英語圏経済学者によるバスティアの学派への無視
フレデリック・バスティアはフランス自由主義学派のメンバーであって、かかる学派は十九世紀の始めから一八八〇年代までフランスの経済学を徹底的に支配しており、第一次世界大戦前夜の直前まで強い知的影響を及ぼし続けていた。彼は学派の創始者ではなかったし、その最も深遠な理論家でもなければ、その経済理論の含意たるレッセフェールの最も一貫した擁護者ですらなかった。しかしながら彼はその政治経済学説の最も天才的な解説者であって、そのような人物として、その名をして当代英米経済学者に最大の認知を呼び起こし、その名でこの学派を連想せしめるような経済学者である。かくて私は「バスティアの学派」と称している。
私は以前の記事(Salerno 1988, pp. 113-56)で、フランス自由主義学派がフランスだけでなく、他の大陸諸国、わけてもイタリアとドイツとオーストリア、さらにアメリカとイギリスとオーストラリアの十九世紀経済理論の発達に及ぼした深い影響を詳述している。
本稿では、フランス自由主義学派に共感的ではなくとも精通しているヨーゼフ・シュンペーター、カール・プリーブラム、ペーター・グレーネヴェーゲンを含む幾人かの経済学者が、第一次世界大戦後の英米の経済学者と思想史家のほぼ完全な無視を説明する試みを批判した。彼らの説明は三つの主な主張に煮詰められる。第一に、創始者J・B・セーに続く学派指導者は容認学説の鮮やかな解説を生産したが、分析的革新を開始したり吸収したりすることができなかった。第二に、かかる学派は分析的不毛さの結果として、第一次世界大戦までの学説的に発酵した三十年間に限界主義観念の発達と普及に関与し損ねた。最後に、かかる学派は、社会主義に抗するのみならず、ほとんどあらゆる形態の政府の対経済干渉に抗するその非妥協的で徹底的な反対が、批評家をして過激レッセフェール自由主義の弁明者にすぎないと片付けさせてしまった。これが、十九世紀の純粋経済理論の発達のどんな評価とも関わらない単なる解説者とパンフレット屋としての自由主義経済学者のイメージを補強したのだ、と。
しかしながら私が先の記事で論じたとおり、これらの早期の説明は、ベーム=バヴェルク、カッセル、ヴィクセル、パレートのような著名な大陸限界主義者を含む十九世紀中の重要な経済理論家に対しての自由主義学派の影響範囲をすっかり認識し損ね、取り扱い損なっている。私の結論では、その経済理論の発達への貢献が認識されれば、
英米での自由主義学派の無視を当学派の分析的な不毛さや無関心で説明するシュンペーターら学者たちの試みは速やかに陥落する。代替的な説明はなされていないものの、研究の焦点を申し立て上の自由主義学派の分析的な短所から離し、自由主義的経済学の実質的な理論的内容に対する英語圏経済学者(のほぼ全員)の認知を妨げた制度的な要因の同定へとラディカルに移すことで、相当の進歩がなされてきている。(Salerno 1988, p. 143)
私は本論文では、先の記事に残したリサーチスレッドを拾い上げる。私は自由主義学派の技術的経済理論への貢献を英米の傾向あえて貶したり完全に無視したりする英米の傾向がフランスとイギリスとアメリカでの経済学の専門化に伴う独特の制度的発達から生じたものであると論じる。
最も重要なことに、フランス自由主義学派が十九世紀の第一~第三四半世紀に花開いた独特の非学界的境遇はフランス政府の一八七〇年代後半のラディカルな制度的変化によりほぼ一夜で大変革を起こされた。これらの変化はフランス中の新しく創造された非常に名高い大学教授職にライバル学派を安置し、フランス経済学を専門化しながら、主として非学界的な自由主義学派からその類まれなる知的権威を剥ぎ取っていった。これが自由主義学派とシャルル・ジド率いる自称「新学派」の間に激しく苦々しい学説上の紛争を引き起こした。皮肉にも、後者の学派はちっとも「新」ではなく、経済理論に対しなんら独創的な貢献は行わなかった。それはむしろ、自由主義経済学者のレッセフェール綱領を攻撃し、たとえ生産手段の完全な社会化ではないにせよ、政府の徹底的な対経済干渉を擁護するための理論的な武器として用いられていた穏健なドイツ歴史主義とイギリス古典派のアドホックな混ぜ物を急ごしらえしたのだった。
しかしながら論戦の真の本性は、新学派の信奉者、わけてもジドによって、一八八〇年代から一九二〇年代までにかけて、彼らの英訳された多様な書籍と、彼らが英語で発表した膨大な研究記事、記録、書評、死亡記事で、故意に歪曲されてきた。これらの出版物では、自由主義学派――あるいはこの文献で愚弄的にレッテル張りされたとおりに、「正統」学派や「楽観」学派――は、反動的だの、偏執的に社会主義と保護主義の弾圧を意図しており技術的経済理論の発達にはほとんど関心がないアマチュアのパンフレット屋と論争屋のイデオロギー的セクトだのと描写されていた。対照的にも新学派の方は、限界主義、歴史主義、数理経済学に代表される経済理論の新しい潮流に開かれた価値中立的な理論家のコスモポリタンな集団として特徴付けられていた。
本論文の第二節では、フランスでの関連する制度的および学説的な発達を詳述する。第三節と第四節は、この現代経済学発生期において、憤然たる学説上のライバルによる自由主義学者の特徴付けを英米経済学者に受け入れる気にさせた、イギリスとアメリカそれぞれでの制度的および学説的な発達を記述する。第五節は両新学派と自由主義経済学者の重要な英語出版物を評論し、いかにして彼らが自由主義学派への英米の態度に枢要な影響を与えたかを示す。
フランスでの状況
一八七八年まで、自由主義学派はフランスの正規の経済教育を、ひいては公共全体に経済観念を伝道するための主要機関を制していた。[1]
一八七八年以前には、フランス大学システムに経済学の正規教育はなかった。フランス大学はナポレオンに再構成されたとき、たった四つの学部、すなわち法学部、薬学部、科学部、文学部からなることになった。しかし大学システムの外には経済学の教授職が存在した。これらの職のうち第一の最も名誉ある席次は一八三一年にコレージュ・ド・フランスに制定され、セー、ペッレグリーノ・ロッシ、ミシェル・シュヴァリエ、シュヴァリエの養子たるポール・ルロワ=ボーリューによってかかる順に勤めらており、みな自由主義学派のメンバーであった。しかしながら、コレージュ・ド・フランスは基本的には儀式的な制度であって、公共に開かれた多様な学科の講義課程で構成されていた。規定的な生徒や形式的なカリキュラムはなかったし、試験は行われず、学位は与えられなかった。コレージュには後に経済学説史の職が設けられて、これがまずバスティアの弟子たるアンリ・ボードリヤールに与えら、同僚の自由主義経済学者エミール・ルヴァスールに後任された。
さまざまな工業学校と専門学校にも経済学教授は存在した。一八二〇年、雇用者と労働者に新しい技法と発明を習熟させるべくフランス革命期に始められた産業学校、工芸院に、産業経済学教授職が設けられた。[2]最初の教職保有者はまたもやセーであり、彼は自由主義経済学者のジェローム・ブランキに、ついで(改名された産業立法教授を)レオン・ウォロウスキーに後を継がれた。ブランキは工芸院でセーを後継する以前には商業高等学校で教職を勤めており、彼はここを離職する際に、自らの義兄の自由主義経済学者、ジョゼフ・ガルニエに後を継がせた。ガルニエは後に土木学校とトリュデーヌ通り商業学校で経済学を教えるよう兼務を任じられた。しかしながら、これらの全制度での経済教育は二次的な重要性のもので、実践的な関心に向きがちであり、ゆえに自由主義学派の観念と学説は主として多様な非学界的な組織と出版を通して普及されていた。
自由主義学派の知的中枢は、当時代のフランス人の知的生命にとって最も影響力ある制度、フランス学士院に位置していた。学士院は文名のフランス学士院を含む六つの部門あるいは「アカデミー」から成り立っていた。経済学は「道徳的および政治的な科学のアカデミー」の下位部門で、八人のメンバーからなり、彼らこそ自由主義学派の信奉者であった。
自由主義経済学の奨学金は学士院が毎年の論文競争で直接に助成し奨励しており、その勝者には気前のよい金銭的な賞金だけでなく、名誉ある学士院受賞者の肩書きもが授けられた。受賞者は、定期的な論文競争で提供される賞金と、この競争で認められた者には学士院のメンバーとの「コミュニケーション」の許可が与えられるだろうという最終的な見込みによって、自分たちの学識を促進するよう励まされていた。このコミュニケーションには道徳的および政治的な科学の会合において受賞者が口頭でプレゼンテーションを行うことが含まれていた。口頭プレゼンテーションは受賞者が彼の究極的な目標たる学士院の生涯メンバーシップに入ることへの立候補に進むためには不可欠な第一歩であった。
いわずもがな、自由主義経済学者による道徳的および政治的な科学アカデミーの総支配はその受賞者と候補者が自由主義学説に好ましげとなることを保障した。かくて、いつぞやに「不死の人」の席を占めたという名誉と影響は、エッセー著述の準定期的な所得で暫定的に維持されて、自由主義的な伝統における学者の募集と発達の力強い手立てとなった。
他にも幾つかの重要な制度が自由主義学派の影響力の向上と維持に役立った。一八四二年に創設された政治経済協会があり、その選挙メンバーはほぼ専ら自由主義経済学者とジャーナリストであった。自由主義学派はまた『経済学者ジュルナール』を支配していた。これは一八四一年に創刊された、世界初の経済学のジャーナルであり、一八七五年までフランスで唯一のそれであった。それは第一次世界大戦を通して三人の傑出した自由主義経済学者、ガルニエ、ギュスターヴ・ド・モリナリ、イブ・ギヨによってかかる順に編集された。イギリスの機関紙『エコノミスト』に影響されて、自由主義的な視野から経済問題を見る一般人の評論誌『フランス経済学者』が一八七三年に、後年の自由主義学派の最も著名な理論家たるルロワ=ボーリューの久しい編集の下で出版され始めた。
ギョーマン書房はフランスでの当時最大の経済書籍出版社であった。これはほぼ専ら自由主義志向の作品のみを出版しており、また、大志を抱いた自由主義経済学者を編集者に雇うことで、彼らに訓練の基盤と収入の源泉として尽くしていた。かかる書房は名目的には二人の姉妹に経営されていたけれども、出版所の財政事情は指導的な自由主義経済学者の暗黙の提携にコントロールされていたようだ。ギョーマン書房の押印を担う最も影響力の大きい出版物は『政治経済辞書』であり、二人の自由主義経済学者、シャルル・コクランとガルニエの編集の下で一八五二年から一八五三年まで出版された。一八九〇年から一八九二年までは改定版の『新政治経済辞書』が同出版社に発表されており、その編集者の一人はジャン=バティスト・セーの孫にして公認の自由主義経済学者かつ著名な財政為政者たるレオン・セーであった。
フランス経済学界での自由主義学派の優勢な制度的立場にもかかわらず、自由主義学派はフランス経済学界での制度的に優勢な立場にもかかわらず、その権威の高みにおいてさえ、彼らの学説が多方面からの反対に直面することになった。実際、かかる学派の揺るぎなく鳴り響くレッセフェール政策の支持はフランス社会の幅広いスペクトルのイデオロギー的派閥と特別利益集団からの憤然たる敵対をつねに引き起こしていた。自由主義学派に到底共感的ではなかった同時代の観察者たるジドが書き留めたとおり、「宗教的信念、革命的不穏、物質的利害、哲学的思索――すべてが〔自由主義学派に〕敵対すべく結託したようだ。……自由主義学派は誕生以来、いうなれば、旧体制の保守主義者と社会主義者と保護主義者に対しての闘争が義務付けられていたのである」(Gide 1890, p. 629)。
けれどもほとんどの部分にかけて、かかる学派の権威に対するそのような挑戦は経済政策の領域に限られており、経済理論の分野では、かかる学派の優位は一八七〇年代後半まで疑問の余地なきまま残っていた。一八七八年、かかる学派の経済教育研究での制度的優越性を簒奪するに直接に至いたところの、フランス大学システム改革が生じた。その重大な出来事とは、フランス政府が法学部各位に経済学教授職を設立したことであった。
自由主義経済学者は長らくフランス大学での経済教育の不足に遺憾を表してきた。たとえばシュヴァリエは一八五九年に次のとおり嘆いている。
我々はフランスが、ヨーロッパの、あるいはキリスト教圏のすべての国々で、経済学が最も教えられていない国であると知っている。たった二つしか教授の職がない。一つは公共の、コレージュ・ド・フランスのものであり、もう一つは労働局の学校に付属する役人向けの特別教室に限られている。ヨーロッパにせよアメリカにせよ、他ではどこでも、各大学には少なくとも一つの経済学の教職があり、これは、ロシアでもイギリスでも、プロイセンでもスペインでも、等しく見つけられるだろう。小さなポルトガル王国も、経済学の教授を三人サポートしている。(Chevalier 1859, pp. 10-11 fn.)
