ネオ自由主義者に反対する
「 厳密に言えば、エアハルトや、ましてリュストー教授のような男たちは、古典的自由主義とはあまり関わりがありません」―ムテジウス、ミーゼスに対して
Jörg Guido Hülsmann, “Against the Neoliberals,” Mises Daily (May 2, 2012)
モンペルラン協会は「エキュメニカル」な約束として、古典的伝統の純血自由主義者と、程度の差はあれ干渉主義的な政策を是認するネオ自由主義者の、両者が一緒になって始まった。ミーゼスは最初からエキュメニカルなコンセプトに懐疑的だったし、 モンペルランの全活動組織は彼が社会政策学会一九二八年チューリッヒ会合で初めて会った敬虔なネオ自由主義者のスイス人のアルベルト・フーノルトに握られていたけれども、ミーゼスの懸念は初めの五、六年は不当であるように思われた。
フーノルトは『隷属への道』の賞賛者で、ハイエクにモンペルランで協会の創立会を開くよう進めた人物の一人であり、かかる催しのために相当額の資金を集めた一人でもある。野心的なフーノルトはこの会合で結社の書記に選ばれたが、彼はほんの数年後にはもうハイエクの下という立場に満足できなくなっていた。彼の長期的な目標はモンペルラン協会の会長になることで、その戦略は自分を代えのきかない人物にすることであった。彼は組織の最も細かい詳細を扱い、一九五〇年代にはハイエクの助言なく文通を処理し始めており、ハイエクはもとより愛していたわけでもない男のこの侵食に憤慨した。一九五六年には二人の男の対立はますます激しくなり、最終的には協会を解散の瀬戸際に追い込むような衝突に至ったのであった。
この衝突は早期にははっきりしていなかった。フーノルトらの支持でネオ自由主義者たちは着実に数を増やしていったが、彼らは協会を支配してはいなかった。その主な理由はおそらく、フーノルトもスイスの実業界で財政的後援を受けていたが、それは大西洋の他方で運用されていた資金に匹敵するほどではなかったことである。ハイエクとミーゼスら少数の古典的自由主義者が議題の選択に根本的な影響を及ぼしていた。これは一方では彼らの科学的血統のおかげであった。他方では、彼らはヴォルカー財団およびナイメイヤーとグレーデとクレーンのような諸個人から相当額の財政的後援を享受していた。少なくとも一九五三年の終わりまでは、ヴォルカー財団が会員費を払っており、事実上モンペルラン協会の非アメリカ人会員のために、しばしば旅費も賄っていた。[1]そして、この財団は会合の一定会員のプレゼンスを財政的に安定させることになったとき、ミーゼスの願い(おそらくハイエクのでもある願い)を取り入れさせようと熱望していた。たとえば、ミーゼスがフランス人とイギリス人の参加者の不十分を理由に一九五四年ベニス会合の欠席を宣言したとき、ヴォルカー財団はミーゼスに対し、彼らの相対的重要性に応じた財政的援助の受益者の精選を依頼したのだった。[2]したがって、モンペルラン協会の歴史の第一段階が終わる頃には、ハイエク周辺の指導力は他の常任会員のほぼ全員――特にヨーロッパからの人々――よりはるかに急進的なリバタリアンであった。
このように異なる志向性をもった集団がモンペルラン協会内部に共存していたことは会員にはよく知られていた。[3]これはまた新参者にとっても分かりきっていた。好例はルクセンブルクでの経営学と経済学の若い教授たるジャン=ピエール・アミリユであり、ミーゼスが文通で知り合った人物である。[4]アミリユはその頃に古典的自由主義の文献を発見し、これを貪り読んでフランス語とドイツ語に翻訳していた。ミーゼスは彼をモンペルラン協会一九五三年ゼーリスベルク会合に招待した。[5]アミリユは協会がイデオロギーの志向と言語の違いに沿って「異なる集団および氏族」に分裂していることにすぐに気づいた。彼自身はミーゼスとハズリットとモーリーとファーティグとミラーのアメリカ人集団に親近感を抱いた。彼は、彼がミーゼスに招待されたことを知らない他の参加者がときに「古い保守主義者」と称した「旧守派」(ミーゼスとハイエクら)について、彼らから疑念を聞かされていた。ルクセンブルクから来たこの若い教授は、この旧守派には属さない多様な会員の干渉主義計画のことを熱心に書き留めて論った。ジョン・ヴァン・シックルは高額相続者への課税を提案し、ヴィルヘルム・レプケは家の持ち主への助成金を好み、オットー・ファイトは企業家が重税で仕事を思いとどまることはないだろうと論じた。[6]ドイツ一九五三年選挙で自身の党が勝利した新人ルートヴィヒ・エアハルトもまた会合で講演を打った。
