『経済学者誌』における一八六六年贋金論争:オーストリア学徒にはデジャヴュ?
Oskari Juurikkala, The 1866 False Money Debate in the Journal des Economistes.
一八一五年復古王政以降フランスでは、自由貿易とレッセフェールを提唱するジャン=バティスト・セーの触発の下、影響力ある経済学者集団が発生した。[1]かかる運動は一八四二年設立の政治経済協会に結実した。同年には経済学の初の学術誌『経済学者誌』が創刊された。
十九世紀前半には、フランス銀行システムは一八〇〇年創設のフランス銀行周辺に厳重に集権化されており、時代遅れで未発達だった。政府が利子率を命じており、銀行産業への参入は厳しく制限されていた(スミス1990, pp. 28–41)。もちろんレッセフェール学派はこのシステムに対して非常に批判的であった。独占的中央銀行に対する攻撃は、経済学者ジャン・ギュスターヴ・クルセル=スヌイユに率いられており、[2]彼は銀行と銀行券発行の無制約な自由を提唱していた。[3]
クルセル=スヌイユの自由銀行主義的な結論はフランス人自由主義者全員を説得したわけではなかった。アンリ・セルニュスキ[4]は一八六五年に著された二冊の小冊子で異なる解釈を提出した。セルニュスキ(1865, 1866)は「銀行券発行が少数の銀行の手にあるべきか多数の手にあるべきかではなく、そもそも券が発行されるべきか否かこそが決死の疑問点である」と考えた。[5]
ヴィクトル・モデスト[6]は一八六四年に著された未刊の記事で後者の見解をすでに先取りしていた。一八六六年、商品準備を過剰した銀行券はすべてインフレを起こしているし明白な贋金に等しいと論じるモデストの二つの記事が『経済学者誌』に掲載された。彼はこれを著しながら、政府独占だけを攻撃していたのではなく、私的に発行された信用媒体にも「贋金」という用語を使用しなければならないと主張したのである(モデスト1866 a, b)。[7]これはクルセル=スヌイユ率いる自由銀行主義者に対しての正面攻撃であり、『経済学者誌』一八六六年の白熱したが短命な贋金論争の発端でもあった。高名なクルセル=スヌイユ(1866)はギュスターヴ・デュ・ピュイノード(1866a, b)[8]とテオドール・マヌカン(1866)[9]と一緒になってモデストに対する部分準備前線を形成したのだった。
それ以前のイギリス銀行論争も似た論点を扱っていたが、重要な違いがあった。イギリス学派は通貨学派も銀行学派も、認めた問題の解決案として中央銀行を選択する傾向があった。[10]一八六六年フランスの贋金論争では、観点が異なっていた。どちらの側でも中央銀行は一番要らないものだと同意していたのである。したがって、かかる論争は妥協なき中央銀行批判がこの銀行券発行という決死の疑問点で衝突した最初の事例だったのである。[11]
本稿では三つの問題に取り組む。第一に、一八六六年論争は現在のオーストリア派の自由社会銀行システムに関する論争と細部まで酷似しており、明確な部分準備側と同様に強健な100%準備側に分かれている。はてして、フランス派とオーストリア派の論争にはどの程度まで並行が見つけられるだろうか?[12] 第二に、我々は特にヴィクトル・オデストの二つの記事に集中する。彼の学界的な作品の小ささにもかかわらず、彼をオーストリア100%準備学派の先駆者とみなすことはできるだろうか? 第三に、モデストは少しでも認知されたらそのかぎりで一方的にセルニュスキと結び付けられてきた。セルギンが言い表すには、「ミーゼスの自由銀行支持はセルニュスキとの同意に基づいており、セルニュスキは(モデストとともに)銀行券発行の自由が自動的に100%準備銀行に至るだろうと信じていた」。しかしセルニュスキとモデストは一から十まで一緒にやっていたのだろうか? そうでないなら、モデストはひょっとしたらマレー・ロスバードの先駆者と見たほうが良いのではないか?[13]
一八六六年の贋金論争は思想史家にはほとんど顧みられなかった。ブローグ(1997)とシュンペーター(1961)とシュピーゲル(1991)はこれを研究しなかったし、ロスバードのこれの扱いはざっと見にすぎない。[14]我々は原典を用いて一八六六年論争をもっと詳しく調べよう。さにあらずと注記されないかぎり、フランス語からの英訳は私のものである。また、セーら十九世紀フランス自由主義者の作品に言及するとき、私は主に原典を用いている。
一八六六年贋金論争
貨幣と貨幣代替物
信用媒体に反対するモデストの議論は異なるタイプの交換媒体の分析的な区別に基づいていた。彼は貨幣が物々交換からどう適切に発達するかを説明するためジャン=バティスト・セー(1964, p.p. 217 ff.)の推理に従った。貨幣がなければ取引は困難かつ高費用であり、また取引は究極的な目標が達せられる前にそれとは別の交換を要求することができる。この「欲望の二重の一致」の問題に対処するのが共通的な交換の媒体である(モデスト1866b, p. 86)。[15]しかし、モデストによればこれは初めの一歩にすぎなかった。二歩目を出すこともできるだろう。結局、金属通貨の輸送もまた不要な費用を生み出している。モデストはこの問題に二つの対処方を示す。手形交換業務と、もっと重要なものとして、貨幣代替物である。しかしながら貨幣代替物が真正の貨幣であり続けるためには、――市場で発生した本来の貨幣商品、つまり――実物財産に裏付けされなければならない。「紙幣が貨幣の……代替物として移動し機能するためにも、また貨幣が存在しなければならないのではないか」?