レオン・ワルラスもまた、決定的に反自由主義的な視座から「経済学に関するかぎり、科学的背景は非常に惨めであった。フランス全土において、大志を抱いたがために赴くべきところはほとんど〔原文ママ〕なかった。アカデミーのメンバーとしてはほんの三つの教授の職と八つの席しかなく、これらのポストはすべて正統学派〔すなわち自由主義学派〕の堅い手中にあった」(Alcouffe 1989, p. 330から引用)と記し、フランス学会での経済学者の機会の欠如について苦々しげに不満を述べていた。
一八六三年、自由主義学派の代表者は、ナポレオン三世の公教育大臣たるヴィクトール・デュリュイの政府に、フランスの各法学部に経済学の教授職を設けるよう嘆願した。穏健な自由主義的改革者と自由主義学派の共感者だったデュリュイへの反応として、パリの法学部に教職を制定したが、フランス帝国の法学部すべてに教授職を設けるには資金が欠けていた。そのうえデュリュイの伝記作家の一人によると、デュリュイはこれを法教育の最も重要な改革と考えていた。なぜならば、「これは一八四八年にかくも多くの物事を攻撃したユートピアンの危険な夢に対する若者の予防接種を助けるような学界の学説を導入した」(Horvath-Peterson 1984, p. 188)からだ、と。
自由主義学派にとっては残念ながら、デュリュイの改革の思いもよらぬ影響についての彼の評価は真理とは程遠いものであった。というのも、以下で分かるとおり、かかる改革は社会主義の病原菌に対する法職の予防接種ではなく、経済職へのドイツ歴史主義の摂取感染の蔓延を助け、自由主義的経済理論の制度的基盤そのものを掘り崩し、かくて社会主義に対する防波堤としての働きとは程遠かったのである。かくして自身の政治経済原理と露骨に矛盾しながら知覚上の教育的問題への国家解決を長く激しく遊説していた自由主義学派は自爆の火をつけたのだった。
デュリュイは一八六九年に免職されたが、一八七七年三月に、政府はフランスの十三の法学部それぞれで経済学が教えられるよう命令し、全学生に経済過程を履修する義務が負わせられた。この改革の実行が顕著になったとき、自由主義学派は新設の教授職に立候補を指名し始めた。しかしながら、かかる学派は自分たちの零落を示す一つの重要な細目を見過ごしてしまっていた。大学の規則には、法学部の教職に就けるのは、法の教授資格を有する者、つまりアグレジェ・アン・ドロワのみとされていたのである。アグレガシオン・ド・ドロワの資格は法学部で授与される最高の資格であって、一連の試験(コンクール・ド・ラグレガシオン)の用意として専らローマ法とフランス法に没頭して博士号を得た後二年か三年の研究が要求された。
自由主義的な立候補者の一人もアグレジェではなかったし、ほんの二人か三人しかdocteurs en droitはおらず、彼らはまれな事例として法学部で教職に付くことを許された。したがって、新たな教職のほとんどは、概して経済学教育をまったく受けていない行政法と商法の教授たち、弁護士と法律家に与えられた。これらの人々は法学での訓練のせいで、経済学に慣れることになったとき、ドイツ歴史学派に提唱されるものに与して、自由主義学派に支持される方法と理論と政策を拒絶する方に向かっていった。
これら法学部経済学者のうち最も目立った人物たるジド(1890, p. 631)は、この要因につて、率直で有無を言わせない説明を行った。
彼らの法学わけてもローマ法学が彼らを、ドイツのローマ文献と特にサヴィニーを最も著名な代表者とする歴史法学派に馴染ませた。したがって彼らは自ずとドイツ経済文献を参照しがちになり、経済学に適用される方法として同じように歴史的方法を理解し承認する傾向があった……。そのうえ……十年かけて真剣に法律を研究した若者は自ずと立法の役職の重要性を誇張するようになった。法律は少ないほど良いだの、とにかく法律がないのが最善であるだのという自由主義学派の原理を彼が容認する向きはほとんどなくなった。弁護士はレッセフェールの学説に喜ぶ傾向がなかった。それは彼の思考様式に対して必然的に反感を持つものだが、おそらく他のどこよりもフランスの歴史で確然と、弁護士は政府の自然な支持者であったし、ましてや或る意味では現代国家の創始者の自然な支持者なのであった……。かくて法学部経済学の新教授は、彼らの知的訓練によって、さらには彼らの職業によって、自由主義学派のそれとは反対の道へと引き込まれたのである。
したがって政治の領域では、ほんの少人数しか自由主義学説を信奉していなかったが、「法学部経済学者の多数派は講談上の社会主義者と呼ばれていたドイツ人の教授と同じ程度に『干渉主義者』と見なされなければならない」(Gide 1907, p. 201)。
要するに、学説史の最も注目すべきエピソードの一つにおいて、有名な大学の教授席に安定的に収容されたメンバーを有し、フランス政府と社会で影響力ある立場を占めるよう運命付けられた法学部生徒五、六千人の強力なビルトイン支援団体を擁する代替的な学派が、突然成熟した形で活動し始めたのである。かかる学派の影響力は経済教育課程が年一回の講習から既存の法学学位にも匹敵する完全な博士号プログラムへと拡張されることで後に大いに拡大された。
いわずもがな、ほとんど最初から、論理演繹主義的レッセフェール「学士院経済学者」と歴史主義的干渉主義的「法学部経済学者」の関係は表立った激しい敵対であった。最初の一撃を放ったのは有名なパリ法学部の経済学教授ポール・コーウェである。彼は一八七八年から一八八〇年まで出版された彼の二巻の講義で、経済学の自然法の存在を否定し、フリードリヒ・リストの保護主義システムを提示した。かかる挑戦に対し、自由主義学派は『経済学者ジャーナル』上の猛烈な攻撃で応酬し、噂によると、この著者をその教職から追放しようとすら試みたらしい。
一八八三年、国際的に認知された異端の法学部経済学者集団の指導者兼主要代弁者になった者、ジドは、『経済学原理』を出版し、これがフランスで二十版以上を重ねることとなった。[3]概して彼が「現実主義」学派とあだ名するドイツ歴史学派に共感的でありつつも、ジドは演繹的方法と普遍妥当的経済法則の研究の正当性をも肯定する折衷主義者であった。しかしながら重要な政策の分野では、ジドは自由主義学派の処方箋とはラディカルに異なっていた。土地私有財産の合法性に疑問を呈し、所得税を支持し、「連帯主義」あるいは強調的生産システムによる賃金システムと競争の交換を期待していた。[4]彼は創設していった。言うまでもないが、自由主義経済学者はジドの政治経済的な学説と活動に愕然とし、彼の学士院への選任を否定することに成功した(Rist 1932, p. 337)。
ジドは一八八七年に専門的経済ジャーナル『経済学レビュー』の創刊に取り掛かることで反撃し、その編集者と寄稿者には法学部経済学者全員が含まれていた。かかる『ジャーナル』はその創刊者によって鋭くも「楽観的自由主義学派の学説に対する公然たる反動と、外国わけてもドイツ経済学派の布教を計画する、法学部経済学教授のオルガン」と記述された(Gide 1907, p. 201)。当然、両学派間が「決裂を完成させた」のはこの出来事であった。
新学派にとって、『レビュー』の創刊と、これに続く論文の未曾有の国際的な呼びかけは、「虫食いだらけの経済的な知識を精力的に拭い去り、かび臭い雰囲気を一新すべく扉と窓を大きく開き、たくさんの日光と澄んだ空気を世界各国から取り入れる、衛生的な浄化の仕事」にあたるものであった(Gide 1890, p. 633)。驚くことではないが、自由主義学派はこの節目をかなり別様に解釈していた。彼らの視座からは、新ジャーナルはドイツ歴史主義者と講談社会主義者の観念を土の合わないフランスの知的環境に移植するという下手な考えのジレッタントな努力であった。ドイツ系の帰化フランス市民にしてドイツ歴史主義に関する自由主義的権威者であるモーリス・ブロックは、一八九三年の著述で、『レビュー』の創刊に手厳しい所見を述べていた。
ジド氏と彼の同僚は……彼ら自身の評論誌を創刊したが、その維持に悩み、外国の経済学者、わけてもドイツ人の著述家に助けを求めた。彼らは本当に、彼ら自身とはかくも異なる人々の精神に浸透するために、シュモラーやブレンターノ、あるいは他のわずかばかりの人々の思考をときどきほんの少し読めば十分だろうと思っているのか? だとしたら私は彼らを哀れむ。無駄骨を折っているものだ、と。(Block 1893, p. 28)
ブロックはジドを、彼のドイツの知識の欠如に言及しながら、特にそのジレッタンティズムのかどで窘めていた。いわく、「ジド氏は講談社会主義者のように話すが、彼らの学説をうまく知ることができていない。というのも、彼はドイツ語を知らないにせよ、それ以上に、かの学説は恒常的に変更されているからである」(Block 1893, pp. 24-25)。
ジドとブロック二人のこれら興奮した論戦は反体制ジャーナル創刊から第一次世界大戦まで二つの学派の間に存在した恨み骨髄の関係性を例証している。それが論争的になるにつれて自由主義学派は良い議論を出していったけれども、法学部経済学者への制度的権力のラディカルな移動ゆえに、その日はフランス経済学について考慮さるべき一日に数え入れられる。一九〇七年までには、ジド(1907, p. 199)は「法学部は経済教育をほぼ独占している。……経済学やこれと同根の研究は四十人の教授によって八千人の生徒に教えられており、彼らはみな将来の法廷弁護士、治安判事、公務員、議員、教授である」と自慢できるようになっていた。
フランス自体での経済学「専門化」の結果としてのフランス自由主義学派の制度的解体はかかる学派が新古典派英米経済学者の手で深刻な無視を被るようになったわけの完全な説明における一つの構成要素にすぎない。他の説明要素はかかる四半世紀または限界革命に続いてイギリスとアメリカの経済学で生じた学説的および制度的な大激動に存する。これらの要素が一緒になって、英語圏経済学者による闘争中のフランス学派の争点の目に余る誤解釈へと導いたのである。
イギリスでの状況
一八六〇年代後半までには、重苦しいリカード正統派はイギリス経済学での牽引力を失い始めていた。ジョン・マホニー(1991, p. 8)が状況を要約したとおり、「経済学者は五年(1869-1874)の間に、古典正統派に対するソーントンの主な攻撃、ミルの労働賃金説放棄、ラスキンのペンが繰り出す罵詈雑言の新たな高み、ジェヴォンズの『経済学の理論』の出版、演繹的経済学に対するクリフ・レズリーの強襲、ミルとケアンズの逝去を受け入れなければならなかった」。同様にしてハチスン(1973, pp. 185-86)は、「リカード‐ミルの理論システムは……六十年代後半と七十年代前半のほんの数年で、イギリスでのその優勢のいかに長く権威的だったかを鑑みるに、驚くべき唐突さと急速さでその信頼性と自信の失墜を経験した」と書き留めた。
古典派時代、J・R・マカロックとJ・E・ケアンズのような著名なリカード派は、自由主義学派の価値価格理論への主観的効用アプローチを非科学的と特徴付けており、その理論的努力はレッセフェール政策の結論を正当化する欲望で汚染されているとすら仄めかしてきた(Salerno 1988, pp. 114-15)。しかし、セーとバスティアを含む多様な自由主義経済学者の名誉を限界革命の重要な先駆者として回復しようとするジェヴォンズの英雄的な努力にもかかわらず、リカード派の経済学の腐敗とこれに続く二十年や学説的な荒廃は、自由主義学派の貢献への評価をイギリスで高めはしなかった。[5]
この点でのジェヴォンズの失敗には二つの理由があった。第一に、ジェヴォンズの純粋版の限界主義はイギリスで広く受け入れられはせず、限界主義の観念はアルフレッド・マーシャルの一八九〇年の『経済学原理』の出版をもって少しずつの嫌々ながらの容認を得始めたのだった。一八七〇年代初期の古典派崩壊とマーシャル新古典正統派の発生の間の空位期間に、オーギュスト・コントとドイツ歴史学派に影響されたイギリス歴史主義運動が発生しており、その支持者は抽象的経済理論の誇張的な主張と自ら考えたものに対してひどく批判的であった。[6]かくてロビンズ卿(1970. p. 171)によると、この期間に目立った歴史主義者の一人たるアイルランド人経済学者のクリフ・レズリーは「長い演繹的推理の鎖を大いに疑わしいと見なしていた。これが重要な傾向の典型であったことは疑いえない。当時最も活発な知識人の幾人かは理論に不信を抱き始めたり、理論に関心を失ったりしていた……」。[7]
実は、理論に関して歴史主義者が最も不信を抱いていたのは、イギリス古典学派よりフランス自由主義学派がかなりの確実性をもって留保少なく行っていた主張、普遍的妥当性の主張であった。たとえばミルは、経済学の定理や法則の妥当性は仮説的でしかないし、併発する「撹乱要因」と非経済的動機の作用に依存する、と譲歩していた。対照的にもバスティア(1964, p. 27)は、経済法則は絶対的に明証で異論の予知なき現実の事実から、すなわち「自己利益が人間本性の原動力である」ことから演繹可能であると論じている。いわく、「ここではこの言葉が、人間の本性から結果する、論争の余地なき普遍的な事実を指すよう用いられており、自分勝手という言葉のような批判的な判断ではないことは明瞭に理解されるに違いない」(1991, p. 43)。言い換えれば、バスティア(1991, p. 43)としては、経済理論の真理は「個人的利益の不断の切望は、満足を通すことで、必要を、あるいはもっと一般的にいえば、欲望を和らげることである」という自明な命題の真理から導出されるのである。バスティア(1964, p. 174)によれば、経済法則は歴史的環境に関わらず容赦なく作用する。「経済法則は、大勢の人々にされようと、または二人の個人に適用されようと、孤立した環境で生きるよう強いられた孤立的個人に適用されたときでさえ、同一原理に応じて作用する」。
