オーストリア学派のマクロ経済学:図による解説

Roger W. Garrison, Austrian Macroeconomics: A Diagrammatical Exposition.

  1. 導入
  2. 生産構造
  3. 異時間交換
  4. 投資
  5. 貨幣的撹乱
  6. 更なる研究
  7. 参考図書

導入

本稿の目的はオーストリア派のマクロ経済学的関係の見解を表す図式モデルの開発である。もっとはっきり言えば、このモデルはミーゼス[1]とハイエク[2]とロスバード[3]の著作に見られるマクロ経済的な関係性を忠実に反映するように設計されることになる。このモデルは開発の段階においてはほとんど骨格的な概説以上のものではない。これは実際の調整メカニズム――経済が均衡状態に移動させられる過程――に関するもっと完全な議論を容易にすることができる枠組みである。そのような議論の本稿での簡潔さのせいで、モデルはオーストリア派の見解の或る面に忠実ではないように見えるかもしれない。というのも、これは過程よりも集計に焦点を当てているのである。うまくいけば、この不忠実は単なる見かけにすぎないものになる。モデルは集計量で構成され、これらの量間の関係を扱うけれども、或る集計を他の集計タームで「説明」する試みは行われない。各集計は市場参加者たちの個人的な選択と行為のタームで説明されなければならないことが完全に認識されているのである。このモデルがオーストリア派の理論に特徴的な方法論的個人主義と調和しているとはこの意味である。

我々は実際のモデル構成を始める前に、その主要な特徴のいくつかを下見しておくことが適切であるかもしれない。下見の目的は二重にある。下見によって第一に、モデルは実際に開発する価値があることが示唆されるだろう。以降の特徴の多くは望ましいものであり、もっと正統派的なモデルに対してオーストリア派のモデルが優勢にあることを示す。第二に、オーストリア派マクロ経済学初心者の読者たちがモデルの開発に続くのをもっと容易にするのを助けるに違いない。

1       オーストリア派の理論では資本金は異質資本からなる。多様な資本片間の関係は持続可能性と補完性のものでありえる。(固定的および流通的な)個人的資本片は「生産構造」に統合される。(資本の本性は本稿の第一節における単純化された仮定によっては曖昧にされるが、以降の節でもっと完全に説明される。)

2       モデルでは資本金の規模は変数として扱われる。普通の仮定では、正数量の投資は各期間ごとに現金化されるのに、資本金は定数のままである。オーストリア派のモデルではこの仮定が必要ない。[4]これは統合されたマクロ経済学理論と成長理論と景気循環理論にとって重要な帰結をもつことになる。成長と周期的活動の両方の説明が同じマクロ経済学的モデルに基づくのである。

3       オーストリア派のモデルは完全雇用を仮定するという意味での完全雇用モデルではない。しかし分析は完全雇用経済から始める。「我々は一般経済理論が停止するところから、いうなれば、非使用資源が存在しない均衡状況から始めなければならない。非使用資源の存在はそれ自体説明を要する事実である」。[5]実際、モデルは景気循環の収縮段階と同時に起こる異常に高水準な非雇用を説明する。

4       オーストリア派のモデルは生産過程における時間要素を明示的に説明する。単に他の無時間モデルに後知恵の「ラグ」を加えるのではない。生産には時間がかかり、もっと多くの生産にはもっと多くの時間がかかる事実を説明するのである。

5       オーストリア派のマクロ経済理論は実質所得決定の理論ではない。究極的には生産過程が個人の嗜好にどう調整されるか、そして貨幣的撹乱が調整にどう影響するかの、調整の理論なのである。[6]調整の問題に焦点を合わせるから、オーストリア派マクロ経済学とオーストリア派ミクロ経済学の間にはくっきりした区別はない。

生産構造

オーストリア派マクロ経済理論の最も示差的な特徴の一つは「生産構造」という概念を使用することである。[7]この概念は資本(と資本構造)に二つの次元があるという概念に明示的な認識を与えるために定式化されている。一つ目は貨幣タームで表される価値次元であり、二つ目は「本源的生産手段」[8](労働と土地)を生産に適用するときからこれらの手段に結びついて最終的に消費財が出現するときまでの間に経過する時間で表される時間次元である。二次元資本の概念の開発はその根源をもちろんジェヴォンズの著述にもつ。[9]これはジェヴォンズからカッセル[10]とベーム=バヴェルク[11]に遡ることができ、それからミーゼス[12]へ、ついでミーゼスからハイエク[13]とロスバード[14]および他の当代オーストリア派理論家に進むものとして跡付けられる。この資本の見解は新しいものでも厳密にオーストリア派のものでもないが、二次元資本の概念は決して資本理論家一般に受け入れられてはいない。

第三の、しかし独立ではない資本次元は、上述の二次元の複合物として描かれる。ジェヴォンズはこの第三次元を総合した第一人者であった。彼は「資本量」と「投資されたままの期間の時間の長さ」を区別した。そして彼は資本の第三次元を「いつであれ投資された資本の各部分に、投資されたままの時間長を掛けること」で第三次元を考案したのである。[15]結果として生じる合成次元は「ドル・年」単位をもつことが示された。(ここでは単位はアメリカ化されている。ジェヴォンズはもちろん「ポンド・年」を使った。)[16]

カッセルは30年後に似たような定式化を続けた。「……利子は資本貸付に比例し、かつ貸付期間に比例して、すなわち、価値と時間の生産物に比例して支払われる」(強調は付加)。[17]カッセルの生産物とジェヴォンズの合成次元は同じものを測定している。それらは資本が生産過程に「結び付けられた」程度の示度なのである。ここではこの生産物を直接計算することができるとは主張されていない。そうではなく、我々は、もしも利子所得と利子率が考えられるならば、資本のこの合成次元を考えることはできる――利子支払いによってもたらされる「待ち」あるいは消費延期の量を考えることはできるのだと主張しているのである。

この合成次元は「集計的生産時間」[18]あるいは単純に「生産時間」と称されるだろう。ちょうどあらゆるマクロ経済学的集計には問題があるように、異なる資本片に結びつく生産時間を(概念的にであれ)集計することに問題があることは確かである。しかしながら、平均生産時間や平均生産期間よりも集計的生産時間の概念を使うことで多くの曖昧さが回避されるだろう。前者二つの概念はジェヴォンズ[19]とベーム=バヴェルク[20]に使われたが、ミーゼス[21]とハイエク[22]とロスバード[23]には拒絶された。ベーム=バヴェルクの資本論の問題の多くは平均生産期間の使用に根を張っている。なぜならば、彼の平均の分母は生産構造の価値次元(労働単位で計算される価値)であって、平均の分子の変化が典型的には同じ方向の分母の変化に付いていってしまうので、平均生産期間の変化の方向が一般的には曖昧だからである。ベーム=バヴェルクの単純化しすぎたモデルの分析に基づいた平均生産期間の変化に関する不用心な一般化からは更なる問題が生じている。