アミリユの報告は、ルートヴィヒ・エアハルトのドイツでのネオ自由主義製作の明白な成功、いわゆるヴィアトシャフツヴンダーあるいは経済的奇跡が原因となって生じた協会内での相対的な重心の変化に光を投げかけている。当時の主流派経済意見を支配していた社会主義者と社会民主主義者にとっては、価格統制の廃止と中央計画経済から市場経済への移行が相当の経済的利益を生じたことは、本当に奇跡的なことだった。ミーゼスのように悔い改めなどしなかった古典的自由主義者にとってはちっとも奇跡ではなかったが。ともあれ、エアハルトの成功は彼の中道哲学に不当な信任を与えてしまったという問題があった。これはまた彼の最も近しいアドバイザーにも当てはまる。彼らアドバイザーたち、彼の国務次官ミュラー=アルマック、教授陣ヴィルヘルム・レプケ(ジェノヴァ)とアレクサンダー・リュストー(ハイデルベルク)とヴァルター・オイケン(フライブルク)は、しばしば「社会市場経済」の擁護者、あるいは「オルド学派」や「オルド経済学派」の指導者と称されていた。要するに、エアハルトの最初は古典的自由主義的だった政策の成功は、続く干渉主義的政策、わけても独禁法とインフレの弁護に用いられたのである。
戦前でさえ、ミーゼスはほとんどのドイツ人経済学者について最高の意見をもってはいなかった。ミーゼスは移民してからは彼らとの緊密な係わり合いを避けていた。彼はエアハルトの記念論文集に寄稿することでエアハルトの業績を認めたが、新しい標準的な社会科学辞書Handwörterbuch der Sozialwissenschaftenの項目を執筆することを拒み、ゴットフリート・ハーバラーが編集者の主張をミーゼスに懇願してようやく、彼はハイエクの記事『政治的自由主義』の補完として『経済的自由主義』を執筆することに同意した。[7]そして、流行中のオルド度学派とモンペルラン協会などで協力する見込みは正確には彼の心を熱くするものではなかった。オルド派の人々は彼が一生涯かけて戦っていた相手である社会主義者より到底マシな人々ではなかった、と彼は信じていた。実際、彼は最終的には彼らを「オルド干渉主義者」と称したのである。[8]それに、彼のニューヨークでの同僚も本質的に同じ見解を胸に抱いていたようだ――しかしそのような見解を印刷物で表明することにミーゼスは躊躇がないのだった。
ドイツにはエアハルト内閣とオルド学派の干渉主義的な乱行に反対する古典的自由主義者がいた。このレッセフェール集団の指導者はフォルクマール・ムテジウスとハンス・ヘルヴィヒである。[9]しかし彼らには高潔な殿を務める以上のことはできなかった。彼らは大学の講壇に就くことを否定されていたので、彼らの主要な活動手段はミーゼスも寄稿したムテジウスのジャーナルであった。ヘルヴィヒは筆を執ってミーゼスに次のとおり述べた。
厳密に言えば、エアハルト、ましてやリュストー教授のような男たちは、古典的自由主義とはあまり関わりがありません。以前の古典的な自由主義者は何の躊躇いもなく彼らを社会民主主義者と称していたでしょう。社会自由主義者や講談社会主義者と称しすらしなかったでしょう。[10]
ミーゼスは返信した。
私は「社会市場経済」の政治と政治家の正体に幻想を抱いてはいません。〔エアハルトの教師フランツ・オッペンハイマーが〕程度の差こそあれ〔ケネディー大統領の〕ハーバード大コンサルタントたち〔シュレジンガーやガルブレイスなど〕のニューフロンティア政策の方針を教育していたのです。[11]
しかしアメリカの公衆は外国語のほぼ完全な無知ゆえにドイツ「社会市場」モデルが表すものに関して非常に非現実的な考えをしていた、とミーゼスは説明した。アメリカで討論されたドイツ政策の唯一の論点はドイツ中央銀行の金融政策であり、これは連邦準備銀行のそれよりはインフレ的ではなかった。かくてドイツの支配階級は健全貨幣と国際貿易のような古典的自由主義的な原理に献身するものとして知覚されてしまったのである。
エアハルトの成功はモンペルラン協会を変えた――独禁法の必要や見込みある信用拡張の徳政のように、ちょうどミーゼスを排除しなければならないようなテーマへと押し流していったのである。どちらの論点でもミーゼスが就いたのはフォルクマール・ムテジウスの側であり、ムテジウスは独占と戦うための最善の方法は何よりもまず独占を生み出す政策と政府制度を廃止することであると論じていた。ミーゼスは独禁法のもう一回目の議論で特に用心深かった。彼は若い頃、一八九〇年代の台頭に続く反カルテル扇動を目撃していた。当時、討論は社会政策学会が進めており、この学会はつねに、更なる干渉主義のために新たな理論的根拠を探し求めていたのだった。数十年経って今では彼はどちら側でも新議論に出くわすことはなくなった。彼はモンペルラン協会での討論が現在の独占価格の主な事例たるアメリカ農業生産物価格政策に取り組むよりはむしろすぐ干渉主義アジェンダに向かうだろうと予期していた。ドイツ人教授会員がハイエクに独占を問題に取り上げろと促していたのにこの議題がモンペルラン協会一九五六年ベルリン会合まで登場しなかったのはおそらく彼の影響力のおかげだった。しかしこの論点はもう避けられなかった。[12]