さらに経済政策でも、国内市場ならび対外貿易での政府干渉に対し概して好意を抱いていたイギリス歴史主義者たちは、またもやバスティアの見解よりミルの見解の方をはるかに快く見ていた。[8]ミルはレッセフェールの原則が「自然法則ではなくて、経験と便宜に順応する実用規則であり、それらのように柔軟である」(Spiegel 1991, p. 392)と確認しているのに対し、バスティア(1964, p. 239)は財産権の厳格施行を超えた経済敵領域での立法と政府行為がすべて「法律を個人や階級のための略奪の道具になる」と主張した。要するにバスティアとしては、財産〔ラ・プロプリエテ〕の政治経済的代案は、略奪〔ラ・スポリアシオン〕だったのである。
合法的略奪の道具としての国家の潜在的利用を鑑みて、バスティア(1991, pp. 40-41)は国家が硬性の狭く限定された境界内に保たれなければならないと論じていた。
国家はつねに実力の手段で行為しており、そのサービスを押し付けて、その対価を税の形で支払わざるをえないようなサービスを決定している。そしたら問題はこのようにまとめられる。すなわち、人々は実力によって同胞に対し、どんな種類の物事を押し付ける権利があるだろうか、である。私は誰かを宗教的、慈善的、博学、または勤勉であるよう強いる権利をもたない。しかし私は彼に……正義を強いる権利はもっている。まさしく政府行為が実力依存を含意するため、そのような行為は本質的に、秩序と安全と正義を維持することに制限されなければならないのである。
しかしながら、イギリスでのそれ以降の歴史主義の衰退と限界主義の遅すぎる受容に際しても、なおイギリス人経済学者が主観価値的自由主義学派を共感的に聞き入れる余裕はなかった。その理由は、マーシャルが普及させた限界主義と古典派経済学の大総合が、メンガーらオーストリア派の限界主義から主観価値要素を最小化し、リカード派経済学の汚名を返上するよう尽くしたことである。一八七〇年代と八〇年代のジェヴォンズ派と歴史主義者の氾濫を含む「やや混乱した空位期間」(1973, p. 185)、とハチスンに称されたものは、「マーシャルに着手された」古典派の概念と用語法の「ある種敬虔なる反革命的復古」に続いていった。[9]マーシャル版の水割りされた限界主義がイギリス人経済学者を捕らえ始めたときまでには、強硬に反リカード的なジェヴォンズはすでに舞台から去っており、非学界的な無名のうちに働いていたフィリップ・ウィックスティードを別にすれば、語るに足るジェヴォンズ学派はいなくなっていた。[10]
前マーシャル空位期間に多作だった、もう一人の反古典派経済学者にして主観価値論者であった人物は、ヘンリー・ダニング・マクロードである。マクロード()はバスティアと彼のアメリカでの弟子たるアーサー・レイサム・ペリーに深い影響を受けており、前者を「これまで経済科学を引き立ててきた人々の中で最も聡明なる天才」と記述している。不幸にも、マクロードの前限界主義的洞察と、古典派経済学への鋭敏な批判にもかかわらず、彼の非常に論争的なスタイル、学会での地位の欠如、そして――ジェヴォンズの方は親近を認識していたが――マクロードはジェヴォンズを同類の精神と認識し損ねたせいで、これらが組み合わさることで同時代のイギリス人経済学者は彼の貢献を無視することになってしまった(Salerno 1988, pp. 129-32; Maloney 1991, pp. 120-32)。
したがって、リカードおよび後のマカロックとケアンズのような古典派の大家がフランス自由主義学派に呈した拒否的な島国根性の態度はイギリス新古典派に吹き込まれる重要な学説的潮流の一つになった(Salerno 1988, pp. 114-16)。S・G・チェックランドに要約されたとおりのケアンズの見解(Hutchison 1973, p. 177, fn. 1から引用)はイギリス古典派の一般的な態度を反映していた。「ケアンズは、経済学が本質的にイギリスのビジネスであることと、同時代のフランスとドイツの観念が少しも注意に値しないことを疑っていなかった」。マーシャル自身はフランス人とドイツ人の経済学者たちを認めていたけれども、彼らは固定的賃金基金説に賛成しないので「概して言えばイギリス人より良くやってはいなかった」らしい(Hutchinson 1973, p. 179-180 fn. 3から引用)。
マーシャルもまたバスティアをもう無用といわんばかりに「分かりやすい著述家だが深い思想家ではない」と特徴付け、バスティアの厚生分析のレッセフェールな含意を「競争の影響下での自然社会組織は実践的に有効たりうるうちのみならず理論的に考えられうるうちですら最善とする行き過ぎた学説」と称した(Marshall 1977, p. 631, fn. 1)。[11]かくて、自由主義学派に対するリカード学派のこの高慢にも拒否的な態度 は、一八九〇年以降のイギリス経済学者の専門教育を速やかに支配するに至ったマーシャルの学説上の正統派に組み込まれることになったのである。
アメリカでの状況
かかる雰囲気は限界革命後のアメリカ経済学職でフランス自由主義学派に下された評価の方に一層伝道的であったように思われる。とりわけ、リカード派の観念が手始めに堅固な足場を得ることはできなかったし、ジェファーソンとジェファーソン派ジャクソン派政治経済学者の見解はセーとフランスのイデオローグ兼自由主義者たるデスチュ・ド・トラシーの著述によって形成されていた。そのうえ、バスティアに触発されてアマサ・ウォーカーとアーサー・レイサム・ペリーに率いられたアメリカの交易論的伝統が南北戦争後の優勢な学説的潮流となり、金ぴか時代の大部分にかけてアメリカ合衆国の大学での経済学教育と通俗的文献と教科書を支配した。かたやウォーカーの教科書(1969; 1875)は一八六六年に初出版されて八版を重ね、学生版で四版以上を出したし、かたやペリーの論考(Perry 1883)も最初は一八六六年に出版されて一八九一年までには二十二版を重ね、一八七六年にはスミスの『国富論』とミルの『原理』に次ぎ政治経済学のベストセラー書の第三位に格付けられた。一八七七年には、ペリー(1877, p. 6)はその「より特別な目標を、高校、学会及び大学のための教科書とすべき」主題のプライマーを出版し、一八九一年には第五版を重ねている。[12]一八七三年には、フランス人小説家兼自由主義者のエドモン・アブー(1873)が特に労働者のために著した経済学のハンドブックが大手出版会社のインプリントの下で英訳され、今日の古本屋での初版の入手可能性で判断するに、どうやら広い流通を成し遂げたようだ。
最初の三四半世紀を通してのアメリカ経済思想での形成期の持続的な影響力にもかかわらず、フランス自由主義学派は後のその科学的功績の認識に対して不利に働く強い力に直面した。何よりもまず、経済学は道徳科学と分離してハーバートとエールで独立的な経済教授職が(それぞれ一八七一年と一八七二年に)設立される一八七〇年代早期までアメリカでの職業的な学科にはならなかったという事実があった。チャールズ・F・ダンバーはハーバートで教授に任命され、アマサの息子たるフランシス・A・ウォーカーはエールでの任命を受けた(Ross, p. 77)。また一八七二年には、ウィリアム・グラハム・サムナーがエールで政治及び社会科学の教授に任命され、彼の著述と教育の大部分を経済学に捧げに取り掛かった。経済学の学界的専門家が合衆国で育つにつれて、早期のアメリカ人経済学著述家はアマチュアとジレッタントとしてますます忌避されていった。この尊大な態度は、早期限界主義者フランク・A・フェッターの言葉で「経済学において彼らはみな自学のアマチュアであって、いわば、この分野でたまたまうろちょろしていた人物であった」と要約された(Bell 1953, pp. 503-504から引用)。
この要素はアメリカ市民戦争後におけるリカード・ミル学派の遅ればせながらの発達でさらに酷くなっており、この発達は穏健なドイツ歴史主義の要素を取り入れることで古典派経済理論をアメリカの状況に馴染ませながらこれを生き返らせようと試みていた。この学説的運動は上述のとおりハーバートの最初の経済教授を請け負ったダンバーに着手された。ダンバー(1876)は、影響力ある『北アメリカ・レビュー』に掲載された彼の「アメリカにおける経済科学、一七七六年~一八七六年」という記事で自分の構想を紹介した。かかる記事の実に最初の段落から、ダンバー(1876, p. 124)はイギリス古典学派への忠誠を宣言しており、いわく、
かかる経済学者は、アダム・スミスによって初めて今日のように深く固く築かれたその科学の基礎を発見し、それ以来この仕事を前に推し進めてきた偉大な人々は彼の追随者を自認してきており、かかる科学を発達させ拡大させる際に、彼が一世紀前にそのような活力と洞察で築き上げた議論の線に保ってきた。
ダンバー(1876, p. 124)はイギリスでの経済科学の発達の優位にもかかわらず「経済的議論の関心の中心地は……今ではおそらくドイツである」と主張することで彼の歴史主義的な偏りを露呈していった。
ダンバーのバスティアに対する態度は、もっと上品ぶった形でとはいえ、バスティアが剽窃を犯したと根拠も無く非難するヘンリー・キャリーの繰り言が反映されており、いわく「バスティアはキャリーの価値法則を借りて輝かしい言い換えで提示しただけではなく、経済世界の調和を熱心に探求することを通してキャリーの影響を示してもいるようだ」(1876, p. 138)。ダンバー(1876, p. 131)はもっと前のアメリカ人経済学者について、フランス系自由主義者ジェファーソンを非好意的にもイギリス系重商主義者アレクサンダー・ハミルトンの政治経済の「主題の熟達」と比較することで始めた。ダンバー(1876, p. 136)はまたウォーカーとペリーの論考を「マニュアル」としては優れているが「オリジナルの思想声明としてはほとんど関心をもたれていない」と愚弄した。対照的にも、一八三七年に初出版されたが金ぴか時代の間にも大学の教室で広く使われていたフランシス・ウェイランドの教科書は、市民戦争以前の「我々の時代まで生き残ったと言える唯一の論考〔であり〕、これは何であれその価値を、イギリスの指導的な学説の幾つかを容易に理解できるように提示する仕方に負っていると認められなければならない」としてダンバー(1876, p. 135)からの控えめな賞賛を浴びている。ダンバー(p. 137, 140)がスミス『国富論』以来のかの世紀における政治経済へのアメリカ人の貢献を評価して結論するには、
かかる科学の発達への公認の貢献は、フランス人の著述家〔すなわち、フィジオクラート〕がなしたそれやドイツ人が今なしているそれと比べたら、どうあっても示されることができない。……事例の冷静な調査が公正な調査人を導く先の一般的な結果は、我々が信じるところでは、アメリカ合衆国は政治経済理論を発展させるには程遠かった、というものだ。
その十年後、あるいは若者集団ともっとラディカルなドイツ学びのアメリカ人経済学者によるアメリカ経済協会の結成から一年後に、ダンバー(1886)は経済学での増大中の歴史主義運動に関する「経済学における反動」という記事を出版した。彼はイギリス古典派経済学での過剰な抽象的理論化に対するこの歴史主義的な反動が健全であり経済科学のもっと現実主義的な方向への自然な発達に当たると論じた。ダンバーが記すには(1886, pp. 26-27)、
そしたらかかる新運動は、全体的には経済学の基盤を明快に一掃して世界に新経済学を与えるための革命とする熱情的な代表者に代表されるけれども、実際には時期尚早にもその発展を阻害していた傾向に対する強い反動の影響の下における既存の科学の発達なのである……。現在のそのような運動は経済現象に存する不調和な動機の迷宮に道を引くから、リカードとミルの方法が最善であり唯一確実な方法ですらあるといまだに信じているような我々によって嫉妬深い目つきで見られる必要はないとも言える。
このリカード古典派と穏健歴史主義の未遂の総合はアメリカでの政治経済学の最初の教授職の、他の二人の占拠者たる、ウィリアム・グラハム・サムナーとフランシス・アマサ・ウォーカーによっても促されていた。サムナーの経済学での関心はまずハリエット・マルティノーの通俗的なリカード派入門書『経済学図解』を読むことで刺激され、「この主題に関する彼の見解は完全に正統派の一変種であった」(Fine 1976, p. 80)。[13]サムナーは教師としては、「最後の偉大な古典派経済学者たるジョン・E・ケアンズに築き上げられた方法論」を信奉していた。にもかかわらず、ゲッティンゲンで哲学を訓練されて、彼はドイツ歴史学派に好意的に影響され、「経済学は演繹科学として良い進歩を成し遂げたが、これからは遅かろうとも一層確実な帰納の方法を採用しなければならないと信じていた」(Ross 1991, p. 80)。サムナー(1924; [1881] 1992)はついに、リカードの賃金法則と結合したマルサスの人口法則を、社会進化・経済進化の原動力と考えたのだった。[14]