集計一般が機能することと特に集計的生産時間が機能することは困難であると完全に気づくならば、生産構造は生産過程とこの過程に結びついた集計的生産時間の各段階での資本価値のタームで定義されるだろう。ベーム=バヴェルクが行き当たった困難はいくらか厳格さに欠ける「集計的生産時間の変化」の解釈に頼ることで避けられるだろうが、この解釈の議論は本稿の後の節へと後回しにしよう。実際のモデル化は生産構造のもっと早い取り扱いの調査の時点で始めることができる。

オーストリア派の文献で初めて図式的な生産構造を表示したのは『価格と生産』で有名なハイエクの三角形の形で見つけられている。[24]そのような三角形は図1で再生産されてきた。(軸は解明の便宜のために逆転されている。)ハイエクは「本源的生産手段が生産過程全体で継続的に支出される」垂直的に統合された生産過程を心に描いたのである。[25]またも、「本源的手段」は生産されていない(か再生産不可能な)生産手段、つまり労働と土地に言及する。(我々の議論では本源的手段を「労働者」に結びつけ、生産された手段を「資本家」に結びつけよう。労働者と資本家という用語はもちろん機能的な意味で用いられ、特殊な個人には言及しない。)生産過程は図1の時点Tで始まり、左へ進む。過程の終局ではドル価値OYをもつ消費財が発生する。時点Tには資本は存在しない。中途生産段階の一つである時点Dには、ドル価値DD’をもつ資本が存在する。この資本は単純に、生産過程が完成した暁にはOYと価値付けられるはずの未完の消費財として見ることができる。

ハイエクの三角形には二つの相互に補強し合う解釈がある。[26]一方では、これは始まりの時点Tから膨大な生産段階をへて価値OYの消費財が発生するまでの資本の実時間でのフローを描くことができる。これは前段落で採用された解釈だ。他方では、もしも生産過程が均衡にあるか、もっとはっきりと、ミーゼスに「均等循環経済」[27]と称された状態であるならば、三角形は各全時点に共存する多様な生産段階をすべて表していることになる。任意の所与の時点で、たとえば、消費財OYが生産過程から発生するだろうし、同時に未完の財DD’が後日消費財として発生するよう運命付けられた形で存在するだろう。

DD’で表されたドル量は二つの理由ゆえにOYで表されるものより少ない。第一に、追加的な本源的手段(つまり労働)の量は時点Dに存在する未完の生産物にもすでに適用されているに違いない。第二に、OYDD’は異なる時点で利用可能な消費財を表す。もしもOYが今利用可能であるならば、DD’はいくらか将来の日付になってしか消費に利用されないだろう。そしたらDD’OYに関して割り引かれる。OYに関するDD’の価値に対してのこれらの二つの影響を分離するためにモデルは修正されるだろう。ハイエクのように本源的生産手段が継続的に適用される過程を考える代わりに、我々は本源的手段が過程開始でしか適用されない生産過程を考えよう。ハイエクの三角形は放棄されて、台形が選ばれる。図2ではドル価値TFをもつ労働サービスの適用とともに時点Tから生産過程が始まる。これらの本源的手段は膨大な生産段階を経過し、ついにOYドルと価値付けられた消費財として発生するにつれて、その価値を成長させるのである。

第二の修正が図2で行われている。水平軸はいまや生産構造に結びついた集計的生産時間(APT)を表している。これは構造が完全垂直統合で特徴付けられるという仮定を緩和させる。すなわち、経済が均衡にあるとき、斜線FYは(単純な)利子(利潤)率なのである。

もちろんこれは実際の生産構造の大いに様式化された表現である。しかしながらオーストリア派のモデルの開発は現実世界の生産構造で起こる実際の過程についての議論に付き添われることになる。これらの議論は資本と労働のサービスが各生産段階に適用されることを認識するだろう。たとえば構造の変化は、(異時間)価格変化と利潤機会に反応し、相対的に最終(消費)段階に近い段階を離れて相対的に消費段階から遠い段階へ(もしくは逆へ)と移ってきた労働と資本のタームで言い表されるだろう。これは構造の長期化(か短期化)に対応する。様式化された生産構造を表現する形の変化は、現実世界の構造変化の本性の示度であるだろう。

異時間交換

異時間交換とは、現在消費財を将来消費財と交換すること、もしくは逆に交換することである。この種の市場取引は一般的には最初に純粋消費貸付のみを許すことで導入される。投資貸付は消費貸付が何らかの時間間市場取引のタームを確立した後でしか視野に入れられない。とはいえ、オーストリア派のモデルは最初に純粋消費貸付から抽象化することで時間間交換を説明するだろう。これが生産過程に付き物の種類の時間間交換に焦点を当てさせてくれるのである。そしたら時間間市場は購買投資財のために行われる貸付けを扱うと同様に投資財の直接購買を扱うものとして考えることができる。

現在のモデルの文脈では、 異時間交換は本源的生産手段のターム、つまり労働サービス市場のタームで説明されることができる。労働サービスとは将来消費財を表すものだが、これはいわば、それらが時間消費的な生産過程を通さなければ消費財に転換されないことを意味する。労働者は、現在存在する消費財を購入することができるドルと引き換えに、彼らのサービス(将来消費財)を売る。すると、労働サービスの販売は現在財への需要(と将来財の供給)を構成するのである。異時間交換市場の他の面を見てみれば、労働サービスは資本家に購買される。資本家はドルを労働サービスと交換し、それ自体によって将来財への需要を登録する。と同時に、彼らは現在財の供給を構成するのである。(もちろん、これは「過剰」供給だ。生産過程が終わると資本家は消費財OYを所有する。彼らはOY-TFを消費し、労働者に残りのTFを供給するのである。)

現在財の需給は図3で図式的に表される。この異時間交換市場は異時間価格比――利子率――の調整によって均衡におかれる。これらの曲線の特殊な形態と配置は個人(労働者と資本家)が将来財に対する現在財の相対的価値評価を行うことで、つまり彼らの時間選好で決定される。技術的な変形機能によって表されるかもしれないような労働サービスを消費財に変形する技術的な側面はここでは背景のままにされる。オーストリア派のモデルは技術的考慮それ自体には焦点を当てず、むしろ個人が可能と見る現在財と将来財の代替的な組合せに焦点を当てる。もちろん経済が均衡にある(ミーゼス派の均等循環経済である)とき、諸個人が可能と見て取った変形と実際の変形がまったく同一であるからには、彼らはどの代替案が可能であるか知っている。しかしながら経済が均衡にないとき、諸個人は可能であると見て取ったものに基づいて行為するだろうけれども、何らかの技術的な意味で実際に可能であることに基づいては行為しないだろう。この(根本的にオーストリア派的な)区別は重要であり、オーストリア派モデルの不均衡状態下での機能を理解する際にはこの区別が役割を演じるに至るだろう。