正貨幣と偽貨幣
しかしながら異なる金属商品が類似の価値をもつわけではない。これは貨幣の偽造を可能にする。たとえば金に銅など価値の低い金属を混ぜつつも、それで本物の金貨を表象させる、金貨の品質低下がそうだ。これらは贋金の範疇に入る。
モデスト(1866a, p. 182、強調は原文ママ)は正と偽の貨幣を区別する興味深い定義を用いていた。「正貨幣とはその商品としての価値が貨幣としての価値に等しいものである」。彼は貨幣価値の基礎が貨幣商品の価値であるという事実を指摘した。実際、フランスの貨幣単位フランという名前そのものが本来は重量の尺度であり、3447.74フランは純金1キロに等しいのだった。かたや偽貨幣はそうではない。「偽貨幣とは何か?――その商品価値がその貨幣価値より小さい貨幣である」(p. 184、強調は原文ママ)。
偽貨幣の効果は何か? 最も重要なのが、贋金の偽造が利益になることなのは明らかである。彼はそれほど価値がない何かを、もしも他人が間違って貨幣として受け取るならばもっと価値が出る何かに変換した(p. 185)。しかしながら、この貨幣は経済において貨幣量を増加し、究極的には価格増加と貨幣価値減少に繋がる。かくて、(広義の)貨幣が過小評価されるほど、正貨幣の方はまだ高い価値を保っている外国に輸出されてゆく(p. 186)。[16]グレシャムの法則と記述されるこの過程には、偽貨幣が正貨幣の額面価格で受け入れられることが必要である。[17]
偽貨幣の概念は彼以前にも、フレデリック・バスティア、ミシェル・シュヴァリエ[18]、ギュスターヴ・ド・モリナリ[19]にも見受けられる。バスティアは「交換銀行の小切手」を「詐欺的代替物」と称し、紙幣を「擬制貨幣」と記述した。彼は「紙幣に賛成できてしまうような推論はすべて法定偽硬貨に賛成するものだった」と結論した。[20]
銀行券と信用媒体
もしもフランス人自由主義者のほぼ全員にとっての主な敵が銀行業での政府独占だったならば、モデストは行き過ぎた主張をしたがっていたことになる。彼の論旨は、準備なき銀行券はつねに偽貨幣である――それらは政府独占のありや否やにかかわらず詐欺である、ということだった。
モデストはまず、ジャン=バティスト・セーが発達させた類型学に従い、異なる種類の銀行活動を論じることでこの議論にアプローチした(1964, pp. 268–72)。彼は特に発行銀行(banque d’émission)または部分準備銀行と呼ばれるタイプの活動に関心を寄せていた。[21]これは融資銀行(banque d’escompte)と預金銀行(banque de dépôt)からは明瞭に区別されなければならない。モデスト(1866a, p. 181)が説明するには、銀行が券を発行しても銀行券に対応する準備金属貨幣がその価値を保つかぎりそれは正真正銘の預金銀行業である。準備なしで銀行券を発行するとき、それは発行銀行になる。
偽貨幣の概念と異なる銀行活動の分析はどちらもフランス自由主義者にはありふれていた。[22]ただモデストだけがこれら二つの要素を統合したのだった。彼は彼自身の正貨幣のやや矛盾した定義に縛られていた。なぜならば、それによれば、商品貨幣しか正貨幣と呼んではならないからである。これは彼の論敵を混乱させても仕方なかったが、彼が示したことは重要な発見にして信用媒体への攻撃の核であった。
交換は貨幣代替物とも行える、すなわち、厳密な意味での貨幣への権原と交換することができる。しかしながら、すべての銀行券が正貨幣を代替するわけではない。かくて、モデスト(1866a, p. 186)は現在のオーストリア学徒が貨幣証明書と信用媒体と称するものを区別した――それぞれ、正貨預金のある銀行券と、ない銀行券のことだ。[23]彼は貨幣証明書が正貨幣代替物であると結論した。このタイプの銀行券を発行することは経済に追加的な貨幣をもたらさず、この券だけが銀行の実際の貨幣を代替する。かたや信用媒体はちっとも貨幣代替物ではない、とモデスト(1866a, p. 188、強調は原文ママ)は言う。いわく、「この銀行券は正貨幣か?――正貨幣はその商品としての価値がその貨幣としての価値に等しかったことを思い出そう。――答えは出ている」。しかしながら、モデストは一定の財の経済的使用が法学の言語に依存しないことに気づいていた。彼は強く結論する。「発行の銀行券は貨幣として使用される。――それは、それ自体の価値ではない。――それは貨幣であり――偽貨幣である――それは偽貨幣の全特徴と全経済効果を有しているのである」(p. 207)。
部分準備銀行主義者の応答