ウォーカーが父アマサの自由主義志向の経済論考の一八六六年出版を準備しするのを手伝ったことも、一人格的にも父の友人であり同様にバスティアの弟子であるアーサー・レイサム・ペリーに影響されていたことも事実である。若いころのウォーカーの後に経済学の著作物は彼がこれら形成期の影響からフランス自由主義学説をかなり吸収していたと暴露していることもまた真実である(Salerno 1988, pp. 138-140)。にもかかわらず、ウォーカーは一八八〇年代においてリカード古典派に穏健な歴史主義を統合することで古典学派に新たな生命を吹き込む運動の最も影響力ある提唱者の一人として台頭したのだった。
たとえば一八八三年、ウォーカーは『土地とその地代』を出版したが、その大部分はリカード派の賃金理論をその批評家から精力的に擁護することに携わっていた。実際かかる本の序文では、ウォーカー(1883, p. 5)は賃金の理論に関して自分が「リカード派もリカード派であり、地代の経済学説に彼の名を冠したかの偉大な思想家は彼の追随者がすべきことをほとんど残さなかったし、彼が述べた考え方からの大きく逸脱することは混乱と誤りしか生み出すことができない、と考えている」と言い張った。そのうえ、ウォーカーが反論した三人の批評家のうち二人はフランス自由主義経済学者であり、同時代の自由主義学派の指導的理論家たるバスティアとルロワ=ボーリューであった。特にバスティアはきわめて厳しい徹底的な批判を受けた。かくて、ウォーカー(1883, p. v)は序文において、「土地に適用されるにせよ商業的な生産物に適用されるにせよ、バスティアの価値論に関する平易な事実が、イギリスではケアンズ教授に述べられたように、海のこちら側でも公然と語られなければならないときが来ているようだ。……〔バスティアは〕建設的な経済学者としては完全に失敗しており、土地に関する彼の見解は特に間違っている」との宣告をも行っている。ウォーカーは後の小冊子(1883, pp. 60-61)で、「機知に富み、巧妙で、雄弁なフランス人が、雄弁で、巧妙で、機知に富んだフランス人に可能なかぎり酷く間違えているものに関する、価値と土地に関するバスティアの見解」と嫌味な言及を行った。ウォーカー(1883, p. 68)はまた「この輝けるパンフレット屋の、土地と地代に関する問題を扱う際のまったき無能」をも宣言したのだった。
ウォーカー(1888, p. 1)は古典的な政治経済の定義をずばり「富に関する大量の知識の名」言明することで、一八八三年初出の論考『経済学』を始めた。[15]ウォーカーは引き続いて二つの経済学派を同定し、それぞれを「イギリス学派」と「ドイツ学派」と称するが、彼自身精通しているフランス自由主義学派の学説を完全に無視している。ウォーカー(1888, pp. 11-12)によると、イギリス学派とドイツ学派の経済学者の違いは経済学者が富の生産と分配に影響する諸原因を推敲する際に立脚すべき「前提の適切な範囲」に関する不同意に帰せられる。イギリス人経済学者は「人間本性、人間社会、地球の物理的構成に関する少数の確実な事実」で始めるのに対し、かたやドイツ人経済学者は「富の生産と分配に影響するものに経済学者が無視していいものはない」から「全人類史が彼の領域になる」。しかしながらウォーカーは二つの学派の方法が補完的であり、完全に発達した経済科学を生み出すためには両者が二人三脚で用いられなければならないと論じる。ウォーカーが言うには(1888, pp. 16-17)、
両学派が抱いた相互軽蔑は、過去の経済学の進歩に関する大きな見解でも、他の社会科学の歴史に関する考慮でも正当化されない。経済学はリカードの方法で始まるべきだ。二、三個の単純な仮定、生産の過程、富の交換と分配が描かれて、まとまって完全なシステムを生み出すべきものであり、これは純粋経済学や、恣意的経済学や、先験的経済学や、その最も偉大な教師の名でリカード派経済学と呼んでもいい。そのような体系が全経済的推理の骨格を構成すべきであるが、この精気のない枠組みの上に、実際の生き生きとした経済の血と肉が負わせられなければならず、これは人々の共感、無関心、反感をもち、生命として発達した全器官をもち、十全たる運動と感情の全神経をもった、人々と社会をそれそのものとして説明する。[16]
ウォーカー(Dorfman 1969, p. 107から引用)がもっと簡潔に記すには、「ドイツ、イタリア、ベルギーおよびフランスの〔歴史主義〕経済学者はアダム・スミスが始めた仕事を彼の精神に則って、しかしもっと大なる機会ともっと広い、広がりゆく見解をもって続けているのである」。
サムナーとダンバーとウォーカーは、彼らの教育と著述を、そして専門的および偏執的な活動をとおして、十九世紀最終四半期にかけてアメリカ経済理論の発達へ優越的な影響を及ぼした。ウォーカーはこの期間の指導的なアメリカ人経済理論家であり国際的な名声を得た最初の人物であった。彼の一般論考はすぐさま大学の基礎経済課程で最も広く用いられたテキストになり、かかる世紀の終わりまでそのままであり続けた(Newton 1968, p. 12)。これは、一八八〇年代オックスフォード大学の教室での指導的テキストたるヘンリー・フォーセットの『経済学』にさえ挑戦した(Mitchell 1969, p. 226, fn. 16)。一八七八年に出版された彼の『貨幣』論考は「W・スタンレー・ジェヴォンズの『貨幣と交換メカニズム』とともに少なくとも次の四半世紀まで英語圏において貨幣に関する標準的な作品となった」(Newton 1968, p. 11)。
ウォーカーはまた一八八三年から一八九七年までアメリカ統計学会の会長を、そして一八八五年から一八九二年までアメリカ経済学会の会長を務めた(Newton 1968, p. 13)。
ハーバードに経済学部を創設したダンバーは『経済学季刊』の創刊者兼編集者であり、彼の本『銀行の理論と歴史』は「アメリカでと同様にイギリスでの影響力があった」(Mitchell 1969, pp. 227, 229)。サムナーは金ぴか時代の最も著名なアメリカ人社会理論家だっただけではなく、また傑出した教師でもあって、歴史家ハリー・エルマー・バーンズの評価では(Fine 1976, p. 80から引用)、「おそらくエール大学やアメリカの社会科学が生み出した教師の中で最も人に刺激を与えるような大衆的な教師であった。
しかしながら、この第一世代の専業経済学者がアメリカ経済学の理論的発展を形成する際の最も大きな影響力は彼らの授業を通して行使された。というのも、彼らはちょっとの限界主義を伴う古典派経済学と歴史経済学の総合を活気付けた優秀な第二世代のアメリカ人理論家を育成したのであり、一九三〇年代まで優勢な教科書になったのはこの代替的でアメリカ固有種の新古典派だったのである。ジョゼフ・ドーフマンに「若い伝統主義者」と称された人々は最も有名なところでフランク・W・タウシッグとアーサー・T・ハドリーとJ・ローレンス・ラフリンを含んでおり、「おそらく三人はみな、更なる経済研究のためのアメリカでの新たな基盤の最も偉大な建設者であった」(Dorfman 1969, p. 258)。タウシッグとハドリーはそれぞれ、ハーバートでダンバーに、エールでサムナーに上級学位を受け取った後、卒後訓練のためにドイツを旅した(Dorfman 1969, pp. 258, 264)。ラフリンはハーバードでヘンリー・アダムズの下歴史博士号を得たが、そこですぐダンバーの下経済学の教員になった。
第一次世界大戦に至るまでの間、ハドリーは著名な経済学者であった。彼は一八九六年に『経済学―私有財産と公共の福祉の関係の説明』を著しており、これはウォーカーのに次いでアメリカの大学で最も広く使われた経済学の教科書になった(Dorfman 1969, p. 259)。三年後、彼はエール大学の学長になった。ハドリーは彼の教科書をして、社会経済的な観念と制度の発達を駆り立てる力としてのダーウィンの自然淘汰の観念と、所与の観念と制度の下での個人の自己利益追求の解明としての限界効用理論、以上の両方を含むようミルの『経済学原理』を更新することを意図していた。にもかかわらず、後者について、彼は「限界効用理論の込み入った問題を分析し発展させることにエネルギーを費やした〔特にオーストリア学派の〕これらの経済学者は無益または無関係な活動に没頭していた」と信じていた(Dorfman 1969, p. 259)。そのうえ、ハドリーの価格理論の解明では古典派の長期的「正常価格」の概念が中心的な役割を演じていた(Hadley 1896, pp. 64-96)。ハドリー(1896, pp. 23-25)はまた、演繹学派と歴史学派が複雑な経済的現実を研究するために提出した方法は敵対的なものよりむしろ補完的なものであったとも主張した。最後になるが、ハドリー(1896, p. 12)は経済的個人主義に共感的でありながらも、「レッセフェール、レッセパッセ」は「政治的な知恵の実践的な格律にすぎず、経験に与えられるところのありとあらゆる制限に服する」とするイギリス古典派の見解を取ったのだった。したがって彼はバスティアを、「私有財産が必ず公共の利益に沿って管理されると決め付ける傾向があり、公共財への手段の代わりにそのような私有財産の増加をそれ自体良いこととして扱う危険な」タイプの「個人主義者」の好例として批判するに至った(Hadley 1896, p. 15)。ハドリー(1896, p. 15)はバスティアをまた「素晴らしいフランス人経済学者で……彼の『経済調和』はときにプルードンのような社会主義者の『経済アンチノミー』と同じぐらい歪みきっている」と端っこに追いやりもした。
アメリカ新古典派の創始者三人組の二人目たるタウシッグは、著者、教師、編集者として甚大な影響力があった。彼は一八九六年から一九三五年まで『経済学季刊』を編集しており、彼の博士号生徒にジェームズ・W・エンジェル、ジェイコブ・ヴァイナー、フランク・D・グラハムがいるところのハーバードで教育を行っていた。彼は学説的にはドーフマン(1969, p. 265)に「リカードとジョン・スチュアート・ミルの古典的伝統の、最初で最後の信奉者」と描写された。タウシッグはマーシャルの『経済学原理』を教育上の目的でミルの本に劣るとさえみなしており、彼の教室で後者を使い続けていた(Dorfman 1969, p. 265)。タウシッグはミルの現代化を試みて一九一一年に彼自身の『経済学原理』を出版しており、これはアメリカとイギリスで広い成功を成し遂げた二巻の論考になった。タウシッグの本での限界効用理論は、ハドリーのテキストのように、分析的な焦点を長期価格に置く基本的に古典派の枠組みにおいて効用と需要と市場価格の関係を明晰にする手段として導入されるにすぎない(Taussig 1911, 1: pp. 120- 58)。シュンペーターが指摘するとおり(1969, p. 220)、「異なる道を、根本的に交わらぬ道をゆくマーシャルのように、彼は効用分析を暖かく受け入れはしなかった――マーシャルより冷淡でしかなかった」。しかしながら、タウシッグはイギリス古典派の理論的伝統への彼の緊密な信奉にもかかわらず、ドイツ歴史学派に非常に共感的であった。かくて彼は、「私はいついかなるときもドイツ〔歴史〕学派を信奉しないが、彼らが経済原理の受け入れに持ちかける制限にはかなりの真理がある」と記した(Taussig quoted in Dorfman 1969, p. 265)。彼はまたドイツとイギリスの歴史主義的な作品をアメリカ合衆国で出版する努力の陣頭に立ち、ドイツ歴史学派の「若い方の」もっと急進的な指導者たるグスタフ・ド・シュモラーの主著を好意的にレビューした(Dorfman 1969, pp. xxxvi-xxxvii, n. 10)。
ラフリンはシカゴ大学経済学部の創始者兼筆頭であり、『政治経済誌』を創刊した編集者で、彼はこれを一九三三年まで編集し続けていた。ドーフマン(1969, p. 271)は彼をアメリカ新古典派の創始者三人のうちで「最も教条的な古典派」と記述した。彼はミルの信奉者であり、アメリカ人の聴衆のためにミルの論考の通俗的な簡約版を編集したが、後の古典派ジョン・E・ケアンズを最も健全な理論的ガイドとみなしていた。したがって彼は限界効用理論を酷く憎んでおり、その支持者が「主として形而上学的なナンセンスに没頭している」ことを信じていた(Dorfman 1969, p. 272)。いうまでもないが、一八八七年に出版され大学と高校で広く使われていたラフリンの経済学プライマー『経済学要諦』では限界理論がまったく扱われていなかった。ラフリンはオーストリア学派に対して絶え間ない敵意を示していたけれども、古典派と穏健な歴史学派の研究方法の和解に障害などないと考えていた。彼は『政治経済誌』第一号のトップ記事でこのトピックを解説し、「一見すると調査中の二つの研究方法に関してあるように思われるところの意見の相違は実はそれほど大きなものではないということが明白になっている」と結論していた(Laughlin 1892, p. 8)。
アメリカで優勢な古典学派に反対するけれどもフランス自由主義経済学を一層嫌う第二の思想潮流が、アメリカでこの枢要な期間に発達した。[17]この運動の指導者には、リチャード・T・エリー、E・R・A・セリグマン、シモン・N・パテン、ヘンリー・カーター・アダムズ、ジョン・ベイツ・クラーク、エドマンド・J・ジェームズがおり、彼らはみな一八七〇年代と同八〇年代早期にアドルフ・ワグナーとヨハネス・コンラートのような歴史主義者の下ドイツの大学で大学院教育を受けていた。これらの若い経済学者はアメリカへの帰国までには「新学派」を自称し、優勢なる古典的正統派に対し意義を申し立てていた。しかしながら彼らには、フランス自由主義の伝統に染まった古いアメリカ政治経済学者を却下する傾向もがあった。なぜならば彼ら新経済学者は、「抽象的で思弁的な経済学」とレッセフェール政策に対する彼らのドイツ人教授の歴史主義的、干渉主義的および社会主義的なバイアスを吸収していたからである。