ロスバードは図3と本質的に同一の図式を使う。[28]彼は二つの曲線の交点が均衡利子率と均衡(総)貯蓄量を決定することを指摘する。(純貯蓄は0である。)現在のモデルの様式化された生産構造を所与とかんがみれば、これらの(総)貯蓄からは労働サービスへの支払いが現れる。経済が均衡にあるとき、利子率はOBで与えられ、労働サービスへの総支払いはOAで与えられる。

図3でのOAが図2でのTRで測定されるものと同じ支払いを測定していることがこの時点で注記されなければならない。異時間交換市場と生産構造のこの結合を認識することで、図3は転倒させられ、回転させられ、図2と並置させられて、図4で示されるまとめの図式を生み出すことができる。図4の二つのパネル間には第二の結合がある。利子率が右手のパネルではOBで表され、左手のパネルではFYの斜線で表されるのである。もちろん均衡ではこれら二つの表現は同じ利子率を反映するに違いない。

この時点で、この単純なオーストリア派のモデルとこれに対応するケインズ派のモデルの関係を示すことは役に立つかもしれない。共通点は、消費財の均衡ドル価値を表す大きさOYである。単純なケインズ派モデルでは、点Yは消費機能と45°基準線の交点である。OYはこの交点からの水平軸(か垂直軸)の距離である。図5は互いにOYで直立する垂直平面に描かれた二つのモデルを示している。(この比較はあらゆる大きさが実質タームではなくドルタームで表現されているのでケインズ派のモデルにいくらか違反するかもしれない。)

投資

(純)投資を扱うためには、追加的関係が導入されなければならない。それは、生産構造での(ドル価値)資本量とこれに結びついた生産時間である。(ここで「資本量」が言及するのは生産構造に存ずるすべての資本である。これは図2では生産構造の各段階に存在する量として言及されていた。)生産構造のこれら(資本量と生産時間の)二つの次元が互いに独立的に定義されるにもかかわらず、オーストリア派の理論によれば、両者には関係がある。この関係はまたもやジェヴォンズの著述で初出したものであった。「資本は前貸しで労働を支出させてくれるにすぎない」。[29]ジェヴォンズが示してきたとおり、もっと多くの資本は前貸しでさらに多くの労働を支出させてくれるのである。[30]

資本と生産時間の積極的関係はその発展期にいくらかの後退を蒙ってきた。たとえばベーム=バヴェルクは「平均生産時間」の用語でことを言い表したせいで、不注意にもあいまいな定式を引き起こしてしまった。しかしミーゼスと当代オーストリア派学者(たとえばハイエクとロスバード)はベーム=バヴェルクの定式の誤りを完全に認識している。[31]それでもなお彼らは資本量とこれに結びついた生産時間には積極的関係があるという基本的概念を受け入れている。たとえば、ミーゼスは「利用可能な資本財の供給増加はすべて生産期間と待機時間の延長に結果する」[32]し、これは逆に言えば「利用可能な資本財の量の増加は生産期間と待機時間がもっと長い過程を採用するための必要条件である」[33]と論じる。同様の言明がロスバードの定式にも見受けられる。「資本財のどんな増加も、もっと長い過程の採用を可能にすることに、つまり構造の延長にのみ奉仕することができる」。[34]

ハイエクは「生産期間の変化」という用語が実際の投資期間の集計に言及するとき、この変化について語ることが困難であると指摘する。とはいえ、彼が言い続けるに、

「期間の長さの変化」という表現の使用は、慎重に用いられれば、おそらく投資期間を維持するそれなりの理由がある方向へ、投資期間の変化が圧倒的に向いているようなタイプの全過程の変化を記述するには便利な方法である。[35]

このいくらか厳格さが欠けた見解では、「生産時間の変化」とは真正の集計における変化よりはむしろ生産構造における変化のタイプの速記である。

資本量と生産時間の関係は近頃、いわゆる「ダブルスイッチングと資本逆転論争」[36]によって疑問視されてきた。(オーストリア派の関係への明白な違反を含む)資本逆転の可能性はケンブリッジ資本論で多くの論争の元になってきた。ダブルスイッチングと資本逆転によって創造された問題がケンブリッジ派のパラダイム自体に限定されると信じることには全うな理由があるにせよ、オーストリア派のモデルも結局はケンブリッジ派の非難に対して擁護されなければならないだろう。しかしこの仕事をここで引き受けるつもりはない。むしろ、この問題に関する我々の関心は、資本逆転を可能と考える人々でさえ、「〔資本逆転は〕起こりうるが、起こりうる瀬戸際にあるように見える」[37](!)とは考えることは限りなくなさそうだと観察して終わりにしよう。

資本量(ドル価値)と生産時間の積極的関係は図6の上図で図表的に導入される。曲線の「波打った」形は単に、曲線の傾きにおける変化率について何も主張しないことを示している。曲線の唯一顕著な特徴はその傾きが積極的であることだ。過程が原点で始まるべきことは十分明白に見える。もしも資本がなければ生産時間はありえない。そしたら原点は手から口への存在たるロビンソン・クルーソーを表すだろうが、しかしこの面はオーストリア派のモデルを発展する目的にとってはトリビアルである。

「初期」生産時間は図6の下図OTである。もちろんこのパネルは今では親しみ深い生産構造である。(「初期」という言葉はここでは恣意的な意味で用いられている。生産過程の開始時点には言及せず、むしろ我々の分析の開始時点に言及するのである。)生産時間OTに対応する初期資本ドル価値は上図OKで表される。

上図原点がOKOに移動するならば、KOから右上に延長する曲線部分は投資と生産時間の変化の関係を表すだろう。これは曲線の妥当な部である。オーストリア派のモデルでは「投資」という用語は正統派からわずかに外れた仕方で定義されている。それは資本量の増加ではなく、むしろ初期量KOについて測定された資本量の追加である。これは年あたりドルではなくドルで測定される。