信用銀行券は本来的に詐欺であるというモデストの主張はクルセル=スヌイユの自由銀行学説への公然たる攻撃だった。クルセル=スヌイユ(1853, p. 322)の観念は単純だ。彼は紙幣に関する以前の記事で、無制約な政府紙幣発行の否定的帰結を公然と認めていた。しかしながら、彼は銀行業への規制がすべて廃止されれば問題は何もなくなるだろうと論じていた。現在の部分準備自由銀行の擁護者もこれに告示した主張を行っており、しばしば銀行危機の歴史的統計で「自由」銀行システムと「不自由」銀行システムを比較している(ホワイト1984, esp. p. 48、セルギン1966, pp. 196–67)。
デュ・ピュイノードとクルセル=スヌイユは『経済学者誌』でのモデストの記事への応答で、銀行券はちっとも正貨幣ではないと論じた。これが彼らの防御の核心だった。[24]クルセル=スヌイユ(1866, p. 342)は部分準備銀行業と真正預金銀行業の区別に同意しなかった。彼は銀行券とはつねに厳密な意味での貨幣の一定量を支払う約束にすぎないと強調した。
この券は貨幣か? 否。これは正貨幣で所与の量を支払う約束である。かくて、この契約が実行されるかぎり、この券は、たとえそのように受領されるとしても、それ自体では価値の測定に奉仕することはできない。この測定は金属貨幣なのである(ピュイノード1866b, p. 262)。
もしも信用媒体が貨幣ではないならば、それらは正確には何なのか? クルセル=スヌイユとデュ・ピュイノードによれば、それらは単なる信用にすぎない。デュ・ピュイノードが言うには、「銀行券は準備の上で発行されようとそうでなかろうと、小切手と同じく、……為替手形と同じく、純粋な債務であり、単純な約束である。」[25]クルセル=スヌイユ(1866, p. 348)は信用媒体はこの機能のおかげで産業にとって非常に重要であり、それらを発行することは危険でも不誠実でもないと主張した。
同様に、現在の自由銀行主義者も債務と要求払い預金の区別を批判している。セルギン(1988, p. 62)によれば、「要求債務の保有者はちょうど時間債務の保有者であるように信用の保証者である」。したがって、彼らは「『銀行預金』の……共通の定義は……倉荷証券ではなく銀行に対する債務請求にある」と考える。確かに、セルギン(1988, p. 62)とホイワイト(1996, pp. 88–89)は主観主義的な貨幣定義に従うから信用媒体の貨幣本性を否定しない。[26]他方で、クルセル=スヌイユは貨幣とは単なる金属貨幣であるとすることに応じた定義を採用した。
銀行券の兌換可能性
銀行券とは本質的に要求次第同額で金属貨幣を支払う約束であると考えてみよう。これは部分準備銀行制の下ではどうすれば可能なのか? 券のすべてがどうすれば兌換できるのか? 券保有者が同時に兌換を要求したらどうすべきなのか?
クルセル=スヌイユ(1866, p. 192)は単に、銀行が同時に券を兌換しなければならないようなことはないからこれは問題ではないと言って答えた。現在の部分準備自由銀行派も「自由銀行制は……体系的危機には相対的に免疫がある」と論じてこの問題を軽視している(セルギン1996, p. 9)。[27]
しかしながら、モデスト(1866a, p. 192)はあえてクルセル=スヌイユの推理の循環を書き留めた。いわく、「兌換が要求されない場合にしか存在しない兌換可能性の、何と奇妙なことか!」
資源費用貯蓄
もう一人の部分準備銀行主義者テオロール・マヌカン(1866, pp. 403–04)が討論に加わり、信用媒体が貨幣商品の側の非貨幣的使用を可能にするだろうというスミス・リカード派の議論を持ち込んだ。現代の部分準備提唱者もこれに似た資源費用節約論法を用いている。[28]しかしながら興味深いことに、マヌカン(p. 404 n)は現在の特権的銀行システムの下ではこの優位は銀行の顧客ではなく所有者のみを利すると言い加えた。
モデスト(1866b, p. 81)は、単純に創造された偽の財産権原が実際の財産を増加することはできないと指摘した。信用媒体の提唱者は究極的には金属貨幣を紙幣と代替したがるが、彼らの試みは矛盾していると論じた。一方では、彼らは貨幣商品をそれへの単なる紙幣と代替することで貨幣商品の価値を低下させたがる。他方では、彼らは紙幣価値の基礎として使えるようにするために、商品にその価値を保たせたがる。[29]
ミシェル・シュヴァリエは一八五三年の『政治経済辞書』の記事ですでに法定貨幣の学説と政府紙幣の夢を攻撃していた。彼は、この推論の多くは貨幣とは富を表す印(signe représentatif)にすぎずそれ自体では富ではないという奇妙だが優勢な観念に基づいていると指摘した。貨幣が実際には本物の富ではないのならば、なぜ行き着くところまで行かず、価値ある金属の代わり単なる紙の札を使うんだ?(シュヴァリエ1853, pp. 201–02)
信用媒体の結果:錯覚と錯誤
もしも信用媒体が偽貨幣も同然であるならば、偽貨幣の効果もある。それらは偽貨幣の発行者を利し、正貨幣の価値を低下させる。けれども信用媒体の経済でのもっと広い効果は何であろうか?