かかる新学派はフランシス・A・ウォーカーの支持を得つつニューヨーク州サラトガにアメリカ経済協会(AEA)を設立した一八八五年にその影響力の絶頂を迎えた。AEAの本来の原則声明はドイツ歴史主義の原理をはっきりと引き合いに出しており、サムナーのことはわざと参加を招待されずにおかれた。結果、ダンバーと若い古典派のタウシッグ、ラフリン、ハドリーは参加を拒んだ。両陣営の学説上の論争が一八八〇年代に猛威を振るったが、すぐに和解が達せられ、一八八七年には、古典派経済学者が組織にゆっくりと流入し始めた。
しかしながら、かかる新学派の影響力はすぐ衰え始めた。一八八六年には、かかる集団の最も知的に鋭いメンバーであったクラークが、ドイツ歴史主義の方法論的仮定と社会主義的政策に疑問を呈し始めたし、彼は一八〇九年代までには限界効用の概念に基づく抽象的でシステマチックな市場経済理論理論を定式化する仕事に完全に没頭していた。セリグマンのような他の穏健なメンバーも訴えに倣い、一八八八年には米経済協会の原則のはいた主義的な言明が除外された。歴史主義的な原理の断念もまた教科書文献で明白になった。かくて、たとえば一八八八年に出版された通俗的な初等テキストでは、E・ベンジャミン・アンドリューは「伝統的なミルの一連の生産・分配」を利用したし、限界主義者、歴史主義者および古典派の著者の作品を推薦しながら、「彼らはみな大伝統の内部に容易に収まったと仄めかした」(Goodwin 1973, p. 296)。新学派背後の主導者にして最もラディカルなメンバーだったエリーが協会書記の辞任を強いられた一八九二年までに、古典派学派が米経済協会の堅固な支配を確立した。しかしながらエリーでさえ、彼の『経済学の概要』は一八九三年の初出版以来五十年にわたり大学の教室で最も広く使われた教科書だったのに、結局は台頭中の新古典派総合に合わせていたように思われる。社会の経済的進化とアメリカ合衆国の経済的発展を扱う最初の四章にもかまわず、かかる本の「価値と価格」の核心的な二章は、大いにミル、タウシッグ、マーシャルを引っ張り出していた(Ely et. al 1928, pp. 143-79)。
第一次世界大戦前のアメリカ新古典派総合では限界主義的な観念が非常に小さな役割しか担わなかったように見えることは注目されなければならない。特に、主観価値説と限界効用概念が経済分析の包括的システムを推敲するための根本的に新しい出発点を差し出すことはまるで認識されていなかった。たとえばシュンペーター(1965, p. 242)は、一八九〇年代アメリカでは「理論的な新オルガノンが『限界主義』か『新古典派』として安易に処理されており、――多かれ少なかれミル的なモデルで形成された――無味乾燥な教科書が活発な心を『制度主義的反逆』に駆り立てることに成功していた」と述べている。もっと近年になって、グッドウィン(1973, p. 295)は一八七〇年代から一九〇〇年代までの「北アメリカへの限界主義の移転における第二段階」に注意を向けてきた。グッドウィン(1973, pp. 295-96)によれば、「この期間には、古典的経済学で訓練された経済学者が彼らの思想集積の内部で、彼ら自身の実践の根本的に修正はせず、新観念の革命的内容を認めもせず、限界主義者が示した研究の道筋に従う必要も宣言せぬまま、限界観念を吸収しようとする試みが目撃された」。
かくて、アメリカ合衆国で十九世紀の終わりに発生した新古典派運動はフランス自由主義学派の方法と学説に対する鮮明な反感を体現する学説的潮流と結合したのだった。新歴史主義学派と再燃リカード・ミル学派の両学派は、主にセーとトラシーとバスティアに影響されて十九世紀の第三四半世紀まで発達していたアメリカ経済学の伝統を、非科学的で素人くさいと拒絶した。しかし新古典学派はアメリカ経済理論で一九二〇年代まで完全支配を成し遂げたわけではなかった。ここで一八九〇年かそのあたりに始まり、オーストリア学派の純粋主観価値限界主義に立脚して繁栄した代替的な理論運動が成長していたのである。クラークが始めたこの運動は、フランク・フェッターとハーバート・ダヴェンポートの指導力の下でアメリカ心理学派と称されるものに成長していった。これは、当代アメリカとマーシャル版の古典派経済学への拒絶と同様、ドイツ歴史経済学とイギリス古典経済学の両方を根本的に拒絶していた。アメリカ限界主義者が限界主義経済学の理論的先駆者と同様に彼ら以前のアメリカ経済学での自由主義的な主観価値の伝統を熱烈に信奉していたのも偶然ではない。先駆的なジェヴォンズとベーム=バヴェルクおよび他のヨーロッパ限界主義者も同じように、フランス自由主義経済学者に高い尊敬の念を抱いていたのだった(Salerno 1988, pp. 120-21, 124-25)。
第一次世界大戦以前の指導的なアメリカ人メンガー派たるフェッターは、アメリカ経済文献が「不毛」に特徴付けられるというダンバーが始めた主張に対して痛烈な反論を提出した。フェッターがコメントする独創的な作品をダンバーはほとんどではなくともあまり知らないし、ダンバーはそれらを実際に読んだとしても「古典学派の代表者として当該理論の正当な評価を行う資格がなかった」と論じられたのである(Fetter 1921, p. vii)。フェッター(1921, p. ix)が論じるには、早期アメリカ人の自由主義的伝統への無視の主因はミルの作品の有害な影響であった。「しかしJ・S・ミルがその勝利でリカード派経済学をアメリカ思想の有力な場所に収めた後、時間と空間と論理に暗に制限だらけのこのシステムは、我々に特有の問題に関する独立的な全思想を評価しその欠陥を見出すための、経済科学の標準になった」。そのうえ、フェッター(1921, p. xii)によると、一八七〇年代からイギリス古典派システムが「アメリカの大学教育で有力な場所を占めていた。ここではこれがアメリカ経済思想を麻痺させるような効果を半世紀及ぼし続けていた――今〔一九二一年〕なお幾らか及ぼし続けている」。フェッター(1977, p. 123)は若い反古典経済学者さえもが、「七十年代と八十年代早期にはアメリカ経済研究に新しい精神を持ち込んだのに、土着の伝統を発展させず、生憎と彼らを無視して霊感の新しい源泉を求めドイツの方に向かっていった」事実を嘆いた。そのうえ、ドイツで訓練されたこれらの経済学者は有意味な仕方で古典正統派に異論を申し立てることをなかった。なぜならば「ほとんどの場合、彼らの歴史的訓練はせいぜいのところ、彼らが以前に自国で身につけたリカード的な見解の基礎の上に貼り付けた虚飾でしかなかった」からである(Fetter 1921, p. x)。古典派の分配理論の一定の側面を拒絶した異端児フランシス・A・ウォーカーでさえ、バスティアに基づいた「彼の父アマサのもっと独創的なアメリカ的論じ方を発達させはしなかった」(Fetter 1977, p. 123)。フェッター(1921, p. xi)は早期アメリカ経済文献の理論的貢献が完全に理解され評価されるためには「分析の器具として近年心理学的〔すなわち限界主義的〕経済学で発見された一定の概念と用語」が要求されると主張するまでに至った。
フランス自由主義的伝統の著述家の理論的な鋭さに対する深い評価はダヴェンポートの作品にも見受けられる。たとえば、ダヴェンポート(1964, pp. 116, 118)は一九〇七年に、「セーの賃金学説は最新の現代思想の章のように読める」と記しており、また同じ主題で「まったくもってセーは現代人の中の現代人であった」とコメントした。一八九六年に出版された彼の教室用教科書の『経済理論概略』では、ダヴェンポート(1968, pp. 10-12, 26, 33-34, 59-60, 155-56, 170, 185-87)は章末引用の三ページをバスティアから、三ページを同僚のフランス人自由主義者クルセル=スヌイユから持ってきており、リカードやミルからは一ページも引かなかった。最後に、英米文献で最初期の機会費用概念の定式の一つは、ダヴェンポートの記事に現れたのだった(1894, pp. 567-568)。ダヴェンポート(1894, p. 564)は自由主義者クルセル=スヌイユのこの経済問題の言明から明示的にこの定式を引き出した。
フェッターの博士学生たるジョン・R・ターナー(1921, p. xv)は、「公衆の注意を彼らの功績に向けることができれば」と望むところの、早期アメリカ人理論家の非リカード的な分配理論を復権するモノグラフを著した。アメリカ人の自由主義経済学の支持者はレッセフェールに偏った素人パンフレット屋でありテクニカルな経済理論が分からないとするリカード派の中傷に反撃しながら、ターナー(1921, p. 179)はアメリカ合衆国でのバスティア学派の指導者たるペリーを「オープンマイドな男」で「偏見がない」と、そして「この大西洋側に現れた経済学者の中で最も良く身につけた人物の一人」と賞賛した。
フランス自由主義学派の名声にとっては残念ながら、フェッターとダヴェンポートは一九二〇年代初期から経済理論に貢献するのをやめて、さまざまな理由で、第二世代の理論家が足跡を辿らせることをしなかった。[18]一九二〇年代中盤からは、アメリカ合衆国の舞台から純粋なオーストロ限界主義的伝統が消え失せ、アメリカ版の新古典正統派に組み込まれたバスティアと自由主義学派の古典的見解は、アメリカ合衆国の職業経済学者に挑戦されることのない定見となったのだった。
英語文献でのフランス自由主義学派の描写
書き留められたとおり、十九世紀最終四半世紀にアメリカとイギリスの経済学を変形させた学説上の動乱と専門化は両国の経済学者間の新設コスモポリタニズムと同時に起こっていた。歴史主義と限界主義の洞察を合体させようとした新古典派の進行中の経済理論再構成は広く国際的事業と見なされていた。英米経済学者は、ドイツ歴史学派とオーストリア学派が新運動の最先端に相当したところ、つまり大陸から広まった、最新の科学的発達と革新に対して平行を保とうと熱望していた。英語圏の多くの経済学者は外国語が流暢ではないから、[19]これは重要な外国語書籍の翻訳ならび、専門ジャーナル上での調査記事の出版と、彼らの国々での現行の発達を報告してくれる大陸経済学者との交流を必要とした。
フランスで君臨中の自由主義的正統派に対する歴史主義志向の新学派の憎々しげな闘争は、経済理論を刷新する啓蒙的国際十字軍同盟たる英米対応者によってジドら法学部経済学者が信奉される原因になった。くわえて至極当然ではあるが、主として非学界的な敵対者よりは有名な法学校教授職の勤務者の方に対してもっと共感的に傾聴するのを常としていた。したがって三十五年間もしくは第一次世界大戦に至るまで英米経済学者に優勢な影響を及ぼしたのは新学派の――わけてもその指導者ジドの――英語出版物であった。おのずと、この極めて重大な現代経済学発生期においてこれらの出版物でプロパガンダされ、英語圏経済学者に容認された自由主義学者像は、おべっかなしの、極端に歪曲されたものであった。そのうえ、自由主義学学派がアメリカとイギリスで出版に漕ぎ着けたわずかな貢献の調子と内容は、多くの場合、その競争者によって故意に助長されたカリカチュアの補強にしか成功しなかった。
自由主義学派に対する英米の態度がいかにしてフランスで進行中の学説的および制度的な衝突で形成されたかに関する良い考えは、一八七〇年代と一九二〇年代の間にイギリスで出回った大陸経済学者のもっと重要な作品の調査から、特にかかる闘争の参考図書や説明を含んだ作品の調査から得ることができる。
英米での大陸経済学一般に関する意見に対して特に強い影響を及ぼした初期の作品はイタリア人ルイジ・コッサの『経済学研究の入門書』(1893)であった。一八七六年に最初にイタリアで出版され、一八八〇年に始めて英訳されたこれは、その題名にもかまわず、実際にはヨーロッパとアメリカでの経済学説の発達に関する独創的な論考である。[20]この作品は、ジェヴォンズが『経済学の理論』の一八七九年に出版した第二版序文で強く推薦した(1970, p. 66)ことによって、英語圏経済学者の注意を引いたジェヴォンズは後にコッサの一八八〇年の作品の初公開された英訳版に序文を寄稿した。この本の改定拡大イタリア版(1892)の新英訳版は一八九三年に出回った。
コッサ自身は十九世紀イタリアでの科学的経済学復興の指導者の一人であり、「国際的な認知を得た初の現代イタリア人経済学者」であった(Haney 1949, p. 834)。彼は注意深く選択されたドイツ旧歴史学派の学説とイギリス古典派経済学の混ぜ合わせを試みる折衷運動の指導者としてそうしたのだった(Haney 1949, pp. 839-40)。コッサはドイツ歴史運動の創始者たるヴィルヘルム・ロッシャーの下で研究しており、彼は師を「今世紀の最も著名な経済学者の一人」と称していた(Cossa 1893, p. 412)。[21]コッサの評価では、ロッシャーの「無条件の賞賛に値する意義重大で否定不可能な主張」は、彼の歴史的方法の説明と適用ではなく、「彼が理解しているだけではなくまた実質的に受容してもいる古典学派の理論に彼がよく接触することを最も深く最も優秀な博識でも妨げられないような、彼の作品の博識のうちに与えられている光と指導力」に帰せられた(ossa 1893, p. 413)。