モデル構成の現段階においては、投資は消費の犠牲でしか生じることはできない。(新しい信用の創造によって可能にされる投資は以降の節で扱われる。投資と消費の関係を示すには、上図の右上部分を逆転し、水平軸が生産構造のY点に並ぶまで低くすればいい。たとえば、もしもKOIの投資がされているならば、それは消費YY1の犠牲でされているのである。オーストリア派のモデルでは投資は外因的であるという事実をかんがみれば、もうひとつの言い方で関係を述べることがおそらく好まれよう。もしも、外因的変数の変化がKOIの投資を生じるならば、それは事実上、YY1の消費減少を生じる。

この点を発展させた図表は図7で示される。このモデルは異時間市場の需給曲線の移動で生じた生産構造の変化を決定させてくれる。これらの移動は、個人が将来財に対して現在財を相対的に評価することの、つまり時間選好の変化から生じた結果として考えられる。たとえば、労働者たちの時間選好の減少は現在財需要がDpgからD’pgまで移動することで表される。そしてD’pgは座標OA’OB’で本来の現在財供給曲線と交差する。この点まで、大きさOAは労働サービスに支払われた量と労働者に消費された現在財のドル価値との両方に相当すると受け取られてきた。というのも、この保有の等しさは労働者が彼らの現金保有を増加も減少もしないという明白な仮定を要するからである。しかしながら、もしも現在財需要が移動しつつもこの移動に対応する現在財供給(将来財需要)の移動を引き起こさないならば、(ワルラスの法則より)労働者の現金保有に変化があるに違いない。すなわち、二つの曲線DpgSpgのうち片方の変化は時間選好と流動性選好の両方に対応するに違いない。そしたらOAは労働者に消費される現在財のドル価値に相当する――これは労働者に支払われる量マイナス彼らの現金保有の変化に等しい。(とはいえ、我々の直近の目的のためには、この現金保有の変化は背景にされたままとなる。)

生産構造の図表的表現はもっぱら現在財需要の移動によって決定される。労働者へ前貸しした現在財量はいまやT’F’(=OA’)であり、そして新しい均衡利子率はOB’(<OB)であり、これは生産構造図のあまり急ではない傾きを反映している。(F’Y’の傾きはFYのより小さい。)KOI’の投資が実現され、これはTT’の生産時間の増加を伴っている。言い換えれば、(労働者の)時間選好の減少は、さもなくば現行消費に使われたはずの資源が投資目的で利用されることを許したのである。随伴する利子率減少はこれらの資源がもっと時間消費的な生産方法に利用されることを収益的にしたのであった。

現実世界の生産構造では実際の過程は次のとおり記述される。資本家はその企業家的役割において、諸個人がもっと遠くの将来にもっと多くの消費を達成するため近い将来の消費を本意にもforgoしているのを感じ取る。この時間選好の変化は資本家に対し、資本と労働のサービスを相対的に最終(消費)段階に近い生産段階を離れて相対的に消費段階から遠い段階へと入札させるような利潤機会を創造する。彼らはまた利子率の低下によって、以前には収益的ではなかった追加的段階を創造するよう誘われる。[38]

消費財へのドル支出はOYからOY’まで減少するけれども、実質タームでの消費は一時的にしか減少せず、いったん追加的投資が結実すれば新たな高みへと上昇する。消費財価格をOY’と一貫する水準へと競り下げてくれるのはもちろん市場に現れた消費財のこの追加量である。

時間構造の減少によってもたらされた生産構造の変化に関する上記の記述は、自発的貯蓄によってもたらされたハイエクの三角形の形の変化の、『価格と生産』に見出される議論に非常に似ている。

〔自発的貯蓄の前後の生産構造を表す〕二つの図を比べれば、変化の本性が〔構造の〕引き伸ばしからなることがただちに見えてくる。……期間に消費財に支払われた貨幣量を測定するその〔最終段階の高さ〕は……永遠に減少してきている……。これが意味するのは、もっと資本主義的な生産方式の帰結として増加してきた成果である、消費財の単位価格が落ちてゆくことである……。新生産段階の追加のおかげで、もっと遅い各生産段階に支払われる貨幣量もまた減少してきており、他方でもっと早い生産段階に用いられる量は増加してきており、そして、中間生産物への総支出もまた増加してきている。[39]

価格水準と実質消費水準はオーストリア派モデルの機能の議論に際して説明されはするけれども、どんな明示的形式でもそれらは図表的表現には表れない。オーストリア派マクロ経済学は一般的価格水準に直接的には関与せず、むしろ投資財の逆にある消費財の相対価格――あるいは現在のモデルの用語では、労働サービスの逆にある消費財に支払われた相対量――に関わってきた。これこそは正統派のマクロ経済学理論とは離れたところに身をおくオーストリア派の理論の根本的な面である。たとえばパティンキンは「消費商品」と「投資商品」をそれぞれ単一の集計にまとめてから「これら二つの範疇の価格は同じ比率で変化すると想定される」と我々に告げる。[40]これら二つの商品範疇間の相対価格に変化を許さないことによって、パティンキンは生産構造を拘束具に押し込めてしまう。これは経済が或る均衡位置から他の位置へと移動することの全負担を、実質現金残高効果にかけているのである。[41]

現在財供給のSpgからS’’pgまでへの移動の結果は資本家の時間選好の減少であろう。生産構造のこの移動の効果は同じ方法で似た結果と分析されることができる。(D’pgS’’pgに結びついた)新しい均衡はダブルプライム記法で示される。唯一の顕著な違いは労働者に消費される現在財が減少する前に増加したことである。しかしこの違いは期待さるべきことであった。というのも、労働者の時間選好の減少が意味するのは、後のもっと多くの(実質)消費を享受するために、彼らは今のところ現在財をもっと少なくしか消費しないことが本意だということであり、資本家の時間選好の減少が意味するのは、後のもっと多くの(実質)消費を享受するために、彼らは今のところ労働者にもっと多くの現在財を前貸しすることが本意だということである。

時間選好の変化は、オーストリア派の理論家が最も関心を寄せるものの一つであるように思われるけれども、現在財の需給に移動を引き起こせる唯一の嗜好変化ではない。曲線の移動はまた貨幣需要の変化から、たとえば流動性選好の減少からも生じる。(ハイエクは初期の著述でオーストリア派マクロ経済学理論に流動性選好の分析を組み込む必要性に気づいていた。)[42]流動性選好の分析に順応するためには、生産構造図が現金残高を含むように解釈されなければならない。言い換えれば、OYは「消費された」現金残高の量を含まなければならない。時間選好の変化が異時間市場曲線の右へと左への両方の移動を引き起こすところでは、(労働者と資本家の)流動性選好の変化は上へと下への両方の移動を引き起こす。流動性選好の中立的変化とは、両方の曲線が利子率を不変のままにするような仕方で移動するところのものであろう。流動性選好の変化の効果はオーストリア派モデルの図7で分析されることができるが、その詳細はここでは記述されなかった。しかしながら、流動性選好の変化が中立的であれ非中立的であれ、そのような分析の結果が我々に対立するのも不思議ではないと言えるだろう。