クルセル=スヌイユによれば、銀行券はまったく貨幣ではない。それらは約束、あるいは信用である。かくて、それらは貨幣価値に影響せず、経済での利用可能な信用の量を増加させるにすぎない。クルセル=スヌイユは信用銀行券の発行で利益を得るのが銀行であることを認めるが、「銀行は消費するためではなく貯蓄するために借りるのだから」これは経済全体の利益でもあるだろうと言う。彼は追加的な銀行業務の利益が経済を刺激し、究極的には消費者をも利するだろうと論じた(クルセル=スヌイユ1866, p. 346)。現在の部分準備擁護者も驚くほど似た考え方を論じている。
利益は銀行預金者と銀行券保有者に発生し、彼らはその債務の一部を貸し付けることで生じた特別銀行収入によって支払われるサービスと利子を受領する経済の帰結的にもっと大なる資本設備ストックをもって働く万人に……利益が発生する。(セルギンとホワイト1996, p. 94)[30]
モデストも、信用媒体が経済で好景気を創造することは理解していた。しかしながら、彼は信用媒体で生み出された繁栄は錯覚にすぎず、危機で不可避的に崩壊するだろうと論じた。かかる「繁栄」はいかなる実質にも依拠しておらず、単なる虚空から創造されたにすぎず、いわば、それは「空から降ってきた富」なのである(モデスト1866a, p. 198)。モデストは景気循環の短い議論において、リチャード・カンティロン[31]とセーが以前に述べた貨幣ベース分析に従い、発行された信用媒体が経済に錯覚を生み出すと強調した(pp. 199–205)。[32]
景気循環は信用媒体の拡張が錯覚的な繁栄感覚を生み出すときに始まる。支出が増加し、将来の期待がひどく楽観的になる(p. 200)。増加した支出が価格を上げ、貨幣の価値を下げる。これは初めのうちは無視されるかもしれないが、価格が上昇し続ける。最終的には錯誤が明白になる。人々は持続可能な要領以上に支出してしまった。事業は無駄に追加的信用を求めるが、誰も差し出さない(pp. 203–04)。
国内価格が上昇するにつれて、輸入が増し、貨幣はますます輸出される。これが銀行に銀行券の兌換を強いる。しかし、兌換できるだろうか? すぐに、すべての銀行が疑われる。恐慌が起こり、銀行の破産を生み出す。もはや詐欺は明らかになった。銀行券は負債を支払わなければならず、貨幣供給は急速に減り、またもや貨幣価値が上昇する。錯覚は終わり、経済は現実に戻ることを強いられる(p. 204)。[33]
実証主義的対本質主義的な方法論
討論の興味深い話題は、適切な方法論をめぐる疑問であった。著述家たちはこの主題を手短にしか扱わなかったけれども、彼らが二つの対照的な方法論的過激派を代弁していたことは明白であった。自由銀行派、わけてもデュ・ピュイノードは、経験の重要性を強調し、経済学が物理科学の実験的方法に依拠しなければならないと信じていた。デュ・ピュイノードは、あらゆる種類の本質主義的分析的推理を非常に率直に軽蔑しているように見えるし、何よりも部分準備銀行の存在それ自体が彼らの優越性を証明したのだという根拠に基づいて論じていた。実証主義者らしく前後即因果の誤謬に陥りながら、デュ・ピュイノードは部分準備銀行製が産業の発達と手を取り合って発達してきたことと、信用媒体の拡張なしでは富も産業化した国もありえなかっただろうこと、以上を主張した(ピュイノード1866b, p. 264)。彼は異形態の貨幣と銀行業の本性を分析することは無意味で紛らわしい詭弁以外の何物でもないと主張するためにこの立場をとった(p. 265)。
モデスト(1866b, p. 85)が経験的研究についてもっていた観念は異なっていた。彼は、経験的研究は個別的歴史的出来事ではなく当該対象の本質を扱わなければならないと論じた。彼は経済史に関するデュ・ピュイノードの主張が根本的な諸事実を混乱させていると返答し銀行の融資と預金の業務の効用に文句を付けている人など誰もいないが、第三の場合に関しては話が違う。信用媒体は繁栄の感覚を創造するが、疑問点の鍵は、これが経済危機で終わるか否かである(p. 80)。
銀行倫理学
ちょうど二つの側が対照的な方法論的アプローチに依拠していたのと同様に、彼らは倫理学についても対照的な立場に就いていた。討論の究極的な疑問は部分準備銀行が正統な事業形態であるか否かだった。フランス自由銀行主義者にとって、選択肢は自由か不自由かだった。デュ・ピュイノード(1866b, p. 265)は自由銀行が自由貿易に似ていると、疑問の余地なき神聖な権利であると主張した。これはまた現代の部分準備自由銀行の訴えの核心でもある。部分準備は有益であるに違いない、なぜならば「預金者はこれら銀行への選好を表示しながら彼らを財政支援し続ける」から。結局、「部分準備銀行は決して強制的ではない」。セルギンとホワイト(1966, pp. 95, 97と105)は、信用媒体を用いる自由は「法律が貨幣使用者に対して何らかの種類または全種類の信用媒体の保有を規制する……システムより……好ましい」と結論する。