ドイツ歴史学派とイギリス古典学派の両方に対するコッサの強い共感を鑑みるに、彼が両学派に反対する彼が学派について強く否定的な見解をもっていたのは自然なことでしかなかった。コッサの自由主義学派への反感は、イタリアでの彼の折衷的新学派の成長が、バスティアのずば抜けて優れたイタリア人追随者たるフランチェスコ・フェッラーラによって猛烈に反対されたという事実ゆえに強化された。コッサ(1893, p. 494)によると、フェッラーラは早期の作品でフランス人経済学者J・B・セー、シャルル・デュノワイエ、ミシェル・シュヴァリエを「賛美」した一方で、リカードの功績を「否定」し、ミルの業績を「軽視」したのだった。しかしながら両学派の本当の不和は、「ドイツ主義」と「リバティサイド」(自由の破壊)の罪に責任があるコッサ含むイタリア人経済学者を非難しながら、フェッラーラがイタリアへの歴史主義的観念の輸入を荒々しく攻撃した一八七〇年代に創造された。[22]
コッサはフランスでの経済学の発達を調べつつ、公衆が科学の教えを無視するという増大中の傾向を書き留めた。彼はこの状況の寄与因子の一つとして「公式学派の妥協なき楽観主義、それに伴う再現を知らない個人主義」を挙げる。彼は自由主義学派の優勢の下で「フランス経済科学が……健全なイギリスの科学的伝統から外れてしまった。……マルサスが、リカードが、無用である。……それは、しかるべき技術の規則としてではなく、合理的原理として、レッセフェールを受け入れる。かくて科学は利害関係がある経済的現状の守護者に変貌した」と嘆いていた(Cossa 1893, p. 368)。似た理由で、同時代の指導的なフランス人自由主義経済学者ルロワ=ボーリューはコッサ(1893, p. 382)に「経済的キエティスムのパルティザン」と責められている。
コッサ(1893, p. 370)はさらに進み、自由主義学派を「古典派」と「楽観派」の二支流に分割した。前者は、セー、ロッシ、ガルニエ、クルセル=スヌイユ、ブロックを含むフランス人経済学者からなり、彼らは「イギリスでの現行の方法から、かりに離れたとしても少ししか離れていない。……」コッサ(1893, p. 373-75, 395)はこれらの経済学者の作品に科学的功績があると高い賞賛を惜しみなく送りながら肯定した。対照的にもコッサが「楽観的な議論の列」と称するものは、デュノワイエに初めて表明され、バスティアに広くプロパガンダされたものであった。フランス経済学でのその後期の信奉者には、モリナリ、ルロワ=ボーリュー、ルヴァスール、フレデリク・パシー、ボードリヤールが含められる。コッサ(1893, p.376)は、楽観派が自由主義学派の古典派に「公然たる敵意を決して示していない」としぶしぶ認めたのに、かかる二支流を区別するための科学的根拠をどこにも厳密に言明してはいない。実際、「楽観学派」は伸び縮み自在なゴム紐になり、彼の語彙で愚弄の用語の中で頂点に達していたとおり、その用語論的明晰性の欠如はどうやらコッサのレトリカルな目的に尽くしていたらしい。たとえばコッサ(1893, pp. 419-20)はシュモラーの若い歴史主義学派を批判する際に、かかる学派は「フランス楽観学派より目にあまるものではないが、その反対の極端でしかない見解の狭さで明らかに起訴を受ける」と結論した。コッサは古い歴史学派を擁護する際には、「ロッシャーとクニースはあえてバスティアとリカードのグロテスクな混同はしなかった。そう混同することで、後のドイツ新歴史学派はイギリスに典型的な見解と楽観主義・個人主義のそれとの違いが分からなくさせられたのである」と宣言した。
かくて、フランス自由主義学派のことを非科学的にも「楽観的」な経済理論と経済政策を推奨したとする広く容認された特徴付けは、その早期の敵対派の一人がしでかした論争的なデマから生じたのであった。これは推定上では分断されたはずの自由主義経済学者の両側からほぼ即座に抗議されたしデバンクされていたが、その甲斐はなかった。「古典派ぶった」ブロック(1893, pp. 3-4)は一八九三年に「幾人かのドイツ人とイタリア人の著述家は互いに模倣し合いながら、ときどき学派を分断してはその格を「楽観学派」と区別してきた」事実を書き留めていた。彼はこの描写の裏にある推論を「単なる難癖」だと片付けてしまい、「その名の真剣な考察を」行わなかった。彼はこの学派全体を示すには「『古典派』という用語がまあまあ相応しい」と信じていたが、「自由主義」という用語を「選好」して「提唱」すると締めくくった。
同様にして、想像上では「楽観主義者」のルロワ=ボーリュー(1910, p. xxii, fn. 1)は、リカードとマルサスとスチュアート・ミルの学派と考えていた古典派経済学派“l'École économique classique”に彼が属しているという示唆を拒絶する。彼はまた彼の経済学の見解を記述する際の「正統学派」と「楽観学派」と「論理演繹学派」という呼称の適切さをも否定している(Leroy-Beaulieu 1910, p. 83)。学士院経済学者に代わって、彼は強意的にも、「我々は『正統学派』と『古典学派』のような異名に抗議する。我々は、我々自身を呼ぶにあたって『自由主義学派』の栄誉のみを主張する」と宣言した(ルロワ=ボーリュー、Gide 1907, p.193, fn. 1の引用)。ルロワ=ボーリューの仲間の「楽観派」であるルヴァスール(1900, p. xvii)も、「古典派」と「正統派」のレッテルを「遺憾」と評しつつ、自身を自由主義学派に分類した。
ベルギー人エミール・ド・ラヴレーの経済学入門書は一八八四年に『経済学要諦』として英訳され、フランク・タウシッグ(1884, pp. xi-xviii, 275-88)の導入と付録の章を売りにしていた。ラヴレー自身は法学部経済学者ではなかったけれども、歴史主義者と講談社会主義者の観念をフランスで著した最初期の解説者の一人であって、ゆえにフランス新学派の影響力ある先駆者となった。[23]
タウシッグは導入(1884, p. xiii)でラヴレーを「穏健」と描写した。いわく、彼の「経済学的見解は、自分は古典的システムと称してよさそうななものから緩く決別したと宣言する人々の見解に強く共感している。……同時に、古典的システムが全面的に取り替えられたと宣言する主としてドイツ人の著述家ほど極端でもない。彼の立場はむしろ、リカードの追随者の幾人かに共通する固く速い考え方に抗議するもっと穏健なドイツ人著述家のものである……」。タウシッグ(1884, p. xiv)はラヴレーが「ほとんどのフランス人著述家とは異なり、ほとんどのドイツ人著述家のように、レッセフェール原理の断固たる信奉者ではなかった」と言い加えながら、「穏健学派」というラヴレーが代表者だった学派にも言及していた。タウシッグ(1884, p. xvii)はラヴレーの幾つかの理論と政策の扱いについては留保を表明したけれども、彼の本を「初等的な政治経済学の知識を身に付けたい人にとっては特に価値がある」と推薦しながら、「述べられている諸原理は大筋では重要な経済学者全員に受け入れられている」と結論していた。アメリカ経済学の新古典派総合で台頭中の指導者としてのタウシッグの立場を鑑みれば、彼の好意的な「導入」は急成長中のフランス新学派についてとその書籍についての科学的な出版許可として役立った。
自由主義学派に対する英米の態度をもっと力強く形作ったフランスの教科書はシャルル・ジドの『経済学原理』であった。J・B・クラークはなおもややドイツ歴史学派の影響の下において、一八八九年フランス語版第二版のレビューでこの作品に注意を寄せた。クラーク()はこの作品に惜しみのない全面的な賞賛を送っており、新学派の反対派ジャーナル『経済学レビュー』を創刊するに至った「フランス経済思想での自由主義運動の包括的表現」と特徴付けていた。クラーク(1889, p. 549)はジドとジェヴォンズの価値理論の親類関係およびジドとベーム=バヴェルクの生産理論の「親善関係」を指摘しながら、ジドが「彼の資本と交換と分配の論じ方全体でヨーロッパとアメリカの進歩的な精神の親類関係を示している」と宣言した。レビューはこの作品の穏健で非教条的なアプローチの強調で終わる。「かかる論考全体は、学説的口論の極端には真理はありえないと感じる読者によって特に歓迎されるだろう」(Clark 1889, p. 549)。
ジドの本のフランス語版第三版は一八九一年に『経済学原理』として英訳された。かかる英訳版は学説的な影響力あるイギリス人学者ジェームズ・ボナー(1900, p. iii)に導入を付されており、彼はジドの「偏見からの自由と公平さの必要性の強調」を賞賛した。アメリカ版の導入はクラーク(1900, p. vii)に著されており、彼はかかる翻訳のことを、「多くのフランス人経済学者の正統派」のせいと、アメリカ人経済学者の逆に「新学派や歴史的標準の下に進んで加わる」傾向のせいで「部分的に通商停止中だった〔フランスとアメリカの〕知的交際の再確立」をなすものと見ていた。クラーク(1900, p. vii)はまた、その「進歩的な精神」と「古い思想学派に対する感謝の態度」について、「早期の作品の最善の果実を慎重に銘記するならば、それが表す「新しい出立」は過去との決別ではないことだ。その顕著な特質は、これほどの素晴らしさとはまれにしか組み合わさることのない知恵である」とその功績を要約している。
クラークという名声ある経済学者のこの推薦文が、アメリカ人読者の重い権威をジドの論考に裏書きするのに失敗することは、到底できるものではない。そして実際、ジドの作品は引き続き大成功を収めており、シュンペーター(1968, p. 843, fn. 6)いわく、「この期間に最も成功した教科書の一つ」になっていた。かかる本の二年後のフランス語版の、新しく一九〇五年に、そして再び一九二四年に英訳された、このアメリカとイギリスでの本はかくも人気であった(Gide 1905; Gide 1924)。
ジドの本の人気はそのフランス自由主義学派「正統派」経済学者への痛烈に否定的な描写が額面通りに受け入れられることを保証した。ジド(1900, p. vi)は想像上の「公平さの行き過ぎ」を説明する際に、これは「法律の形を取り始めていた伝統」と決別するという意図であったと主張した。この申し立て上の「法律」は、フランスで出版される経済学論考が主題を「たった一つの光のみに――『自由主義』学派の見解のみに照らして」提示するよう予め規定していたらしい。ジド(1900, p. 16)はこのテキストで、自由主義経済学者らが学派を構成して彼らが「科学それ自体を代表すると主張する」ことを自ら「高慢に」否定しているとジドに申し立てられるその自由主義学派に一節を捧げていた。ジド(1900, p. 16)は自由主義学派の「非常に単純な」学説を次のとおりまとめた。
人間社会は我々が変更を望んでもちっとも変更できないような自然法に統治されている。なぜならばそれらは我々自身が作ったものではないからだ。そのうえ、我々はたとえそれらを改造できてもそれらを改造することに少しも関心がない。なぜならばそれらは良いから、あるいはいずれにせよ、可能な最善であるからだ。〔強調は原文ママ〕
ジド(1900, p. 18)はこの主張の第一部分に存する自由主義的経済理論の実質的本体を読者に教える試みもなく、[24]「この教えの本体に対して申し立てることができる最も深刻な苦情は非常に顕著な楽観主義の傾向であり、真に科学的な精神よりも事物の既存秩序を正当化する願望によってはるかに触発されているようだ」と宣言しに取り掛かった。かかる本の一九〇五年英語版では、ジド(1905, p. 12)は自由主義学派をJ=B・セーに結びつけており、ジドは彼の『経済学概論』を「思想の深み」が欠けていると片付けた。またこの版では、ジド(1905, p. 23 fn. 1)は自由主義学派を拡張して、フェッラーラとF・A・ウォーカーのような非ガリア系経済学者を含めるようにした。彼はまたJ・R・マカロックとナソー・シニアとケアンズを「フランス人自由主義者ほど楽観的ではないが、一層教条主義的に、自由主義学派に属している」と同定した。ジドはこのように戦略的に自由主義学派を歪曲することで、かかる学派のことを、その経済理論が非科学的楽観主義気味で腐っており、先入観的レッセフェール学説の浅はかな弁明にすぎないとして、イギリス古典学派の瑣末な分派だと矮小化することができた。そのうえ、ジドはどこにも自由主義経済理論の説明を実際に示すことがないから、読者は彼の評価に抗議することができないのである。
英語圏諸国でのフランス自由主義学派の名誉を一層傷つけたのはジドと彼の仲間の法学部経済学者たるシャルル・リストが共著した思想史の教科書であった。かかる作品はまずフランスで一九〇九年に出版され、一九一三年のフランス語版第二版は一九一五年にイギリスで『経済学説史:フィジオクラートの時代から現在まで』(Gide and Rist 1948)として翻訳された。アメリカの大学で並外れて有名だった教科書は、フランス語第七版が一九四七年に出版され、フランス語版の第六・第七版から新たに翻訳された資料を含む英語版の第二版は一九四八年に出回った。かかる教科書は幾つかのアメリカの大学で一九六〇年代まで使用されていた。[25]
