紀初期の後期スコラ学派の、現代経済学の基礎を築いた思想家たちの偉大な伝統に対する関心も萌芽している。マレー・ロスバードの経済思想史とそれ以前の幾つかの先駆的な諸作品で扱われた主としてスペイン人の著述家を別としても、我々はいまや、彼らの大なる重要性を際立たせたアトラス財団のアレハンドロ・チャフエンの作品、『信仰と自由』を知っている。[6]また、公共選択学派の理論に重要な貢献をした十九世紀後期と十二世紀初期のイタリア人経済学者への注目の増大にも言及することができるだろう。
自由主義学説の大建築はイギリス人とアメリカ人だけではなく他の多くの人々――とりわけ、オーストリア人――の業績でもあるという事実がもはや明白になっている。
ヨーロッパにおけるドイツの自由主義
ドイツの自由主義に対しても、関心は増大してきた。この伝統は数十年間、特に例の帝国の不名誉な敗北と思われたもの以降、不当に無視されてきたものである。
オスヴァルト・シュペングラーは「ドイツには評判の悪い忌まわしい原理が諸々あるが、ドイツの土壌においては、侮辱に値するのはただ自由主義だけである」と記したとき、彼の時代の国民主義的権威主義的学派を代弁していた。[7]シュペングラーの嫌悪は、信奉される自由主義的諸原理の一貫性と退屈な「ドクトリナリズム」に比例して、政治的スペクトル上の他の多くの人々が抱いた嫌悪に勝るものではなかった。
エール大学のポール・ケネディーは「ドイツにおけるマンチェスタートゥムへのかくも多くの攻撃の裏にあった純然たる悪意と盲目的な憎悪」について記している。[8]この「マンチェスタートゥム」という用語は侮辱語――シュメーヴォルト――であった。自由貿易党の指導者ユリウス・ファウヒャーが一八七〇年に書き留めたとおり、これはドイツ社会主義の創始者フェルディナント・ラサールの発明であった。その後これは保守系の出版物周辺に現れ、最終的にはプロイセン政府においてさえ、ファウヒャーが言うとおり、「政治的な叡智の端から端まで」流布した。[9]想定の上では価値中立的な学術文献でさえ数十年にわたりこれが通例となったのである。
ドイツ自由主義が決してフランス自由主義思想に匹敵するものではなかったことに疑問などありえないのは明らかである。けれども、さらに詳しく調べてみると、ドイツ真正自由主義の政治的はおろか知的な貢献もやはり明白なのである。
近年の討論で多くの歴史家が用いた基本構想はドイツのゾンダーヴェーク――すなわち、その特別または独特な歴史的発展の経路――であった。この概念のヒューリスティックな価値がどうであれ、これがあまりにも過剰利用されてきたことはほとんど疑いない。結局、ドイツはロシアではないのだ。ドイツは次の事柄を経験している。中世の自由都市、大学で教授されたスコラ哲学と自然法学説、ルネッサンスと宗教改革、近代科学の台頭、十八世紀啓蒙の傑出した役割。
十二年間の国民社会主義の経験とそのすべての残虐行為は恐ろしかった。しかしだからといって、ヒトラー以前の千年間、ドイツが西洋文明に組み込まれた一部であったことを忘れさせていいはずはない。
ディータイム・クリッペルは十八世紀後期のドイツ自由主義に関する指導的な学者である。[10]彼は、ドイツのゾンダーヴェークという否定的に――時に肯定的に――熱気を帯びた概念の受容を条件付けた、異なる期間ごとの幾つかの政治的要素を示唆してきた。クリッペルは特に、ドイツの自由観念に関する影響力ある作品の著者ネナード・クリーガーの見解を有効に批判した。[11]この本は(無定義な)「西洋」という着想に対して「自由へのドイツ特有の態度」を戦わせている、とクリッペルは抗議する。しかし、フランス・フィジオクラートに影響された出版社と学者を別にしても、十八世紀ドイツには「ありうるあらゆる微妙な相違をもった、民主主義的および自由主義的な観念の幅広い潮流」が存在したというのが事実である。
クリッペルはクリスチアン・ヴォルフの古い学派の絶対主義志向自然法学説に続く、もっと若いドイツ自然法学派に対して特に注意を払った。この学派は方法論的にはカントの影響下にあり、連鎖的にジョン・ロックに触発されて、国家に対する市民社会の優越性、自己規制的社会の本質としての私有財産と私的企業と競争、国家の簒奪から社会生活を保護することの必要性、以上の理論を提出した。
クリッペルは、これらの学者の経済自由主義的な立場がギルドや「ブルジョワ階層の法的立場に直接反対することを目指していたが、同様にして「製造業と工場の独占と特権にも反対」していたと強調する。ここで彼は、自由主義者よりもむしろマルクス主義者の階級闘争の着想に基づく著者たちによって体系的にぐちゃ混ぜにされた、階級闘争の側面を際立たせている。
しかしながらこの自然法学派は、ヘーゲル派などの学説によって、十九世紀までには完全に衰退していた。
十八世紀ドイツでの自由主義の繁栄と逆転
十八世紀ドイツ自由主義の主要人物が、ヨーロッパ一般の自由主義の歴史に対し、正当には評価されておらずとも力強い影響を及ぼした。というのは、フランス系ユグノー出身の、ヤーコプ・モーヴィヨンのことである。[12]モーヴィヨンがその比較的短くも非常に活動的な生涯において就いた多数の職の中にはブルンスヴィックの政治学の教授がある。モーヴィヨンは普通フィジオクラートに分類されるけれども、実際には経済理論でのモデルをテュルゴにとっており、彼の『富の形成と分配に関する考察』はドイツではモーヴィヨンが翻訳し出版したものである。
実は、モーヴィヨンは当時のフランス人著述家の誰よりも「ドクトリネール」であった――もっと一貫したレッセフェール提唱者であった。彼は小学校から大学までの教育システム全体と、郵便システムと、聖職者の維持、以上の私営化を提唱したのである。彼は理想的な条件の下では安全保障の国家支給の機構全体もまた私営化されていいだろうという観念さえ歓迎した。
モーヴィヨンは彼の大義の疲れ知らずの宣伝者であって、彼の観念はゆくゆくはベルリン高級官吏の世界に浸透しそうなほどのところにあり、彼ら官吏は一七九〇年代には「〔財産を〕所持し、享受し、稼ぐ自由」というスローガンに対してますます熱心に耳を傾けるようになっていた。
しかしモーヴィヨンの影響力の断然重要な経路は、彼が教師ならびにある種の父親代わりを務めた、ローザンヌからブルンスヴィックに移り住むことになった二十歳の友達を通すものだった。かの若い友人こそバンジャマン・コンスタンであった。コンスタンに関する素晴らしい知的伝記において、クルト・クルークは「コンスタンの知的進化に対するモーヴィヨンの重要性を過剰評価することは不可能である」とさえ極言している。[13]コンスタンは国家からの自由としての自由の観念の基礎をモーヴィヨンから導き出した。彼はこのドイツ人思想家から「国家から自由な領域の基本的構成要素としての宗教の妥協なき認知の要求」を受け継いだのだった。
コンスタンの自由主義の核心だった人格的自由の概念的集合、法の支配、レッセフェールは、国家の関与から自由な教育システムを保つことの喫緊の必要性に至るまで、モーヴィヨンの政治哲学を完全に反映していた。