会合はミーゼスの予期を完全に確証した。[13]結局、モンペルラン協会をめぐる内的闘争の約五年間がけの転覆が露になった。数ヵ月後、ハイエクは次期サンモリッツ会合(1957)に出席する彼の盟友を動員しようと試み、これが協会の未来を決するだろうと感じていたが、その甲斐はなかった。[14]ハイエクとフーノルトの私的な緊張は翌年明白になり、この年に初めてモンペルラン協会がアメリカで会合を開くことになった――これがプリンストンだ。[15]
しかしながらプリンストン会合はミーゼスがモンペルラン協会で「自由と財産」を主題に最後の講演を打った点で肯定的に記憶に残る。かかるトピックはハイエクに持ちかけられたものであり、彼は協会会員の根本的な論点に関する討論のような何かを組織することに絶望していた。彼の以前の試みはすべて、彼自身認知していたとおり、大失敗に終わった。しかしミーゼスはその最後で公的大舞台の一つに十分応えたのだった。彼の講演はテープレコードの形で生き残っており、彼がいまだその権力の高みにいたという事実を証言している。講演の印刷版は相も変わらず古典的自由主義の最善で簡略な解明の一つであり続けている。[16]
それから三年の間、ハイエクと彼の非協力的な書記の対立は水面下に潜んでいた。ハイエクはフーノルトを追放するほど十分な支持を得ることができなかった。アメリカ人会員はほぼ全員がハイエクの側に就いたが、表立った対立が協会を破壊することを恐れてもいた。結局、決着は一九六〇年のカッセル会合で付けられた。[17]ハイエクとフーノルトの両者はともに自分の地位を降りたが、フーノルトは協会の副会長になり、長きにわたって大混乱を引き起こした。一九六一年の会合はミーゼスの八十歳の誕生日を祝うことに向けられたが、フーノルトはこれをネオ自由主義対レッセフェールという別の闘争に捻じ曲げた。オルド自由主義者たちはすぐに裏手へと、しばらくの間追いやられることになり、権力の真空はオーストロ・リバタリアンではなくシカゴ学派経済学者に埋められることになった。
[1] 会費受益者リストについて、Hazlitt to Mises, letter dated December 21, 1953; Grove City Archive: Mont Pèlerin Society filesを見よ。
[2] ミーゼスはフランス人経済学者から(1)ルイ・ボーダン、(2)ダニエル・ヴィレー、(3)フランソワ・トレヴー、(4)ベルトラン・ド・ジュヴネルを、イギリス人からは(1)ジュークス、(2)プラント、(3)デニスン、およびアイルランド人のダンカンを指名した。Mises to Richard Cornuelle, letter dated June 4, 1954; Grove City College Archive: Mont Pèlerin Society filesを見よ。ミーゼスは胆嚢手術を受けるためベニス会合に出席しなかった。彼は二年後、コース、ナッター、アルキアン、フィルブルック、イェーガーへの出資を承認した。Mises to Luhnow, letter dated December 7, 1956; Grove City College Archive: Mont Pèlerin Society filesを見よ。
[3] 「概して言えば、モンペルラン協会内部には互いに反感をもつ二つの陣営がある。……レッセフェール自由主義者と……ネオ自由主義者だ。このことはみなが知っている」。Albert Hunold, “How Mises Changed My Mind,” The Mont Pèlerin Quarterly III, no. 3 (October 1961): 17.
[4] Hamilius to Mises, letter dated February 26, 1952; Grove City Archive: Hamilius files. このときアミリユは二十九歳だった。
[5] 彼はまたファーティグとコートニーとナイメイヤーの招待を提案した。これら三人はハイエクとラパードとジッタとミーゼスの協議会の新会員として認められた。Mises to Hunold, letter dated June 26, 1953, and the protocol of the Council Meeting of September 9, 1953; Grove City Archive: Mont Pèlerin Society filesを見よ。
[6] Hamilius to Mises, letter dated Octover 11, 1953; Grove City Archive: Hamilius files.