ジドとリストはこの作品で、ジドが彼の論考で最初に企んだフランス自由主義学派とイギリス古典学派の学説的関係の故意の歪曲を推敲し続けた。彼らはバスティアのルーツを、そして発散するカンティロン‐テュルゴ‐セーの伝統における後の自由主義学派を徹頭徹尾無視しながら、イギリス人経済学者とフランス人経済学者が当初はリカードとマルサスとセーの教えへの信奉にかけて団結していたものと主張した。彼らの想像の上では、この学説的団結は社会主義者ら反対派の著述家による古典派経済学ポスト・リカード派批判によって損なわれたらしい。この激烈な批判に直面して、イギリス経済学はJ・S・ミルの下に再集団化して自分たちの科学を批判的に再評価したが、他方でフランス学派は「その長たるバスティアとともに、ありとあらゆるイノヴェーションに抗い、『自然秩序』と『自由放任』の信仰を再断言したのだった」(Gide and Rist 1948, p. 329)。申し立て上ではフランス人経済学者を「彼らがかくも容易に科学自体と取り違えてしまった楽観的学説の護教」に誘惑したのはバスティアの影響力であったという(Gide and Rist 1948, pp. 330-31)。
そのうえジドとリスト(1948, pp. 361-62 fn. 3)によると、「楽観」学派はすぐに科学的調査の仕事を放棄して経済的談話でもって「社会的利益は単純に個人的利益の総和であり、すべて調和的全体に結集する」という倫理的公準を合理化する性癖を発達させた。対照的にも、イギリス古典学派のメンバーは「経済科学の早期の大家が表明した原理に忠実なままであった。古い理論を改善し、発展し、矯正する試みさえ行われたが、本質的な側面を変更する試みは行われなかった。かかる学派は伝統ゆえに個人主義的で自由主義的でこそあったが、決して楽観主義的ではなかった。それは……単純に純粋科学に集中している」。
コッサとは異なり、ジドとリストは古典派対楽観派の志向性に基づいてフランス自由主義経済学者の区別を偽造しはしなかった。実際、彼らは自由主義学派のメンバーが「バスティアの崇拝者」兼「楽観主義者」であり、それ自体イギリス古典学派の「中級信者」である点にかけて例外はないと仄めかしている(Gide and Rist 1948, p. 439)。この見解は都合が良いことに、彼らの自由主義経済理論の取り扱い範囲をバスティアのシステムの長々しいレビューと批判に制限させてくれたし、一八五〇年以降の重大な自由主義理論の発達の扱いを免除させてくれた。かくて、ミシェル・シュヴァリエとシェルビュリエとクルセル=スヌイユとブロックのような、自由主義理論への後の貢献者は、不誠実にもケアンズと一緒くたにされ、「ミルの後継者」と題された短い節でぶっきらぼうな注意しか払われなかった(Gide and Rist 1948, pp. 378-80)。
後期自由主義学派はまたも「快楽主義」学説批評家の議論で遠まわしに言及されている。ここでは、自由主義経済学者わけてもルロワ=ボーリューは経済学の数理派と限界派の両方に厳格に反対したと表現されている。責めは、ワルラスが「自分の観念を普及するのにもっと快適な環境を外地に探すべくフランスを離れるよう強いられた」という事実に関する自由主義学派の足跡にも向せられている(Gide and Rist 1948, pp. 506-508)。
ジドとリストによるこの本は英語圏の自由主義学派の知覚を形作るのを助けた学説史家フランス人の唯一の作品ではなかった。実際には、この期間にフランス人著者に出版された経済思想論考は豊かな実りが見られたのであり、それらは翻訳こそされなかったものの権威的と見なされており、イギリスとアメリカの学説研究者によって調べられていた。これらにはA・エスピナス(1892)、J・ランボー(1898)、M・デュヴォワ(1903)、R・ゴンナール(1921)、ガエタン・ピルー(1925)、G・H・ブーケ(1927)の書籍が含まれる。[26]これらの書籍の著者がほぼみな法学部経済学者であって、ゆえに、自由主義学派に対し強く反感的な見解を提示する傾向があったことを保障するような、制度的な要素があった。それは、一九〇七年までフランスには大学水準の純粋経済学課程がなかった一方で、すべての法学部が専ら経済学説史に専念する教職と課程を含んでいたからである(Gide and Rist 1948, p. 7)。結果、ジド(1907, p. 203)が書き留めたとおり、大学には「歴史的学説の課程は若手の教授が最も熱心に引き受けたものの一つであり、最も楽しみにしたものの一つである。そして後者は主としてこの歴史的分野から博士論文の題材を選択する」。
自由主義学派にもこの期間に英訳された作品が幾つかあったが、それらは主に、ギヨの『社会主義的誤謬』(Guyot 1910b)と『経済的偏見』(Guyot 1910a)のように社会主義や保護主義を攻撃するバスティアの血筋の論争的作品か、ルヴァスールの高く賞賛された『アメリカの労働者』(Levasseur 1900)のような応用的議題の専門論文か、ルロワ=ボーリューの『社会と個人に対する現代国家』(Leroy-Beaulieu 1892)と『集産主義:時代の最重要社会問題の幾つかの研究』(Leroy-Beaulieu 1908)のような政治経済的研究か、以上のいずれかであった、純粋経済理論を自由主義的見地で扱う小数の英訳書は一般聴衆向けが意図された時代遅れの入門書でしかなく、それより少ない自由主義的理論家やジャーナリストに著されていた。これらの作品はジドら新学派に故意に促進されたような、自由主義学派が分析的に浅はかであり変化への硬直的な抵抗者であるというステレオタイプを補強する傾向があった。
一般経済学に関する自由主義作品のうち最初期に英訳されたものの一つは、フランス人小説家のエドモン・アブー(1873)が著した『社会経済のハンドブック:もしくは、労働者のABC』であり、一八七三年に出版された。これは労働組合の結成を目論むパリの労働者に経済法則を教えるために一八七〇年より前のあるときに最初に著されたものである。アブーは老練な著述家であり、セーとバスティアを強調しつつ自由主義学派の経済学説の見事で人気ある解説を行ったが、至極当然ながら、この本は到底分析的な深みには特徴付けられない。エミール・ルヴァスール(1905)が著したもう一つの自由主義のプライマー『経済学要諦』は一九〇五年にイギリスで出版された。ルヴァスールはその五年前の『アメリカ人労働者』の研究で英語形経済学者に知られていた優秀な応用経済学者兼統計学者であった。かかる作品は節度ある学術的な論調ではあったが一般聴衆に向けられていた。英訳のためにわざわざ書き直されていたという事実にもかかわらず、それはフランスで初めて出版されたのは一八六七年のことだった(Cossa 1893, p. 383)。かくて、あまり体系的な理論ではないこの本で耳を傾けられていたのはセーとバスティアであり、経済科学での限界革命後の発達にはほとんど注意を払っていなかった。労働生産性の重要さを強調するルヴァスールの賃金決定説でさえ、一八七〇年代に初めて提出されたときには先駆的な業績であったが、同時代の限界生産性価格決定要素説の発生に照らせば絶望的なほど時代遅れに見えた。
自由主義的な見地からの本格的な一般経済学論考で唯一英訳されたのが、イヴ・ギヨ(1892)の『経済学原理』であり、これは一八八四年にイギリスで初出版された。ギヨは学士院の会員と学者であるよりは、活動家、政治改革者、パンフレットの筆者であった。彼は学会での地位をもたず、学士院の外に留まった唯一の有名な自由主義経済学者であった。彼は、パリ市議会議員、パリ代議院での勤務、公共事業省での三年の任期を含め、成功裏に政治的キャリアを送った。彼の経済社会問題両方でのレッセフェール学説への献身は息をのむほどラディカルで徹底しており、事実、彼は新学派の敵対者の格別な呪詛の的になり、反自由主義の嫌味の特別な標的にされていた。彼の死亡記事の筆者はほかならぬシャルル・ジド(1928, p. 333)であり、彼はギヨのラディカルな自由主義を記述するにあたって安っぽい当てこすりを我慢できなかった。
彼はありとあらゆる種類の国家干渉主義に対して戦った。強制的予防接種、売春規制、酒類禁止、酒場数の制限、賭博場の閉鎖、飲食物の粗悪化や投機活動への罰則と、戦ったのである。彼はジョゼフィーン・バトラーのフランスでの英雄的キャンペーン〔反売春法反対〕の筆頭副官であり、パリ警察への暴力的攻撃のかどで六ヶ月の投獄すら言い渡された。
干渉主義者が提示しなれていた議論は、それらが道徳に賛同するときですら、これっぽっちも彼を動かさなかった。まったくもって! 国家規制の体制下での、高揚、美徳、節度、体面よりも、むしろ自由体制の下での酩酊、売春、破滅を。彼は、自由の自然な産物ならずとも道徳が存在できるだろうとは、どうしても認めようとしなかったのである。
ギヨは自由貿易派の活動家兼政治改革者として、純粋理論の最新の発達を推敲し改善することよりも、基礎的経済原理を論述し、現在の政策争点へのその直接適用を論証することに関心を寄せていた。したがって彼の論考は同時代の方法論と価値論の発達を無視したり軽視したりする著しい傾向が明白である。たとえば、ギヨ(1892, pp. 1-5)はセーの方法論を強く是認し、ついでほぼ四ページにわたって彼の作品から絶え間ない引用を行うことでその論考を始めた。ギヨ(1892, pp. 5-9)はセーが「後にイギリスとドイツで生じる疑問にあらかじめ答えていた」と結論しつつ、イギリス人歴史主義者と新旧ドイツ歴史学派、フランスとベルギーでのその代表者――特にラヴレー――を攻撃しにかかる。価値論の領域では、「経済科学の帰納的方法〔すなわちセーの方法〕を数理的方法で代用する無駄な試み」に関連してジェヴォンズとワルラスが短く言及されるけれども、限界効用の概念とオーストリア派は言及されなかった(Guyot 1892, p. 6)。ギヨ(1892, pp. 19-20)は同時代の経済理論での革新に対する彼の全般的な態度を次の言葉で簡略に表現した。
アダム・スミスとJ・B・セーの大作以来、経済学が停止してしまったこともまた告白されなければならない。フランスとイギリスで著されてきた素晴らしい作品の価値を否定するつもりはさらさらないが、それらはマスターの諸作品の言い換えや解説である場合があまりにも頻繁であった。それらは些細な改良に没頭しており、観察で新鮮な活力を取り込む代わりに経済学での因習墨守に陥ってしまっている。
ギヨ(1892, p. x)は論考の英語版の序文において、自由貿易とレッセフェール政策一般の燃えるような嘆願の真っ最中で、フランスで発生中の新学派に対し、その干渉主義志向に論争的な強打を加えた。いわく、「経済学が法学部で教授されるようになってから、我々は新たな形態のコルベール主義を目撃してきた。かつて彼らは経済学を丸ごと軽蔑していたが、いまやその教師の多くは古いローマ法・フランス法学者に法律全能性の先入観を吹き込まれ、講談社会主義者の学説を借用した」。かかるテキスト自体で、ギヨ(1892, p. 13)は説明もせず、「フランスで法学部が教える経済学の講義はほとんどが完全に不適当である」と断言した。
自由主義学派の指導的名士としてのギヨの、同時代の方法論と価値論の革新に対する大雑把な拒絶は、無制限なレッセフェール経済政策に賛成する彼の論争と組み合わさって、自然と、英語圏でジドと彼の追随者に広められたフランス学派のカリカチュアを補強したに違いない。あらゆる科学的発展に反射的に反対するというこの強固で一枚岩な正統派のイメージは、イギリスとアメリカでの新設の専門家の地位で自意識的に科学的かつ進歩的な態度を養った英米学会経済学者に対してうまく働いた。この光に照らすと――そしてフランスでの制度的および学説的な優越性をめぐる憎々しげな闘争についての背景的な知識がなければ――法学部経済学者に対するギヨの軽蔑的な論及はジドの反対派の学派をフランスでの科学的進歩の前衛的篭城軍と認定しているように見えた。
政治的に確立された制度的な優勢にもかかわらず、分析的な不毛さのせいで完全な無名へと消え失せる運命にあったのは、実際にはジドの学派の方であった。ジドの著名な教科書を調査すると、最先端の理論はおろか、先駆的な理論すら満足に見つからない。そこにあるのは限界効用理論とマーシャル派需給分析で風味付けした歴史主義と古典派経済学の折衷的で非常に平凡な混ぜ物である。ジドのプロジェクトに共感的な者でさえ彼の経済理論の強い古典派志向に気づかずにはいられなかった。ジドと同時代人でありイタリア新学派の指導者であるコッサは、ジドが「彼が快く信じているよりもはるかに古典学派の同行者に近い」と記していたし、ジドの本を当時最良の教科書・論考として自由主義者シェルビュリエの本と同格に位置づけた。ジドの本の英語初版に導入をしたためたジェームズ・ボナー(1900, p. iv)は、彼の立場が「実質的には『古典学派』のものである……そして古典学派の理論的作品が、彼自身の新しい建造の大部分の基礎である」と指摘した。ジドの共著者リストはジドの死亡記事で、ジドの論考の価値が「新しい方法と観念を歓迎した開放性にあり、その経済的学説の独創性の価値はそれより少ない。……ジドの死はフランスでの経済思想と社会思想の歴史の一章を閉じるものである」と論じつつ、彼が自分の死を乗り越えて成長する余地がある理論的総合を発達させはしなかったことを認めた。純粋理論の問題では、リストは早々とローザンヌ学派が行っていた「数理的方法の熱心なプロモーター」になっていた(Suranyi-Unger 1931, pp. 129, 191)。ジド(1926, p. 870)は臨終に近づき、自分で作った経済ジャーナル『経済学レビュー』に関して「これは純粋理論の余地がほとんどない――偏見のせいではなく、貢献者の欠如ゆえに」と記したとき、彼の学派が突き当たった理論的袋小路を自ら暗黙のうちに認めていた。