かたわら、モデストはそのようなレッセフェールでは始めなかった。問題だったのは、当該行為の本性と道徳性だった。正しく理解された自由とは、嘘を付いたり騙したりする権利を意味しなかった。「問題は、受領されるものが経済的価値であるか否か、……契約が経済的に空疎なものではないか否か、その約束が経済的に実現可能か否か、これらを知ることだ」。かくて、我々は信用媒体の特徴と能力を分析しに戻るが、その答えは明らかだ(モデスト1866b, p. 84)。
確かに、モデストは中央銀行システムの弁明者ではなかった。しかし彼は、政治哲学で自由という曖昧な観念に基づく代わりに、自己統治の原理を提唱した。彼は国家の本性に関して特に明晰だった。いわく、「我々が国家と称するものは、主人であり、妨害であり、障害であり、敵である」(モデスト1866b, p. 76)。[34]
券発行問題の解決案
我々はすでに、信用媒体の問題を解決する無制約な銀行業の自由を提案した最初の思想家の一人としてアンリ・セルニュスキが知られていることを書き留めている。確かに、彼はクルセル=スヌイユとは正反対の理由で自由銀行業を提唱した。セルニュスキは自由な銀行券の発行で信用媒体がその信用性を失う結果に至るだろうと信じていた。いわく、「私は銀行業の自由と称されるものがフランスの銀行券の完全な抑圧に結果するだろうと信じている。銀行券を発行する権利を私が万人に与えたがるのは、もはや誰一人として銀行券を手に入れることのないようになのである」(セルニュスキ1866, p. 55、ミーゼス1998, p. 443から引用)。この観念は本質的にミーゼスのと同じである。「銀行券の使用を完全に抑圧しなかったのであれば、銀行券の発行における自由は銀行券の使用における自由よりかなり狭かっただろう」(ミーゼス1998, p. 446)。
モデストはこの結論に同意したか? しなかったようだ。対照的にも、モデスト(1866b, p. 75)は銀行家について、そしてそのようなシステムに見込まれる結果について、ひどく懐疑的だった。[35]そのうえ、部分準備銀行が詐欺的な商売ならば、それをちょっとでも許すべきなのはなぜだ? モデストは、信用媒体を発行する権利は最初から特別な法的特権だったと論じた。「貨幣の……購買力を落とし、偽ることは……銀行の特権〔である〕。この特権を彼らに与えたのは政府である」(モデスト1866a, p. 211)。[36]
モデストは異なる提案に達した。彼は、我々の選択肢が自由な部分準備銀行システムか100%中央銀行システムかの間にはないことに気づいた。信用媒体は偽貨幣だった。部分準備銀行は預金者に対する詐欺だった。モデストは適切な解決案が、それをあらゆる形の窃盗や詐欺と同じように扱うことであり、それを刑法の下で禁じることである、と結論したのである。
私が望むことは、履行できないことは盗みに等しいこと、権原、重量、価値、時間価値……を偽ることは盗みに等しいこと、盗みはそのあらゆる形態において盗みであり、どこであれ処罰に値すること……以上について、法が認識することである。〔これらは〕犯罪行為であり、刑法の下で取り除かれなければならない。(モデスト1866b, p. 77)
モデストのロスバードとの類似性を誇張しがたいのはここである。ロスバードが記すには、
自由銀行は詐欺や他の形のどんな窃盗も意味しない。まったくの逆だ。この批判は、政府の恣意的な行政上の命令によってではなく、詐欺に対する一般適法的な財産の防御によって100%準備の要件を課すことで無用にされるのではないだろうか。(ロスバード1993, p. 709)[37]
結論
一八六六年『経済学者誌』での贋金論争は妥協なきレッセフェール提唱者が信用媒体の疑問をめぐって衝突した最初の事例であった。部分準備自由銀行の擁護者――クルセル=スヌイユ、デュ・ピュイノード、マヌカン――は概ね現在の対応人物に沿っていた。彼らは部分準備銀行が彼らの銀行券をすべて同時に兌換しなければならないことなど滅多にないから相対的に安定的であると主張する。信用媒体の発行が利用可能な信用を増加し経済全体を利すると主張した。部分準備銀行の合法性は――ちょうど今のように――契約の自由に依拠しており、銀行問題をすべて改善する手段は政府干渉をすべて廃止することであった。クルセル=スヌイユとデュ・ピュイノードは、要求次第で貨幣を支払うという単なる約束たる信用媒体をまったく貨幣ではないとする議論に関して彼らの現在の追随者とはやや異なっていた。