私は諸々の理由のために、バンジャマン・コンスタンの思想形成へのヤーコプ・モーヴィヨンの影響のエピソードを強調してきた。
なぜならば、初めに、彼の固有の関心の他には事実上何も知られていないからである。そのうえ、これは自由主義学説の国際的特徴、すなわち、西洋文明の文化共通的な空間内での観念の横断的受胎を例証しているからである。最後に、バンジャマン・コンスタンの偉大な重要性のゆえである。ハイエクは十九世紀の偉大な自由主義者はトクヴィルとジョン・アクトン卿であったと主張した。十九世紀自由主義のたった一つの源泉を選ばなければならないならば、それは、私の意見では、バンジャマン・コンスタンであろう。
ドイツ啓蒙は自由主義思想の偉大な古典の一つ、『国家活動の限界』という題で英訳されたヴィルヘルム・フォン・フンボルトの作品を生み出した。ハイエクとミーゼスのどちらもこの作品を古典的自由主義のドイツ語での最良の表現であるとみなしていた。フンボルトの作品はイマヌエル・カントの政治哲学ともども、当時の国家絶対主義の中心的な構成要素だった警察国家に対する原理的な反動であった。
他方では、アダム・スミスの観念の形での経済自由主義が特にゲッティンゲンとケーニヒスベルクのドイツの学会に浸透しており、ここではカントの親友クリスティアン・ヤーコプ・クラウスがその主な支持者であった。特にプロイセンでシュタインとハルデンベルクの改革含む自由主義改革を生み出したベアムテンリベラリスムス(官僚自由主義)を創造する際に、クラウス教授が役を担っていた。
十八世紀ドイツでの自由主義観念のこの繁栄を鑑みるに、何が起こって事情を変えたんだ? なぜドイツの政治文化ではあのような意見の逆転が起こったんだ?
この変化の主な理由――おそらく主因そのもの――がこの期間の政治的および軍事的な歴史にあることは疑いない。というのは基本的には革命フランスのヨーロッパ全土を征服し支配する試みのことである。
革命期に権力を握ったジャコバン党員は彼らの観念を銃剣の穂先でヨーロッパに強いると請け負った。軍事的な力によって、人間の権利、国民主権、ヨーロッパ人の大昔からの伝統的で宗教的な信念への憎悪を伴うフランス啓蒙が押し付けられた。そのために、勝ち誇った圧倒的なフランス軍が、ヨーロッパの多くの地を侵入し、征服し、占領したのだった。
自ずとこの侵略軍は、余所者のイデオロギーを持ち込みながら、このイデオロギーに対する敵意と抵抗、好戦的な国民主義的反動を生み出した。これこそロシアとスペインで起こったことである。そしてとりわけドイツで起こったことであった。個人主義、自然権、啓蒙の普遍主義的観念――これらがドイツの人々を服従させ彼らに屈辱を与える憎き侵略者に同定された。この同定が、ドイツでの自由主義がそれ以降発展する際の重荷になった。
この経験から無理なく引き出すことができる教訓はこうだ。自由主義的観念を外国の人々に普及させたいならば、長期的には、銃剣と爆弾よりも事例と説得の方がはるかに効果的である。
ジョン・プリンス=スミスと自由貿易党
一八三〇年代と四〇年代までには、ドイツなどの国々での人口爆発は深刻なものになっていた。なおも大部分重商主義的な代々のシステムでは処理できない増加中の赤貧の兆候が、いたるところに現れた。[14]
これがドイツ自由貿易党の台頭の社会経済的な背景である。
国際貿易障壁の廃止という意味での自由貿易はすでにドイツでも、特にプロイセンでも相当に進展していた。プロイセンに先導されたツォルファーラインあるいは関税同盟が、ドイツ連邦内での自由貿易地域をもっと広くもっと広くと押し広げていた。そのうえ、当時プロイセンは国際自由貿易への道を、イギリス含む他のどのヨーロッパ民族よりも先んじていたのである。
自由貿易党の狙いは経済自由主義の原理を経済的生活の全領域に拡張することであった。一八四〇年代から一八七〇年代まで――初めはドイツの諸州で、ついで統一ドイツにおいて――この運動はドイツ制度への強力で持続的な効果をもっていた。これがこの期間と以降の驚くべき経済成長をお膳立てしたのである。
他の誰よりも、ジョン・プリンス=スミスこそがこの自由貿易運動の創造者であり、一八四〇年代から彼の死の一八七四年まで、その指導者を務めていた。[15]「旧歴史学派」のヴィルヘルム・ロシャーによれば彼は「この〔自由貿易の〕全潮流の指導者」であり、イギリス人経済史家のW・O・ヘンダーソンは彼をフリードリヒ・リストの大敵と称した。
プリンス=スミスはイギリス人の両親がおり一八〇九年にロンドンで生まれたから、ドイツで通例言及されるとおり、ドイツ自由主義への外国の影響の好例であった。彼は一八三一年に東プロイセンに移り、そこでギムナジウムの教師になった。後に彼はベルリンに移り、ジャーナリストになった。
彼自身が認めた彼の思考へのほんの幾つかの影響のうち一つはジェレミ・ベンタムのものであり、これはプリンス=スミスの際立った法実証主義と、全経済問題を厳格に功利主義的な見地で扱うことの固執、以上の両方にかけて明らかだった。[16]
しかしながら枢要な面では、プリンス=スミスはもっと当時のフランス自由主義の方、産業主義学派の著述家シャルル・デュノワイエとシャルル・コント、およびバスティアとその後継者の方に近かった。ベンタム功利主義が国家「アジェンダ」に開かれているところでは、プリンス=スミスは厳格な最小国家、レッセフェールの立場をとっていた。いわく、「国家に対し、自由貿易は安全保障の生産以外の任務を承認しない」(「安全保障の生産」は産業主義者が政府に許した唯一の機能についての産業主義的キャッチフレーズだった)。この規則は、国家が「可能な限り多くの職能を横取りし、可能な限り多くの経済的利益を自身に結び付ける」試みによる国家拡張のダイナミズムを相殺するために必要である、とプリンス=スミスは信じていた。
一八四六年――イギリスでの穀物法廃止の年――に、反穀物法同盟をモデルにした運動確立の試みを続けながら、プリンス=スミスはドイツ自由貿易協会を形成するために実業界の指導者と評論家を集めた。協会の支部はハンブルクとシュテッティン他、北ドイツの町に設立された。
プリンス=スミスが経済学の教師として振舞うために彼の周りにジャーナリスティックな野望を抱く聡明で理想主義的な若者を集めたのはこの頃であった。彼は彼らを自由教育の福音で触発したが、これは始めの一手にすぎなかった。彼らの中で最も傑出した一人であるユリウス・ファウヒャーが言うとおり、自由貿易は「福祉機構と幸福追求装置の駆動の発端」にすぎなかったのである(この機構と装置に、十八世紀の大陸のエピゴーネンは国家を利用していた)。国家の義務は「正義と国境の防衛に必要な実力の運搬と保護」に活動を制限することであらねばならない。言い換えれば、内的および外的な侵害者から防衛することである。しかし国家活動について、ファウヒャーが一八六〇年代に意味ありげに言い加えるには、「必要であれば、また国境の拡大にも」。