本節の結論に際しては、オーストリア派モデルを対応するケインズ派モデルと比較することが役立つかもしれない。二つのモデルは図5で使われたのと同じフォーマットで図8に示される。両モデルに共通する消費財のドル価値に加えて、ケインズ派モデルの(外因的)投資量はオーストリア派モデルでは現在財需要の移動でもたらされる(内因的)投資に対応する。実質タームではなくドルタームでケインズ派モデルを表現することで創造される問題はまたも看過されている。

貨幣的撹乱

これまで暗黙のうちに、経済は貨幣的撹乱を受けないと仮定されてきた。内因変数の変化は実際の労働者と資本家の選考の変化によってのみ、時間(あるいは流動性)選好の変化を反映する現在財への需給の移動によってもたらされる。本節において、貨幣供給はオーストリア派モデルでは外因変数として導入され、その異時間市場と生産構造への効果が分析される。分析を容易にするため、実際の時間選好と流動性選好は不変であると仮定する。図3で表されるとおりの現在財需給は以降の議論を通して場所が固定されているだろう。

オーストリア派マクロ経済学が貨幣的撹乱効果の分析で関心をもつのは、貨幣量の増加自体ではなく、経済への新貨幣投入の過程である。新貨幣の非一様投入の帰結は分配効果に分類される。ハイエクによれば、「すべての事情は追加的貨幣が流通に注入される点に依存する」。[43]かくしてハイエクは「流通における貨幣量の変化の効果」の研究を始めるとき、ただちに彼の注意を「実践的には最も頻繁に出会う場合、すなわち生産者に授与される信用の形での貨幣増加の場合」[44]に向ける。オーストリア派の見解では貨幣拡大(あるいは通貨膨張、通貨拡大、金融緩和、金融拡大など)の主要な効果は新たに創造された貨幣(信用)が非比例的に生産者の手に渡るという事実から生じる。

対照的にも、正統派マクロ経済学の貨幣拡大分析は一般的には新貨幣が経済を通して一様に注入されるものと仮定することで始められる。たとえばお馴染みの仮定は、ヘリコプターで新貨幣をばらまき、諸個人がすでに持っている貨幣量に比例して路上に新貨幣をかき集めに飛び出す、というものだ。[45]この種の酷く人為的なシナリオでは貨幣が中立であることは容易に示されることができる。実質的な大きさは変化しない――すべての価格がせり上げられることを引き起こす、現金保有の一時的増加を別にすれば。新創造貨幣の非一様注入の帰結、すなわち一部の個人たちが他の個人たちより多く新貨幣事実のシェアを受け取るという事実の帰結は、「歪曲効果」と範疇化されている。これらの効果は二次的(あるいはn次的)な重要性のものと見なされており、一般的には貨幣ストック増加の「より根本的な」面に達するため切り捨ててよいと決め付けられている。[46]

しかしオーストリア派の観点では貨幣は中立と想定されるべきではないし、どんな関連的な意味でも中立であると示されることはできない。「人々が仮定するような、自身の推進力なき貨幣は完全な貨幣ではない。それはまったく貨幣ではない」[47]関連する問題は、貨幣拡大が中立であるか非中立であるかではなく、いかに非中立性が市場に現れるかである。オーストリア派理論家はこの疑問に注意を当ててきており、この疑問を無視するほかの貨幣理論家に対して批判的である。たとえばハイエクは「貨幣が経済システムに導入されることによる、その価格一般への効果とはまた別の、はるかに深遠で根本的な過程の効果の追及を怠る一方で、もっぱらまたは圧倒的に、皮相的な貨幣価値変化の現象」[48]に注目しているかどで彼らを批判した。

「中立的」貨幣拡大は図9で図表的に表わされる。この垂直軸は初期貨幣ストックMo、すなわち拡大拡大前に存在するストックの名目的大きさを表す。水平軸は拡大された貨幣ストックMe、すなわち貨幣拡大発生後に存在するストックの名目的大きさを表す。45度線は等しさMo=Meを表し、基準に尽くす。中立的拡大は基準線から時計回りに回転する線で示される。

しかし、新創造信用を生産者に広げることで拡大が達成されるならば、それは中立的な拡大ではない。現在のモデルの用語法では新たに創造された貨幣は(労働者とは反対に)非比例的に資本家の手へ渡る。このことは資本家の手における貨幣量の増加と労働者の手における貨幣量の増加を別々に示すことで図表的に表されることができる。図10では単純さのために、新創造貨幣はすべて、資本家に広まった信用の形をとると想定される。そしたらまず、労働者は貨幣拡大の影響をまったく受けない。これは図10のM’Lで表され、45度基準線と一致する。かたや資本家はM’Cで示されるとおりの初期に増幅された貨幣拡大を経験する。しかし、資本家が追加的労働サービス量を購入するにつれて、新貨幣は労働者に経験される拡大が最終的には資本家に経験された拡大とほぼ同じになるように経済を通して濾過される。これは拡大線M”CM”Lで示される。この矢は、資本家へ、そして労働者へ現れるものとしての拡大の動態を示している。

この非中立的貨幣拡大は異時間市場での一時的歪曲として現れる。オーストリア派モデルの用語では、かたや資本家に経験される拡大は現在財供給曲線に影響し、かたや労働者に経験される拡大は現在財需要曲線に影響する。これら二つの非対称的な効果は図11の装置で遡ることができる。上方のパネルは図10の貨幣拡張と図3の異時間市場を表している。右下のパネルは残りのパネルの構成を容易にするためのダミーだ。左下のパネルは現在財需給に対する貨幣拡大の効果を示している。ここで、資本家の行動を反映する供給曲線はまずはSからS’まで時計回りに回転し、かたや労働者の行動を反映する需要曲線はまずはD=D’に残り続ける。けれども新貨幣がもっと均等に分配されるにつれて、最終的には供給曲線はS’’に引っ込み、需要曲線はD’’に回る。二つの曲線のこれらの最終位置は左上のパネルでM”CM”Lと称される拡大線に対応する。