[7] 彼の原稿は結局「市場」という題で掲載された。Mises, “Markt,” Handwörterbuchder socialwessenschaften (Stuttgart: Gustav Fischer, 1959), part 27, pp. 131-36を見よ。出版社は彼から組見本を受け取った後で彼の記事を「改善」した。Mises to Hermann Bente, letter dated January 15, 1960; Grove City Archive: “B” fileを見よ。エドマンド・A・ギブソンによるこの記事の翻訳はGrove City Archive: “G” fileにある。またGrove City Archive: Haberler fileのハーバラーの一九五三年五月十九日の手紙も見よ。
[8] Mise to Muthesius, letter dated June 1, 1955; Grove City Archive: Muthesius files. しかしながら、彼は共通の基盤が見つかるときはいつであれ彼らを支持したと言わねばならない。かくて一九五〇年六月、彼はシカゴ大学出版局にレプケの教科書Die Lehre von der Wirtschaftの翻訳を推薦した。Grove City Archive: Röpke filesの通信を見よ。
[9] フランクフルト・アム・マインに拠点を構えたムテジウスは成功した二つのジャーナルZeitschrift für das gesamte KreditwesenとMonatsblätter für freiheitliche Wirtschaftspolitikを管理していた。
[10] Hellwig to Mises, letter dated January 12, 1962; Grove City Archive: Hellwig file. ヘルヴィヒは一九五五年以来出版されていた作品群でそのような見解を表明していた。彼はムテジウスのジャーナル用の記事で、独禁政策が非生産的であること、ゆえにそのような政策の擁護者――最も著名なところで、オイケン、ミクシュ、ベーム――が古典的自由主義者と呼ばれることは適切ではないことを論じていた。そのうえ、彼は野卑にも、ベームとミクシュの専攻論文がナチ時代に出版されたこと、ナチスがネオ自由主義を脅威と知覚しなかったから当時にも出版できたのだとしか考えられないこと、以上を指摘した。対照的にも、競争に「秩序」(オルド)を刻み込む政府という観念を好んでいたのは彼らのうち非常に少数の者のみであった。ヘルヴィヒは自分が言っていることを知っていた。というのも、彼はまさにその期間にベルリンが拠点のジャーナリストをやっていたのである。しかしヴァルター・オイケンの未亡人エディトとヴィルヘルム・レプケは、マテジウスがそのようなポリティカル・インコレクトな見解を出版することに対し、非常な熱情と反訴でもって抗議した。Grove City Archive: Muthesius fileのMay 1955 correspondenceを見よ。
[11] Mises to Hellwig, letter dated January 19, 1962; Grove City Archive: Hellwig file. ミーゼスはエアハルト次官のインフレ派の見解のこともよく知っていた。一九三二年、ミュラー=アルマックはヨーゼフ・シュンペーターが提示したインフレ賛成を敷延するような本を出版した。彼は信用拡張には成長の気体を自己実現するような特徴があると論じた。Alfred Müller-Armack, Entwicklungsgesetze des Kapitalismus (Berlin: Juncker & Dünnhaupt, 1932) を見よ。
[12] Hayek to Mises, letter dated October 25, 1955; Grove City Archive: Hayek files.
[13] 彼はほんの数ヵ月後に、「私は今年のモンペルラン会合がベルリン会合より興味深いものになることを望む」と記した。Mises to Pierre Goodrich, letter dated April 3, 1957; Grove City Archive: Goodrich files. グッドリッチの会社(Indiana Telephone Corporation)はアメリカ経済と企業会計の進行中のインフレーションの帰結を強調する年次報告書を出した。ミーゼスは彼らを非常に好んでおり、グッドリッチに彼のメッセージをもっと広く広めるよう促していた。
[14] Grove City Archive: Hayek filesの、ハイエクの一九五六年十一月二十七日一斉送信の手紙を見よ。
[15] 一九五〇年代初期、アメリカ人リバタリアンはモンペルラン協会会合をアメリカ合衆国で開こうとしたが、財政的な理由(ヨーロッパ人には金がなかった)で、この計画は一九五八年にジャスパー・クレーンが募金で都合をつけたときようやく実現した。プリンストン会合での緊張の発生は、Hunold to Röpke, letter dated April 4, 1960で述べられている。そのとき、ミーゼスのジュネーヴの頃からの生徒であるステファン・ポソニーは協会に受け入れられることが困難となった。Grove City Archive: “P” fileの、彼の一九五八年十二月ミーゼス宛のはがきを見よ。
[16] Bettina Bien Greaves, Austrian Economics: An Anthology (Irvington-on-Hudson, N.Y.: Froundation for Economic Education, 1996), pp. 77-82.
[17] Cortney, Fertig, Hunold, and Leoni filesの通信を見よ。
(出典: mises.org)
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