一八四八年の自由主義的立憲改革運動はプリンス=スミスにほとんど影響を与えなかった。彼は努力を経済的改善に集中し続けていた。まさしくプリンス=スミスが二次的とみなした政治的自由と立憲的変更の問題に集中するフランクフルト国民議会では、彼もファウヒャーも人々の注目を集めなかった。
プリンス=スミスはすぐ彼自身の大義にとってのフレデリック・バスティアの比類ない価値を認識し、一八五〇年にバスティアの『経済調和』を翻訳、出版した。実は、ドイツ自由貿易運動を統率する「余所者」精神があるとすれば、それは主としてはイギリスではなくフランスの精神であり、バスティアの教えの形をしたものである。
プリンス=スミスは労働者階級と社会全体の生活水準の傾向に関するマルサスとリカードの悲観的診断への不同意を早い頃から示していた。彼はバスティアの楽観主義――パリ学派一般に特徴的だったもの――の内に彼自身の見解の肯定と拡充を見出した。自由貿易派の成功の主な理由は、彼らがアドホックな要求や切れ切れの改良としての綱領ではなく、全般的で知解可能な社会哲学からの、つまりバスティアのレッセフェール哲学からの演繹としての綱領を提出したことである、というのが指摘されてきた。
バスティアの作品に例証されるとおり、経済科学は「暇な手」を取り「空いた腹」を満たす方法が資本蓄積であることを論証した。政府の干渉と重税はそのような資本の蓄積を減らし、そうして貧困を生み出す傾向があった。主な妨げは軍事予算だった。プリンス=スミスは久しく反軍国主義的立場に就いており、これはバスティアとイギリスのマンチェスター学派の特徴でもあった。
興味深い側面はプリンス=スミスと彼の追随者の方法論がイギリス古典派政治経済の伝統的なもの、いわば演繹科学の方法だったことである。彼らはこの方法のせいでドイツ歴史学派に攻撃されていた。歴史学派の指導者グスタフ・シュモラーがオーストリア学派の創始者カール・メンガーに対して行った有名なメトデンシュトライト、あるいは経済学の方法をめぐる論争はすでに歴史主義経済学者とドイツ自由貿易派の方法論争に予兆されていたのである。
この段階でのプリンス=スミスの大規模な活動は、南部と西部のドイツの指導的自由主義者が保護主義者であったときに、ドイツの政治的自由主義者に自由貿易の望ましさを説得する試みで成り立っていた。彼はまた、「自由貿易派が大衆の精神に十分な栄養を提供しなければ、彼らの心は社会主義者が差し出す料理に向かうだろう」と心配してもいた。プリンス=スミスの門徒たちは民主的および急進的な界隈に改宗させるために、ベルリンのジャーナリズムに頼り、彼らのうち一人が「民主的潮流を社会主義的および共産主義的な努力から分割するための……最大限の政治的急進主義」と特徴付ける綱領を信奉していた。
実は、ファウヒャーらが達していたのはある種の個人アナキズム、あるいは今の言葉で言えば、アナルコ資本主義または市場アナキズムであった。これは一八四〇年のことだ。同時にパリでもギュスターヴ・ド・モリナリがもっと体系的な作風で安全保障の私的生産の学説を提案していたと書き留めるのも興味深い。[17]モリナリの立場はかなり後になってマレー・ロスバードに再開され、最近では私の友人ハンス=ヘルマン・ホッペ教授に続けられている[18]
ドイツ自由貿易派のこの早期のアナキストな幕間――プリンス=スミス自身は承認しなかったもの――は、彼らが帝国ドイツ体制派の体裁の良いメンバーになったとき、彼らの深刻な当惑になることが判明した。
一八五八年、ドイツ経済学会が設立され、この大義の主な信奉者が集合し、彼らの多くはプリンス=スミスの先の二十年間の働きによってそこに導かれていた。プリンス=スミスは一八六〇年から逝去までベルリンの経済協会の長を務め、彼の家はプロイセンの政治家の集会場であり、彼らの中にはドイツ進歩党と後の国民自由党の指導者たちがいた。一八六三年には、『経済、政治および文化史季刊』が出版され始めた。自由貿易党の機関として、かかるジャーナルは引き続きファウヒャーとカール・ブラウンらの編集の下で三十年間出版されていた。
『季刊』、ベルリン経済協会、議会、および政治家と公人に対する非公式の影響は、すべて同じ運動の要素、同じ活動の側面、多かれ少なかれ同じくジョン・プリンス=スミスの作品に触発されたものであった。
彼は、ドイツの現実を力強く統一的に自由貿易に関与させるために彼にできることすべてを成し遂げたと認識した上で、一八七五年に亡くなった。
政治経済学に関して言えば、プリンス=スミスはフェルディナント・ラサールが主張し、ラサール自ら真の「黄金法則」、「労働者をますます快適な生き方に高める効果がある」と称した「賃金の鉄則」に反対した。(どういうわけか、ドイツ自由主義の歴史家として著名なシカゴ大学のレナード・クリーガーはちょうどこの主張を――おそらくプリンス=スミスの最も良く知られた単一の学説を――読み違えることができた。)プリンス=スミスは「資本化が賃金上昇の手段である」と宣言した。
歴史社会学の領域では、プリンス=スミスは特に彼の早期のエッセー『プロイセンの政治的進歩について』(1843)で、マルクス主義の歴史唯物論に驚くほどの類似を見せている。
プリンス=スミスの主な断言には、社会的および政治的な制度が「物質的基礎」に決定されるとか、現代社会では「これまでの生産力をはるか上回る」ほどの生産力が発生したとか、かつてなく増大する資本の量が賃金労働者の大階級を存在させるとか、資本主義的経済秩序が全世界を抱き込むように拡張するだろうとかといった主張がある。これらの断言は『共産党宣言』の五年前のものながらその最初のページのように読める。
プリンス=スミスの考えでは、プロイセンは封建的要素が必ずや内的に縮小し、平和的な商業関係が外務での規則になる段階に入っている。経済のこの「至上性」――経済的勢力の力が不可避的に自由主義的政治秩序へ導くだろうというプリンス=スミスの見解――が、若い自由貿易派のアナルコ資本主義的な幕間の底流に存する前提であった。
この短いアナキストな期間は自由貿易派の政治的な立場に重大な影響があった。彼らがアナキズムを放棄した後にも残ったものは、市民的政治参加という意味での政治的自由への軽蔑と、敵対的政治家の常たる政党政治への嫌悪であった。
一八五〇年を通して、自由貿易の諸観念はますます人口爆発とドイツ経済危機への反応の枢要な部分であるように思われた。一八五八年、ドイツのさまざまなところで舞台に現れていた自由貿易派は、主としてジャーナリストと活動家であり、自身をドイツ経済学会に組織していた。これが一八八五年まで続く自由貿易運動の制度的中心地であった。[19]
かかる学会ではドイツの進歩的エリートの多くが交際していた。参加者には多様な自由主義的諸政党の指導者たちとドイツ議会わけてもプロイセン衆議院の議員がおり、後に北ドイツ連邦とドイツ帝国のの期間には帝国議会の議員がいた。プロイセンなどのドイツの諸州と後の帝国の影響力ある官僚たちがしばしば出席していた。