ヴィクトル・モデストはアンリ・セルニュスキとともに、現在の100%準備自由銀行の現在の提唱者の先駆者であった。モデストは十九世紀フランスの彼ら以前のレッセフェール経済学者が発達させた重要な諸概念を統合することで、信用媒体に反対する体系的な議論を発表した。彼は貨幣と貨幣代替物を区別し、銀行券は準備貨幣を代替する正貨幣であるか、虚空以外の何も代替しない信用媒体であるか、どちらかだと論じた。彼は、信用媒体とは――公的に発行されようと私的に発行されようと――特殊な種類の貨幣、贋金なのであると論じた。彼はまた、景気循環は信用媒体が創造した錯覚と錯誤に基づいているという理論を擁護した。モデストはセルニュスキの単なる追随者ではなく彼自身をして重要な人物であった。ちょうどセルニュスキが政策上の結論でミーゼスを先取りしたように、モデストは本質的にはロスバードの先駆者であった。彼にとって重要な疑問は、強盗と詐欺に対しての誠実な商売に関するものであった。モデストは、部分準備銀行が詐欺と窃盗の一形態であり、中央銀行によってではなく、刑法において信用媒体を禁じることにより廃止されなければならない、と論じたのだった。
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オスカリ・ユーリッカラ(Oskari Juurikkala)はフィンランドのヘルシンキ経済学校で財政経済学を研究しており、二〇〇二年夏ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス研究所のアルフォード会員であった。有益な評言と助言のために、ギド・フルスマン、フェジュリー・ハーバート、マーク・ソーントン、ガート・マルコ・デ・ウィット、アントワーヌ・ジャンティエ、および匿名のレフェリーに感謝したい。もちろん、残っている間違えはすべて私のものである。
[1] フランス・レッセフェール学派の一層の事柄について、ロスバード(1995, pp. 441ff.)とシュンペーター(1961, pp. 490–500)を見よ。かかる学派はイギリスのジェヴォンズとハーン、イタリアのフェッラーラとパレートのような重要人物に強く影響した。それはまたアメリカの硬貨運動を鼓舞もした。ロスバード(1995, p. 448 ff.)とサレルノ(1988)を見よ。
[2] ジャン・ビュスターヴ・クルセル=スヌイユ(1813–1892)はジャーナリスト、実業家、チリはサンティアゴの政治経済学の1852–1862の教授である(ブローグとスタージェス1983)。
[3] クルセル=スヌイユ(1853, 1867)。またロスバード(1995, pp. 267)とスミス(1990, p. 93–94)も見よ。クルセル=スヌイユは一八六〇年代にチリの銀行立法を部分準備銀行制に変える際に重要だった。チリはこれ以前には100%商品貨幣の金融的安定の安息地であり、中央銀行がなかった。我々は「外国人専門家」の自由銀行立法はインフレーションの加速をもたらし、新しい大胆な自由銀行システムは五年以内には崩壊したのだった。そのうえ、この期間は銀行エリートと政治的エリートの緊密な協調に繋がり最終的にはチリに一人前の中央銀行システムを創造するに至った。ロスバード(1989)とハーシュマン(1963, pp. 159–75)を見よ。セルギン(1990)はクルセル=スヌイユを擁護し、この危機の後ろにあった原因は部分準備ではなく政府干渉になったと論じている。
[4] アンリ・セルニュスキ(1821–1896)は実業家であり、ミラノからの政治家である。彼は一八五〇年にフランスに来て、フランス銀行の取締役になった(コロンビア2001)。
[5] セルニュスキはスミス(1990, p. 105)から引用した。またロスバード(1995, p. 268)も見よ。
[6] 残念だが、ヴィクトル・モデストの生涯と経歴の詳細についてはほとんど分かっていない。
[7] モデストは『経済学者誌』一八六四年四月にすでに最初の記事を送っていたが、編集者はこれを却下した。編集者はセルニュスキの作品の登場それ自体によって新しいチャンスが与えられたと説明する(モデスト1866a, p. 181)。
[8] ミシェル・ギュスターヴ・ド・パルトゥーノー・デュ・ピュイノード、b. 1817。
[9] テオドール・マヌカンの生涯と経歴の詳細もまた知られていない。