図11は「実質」パラメータに結びついた利子率が不変のままであること、すなわち、外見上の利子率――左下パネルで決定される率――は動き回っているようだが、右上パネルでは需給曲線が貨幣拡張を通して同じ場所に留まっていることを描写している。新創造貨幣の注入は外見上の利子率をiからi’まで落ち込ませ、ついで初期の率に近似する水準(i’’i’)まで上げることで復帰する。利子率に対する貨幣拡張の効果はもちろん新しくもオーストリア派に独特でもない。貨幣拡張が貸付市場で利子率を一時的に「自然」率以下へ落とすという着想は通例ではヴィクセルの著述に結び付けられている。[49](オーストリア派のモデルがフィッシャー効果の存在を否定しないことはここで言い加えられてもいいかもしれない。期待上の価格水準の上昇が原因となって、価格プレミアムが名目的利子率に組み込まれるだろう。しかし現在のモデルはちょうど価格水準それ自体から抽象するように、この価格プレミアムから抽象する。フィッシャー効果が利子率の他の移動を完全に相殺できる可能性はもちろん否定されなければならない。)

異時間市場は貨幣拡張メカニズムとまとめていまや図12で示されるとおり残りのオーストリア派モデルと再統合されることができる。パネルはすべて議論を容易にするため番号が振られている。唯一新しいものはパネルVIであり、これは単純に、新創造貨幣が経済に注入されることによる過程とは独立の貨幣拡張を示している。これは初期貨幣ストックと一貫するタームでパネルIIとIIIに生じる変化を表現させてくれる。つまり、絶対変化よりむしろ相対変化に注目させてくれるのである。

図12に表される貨幣拡張は、パネルIVの単一拡大線で示されるとおり、中立的である――少なくとも資本家と労働者それぞれに対して中立的である。期待されるとおり、この中立的拡張は生産構造に対して影響を及ぼさない(パネルII)。そのような「拡張」は、今日から一ドルは十バーンズとして知られることになろう、というような貨幣単位の再命名でしか達成されることはできない。実質的な変化は生じまい。唯一の帰結は価格水準が十倍になるというような(図12で示されすらしない)これっぽっちも面白くないものであろう。その代わりに、この拡張は悪名高い貨幣ヘリコプターを使うことで達成されるだろう。ここには資本家が新貨幣の非比例的シェアをかき集めると信じる理由はないように思われる。それから以前のとおり、主要な帰結は貨幣拡張の程度を反映する価格水準の増加であろう。しかしながら、二つの違いがこの拡張を以前のものよりつまらなくないものにしている。第一に、価格水準は定義の問題としてではなく市場過程の結果として増加する。価格は個人たちが新たに取得された現金保有の縮小を試みるにつれて新水準に競り上げられたのである。[50]第二に、資本家と労働者での分配効果は除外されていない。かくして、消費財は拡大の前と後のどちらでもOYと価値付けられているが、それらは異なる消費財となっていそうだし、これらの分配効果の結果として異なる個人によって消費されそうである。これがパネルIIでの唯一の変化であることは、現実世界の生産構造が実際にこれらの異なる消費財を生産するに相応しいという大胆な仮定に依存している。

もしも貨幣ストックの増加が信用拡大で達成されるならば、オーストリア派モデルで説明されることができる体系的な分配効果があるだろう。この拡大はまず資本家に経験され、しかる後にのみ労働者に経験される。これは図13で描写されている。図12の貨幣拡大とは違い、信用拡大は生産構造に対して実質的な影響をもっている。このことは図表的には図IIにおいてプライム(’)とダブルプライム(’’)の記法で示されている。外見上の利子率がiからi’まで落ちるにつれて、資本家はOY’F’T’の形状をもつべき生産構造の構成を始める。しかし新創造貨幣が資本家と労働者の間でもっと均等に分配されてゆくにつれて、利子率はI’’ (≈i)まで上昇する。このとき、初期の形状に近似するOY’’F’’T’’の形状を好むため、もっと長い構造の開始は清算されるか放棄される。パネルIIIにおいてKOI’で表されるこの投資(ひいては負の投資)は自発的貯蓄(と自発的な負の貯蓄)の結果ではなく、貨幣的撹乱の結果である。これこそは、ミーゼスが誤投資[51]と名づけ、ハイエクが強制貯蓄[52]と称したものである。

現実世界の生産構造の変化は短期と長期の企画の相対的収益性のタームで記述されることができる。経済は貨幣拡張以前には均衡状態にあると想定されるので、(短期と長期の)あらゆる企画は限界において等しく収益的である。長期企画は定義より非比例的に高い利子支出を伴うので、信用拡張のせいで利子率が落ちるともっと収益的になるように思われる。かくして資本家はその企業家的役割で労働と非特定的資本をもっと遅い生産段階から競りとってもっと早い生産段階につぎ込み、何であれこの特定的資本が長期企画の(外見上の)収益性を有利にするために必要とされるものの構成を始める。しかし新生産構造を構成するちょうどこの過程において、新創造貨幣が資本家から労働者に流れ込み、そして貨幣分配が古い拡大前の分配に近づいてゆく。労働者は嗜好が不変のままでありながらもいまや新貨幣の完全なシェアをもっており、彼らは古い拡大前の生産構造と一貫した消費財に入札する。すなわち、彼らは現行の消費を見合わせてその代わりに新長期企画に結びついた消費財を待つのが不本意なのである。彼らの時間選好は変わらなかったのだ。彼らの消費財への入札で、利子率はその初期の水準近くに戻るまで上昇してしまう。拡大期には収益的であるように思われた長期企画は非収益性が暴露される。資本家はいまや損切りのために行為しなければならない。損失を最小化するためには新長期企画のいくつかを完成することが要求されよう。しかしながら、他のいくつかは清算されなければならない。これらに結びついた特定的資本は放棄されなければならなくなる。労働者と非特定的資本は最終的には初期生産構造に再吸収されることができる。しかし、古い構造に戻るような移行は異常に高水準な労働と資本の失業を伴わざるをえないのである。[53]

貨幣拡大で始められた過程の二段階(第一段階はプライム記法に対応し、第二段階はダブルプライム記法に対応する)は、景気循環の拡大と縮小の段階として認識されるに違いない。上述の議論と図13の図表はロスバードによる循環的な好況と不況の要約に忠実である。

「好況」とは……実際には無駄な誤投資の期間である。銀行の信用が自由市場を弄んでいるせいで、誤りが犯されているときなのである。消費者が望ましいバランスを再確立するようになるとき「危機」が訪れる。「恐慌」とは実際には経済が好況の無駄と誤りを調節し、消費者の願望への効率的なサービスを再確立することによる過程なのである。かかる調節過程は……無駄な投資の清算からなる。これらの幾つかは丸ごと放棄されるだろうし、他は別の使用に移されるだろう……。

要するに、自由市場は自発的に表明された消費者願望を最大の効率で満足させる傾向があり、これには公衆の現在消費と将来消費の相対的願望も含まれているのである。インフレ的な好況はこの効率性を妨げ、生産構造を歪めてしまい、歪んだ構造はもはや消費者に適切に奉仕しなくなる。危機はインフレ的歪曲の終焉を合図しているのであり、恐慌とは経済が消費者への効率的なサービスに立ち戻ることで起こる過程なのである。[54]