かかる学会の見解を一般公衆に広める際の最も重要な媒体は出版物であった。最も著名な新聞の多くが学会の会員の手になるものであった。実際、重工業の保護主義的な圧力団体たるドイツ産業家組合中央会が「報道機関全体が決定的に自由貿易派である」と苦情を言うような状況にあり、かかる学会の「マンチェスター主義」な見解が社交界すべてに浸透していたのだった。公団社会主義者の筆頭の一人アドルフ・ヴァグナーは彼らしくも自由貿易派ユダヤ人のベルリン報道機関の申し立て上の統制にぶつぶつ文句を言っていた。
次から次へとドイツが直面した主な経済問題は学会の会議で詳細に取り組まれ、解決案が考案された。一八六七年の北ドイツ連邦の創造に伴い、学会の指導者は主として政府支持派の新しい国民自由党に群がり、彼らの国のために働くよう専門知識を述べた。
この期間は自由貿易運動の実践的活動の最高潮であった。プリンス=スミス組織の側近オットー・ミハエリスはルドルフ・ベルドリュックとともに財務省で働いた。議会の学会会員は運動の自由と利子率制限の廃止のために戦った。結婚する権利への財政的制限も、借金での禁固も廃止された。一八六九年の産業法も、強制的ギルド、同業参入時の強制的試験、都市への一定産業の制限、一時に一つ以上の生産ラインを追求することの禁止などともに取り除かれた。ヨーロッパの他のどの結社にも同様の偉業を示すことはできないと学会の終身会長カール・ブラウンが自慢したのも無理はない。
一八七一年以降、自由主義改革は議会の法的構造に組み込まれ、たとえば金本位(学会からの他の提案もあったが)に基づく通貨統一が実施された他の改革学会が提案する政策はますます政府アジェンダの基本となっていった。自由貿易は場を制したかのように思われた。
オットー・フォン・ビスマルクと自由主義の分裂
しかしながら、一八七八年までこの政策を実施した男、自由貿易派の英雄、オットー・フォン・ビスマルク、プロイセン首相・ドイツ宰相が心を変え、自由貿易派の世界は一夜で転覆した。
事ここに至っては、我々はプロイセンとドイツの一八六〇年代の枢要な政治的発展に話を移さなければならない。何よりもまず、ここにはプロイセンの構造的危機があった。
ヴィルヘルム一世の政府は大量の議会自由主義者の反対を引き起こす軍事改革――基本的には、君主の軍事的支配の増加――を導入した。膠着が続く。自由主義者が支配する衆議院と政府の紛争は激化した。「革命」という言葉でさえあれこれ噂を立てられてしまうような国で、世論の動向が生じた。
この危機の真っ只中で、王はオットー・フォン・ビスマルクを首相に任命した。ビスマルクは、手短に言えば、傲慢にも衆議院と自由主義者を無視し、軍事改革を実行し、ドイツ統一の構想を進めたのである。一八六四年にデンマーク、ついで一八六六年にオーストリアとドイツの他の州に対する二つの上出来な成功が、一八六七年にプロイセンの指導の下での北ドイツ連邦の創造に導いた。(最終的には一八七〇年から七一年、普仏(フランス・プロイセン)戦争がドイツ統一を決定した。)議会自由主義者はビスマルクを支持するか否かで分裂した。
衆議院での小さいが影響力は大きいプリンス=スミス集団、彼以外にユリウス・ファウヒャーとオットー・ミハエリスを含むこの集団は、最初からビスマルクの自由貿易の見解と彼のドイツ統一の指導を賞賛していたから、自然とビスマルクの側に就いた。彼らにとっては立憲的疑問はそもそも最も重要なる経済的問題に従属するものだから、彼らは経済改革にかくも恩恵を施す内閣に反対する理由がなかった。
プリンス=スミスが仮定した政治的勢力に対する経済的勢力の至上性は彼らにとって最小国家への自動的進化を意味していた。彼らの高度の制限された、徹底的に経済的に条件付けられた着想には、政府権力に対して具体的な制度的障壁を設えるために働くような強い関心の余地はなかったのである――そういうものは経済の前進の帰結として勝手に生じるのだ、と。
この立場は自由主義的な立場として一貫していると彼らは考えた。プリンス=スミスと彼の学派は社会と国家の区別をして、彼らが究極的に重要だとみなす唯一の権利は社会的な領域の中で行使されるもの、バンジャマン・コンスタンの「近代人の自由」の本質を構成する権利のみであるという主張まで推し進めた。政治的な権利はせいぜい道具的な価値しかなく、根本的な権利、わけても財産と契約の権利を支持するに尽くすにすぎない。もしも所与の状況の概観において、市民社会の権利が政治的権利の抑制で保障されうるならば――たとえば、大衆的に選出された議会よりも政府自体が経済的自由の支持を見せたり、その実現にもっと良い立場にあったりするならば――そのときは、自由貿易派が政府の側を選ぶのは難しいことではなかったのでらう。
けれどもコンスタンが保証のシステムと称したものを無視することには危険があった。一八六三年に『季刊』が仰々しくも「政治は死んだ、ただ経済だけが領土を占有する」と宣言したとき、告知されたのは政治の死それ自体ではなかった。そうではなく、自由貿易派が宣言したのは立憲的協定への全配慮のやめなのである。それはあたかも彼らのうち多くの者が早期に関与したアナキズムが政治闘争への永遠の反感の裏に残っていたかのようなものである。当時のプロイセンでの首尾一貫した自由主義を含む西洋自由主義の幹線にとってはこの闘争は自由主義的努力の必然的で永続的な特色だったが、自由貿易派はフランスのフィジオクラートたちの線に向かいがちだった。彼らは政権に反対するよりはむしろ、政権の保持者とともに働き、政権の保持者を通して活動することを選り好んだ。しかしながら、自由経済が自由立憲システムなしでも安全かどうかは未解決の問題だった。
プロイセン自由主義者の多数派のように、自由貿易派は「現実政策」や「事実の力」のような用語で話していた。当然、ビスマルクが政府の将来の行動についてどんな保証も差し控えつつ立憲的な反対派と和解するために提出した免責法を、彼らは熱心に支持した。もっと一貫した自由主義者たち、ヴァルデック、シュルツェ=デーリッチュ、ホーファーベック、フィルヒョー、そしてまだ議会外にいたオイゲン・リヒターは、この法案を拒絶した。自由貿易派は一八六七年に進歩党を去って国民自由党を結成しに取り掛かった最初の人々の中にいた。ドイツ自由主義は(少なくとも)二つの派閥に分裂した。偶然にも、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスは『全能政府』において、この一八六〇年代の立憲的紛争での敗北がドイツ自由主義の真の終焉を表していると考えた。[20]
ときには、国民自由党員が一八六七年の後でビスマルクとともにドイツ自由主義経済の制度的基礎を創造すべく働いたように、彼らの見解は正当化されたように思われた。しかしながら一八七九年、ビスマルクは自由に取引する国民自由党員との「協定」を反故にし、保護主義と国家社会主義に転向したのだった。
プリンス=スミスらの戦略は幻想だったと判明した。
『国家と経済』およびパレート症候群
他方では、もう一つの発達が非常に重大なものになっていた。