[10] イギリスの貨幣と銀行業の討論に関する将来な議論についてたとえばハイエク(1991, chap. 12)とロスバード(1995, chaps. 5–7)を見よ。この集権的な傾向はロスバード(1995, p. 252)とスミス(1990, pp. 71ff. and 132)とウェルタ・デ・ソト(1988b, p. 497)に主張されている。こういうわけで、イギリス側はしばしば中央銀行業と中央通貨学派に分類される。フランス自由主義者は(クルセル=スヌイユら)自由銀行学派や(セルニュスキら)自由通貨学派と称されていた。また一八五〇年代にはドイツ通貨学派もあり、その最も著名ナメンバーはガイアー(1865)とヒュプナー(1853–1954)とテルカンプフ(1867)だった。しかしながらロスバード(1995, pp. 269–70)によると、彼らでさえ中央銀行の解決を採用しようと切望していた。
[11] ウェルタ・デ・ソト(1998b, p. 498)は実際に、セルニュスキとモデストを自由銀行・反信用媒体を論じた第一人者であったと主張している。とはいえ、セルニュスキとモデストはあまり支持されなかった。銀行システムの批判が強くなるにつれ、上院は一八六五年から一八六六年に、この問題を扱うために体系的な報告書を用意することを要求した。しかしながら、一八六六年六月報告はフランス銀行に非常に好意的で、熱狂のほとんどはこのときには失われていた(スミス1990, p. 40)。そのうえ、レッセフェール学派はすでに権威を失っており、社会主義的、歴史主義的、制度主義的な学説に取って代わられるのはすぐだった。フランス自由主義伝統の衰退と後の無視について、ロスバード(1995, pp. 470–71)と特にサレルノ(2001)を見よ。
[12] 現在の部分準備側について、たとえばダウド(1993)とセルギン(1988, 1996)とホワイト(1996)およびセルギンとホワイト(1996)を見よ。100%準備の論法はもっと近頃になって、ブロック(1988)とホッペ(1994)とホッペら(1998)とフルスマン(1996)とウェルタ・デ・ソト(1995; 1998a, b)が発達させた。
[13] セルギン(1988, p. 62)。彼の見解はスミス(1990, p. 105)に基づいており、後者は 実際「銀行券に対する〔セルニュスキと〕同じ態度がモデストにもとられていた」と書き留めるにすぎない。ウェルタ・デ・ソト(1998b, p. 498)も両者を識別しない。唯一ロスバード(1995, pp. 268–69)だけはモデストの政策的結論の短い分析を提示している。ロスバードの見解について、ロスバード(1983, 1990, and 1991)を見よ。
[14] ロスバードは実際にはこの討論ではなくフランス・レッセフェールの銀行の見解一般にコメントしている(1995, p. 266–69)。興味深いことに、ロスバードは参考文献一覧の小論(p. 491)で一八六六年討論に言及しているが、彼はこれを「リバタリアン原理を銀行業の厄介な疑問にどう適用するかに関するフランス・レッセフェール思想家間の魅力的な討論」と記述するにすぎない。
[15] フレデリック・バスティア(1979, p. 123)もまた一八五〇年にこれを非常に明瞭に説明していた。
[16] しかしながらモデストは十九世紀フランスに共通の、貨幣を「価値の測定」とする定義を使用した。ミーゼス(1981, p. 51)はこの概念を反論し、「貨幣を価値の測定とすることは……全面的に間違っている」と言う。
[17] 今日では自由銀行主義者は信用媒体の契約的問題の解決としてオプション条項を論じている。しかしながら信用媒体が少しでも流通するならば、この解決案は信用媒体を貨幣証明書に対して割引で取引させるだろう。オプション条項について、たとえばシャー(1997)を見よ。
[18] ミシェル・シュヴァリエ(1806–1879)は自由主義的な経済学者、コレージュ・ド・フランスの教師である(ブローグとスタージェス1983)。
[19] ギュヴターヴ・ド・モリナリ(1819–1912)はベルギー系ジャーナリスト、フランス・レッセフェール学派の指導者、『経済学者誌』の1881–1909編集者である(Hart 1981)。
[20] これはバスティアの記事『呪いの銀』(Maudit Argent、[1849] 1877, pp. 175, 188と206)にあり、一八四九年四月『経済学者誌』に初出した。シュヴァリエについて、『政治経済辞書』での彼の記事「貨幣」を見よ。モリナリの、政府の通貨偽造としての偽貨幣の概念は、モリナリ(1849)に登場する。これらに私の注意を向けさせてくれたアントワーヌ・ジャンティエとフィリップ・ナタフに感謝したい。
[21] 発行銀行(banque d’émission)の定義は当代オーストリア学徒が部分準備銀行業と称するものに対応している。同様に、発行銀行券(le billet des banques d’émission)の概念は信用媒体に対応している。現在のミーゼス派の文献におけるこれらやこの他の概念的区別について、たとえばロスバード(1993, pp. 700–03)を見よ。