さて、ジドらが主張したとおり、当代経済学での歴史的および数理的な潮流に対し、自由主義学派が精力的に反対し、憎々しげに非難をしたのは確実に真実である。実際、最も傑出した後期自由主義理論家のルロワ=ボーリュー(Mai 1975, p. 136の引用)は、経済学での数理的方法の使用を、「科学的な基礎がなければ実践的な用途もない」「空っぽな紛い物の純然たる妄想」と特徴付けた。しかし限界革命の最先端にいたメンガーとベーム=バヴェルクもまた純粋理論的研究における歴史的および数理的な方法の利用に関して深い疑念を表明していた。
実は、フランス自由主義経済学者はメンガー派の主観価値限界主義を熱狂的に抱きとめており、これをセーに着手された価格理論への稀少性効用アプローチの自然な絶頂と考えていたのだった。かくてブロック(1893, p. 5)は、人が自身の欲望を直接間接に満足させるための手段を得るべく努力を支出するというバスティアの「永久法則」を指して、「これがその発達においてジェヴォンズの『最終効用度』やメンガーの『限界効用』の法則になった」と書き留めた。ブロックはまた稀少性と豊富さの効果で採用する需給法則がその「完全な説明を最終効用またはオーストリア派の限界効用“Grenznutzen”に」見出したとも論じている。ルロワ=ボーリュー(1910, pp. 15-94)は一八九五年に初めて出版された彼の四巻の論考で、合計約八十ページの二章を、ジェヴォンズとメンガーの貢献を詳述し、彼らを自由主義的な稀少性効用の伝統と同化することに捧げていた。イタリアでは、自由主義経済学者のアウグスト・グラツィアーニが一八九〇年代に「メンガーとベーム=バヴェルクに論述された限界効用理論の最も優れた代表者の一人」として台頭してきた(Suranyi-Unger 1931, p. 148)。フランス人自由主義者のように、グラツィアーニは「新たな見解はすべてこの根本学説だけで完成することができる」と考えながらセーの需給価格説を完成させる手段として明敏にも限界効用を抱きとめた(Suranyi-Unger 1931, p. 185)。彼はまた、彼自身の独創的な生産と分配の理論を推敲する際にこの概念を適用した。かくてオーストリアで教育された学説的学者のシュランニー・ウンガー(1931, p. 148)は、グラツィアーニの理論システムをパレート以後の「現代イタリア経済理論の最も重要なシステム」と格付けした。
そのうえ、一九二〇年代後半の創始者の死とともに学説的影響力が頓死したジドの学派とは異なり、フランス・イタリア自由主義学派の影響力は第二次世界大戦を生き延びていた。かくて引き続きモンペルラン・ソサエティの活発なメンバーになったルイ・ボーダン(1947)は価値理論と貨幣理論を統合しようと試みる長々しい論考を発表した。[27]かかる作品の一九四七年に出版された第二版は『アメリカ経済レビュー』で非常に好意的にレビューされており、いわく「ボーダン教授の本は驚嘆すべき研究、読書、省察の結晶に相当し、最善のフランスの伝統における見事なほどバランスの取れた作品である」(M. A. Kriz 1947, p. 981)。
イタリアでは、ルイジ・エイナウディがおそらく自由主義学派の最も有名な末裔であった。エイナウディは十三冊の経済学書籍を著した、モンペルラン・ソサエティの創設メンバーであった。第二次世界大戦後、彼はイタリア銀行の総裁とイタリア大統領を務めた。[28]コンスタンティーノ・ブレシャーニ=トゥッローニもまたイタリアの自由主義的伝統から現れた。彼は一九三一年に、今ではドイツ・ハイパーインフレーションの標準的な作品と認められているものを著した。[29]また、彼はオーストリア景気循環説に関わる貯蓄理論についての二つの影響力ある記事(Bresciani-Turroni 1936)を寄稿しており、これらはシュンペーター(1968, p. 1018)に「素晴らしい論文」との感銘を与えた。彼は戦後にはモンペルラン・ソサエティの創設メンバーになり、国際復興開発銀行のディレクターと貿易大臣の任命を受けた。
結論
そしたら、英米の学説的な文献で伝えられてきたバスティアの学派のイメージは故意に歪曲されていることと、多方面にわたる死に物狂いの修正の必要性があることが明白である。自由主義学派は分析的に不毛などではなかったし、歴史経済学と数理経済学に対してはメンガーとオーストリア学派のように妥協なく反対したけれども、限界主義の普及を妨げようなどと試みてもいなかった。かかる学派の理論的貢献に対する現代英語圏経済学者の大規模な無視は、主として、十九世紀最終四半世紀のフランス、イギリス、アメリカの経済科学の専門家に伴う独特の事情の続発に帰せられるものである。
[1] 本節は次の作品に基づいている。Alcouffe 1989; Block 1893; Gide 1890; Gide 1898; Gide 1907; Gide 1926; Rowe 1892。本節で言及される経済学者ほぼ全員の伝記的情報はLudwig Mai (1975)の素晴らしい小辞書に見つけられる。
[2] これは事実上フランスで最初に制定された政治経済学の教授職であったが、「ナポレオンのように、『政治経済学』という言葉それ自体に心を乱された」政府役人を宥めるために「産業経済学」という名称が代用された。「『政治』という言葉は、政府外部で政府より優れた知識を主張する人物が、政府にすべきことを指示しようとすることや、その政策に対して公的に抗議するかもしれない、今存在しているような政党に加入するかもしれない、といったことを含意しているように思われた」(Say 1997, p. 117)。
[3] ジド自身は一八七七年にモンペリエの法学部で新しく創造された政治経済学を引き受けるに当たって経済学の正式な教育を受けていなかったことが注目されなければならない。この学問に対する彼の唯一の接触は、法学部最終学位の完了に際して彼の叔父が彼に与えたバスティアの作品一式の読書から来ていた(Howey 1989, p. 187)。
[4] ジドの連帯主義と共同生産の学説について、ジドとリストGide and Rist 1948, pp. 545-70とGide 1922を見よ。
[5] 名誉回復のためのジェヴォンズの努力について、Salerno 1988, pp. 124-25を見よ。
[6] ドイツでの歴史運動とは対照的にも、イギリスの歴史主義は自意識的な思想学派よりむしろ多様な思想家の緩いグルーピングから成り立っていた。イギリス歴史主義者の第一世代で最も影響力あるメンバーには、トーマス・E・クリフ・レズリー(1827-1882)、ジョン・ケルズ・イングラム(1823-1907)、ウォルター・バジョット(1826-1877)、J・E・ソロルド・ロジャー(1823-1890)がいた。第二世代のそれはウィリアム・カニンガム(1849-1919)、アーノルド・トインビー(1852-1883)、W・J・アシュリー(1860- 1927)である。この運動とその産業的なメンバーの説明として、Mahoney 1991, pp. 91-119とSpiegel 1991, pp. 395-409とHaney 1949, pp. 523-36を見よ。
[7] また、ペドロ・シュヴァルツ(1972, p. 1)が記すには、「限界主義は一八七〇年代の英語圏では受け入れられず、マーシャルの一八九〇年の論考が出版されてようやく受け入れられた。十九世紀の第二四半世紀から終わりまで、経済学者は価値論の抽象的な議論には関心がなく、かかる舞台の中心は限界主義者ではなくドイツ歴史学派の追随者が占めており、ここには、社会科学での抽象的アプローチに対する彼らの拒絶と、彼らの帰納的で実践的な経済学概念があった」。
[8] イギリス古典派学派とフランス自由主義学派の経済政策評価アプローチの鋭い対照として、Lionel Robbins, The Theory of Economic Policy in English Political Economy (London: Macmillan & Co, Ltd, 1953), pp. 34-67を見よ。
[9] フランク・フェッター(1920, p. 723)はマーシャルについて似たように記しており、いわく「彼はリカードとミルが残した価値理論と根本概念と分配の一般経済理論を、悔しそうにわずかに変更してはいるが、擁護している。彼は例の氏族根性で、その支離滅裂さの自覚にもかまわず、正統経済学説の遺産を保持しているのである。彼の考えでは、古いリカード主義と新リカード主義の相違は根本的な変化ではなく、他の学派からの批判で暴露された誤りの、嫌々ながらの言葉の上だけでの修正であった」。
[10] スティグラー(1949 pp. 38-39)が一九四一年に指摘したとおり、「フィリップ・ウィックスティードはおそらくイギリス最終世代の指導的経済学者のうちで最も知られていない人物であり、これは彼自身の時代においても等しく当てはまる。……ウィックスティードは或る意味でジェヴォンズ『学派』を構成する。彼とウィリアム・スマート……は一八七〇年から世界大戦までの間に古典的伝統を明示的に放棄した唯一重要な経済学者たちであった。これはウィックスティードの相対的な無名の追加的な理由である」。
[11] 奇妙なことに、マーシャル(1977, p. 77, fn. 1)はオーストラリア人の主観価値理論家兼バスティア追随者たるウィリアム・E・ハーンを、「かの若者に対して非常に高級な教育を与えるために詳細な分析がどう用いられるかの見事な好例」と賞賛しながら彼の作品の意義を微妙に見くびってはいたが、「単純かつ深遠」と歓迎した。
[12] アメリカの交易論的伝統について、Salerno 1988, pp. 132-43を見よ。
[13] ロス(1991, p. 85)はサムナーについて「彼はハリエット・マルティノーが提示した短絡的な形態の古典的経済学説を早々と受け入れ、決してその論理を疑わなかった」と言っている。
[14] サムナー([1909] 1992, p. 393)について、近年ではマルサス主義が「彼の思想の根底であった」と言われていた。ロス(1991, p. 85)はサムナーの社会学を「古典派経済学に組み込まれた歴史展望の外挿」と特徴付けた。サムナーの古典的経済法則に基づく社会進化理論はRoss 1991, pp. 86-88とFine 1976, pp. 81-91が概説している。
[15] この客観主義的な定義はペリー(1891, p. 61)による政治経済の人間行為学的定義「売り買いの科学」から後退していた。
[16] 古典派経済学に対する歴史主義者の批判に折り合いを付けるためのウォーカーの悩ましい試みについて、Ross 1991, pp. 80-85を見よ。
[17] これとこの次のパラグラフは以下の資料から引用した。Seligman 1967; Coats 1960; Fine 1976, pp. 199-251; and Ross 191, pp. 98-122.
[18] アメリカ合衆国における純粋オーストリア限界主義の伝統の衰退に関する短い説明として、Salerno 1999, p. 47, 52を見よ。
[19] フランスでは卒業の学位が授与されなかったし、さらに少ないアメリカ人経済学者はポストグラジュエート研究を行うにあたって相対的にドイツへ行っていたから、これはおそらくフランス語について特に実情であった(Parrish 1967, pp. 13-16)。
[20] この本の独創性と国際的影響についてシュンペーター1968, p. 856, n. 3を見よ。
[21] ヘイニー(1949, p. 834)はコッサがロッシャーを「崇められたマスター」と称したと言うが、彼はこの引用のソースは示さなかった。
[22] 新学派と結びついた経済学者から続いてイタリアで起こった両学派間の論争の更なる詳細について、Rabbeno 1891と、Loria 1891と、Loria 1900と、Loria 1926を見よ。
[23] ラヴレーについて、Cossa 1893, pp. 394-95; Schumpeter 1968; Pribram 1983, p. 223を見よ。
[24] かかる「学説」の第二の部分はおそらくバスティアの論争的な装飾を除けば自由主義経済学者の誰も宣言していない。自由主義経済学者のうちで最も――バスティアよりはるかに――頑固なレッセフェール発議者の一人と認められたあのギヨ(1892, p. 19)でさえ、そのような主張をする際のバスティアの価値中立科学からの逸脱を批判し、彼を「パングロスの生徒」と称していた。
[25] かかる本の人気について、Schumpeter 1968, p. 843とSamuelson 1970, pp. 283-85とRoll 1953, p. 11を見よ。
[26] (Schumpeter 1968におけるこれらの著者と彼らの書籍に関する言及を見よ。)Haney 1949とRoll 1953。
[27] 若い「フランス人リベラリスト」の一人としてのボーダンについて、Haney 1949, p. 850を見よ。モンペルラン協会でのボーダンの活動について、Hartwell 1995の言及を見よ。
[28] エイナウディについて、Haney 1949, p. 839とMai 1975, p. 78を、そしてHartwell 1995の言及を見よ。
[29] ブレシャーニ・トゥッローニについて、Mai 1975, p. 34とHaney 1949, pp. 842-43を、そしてHartwell 1975の言及を見よ。
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