一八六九年にアイゼナハで、ベーベルとリープクネヒトに率いられ、ドイツ社会民主党が形成された。自由貿易陣営の典型的な反応はユリウス・ファウヒャーのものであり、彼にとって社会主義は「ありとあらゆる文明に対する危機」に相当するものにほかならなかった。これがエドゥアルト・ベルンシュタインのはるか前、修正主義がドイツ人社会主義者の事実上の綱領になるはるか前であったことは念頭に置くべきだ。この時点では、彼らはヨーロッパ社会主義者のほぼ全員のように生産手段の私的所有の全廃を説教していたのである。ファウヒャーと彼の友人がヨーロッパ中の他の自由主義者のように社会主義者を文明社会の公然たる敵と見たのは至極当然であった。
これが、プリンス=スミスの最後の作品、『国家と経済』と題付けられた主要な論文の背景である。[21]
プリンス=スミスは自分の目的は労働階級の生活水準を上げることだと恒常的に繰り言していたけれども、たとえば議会でのドイツ経済学者のもう一人の指導者ヴィクトル・ベーマートの「感傷的・人道的」な面と称されるものは決して発揮しなかった。しかしそうだとしてもなお、彼の最後のエッセーはその調子とアプローチの著しい無慈悲さのため注目に値する。プリンス=スミスは一人前のダーウィニストとしての正体を現し、経済学者は実際にはずっと前からダーウィニズムの中心的なメッセージを理解していると主張しており、そのメッセージとは彼の理解では生活型間の優越性をめぐる不断の競争のことであった。
プリンス=スミスは軍国主義と戦争に関する自身の早期の考えを完全に捨て去っており、若い自由貿易派として彼自身が信奉していた立場それ自体を嘲弄するところまでいっていた。ミリシアを導入し軍事予算を急進的に削減する提案を、非難したのである。彼は「すべての民族はその意思に反してしか、政府が引き起こした戦争に駆り立てられることはない」と信じる人々を裏切ったのだった。
彼はリチャード・コブデンのキャンペーンを暗黙裡に切り捨てながら、仲裁裁判所によって戦争を廃止する善意の試みを無駄だと宣言した。
つねに反戦を説いている自由主義者は経済〔原文ママ〕への一面的な専心のせいで、人々の「国家の意味」の存在と影響についての現実が見えておらず、見ることを拒んでいる。「弱い個人的な人物」は強い共同体を「国家の意味」によって「傲慢な権力を展開し世界にその尊敬を強いる」政治的な実体と同一視している、と。
あたかも資本主義下でのイデオロギー的神秘化に関するマルクス主義的学説を肯定するかのようにも読める一節で、プリンス=スミスは、共同体――すなわち、国家――を同一視する原動力は「多くの剥奪に打ち勝ち」「もっと容易に困難に耐え忍べるようになる」のを助けるから価値があるとさえ言明する。
彼は国家の唯一の職能が「最小の支出で労働と財産に不可欠な安全保障」を生産することであると間違って信じている人々を批判する。もちろん、彼自身が数十年かけて擁護してきたのはまさにこれと同じ立場だった。
プリンス=スミスの仄めかしによれば、経済学者は専業政治家に学ぶべきである、というのも彼らの国家での生活は「元気付けて気分を高揚させる自意識の源泉」であるからだ。
プリンス=スミスは外的国権のみならず内的な国家権力の擁護者でもあった。彼は議会政府に反対し、衆議院の課税制御にも、大臣が王や皇帝ではなく議会に対して責任を負うことにも反対した。プリンス=スミスはフランス・フィジオクラテートの「合法的専制」の議論を掘り出して、君主は一連の一時的テナントとは対照的にも恒久的な所有者や管理者が財産をもつのと同じ利点を備えていると断言した。興味深いことに、プリンス=スミスはこうして民主主義政府が社会の生産的メンバーの富への無制御な課税と再分配のためのメカニズムに進化するのを予見していたようである。
プリンス=スミスはビスマルクが自由主義的中流階級の選挙上の権力をはいかいするために新帝国憲法に導入した成人男性普通選挙の帰結を恐れていた。プリンス=スミスによれば、人々は彼ら自身の本当の利害関係を知らず、デマゴーグに簡単に騙されるというのが素朴な真実である。彼らの好きに任せたら、彼らは財産への没収的な攻撃を是認したり、一八四八年フランクフルト国民会議で彼がすでに注意していたとおり、あれこれの生産者集団の特権を維持するために競争を制限したりするだろう。無知な人々と利己的な私益団体の手に社会の継続的な存在を委ねなければならないなど容認しがたいことである、と。
プリンス=スミスは資本主義社会が時間との競走を迫られていると見る。数年前には、彼は自由市場の導入に続いて「生産されるものを国家が貪りすぎないかぎりは」直ちに繁栄が生じると確信していた。今では彼の早期の楽観主義は――国家の拡張わけても軍事的拡張に対する彼の粗探しじみた態度とともに――消滅してしまっている。
かくして、彼が深く悲観的な調子で「あまりにも大きな損害をすべて蒙ってしまう前に人々が洞察を得られるかどうかは、残念だが、まったく不確かである」と述べて終わったことは驚くにあたらない。
『国家と経済』は、社会主義的な脅威に直面して、プリンス=スミスが若い頃の自由主義的な立場からいかに遠くへと脱線してしまったかを証明している。疑問の余地なき君主支配、国家とその至上の財としての権力、戦争容認の構え、短期的には市場秩序に反対しても仕方ないような価値観、主観的経済計算の代わりの非合理主義的な価値観の促進――これらすべてが、社会主義デマゴーグに率いられた自滅的な大衆から社会を救助するための手段として受け入れられているのである。
この最後の作品で、プリンス=スミスは革命的社会主義に対する防衛として権威主義的国家に頼む自由主義思想家の列に連なっている。この列の最初の人物は七月王政期のシャルル・デュノワイエであろう。やや後になって、十九世紀ロシア最大の自由主義思想家ボリス・チチェーリン――彼はバスティアの本を呼んで経済自由主義に転向した、閑話休題――が似た結論に至った。チチェーリンは「〔ロシアでの〕この共産主義運動を見るにつけ、誠実な自由主義者には絶対主義の支持以外には何も残されていない」と記した。[22]
この転倒――急進的な自由主義から権威主義的政府の支持への――まったき背信は、その最も有名な例にちなみ「パレート症候群」と称されて良い。
ドイツ人歴史家のヴォルフガング・モムセンはこの世紀初期数十年のファシズムに対する「自由主義の不完全な抵抗」、イタリアで顕著だがドイツでもあったものについて記していた。彼はこれを、「産業的大衆社会の新問題」を扱う際の自由主義者の無力さに帰した。[23]
この解釈には幾らかの真理があるが、それは「近代産業社会の問題」が一定の仕方で理解される場合にすぎない。件の自由主義の権威主義国家への漂着を引き起こした中心的な「問題」は、私有財産に基づく社会秩序の破壊を目論み、労働者階級の大半に忠誠を要求する政治運動の発生であった。プリンス=スミスの時代でのように普通選挙に頼ったか、それともコミンテルンの時代でのように暴力的な手段にも頼ったかにかかわらず、この脅威を引き起こした急進的社会主義者は、多くのヨーロッパ人自由主義者を、モムセンの言ったとおり「途方に暮れさせた」のだった。イタリアでは、パレートとアルベルト・デ・ステファーニとルイジ・エイナウディのような自由主義者がムッソリーニの権力掌握を支持した。彼らは「アンチ・モダニズム」の性向からではなく、レーニン主義的テロリストのイタリア独裁への恐怖からそうしたのであった。