最後に、誤投資が回復できない程度に経済の富の純減少があったことが言及されなければならない。これはパネルIの需給曲線の変化に結果する(資本家と労働者の)時間と流動性選好の実質的変化を引き起こすことができる。この範囲で、貨幣拡大は長期的にさえ中立的ではない。

オーストリア派のモデルは図13の図表的な用語でまとめることができる。パネルIとIIとIIIがモデルの基本的な構成要素だ。パネルIはマクロ経済的変数に関連する嗜好、つまり資本家と労働者の時間と流動性の選好を記述している。パネルIIはパネルIに記述された嗜好に一貫する生産構造を描画する。これらの嗜好の変化は生産構造に対して、パネルIIIに示されるとおりの資本と生産時間の関係に服して対応する変化を引き受けさせる。残りのパネルは個人たちの嗜好を対応する生産構造に移す貨幣的連係を扱う。貨幣的撹乱がなければ、生産構造はパネルIに記述される嗜好を実際に反映することが期待できる。しかし貨幣的撹乱があれば、これらの嗜好が実際に生産構造に反映されることは妨げられるだろう。もっと特定的にいえば、信用拡張の手段での貨幣ストック増加は誤って生産構造を延長させる試みへと資本家を導いて(、究極的には失敗させて)しまうだろう。

更なる研究

本論分で概説されたオーストリア派モデルの更なる発達はいくつかの方向のうちいずれをとることもできるだろう。たとえばこのモデルの用語でさまざまな制度的硬直の結果を分析できるだろうし、あるいはこのモデルはあれやこれやの期待を明示的に説明するために修正されるだろう。ここでの議論は、しかしながら、潜在的に実り多いように思われる一つの特殊な方向に制限するつもりである。本論文の先の節における結論に際して、オーストリア派のモデルはケインズ派のモデルと図表的に対照されたが、貨幣的考察の導入以降ではそのような対照は行われなかった。適切な比較は図13とIS-LMモデルの変種の間にあるものである。そのような比較がどう行われるかについて若干のコメントを付すことがこの場にふさわしかろう。

二つのモデルを比較する鍵は、図13のパネルVである。このパネルでの曲線の運動は胡散臭くもISとLMの運動に似ている。パネルVとIS-LM図表の軸は同じか似た大きさを測定するし、二つのモデルにおける曲線の概念化は一定の類似を呈している。どちらのモデルでも垂直軸は実質的に同じ大きさを測定している。IS-LMが貸付市場での利子率に関与するかたわらで、パネルVは貸付率をも含んだ外見上の利子率を測定している。IS-LM図が水平軸で(実質)総所得を測定するところで、パネルVは労働者の(名目)所得を測定している――すなわち、それは利子所得を排除するのである。(とはいえ、完全雇用所得Yが「賃金単位」で計測された労働者所得Nであるようなケインズ派のIS-LM図に実際に利子所得が含まれていることはこれっぽっちも明らかではない。)

さらに、IS-LMモデルの初歩的な定式ではIS曲線は対応するパネルVの曲線の概念化と一貫する仕方でしばしば概念化されている。たとえばダーンバーグとマクドゥーガルが我々に告げるには、「我々はIS表のことを、利子率に関する財とサービスの集計的需要表と解釈していい」。[55]利子率が言及するのは明らかに貸付市場での率である。とはいえ、「財とサービス」が言及するものが現在(消費)財であるか、それともあらゆる(消費と投資)財であるかはいくらか明らかではない。前者の解釈が採用されれば、二つのモデルで互いに対応する曲線は実際とてもよく似ている。後者の解釈が採用されれば、概念化の実際の意味は疑問を付される。もしもIS曲線があらゆる財への需要であるならば、あらゆる財の供給者とは誰か、そして彼らが供給量と引き換えに受け取っているものは何か?(!) あまり初等的ではないマクロ経済学の教科書はこの問題を明るみに出さない。あれらは普通、IS-LM曲線を概念化するどんな試みも控えることでこの問題を避けて通る。そうせず、経済の実質的および貨幣的な部門を記述する図の発展と見なしているのである。アクリーはIS-LM図の議論を締めくくる際、「今や我々は、これらすべての要素を一つの容器に入れてよくかき混ぜ、出来上がったシチューを味見しなければならない」と我々に告げる。[56]

パネルVの需要と供給の曲線をそれぞれISとLMとみなすことで、お馴染みの曲線運動が描写されうる。たとえば流動性選好の(非中立的)増加は利子率上昇を引き起こしながらLM曲線を左上に移動することができるし、あるいは貯蓄する本意の(非中立的)増加(つまり時間選好の減少)は利子率の下落を引き起こしながらIS曲線を左下に移動することができる。嗜好の変化はISとLMで現実の永続的な変化を引き起こすだろうが、名目的貨幣ストックの変化はこれを起こすまい。貨幣拡大は利子率を押し下げながらLM曲線を右に移動するだろうが、貨幣的刺激は現実の部門がもっと大きな貨幣ストックにすぐ身を調節するから一時的な効果しか起こすまい。IS曲線も利子率をその本来の水準に戻しながらまた右に移動するだろう。名目的貨幣ストックの変化は現実の永続的な利子率変化を起こさない。

このことはオーストリア派モデルとIS-LMモデルが同じか似た結論を生むとか、同じか似た含意をもつと言っているのではない。まったくの逆である。均衡条件がオーストリア派モデルのパネルVの用語で定義されることはできない。このパネルは、経済が貨幣的撹乱を件検している期間における、明白な利子率と労働者名目所得の運動を示している。均衡はパネルIとIIの用語で、すなわち関連する嗜好(時間と流動性選好)とこれらの嗜好に対応する生産構造の用語で定義されなければならない。これはIS-LMのゴッタ煮のような用語では定義できない。しかしながら、パネルVは二つのモデルとその含意を比較するための道を開けるのである。

参考図書

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[1] Ludwig von Mises, Human Action: A Treatise on Economics, 3rd revised ed. (Chicago: Henry Regnery Co., 1966), pp. 538-86. また、Mises, The Theory of Money and Credit, trans. by H. E. Batson (New Haven: Yale University Press, 1953), pp. 339-66も見よ。それと、Mises, “Money, Inflation and the Trade Cycle: Three Theoretical Studies,” trans. by Bettina Bien Greaves, ed. by Percy T. Greaves Jr. (Unpublished papers, 1923, 1928, and 1931).