[22] 銀行業務の類型学と分析はクルセル=スヌイユ(1867)ならび『政治経済辞書』のコクランの「銀行」の項(1852–53, pp. 107–45)にも見受けられる。
[23] オーストリア派の定義について、特にミーゼス(1998, pp. 429–31)を見よ。
[24] ピュイノード(1866a, b)は彼の記事を「銀行券は貨幣でも偽貨幣でもない」と題付けた。
[25] 為替手形の信用証券としての分類について、たとえばロスバード(1993, pp. 723–24)を見よ。
[26] 主観主義的な貨幣の定義と同定について、特にホワイト(1989, chap. 11)を見よ。
[27] 他方で、彼らは「交換可能な債務をもち部分準備で営業する銀行の保護の潜在的に重要な形態」として「オプション条項」を提唱することによって暗に問題を認めている(ダウド1993, pp. 41 ff.)。
[28] たとえばセルギンとホワイト(1996, pp. 98–99)を見よ。
[29] 確かに、この種の紙幣の夢はミルトン・フリードマン(1953)のような二十世紀法の定不換貨幣の提唱者の夢とは非常に異なっていた。後者は貨幣価値の基礎として機能する金などの商品の必要性を明示的に拒絶している。
[30] セルギン(1990, p. 5)は実際にこれらの理由で1866–1874のチリの自由銀行制に賛成を論じている。彼によれば、「チリの鉄道と電報のシステムが発達し、バルパライソの港が拡張され改良され、財源が四分の一増加した」ころは「注目に値する成長と進歩の時代」だった。しかしながら、ウェルタ・デ・ソト(1998b, p. 549n)は、このいずれも実質的な富の増加の証拠ではなく、むしろ信用媒体が誘発した錯覚的な好景気の証拠であると応じた。
[31] リチャード・カンティロン(1680–1734)はアイルランド出身で、フランスの銀行家兼経済学者として影響力ある障害を送った(ブローグとスタージェス1983)。
[32] カンティロンの景気循環理論について、カンティロン(1959)とフルスマンの要約(2001, p. 701–02)を見よ。またセー(1852, pp. 471–79)も見よ。この観念はオーストリア理論の近頃の解釈でさらに発達しており、これは景気循環とは本質的に錯誤の循環であり、信用媒体が生み出す繁栄増大の錯覚により引き起こされると主張する。特にフルスマン(1998)を見よ。
[33] クルセル=スヌイユはこの理論には従わず、その代わり「ジェームズ・ウィルソンの好景気の固定資本分析への循環に強く影響されていた」(ロスバード1995, p. 267)。
[34] モデストが反国家主義にかけて孤立していなかったのは確かである。『政治経済辞書』(ギョーマン1853, p. 324)でもシャルル・ルヌワールの『寄生』の項で似た情念が表明されていた。
[35] 歴史的には、そのような懐疑論には理由があったように思われる。というのも、部分準備銀行に固有の支払い不能は必ずしも完全準備には結びつかず、むしろ銀行家と政治家の相互取引を促すからだ。危機時の正貨支払い停止に共通する特権は、もっと体系的なインフレ的協力の最初の一歩にすぎない。この進行について、特にフルスマン(1997, pp. 88–90)とウェルタ・デ・ソト(1998a, pp. 39–40 and 46)を見よ。
[36] ウェルタ・デ・ソト(1998a, p. 42)はこれがまさに歴史的な実態であると論じており、いわく「私には、部分準備銀行の法的に無効の(すなわち犯罪的な)歴史的起源は疑問の余地がありえないように思われる……。ひとたび銀行家が政府から部分準備の基礎に基づいて行為する特権を授かったとき、彼らの犯罪的な地位は消失したのだった」。奉仕的視座からの銀行業務の歴史の証拠書類について、特にウェルタ・デ・ソト(1998b, chaps. 1–3)を見よ。
[37] この観念は思われるほど急進的ではない。ウェルタ・デ・ソト(1995, p. 29)が我々に報告するとおり、「大陸の法律的伝統においては、不定期預金の管理権は預金者の処分権での受領量に等しい量をつねに有する義務から構成されるという、古いローマ法に遡る長期間確立した原理があった。銀行業務の見地から見た法の歴史と哲学の歴史の更なる推敲として、ウェルタ・デ・ソト(1998b, chap. 1)を見よ。
(出典: mises.org)
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