実に、プリンス=スミスの早期のエッセーのようにほとんど制限なき自由の世界を企図して始められた自由主義運動が、ときに歴史的な圧力の下、権威主義国家の側について終わったのだから、これは歴史的な悲劇ではあった。しかし我々はこう問うべきなのだ。結局、誰のせいだ?
断固自由主義とオイゲン・リヒター
プリンス=スミスと彼の集団は自由主義の大義を推し進めるために政治的権力との協力に目を向けた。結局、彼らの計画は失敗だった。そのかたわらで、もう一人の自由主義指導者が代替的な戦略を追及していた。立憲的保障の確立とドイツの民主的要素の強化により自由社会を達成する戦略である。その指導者は、オイゲン・リヒターであった。
オイゲン・リヒター(1838–1906)は一八七〇年代から二十世紀の早期まで、ドイツ第二帝国時代の、真正自由主義の最も重要な提唱者であった。[24]リヒターはつねに、私有財産と自由交換、国際自由貿易、法の支配と少数派の権利の尊重、反帝国主義と反軍国主義と平和の擁護者であった。ルートヴィヒ・バンバーガー――彼もまたバスティアの熱狂的な崇拝者である――とともに、リヒターはビスマルクの福祉国家の最大の敵対者であった。バンバーガーが最終的に政治的犠牲者となったドイツで増大中の反ユダヤ主義に対しても、リヒターは反対を論じた。
その始まりから終わりまで、リヒターは台頭中の社会主義運動を非難していた。彼が主張し詳細に論じるところでは、社会主義が導く先は普遍的な貧困のみならず、また先立つプロイセン主義以上に圧政的な権威主義的新政権でもある。リヒターにとって、自由主義の大義は彼の全人生であり、その原理のために健康とそこそこの財産を犠牲にしたのだった。
オイゲン・リヒターは今では幾人かの専門家以外には忘れられている。けれども彼自身の時代には彼はドイツの政治界で有名な人物だった。彼は、ドイツの左翼自由主義(リンクスリベラリスムス)あるいは断固自由主義(エントシーデン・リベラリスムス)の政治的な表現たる進歩党と後の自由志向党の、ときには腕が立ちすぎるともいえる素晴らしい指導者であった。そのうえ彼は疲れ知らずのジャーナリストでもあり、ベルリンの日刊新聞、多くの書籍とパンフレットの出版者でもあった。彼の小さいが想像力に富んだ作品、『社会民主主義的将来像』は多くの言語に翻訳され、数千部を売り上げた、これはまた当時のドイツ社会民主党員とそれ以降の社会主義的歴史家の激しい憎しみも買ったのだった。
彼の友達と政治的同僚の狭い集団の外部では、リヒターに対する意見は概ね非常に否定的であった。彼の「硬直性」、「教条主義」、そして「揚げ足取りのドクトリネール」が繰り返し攻撃されている。
けれども彼の敵でさえ、彼の並外れた才能を認めるよう強いられた。彼の最大の敵たるビスマルクでさえ、リヒターは「確かに我々が出会ったうちで最高の語り手だった。非常に精通しており誠実であって、行儀は不服従だったが人格者だった。今だって彼はからっぽな言葉では曲がらない」と認めていた。もう一人の――今度は自由主義陣営からの――反対者は、ビスマルクがリヒターのディベート力を恐れて議会の開会に出席するのをやめたと述べている。マックス・ヴェーバーは、オイゲン・リヒターは彼自身の党内での彼のはっきりした不人気にもかかわらず、政府予算についての比類なき知識のおかげで、自由党で不動の権力の座を享受していた、そして彼はきっと、まったき最終の酒保まで、戦争大臣を相手取って、ありとあらゆる一銭ごとの支出を調べ上げられるこの上ない代表者であった、と公言している。
彼は政治科学をダールマンとモールとともに学び、財政学をカール・ハインリヒ・ラウとともに学んでおり、それ以降ラウは彼の経済自由主義のさわりになった。彼はドイツ経済学者会議に出席し始め、会誌に記事を寄稿していた。
リヒターは、国民自由党員となった集団が、一八六〇年代初期の政府の軍事改革法で引き起こされた立憲紛争の際にビスマルクに屈服した一八六七年のときも、進歩党にしっかり掴まっていた。国民自由主義者は一八七〇年代の間、ビスマルクが一八七九年に保護主義へと転向するまで、自由主義者の主要な集団のままであった。七九年以降、経済自由主義者はルートヴィヒ・バンバーガーに率いられて国民自由党員の下を去り、しばらくの間「脱退派」を組織していた。彼らはリヒターに導かれて、ドイツ自由志向党を結成するためにすぐ進歩党員と団結した。
一八八四年までには、リヒターは議会で百議席以上を誇る統一した左派自由党の党首となっていた。ホーエンツォルレン最大の自由主義者フリードリヒ皇太子が王位に就いた。とうとうドイツに自由主義の時代が到来したようだ。
しかしビスマルクはその政治的手腕でリヒターの党が次の二回の選挙で大量に議席を失うように取り計らい、フリードリヒが一八八八年に皇帝になったとき、彼はすでに致命的なほど癌に冒されていた。それでもなお、リヒターはもう二十年にわたって同じ自由主義的原理を固守していたが、これはますます時代遅れで無関係に思われるようになっていった。
リヒターの社会哲学の要石は政治的自由と経済的自由の相互依存であった。彼が言うとおり、「経済的自由は政治的自由がなければ安全ではいられないし、政治的自由は経済的自由にしか安全を見出せない」。彼はその経歴を通して「二正面戦争」を行い、一方ではビスマルクの「議事立憲主義」と復活した重商主義に抗し、他方では台頭中の社会主義運動に抗した。この「二正面戦争」の――反動保守と社会主義の両方に対する戦闘の――戦略は偶然にも、バンジャマン・コンスタンの時代以来、十九世紀ヨーロッパ自由主義者の標準戦略なのであった。
ビスマルクの保護主義の採用は、リヒターら自由主義者たちが現代の公共選択学派に驚くほど似た用語でこの政策を分析する絶好の批判の機会となった。今日の用語法で言えば、ビスマルクは「政治的企業家」の役割を果たしたのである。リヒターは議会で進行中の出来事を東エルビアの農業経営者と団結した鉄鋼の利権集団と分析する優秀で辛辣な所見を提示した。ビスマルクの政策の利益は補助金を受け取る人々の間に集中しており、他方でその費用は不運な消費者の間に分散していたのだった。
しかしリヒターはこの分析が彼自身の政治的な姿勢をどう蝕むかに気づいていなかったようだ。国民自由主義者はビスマルクに「裏切られた」。特にプリンス=スミスの学派の経済自由主義者は、権力者と同盟を結ぶ戦略が、この権力者がただ見解を変えるだけで破滅させられてしまうのを経験していた。しかし、政府に対して議会の権力の方を支持するリヒターの戦略も等しく無駄だったと判明した。準地代あさりの特別利益団体の勝利によって国家をかつてなく拡張させる民主的社会の大衆選挙政治の論理に対し、真正自由主義者は無力であることが分かったのだった。