[2] Friedrich A. von Hayek, Prices and Production (New York: Augustus M. Kelley, 1967). またHayek, Monetary Theory and the Trade Cycle, trans. by N. Kaldor and H. M. Croome (New York: Augustus M. Kelley, 1966)も見よ。

[3] Murray N. Rothbard, Man, Economy, and State: A Treatise on Economics, 2 vols. (Los Angeles: Nash Publishing Co., 1970), pp. 273501, 850-81. またRothbard, America’s Great Depression (Los Angeles: Nash Publishing Co., 1972), pp. 11-38も見よ。

[4] たとえば、Don Patinkin, Money, Interest, and Prices, 2nd ed. (New York: Harper and Row, Inc., 1965), p. 200を見よ。

[5] Hayek, Prices and Production, p. 34.

[6] Gerald P. O’Driscoll, Jr., Economics as a Coordination Problem: The Contributions of Friedrich A. Hayek (Kansas City: Sheed Andrews and McMeel, Inc., 1977).

[7] Hayek, Prices and Production, p. 38.

[8] Ibid., p. 36.

[9] W. Stanley Jevons, The Theory of Political Economy, ed. by R. D. Collison Black (Middlesex: Penguin Books, Inc., 1970), pp. 225-53.

[10] Gustav Cassel, The Nature and Necessity ofInterest (London: MacMillan and Co., Ltd., 1903), pp. 96-157.

[11] Eugen von Böhm-Bawerk, Capital and Interest, trans. by George D. Huneke and Hans F. Sennholz, 3 vols. (South Holland, Ill.: Libertarian Press, 1959), vol. 2., pp. 10-15と随所。

[12] Mises, Human Action, pp. 493-503と随所。

[13] Hayek, Prices and Production, pp. 36–68. また、Hayek, The Price Theory of Capital (Chicago: University of Chicago Press, 1941), pp. 193-201と随所も見よ。

[14] Rothbard, Man, Economy, and State, pp. 486-92と随所。

[15] Jevons, Theory of Political Economy, pp. 229-30.

[16] Ibid., p. 230.

[17] Cassel, Nature and Necessity of Interest, p. 54.

[18] ロスバードは「集計的生産構造」という用語を使いながらこの概念に言及する。Rothbard, Man, Economy, and State, p. 491.

[19] Jevons, Theory of Political Economy, p. 231.

[20] Böhm-Bawerk, Capital and Interest, p. 312ff.

[21] Mises, Human Action, pp. 488-89.

[22] Hayek, Pure Theory of Capital, p. 140ff. ハイエクは用語が非常にルーズな意味で用いられてもいい場合を除き、平均生産時間と同様に集計概念をも拒絶した。Ibid., p. 70を見よ。

[23] Rothbard, Man, Economy, and State, p. 412.

[24] Hayek, Prices and Production, p. 39.

[25] Ibid., p. 40.

[26] Hayek, Pure Theory of Capital, p. 113ff.

[27] Mises, Human Action, p. 244ff.

[28] Rothbard, Man, Economy, and State, p. 332.

[29] Jevons, Theory of Political Economy, p. 227.

[30] Ibid., p. 229.

[31] See footnotes 20 through 23.

[32] Mises, Human Action, p. 495.

[33] Ibid.

[34] Rothbard, Man, Economy, and State, p. 487.

[35] Hayek, Pure Theory of Capital, p. 70.

[36] G. C. Harcourt and N. F. Laing, eds., Capital and Growth (Middlesex: Penguin Books Ltd., 1971), p. 211. またG. C. Harcourt, Some Cambridge Controversies in the Theory of Capital (Cambridge, England: The Cambridge University Press, 1972), pp. 118-76を見よ。

[37] John R. Hicks, Capital and Time (Oxford: The Clarendon Press, 1973), p. 44.

[38] Hayek, Prices and Production, pp. 49-54.

[39] Ibid., p. 53. またRothbard, Man, Economy, and State, pp. 470-79 の、時間選好の変化によってもたらされた生産構造の変化を描写するため似た図表が用いられているところも見よ。

[40] Patinkin, Money, Interest, and Prices, p. 205.

[41] Ibid., pp. 17-21と随所。

[42] Friedrich A. von Hayek, Profits, Interest and Investment (London: George Routledge and Sons, Ltd., 1939), p. 177.

[43] Hayek, Prices and Production, p. 11. ハイエクはノーベル講演でこの立場を再肯定した。Hayek, Full Employment at Any Price? (London: Institute for Economic Affairs, 1975), pp. 23ff. and 37を見よ。

[44] Hayek, Prices and Production, p. 54. またMises, Human Action, p. 556とRothbard, Man, Economy, and State, p. 885も見よ。

[45] Milton Friedman, The Optimum Quantity of Money and Other Essays (Chicago: Aldine Publishing Co., 1969), p. 4ff.

[46] Patinkin, Money, Interest, and Prices, p. 200と随所。

[47] Mises, Human Action, p. 418.

[48] Hayek, Monetary Theory and the Trade Cycle, p. 46.

[49] しかしながら、ヴィクセル派の「自然」率が恒常的価格水準に対応する率である一方で、オーストリア派の「自然」率は信用拡張による貨幣創造の欠如に対応する率であることが指摘されなければならない。Hayek, Monetary Theory and the Trade Cycle, pp. 109-16を見よ。また、Rothbard, Man, Economy, and State, p.940も見よ。

[50] これがパティンキンの注意を捕らえた市場過程である。Patinkin, Money, Interest, and Prices, pp. 236-44.

[51] Mises, Human Action, pp. 559-61.

[52] Hayek, Prices and Production, pp. 18-31と、Hayek, Profits, Interest and Investment, pp. 183-97.

[53] ハイエクは生産構造を延長しようとするこの不成功の試みをリカード効果の用語で説明するHayek, Profits, Interest and Investment, pp. 8-15を見よ。またHayek, “The Ricardo Effect,” Economica, IX, No. 34 (new ser.; May 1942): pp. 127-52 reprinted in Hayek, Individualism and Economic Order (Chicago: Henry Regnery Co., 1972) pp. 220-54とHayek, “Three Elucidations of the Ricardo Effect,” Journal of Political Economy, 77 (March/April 1969): pp. 274-85も見よ。

[54] Rothbard, America’s Great Depression, p. 19. またLionel Robbins, The Great Depression (London: The MacMillan Co., Ltd., 1934), pp. 30-54も見よ。

[55] Thomas F. Dernburg and Duncan M. McDougal, Macroeconomics (New York: McGraw-Hill Book Co., 1968), p. 161.

[56] Gardner Ackley, Macroeconomic Theory (Toronto: The Macmillan Co., 1969), p. 347.

(出典: mises.org)

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