他方で、国民自由党員のままでいることは、またもう一つの問題でも屈服し続けることを意味していた。公民自由党員は党脱退の前でさえカトリック教会に反対するビスマルクの文化闘争を支持する指導的な派閥であった。リヒター自身もときどき熱意なく支持していたが、この反カトリック十字軍は進歩党員、特にルドルフ・フィルヒョーにも行われていた。国民自由党員は、反社会主義者法、ビスマルクの自由貿易放棄と福祉国家導入、プロイセン東部のポーランド人の強制ドイツ化、植民地拡張を世界政策、ヴィルヘルム二世の下での軍事増強、わけても海軍のビルドアップ、以上を是認した。
リヒターはバンバーガーと一緒になって、ビスマルクの福祉国家創造に対し、議会での主な敵対派を務めた。[25]自由党員には説得力のある議論が幾つかあった。彼らは福祉国家が最終的には市民の国家依存の紐帯と感情を生成するだろうと考えた。実際、これこそがビスマルクの福祉国家綱領の露骨な目的だった。
リヒターは晩年には皇帝ヴィルヘルム二世の世界政策に抗する主な闘士となった。フランス人自由主義者がアルジェリアなどアフリカと東南アジアでの植民地主義に反対したように、リヒターはドイツ植民地主義に反対した。彼の軍事的な立場は、ドイツは防衛目的に十分な力を保有すべし、であった。しかしリヒターは、フランスとロシアの軍拡とそれに対する防衛費に不条理な高値を付けることは疑惑と敵意を引き起こしそうだとも信じていた。彼はとりわけ、皇帝の大ドイツ海運海軍の創造に対する疲れ知らずの闘士であった。ティルピッツ元帥はリヒターが海軍問題での彼の最も危険な敵であることを公然と認知した。しかし、そのような大海軍はドイツには不要であり――そのうえ――イギリスとの敵対を生み出すだろうと、リヒターは論じ続けていた。結局はもちろん、彼が正しかった。
リヒターは最後まで、筋金入りの誠実な支持者を引き付けていた。国民自由党員の支持者たちは、銀行と、保護主義的な大企業と、帝国主義的な拡張の利益に与かる資本家から来る傾向があった。保守主義者はその支持を、ほぼ主義的な棒行経営部門から引き出していた。社会民主主義者はいよいよ多くの産業労働階級から支持を勝ち取っていた。真正自由主義に該当するままの人々は非常に小さな集団だった。(学校教育と聖職者を除く)知的職業階級、小企業、熟練職人、そして特にベルリンの、小さなユダヤ系企業家共同体だった。リヒターの仲間の自由主義者のうち一人は、リヒターの党を次のように記述している。小人の党であって、彼自身と自分の力に依存し、国家からの贈り物を要求せず、彼の能力の最善を尽くして彼の立場を改善し、彼自身よりも彼の子供にもっと良い運命を残すよう努力するのを妨げられないことしか求めない。
自由主義の忘却、国家主義の記憶
真正のドイツ人自由主義者たちはまったく人目につかなくなってしまった。今日では、二十世紀初期のドイツ人自由主義者と賞賛されている人物は、実際には集団主義者と全体主義国家の先駆者であった方の人々となっている。
主な例はヴァルター・ラーテナウだ。この集団主義的神秘主義者について、F・A・ハイエクは『隷属への道』で次のとおり記している。
ラーテナウは自分が始めた全体主義的経済の帰結に気づいていたら身震いしていただろうけれども、ナチの諸観念の発展についての完全な歴史においては、彼はかなり高い立場を占めるに値する。彼はその著作を通じておそらく他の誰よりも、第一次世界大戦後や大戦直後に育った世代の経済的見解を決定付けたのであり、しかも彼の最も親しい協力者のうち何人かは後に〔ヘルマン・〕ゲーリングの五年計画のための行政要員の根幹を構成することとなっていたのである。[26]
ハイエクはヴァルター・ラーテナウの後にフリードリヒ・ナウマンの名前も加えており、彼の見解の多くはラーテナウの考えに似ており、ドイツで優勢なイデオロギーになった「社会主義と帝国主義の組み合わせの特徴」をもっていた、と述べる。
ドイツでのこの自称「自由主義」にぴったりの最高潮は一九三三年にやってきた。それ以降、いわゆる「自由」党は適切にも、シュターツパルタイと、国家党の名を引き受けたのである。議会での「リベラーレン」(「自由主義者たち」)は五人にまで減っていた。アドルフ・ヒトラーが一九三三年三月、ナチスにドイツ社会の完全統制を授権する全権委任法を提案したとき、国家党の「リベラーレン」はこれに賛成票を投じた。この末期の半独立的な議会メンバーでただ一人だけ全権委任法に反対の票を投じたのは社会民主党員であった。真の自由主義者は逆の場合を心から願わなければならない。ナチの授権に賛成した「リベラーレン」の中にはテオドール・ホイスがおり、彼は後に連邦共和国大統領となり、自由民主党の最初の指導者になった。
何か真正自由主義に似たものがドイツに復活したのは第二次世界大戦の大惨事の後でしかなく、部分的には、十九世紀自由主義の遺産を十二世紀へと維持していたオーストリア経済学者のルートヴィヒ・フォン・ミーゼスとフリードリヒ・ハイエクに触発されてのことであった。
[1] Ralph Raico, “Prolegomena to a History of Liberalism,” Journal des Economistes et des Etudes Humaines, vol. 3, nos. 2/3, pp. 259–272を見よ。
[2] Anthony de Jasay, Choice, Contract, Consent: A Restatement of Liberalism (London: Institute of Economic Affairs, 1991), p. 119.
[3] Ralph Raico, “The Theory of Economic Development and the ‘European Miracle’,” in Peter J. Boettke, ed., The Collapse of Development Planning (New York: New York University Press, 1994). 〔訳注:本書のエッセー「経済発展の理論と『ヨーロッパの奇跡』」を見よ。〕
[4] John Plamenatz, Man and Society (London: Longman, 1963), 2 vols.
[5] Benjamin Constant, Political Writings, Biancamaria Fontana, ed. (Cambridge:Cambridge University Press, 1988). 自由主義の歴史にとってのコンスタンの重大性について、Philippe Nemo, Histoire des idées politiques aux temps modernes et contemporains (Paris: Quadrige/PUF, 2002), pp. 620–669を見よ。
[6] Murray N. Rothbard, An Austrian Perspective on the History of Economic Thought, vol. 1, Economic Thought Before Adam Smith (Aldershot, Eng.: Edward Elgar, 1995), pp. 97-133; Alejandro A. Chafuen, Faith and Liberty: The Economic Thought of the Late Scholastics (Lexington Books: Lanham, Md, 2003).
[7] Oswald Spengler, Preussentum und Sozialismus (Munich: C. H. Beck [1919] 1921), p. 33.
[8] Paul Kennedy, The Rise of the Anglo-German Antagonism, 1860–1914 (London: Allen and Unwin, 1980), p. 152.
[9] Ralph Raico, Die Partei der Freiheit: Studien zur Geschichte desdeutschen Liberalism, (The Party of Freedom: Studies in the History of German Liberalism) tr. Jörg Guido Hülsmann (Stuttgart: Lucius and Lucius, 1999), p. 29から引用。
[10] Raico, Die Partei der Freiheit, p. 15を見よ。
[11] Leonard Krieger, The German Idea of Freedom: The History of a Political Tradition (Chicago: University of Chicago Press, 1972).
[12] Raico, Die Partei der Freiheit, pp. 19–20.
[13] Kurt Kloocke, Benjamin Constant. Une biographie intellectuelle (Geneva: Droz, 1984), p. 58.
[14] Raico, Die Partei der Freiheit, pp. 23–25とここに引用された文献を見よ。
[15] プリンス=スミスと彼の信奉者について、Raico, Die Partei der Freiheit, pp. 49–86と随所を、また同、“John Prince Smith and the German Free-Trade Movement,” in Walter Block and Liewellyn H. Rockwell, Jr., eds., Man, Economy, and Liberty: Essays in Honor of Murray N. Rothbard (Auburn, Ala: Ludwig von Mises Institute), pp. 341–351を見よ。
[16] ブリュッセルの位置するモリナリ研究所のウェブサイトwww.institutmolinari.orgを見よ。
[17] たとえば、Murray N. Rothbard, Power and Market: Government and the Economy (Menlo Park, Cal.,: Institute for Humane Studies, 1970)とHansHermann Hoppe, Democracy: The God that Failed. The Economics and Politics of Monarchy, Democracy, and Natural Order (New Brunswick, N. J.: Transaction Publishers, 2001)を見よ。
[18] Volker Hentschel, Die deutschen Freihändler und der volkswirtschafiliche Kongreß, 1859–1885 (Stuttgart: Klett, 1975)を見よ。
[19] Ludwig von Mises, Omnipotent Government: The Rise of the Total State and Total War (New Haven, Conn.: Yale University Press, 1944), pp. 19–45.
[20] Raico, Die Partei der Freiheit, pp. 77–86を見よ。
[21] Victor Leontovitch, Geschichte des Liberalismus in Russland (Frankfurt/Main: Klostermann, 1957), p. 142.
[22] Wolfgang Mommsen, Der europäische Imperialismus: Aufsätze und Abhandlungen (Göttingen: Vandenhoeck and Ruprecht, 1979), p. 167–168.
[23] Raico, Die Partei der Freiheit, pp. 87–151と随所、またRaico, “Eugen Richter and Late German Manchester Liberalism: A Reevalution,” Review of Austrian Economics, vol. 4, (1990), pp. 3–25.
[25] Raico, Die Partei der Freiheit, pp. 153–179を見よ。
[26] F A. Hayek, The Road to Serfdom (Chicago: University of Chicago Press, 1944), p. 174.
[27] エーリヒ・シュトライスラーのWie Liberal waren die Begründer der österreichischen Schule der Nationalökonomie? (Vienna: Carl Menger Institute, 1987), p. 24での洞察に富んだ所見を見よ、いわく「他の国では自由主義の星のめぐりが怪しかったとき、メンガーを通して、彼の学派が経済自由主義の大船になった。この学派は『失われた大義』を引き受けて、最悪の衰退期に――わけても戦間期に――自由主義を介抱したのである」。
(出典: mises.org)
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