ジャン=バティスト・セーとバンジャマン・コンスタン:自由主義闘争での戦友
Jean-Baptiste Say et Benjamin Constant, frères d’armes dans le combat libéral. Par Gérard Minart, [http://www.institutcoppet.org/2016/03/02/jean-baptiste-say-et-benjamin-constant-freres-darmes-dans-le-combat-liberal]
バンジャマン・コンスタンとジャン=バティスト・セーは同じ年、一七六七年に生まれた。彼らはともに、ナントの勅令廃止後にフランスを去り、スイスに非難したプロテスタントの家系であった。彼らは二人とも、革命当初の一七八九年の諸原理を信奉し、十九世紀最初の四半世紀の間、自由主義理念の闘争の前衛にいた。
しばしこの時代に留まろう。コンスタンとセーは一七八九年に二十代だった世代に属する。この世代は異例の事態に遭遇した――革命、恐怖政治、テルミドール、総裁政府、統領政府、帝政、百日天下、二重の復古、栄光の三日間と、七月王政の開始だ。フランス大革命はボナパルトに持ち直されるまでアナキーに沈んだが、イギリスでは先の革命と同じだけ重要で、世界を作り直したもう一つの革命、産業大革命が起こった時代。この時代について、アルベール・ティボーデがうまく言ったとおり、「ルイ十六世の下で青年期を、革命と帝政の下で青年期を、復古王政の下で老年期を過ごした者には、歴史の許すなかでも、最も多様、最も強烈な記憶が残るだろう」。[1]
[1] Albert Thibaudet, op.cit., p.67.
かくて、コンスタンとセーは啓蒙からロマン主義へ、老いた君主政から若い共和政へ、農業経済から産業経済への変遷に生きた。彼らは、我々の時代にも匹敵する、「破壊・復興」とも言いうる再構成のために、理念、制度、風俗、経済――すべてが別様に移ろう時代を知っていた。繊維業への機械の導入が、我々の活動でのデジタルの到来にも等しい大激動をもたらした時代である。
一九六六年に著された記念碑的な作品『バンジャマン・コンスタンと彼の学説』の序文で、ポール・バスティは四半世紀前に著した『シエスと彼の思想』を思い出した。彼は幾つかの文で、「二人の精力的な思想家」ことシエスとコンスタンの政治的理念に関して彼が挙げたパラレルの主な特徴を際立たせた。というのは、「個人的自由が彼らに共通する唯一の宗教であった」こと、「人格の独立」を称えたこと、「覇業と不寛容の精神に引っ掻き回される時代において」、「権力と派閥に直面する自由人」の像を著すよう強く引かれていたことだ。[2]
[2] Paul Bastid, Benjamin Constant et sa doctrine, Paris, 1966, Armand Colin, tome 1 p.5.
これはもう一つのパラレル、コンスタンとセーの関わりに適用するとき、少しも変更せず繰り返すことができる。
そのようなパラレルを正当化するためには、とりわけ、ジャン=バティスト・セーに指導された共和派知識人の刊行物『十年』が、バンジャマン・コンスタンの最初の大著を賞賛したときの熱烈さに言及することができる。今は昔、一七九六年、総裁政府の下にありけり。恐怖政治を生き延びた穏健共和派が新憲法――共和暦三年憲法――を起草し、元老院と五百人院の二院に委ねられた立法権と五人の総裁に帰せられた行政権を制定した。異なる権力を分割しながら、この憲法の執筆者は、ロベスピエールの独裁を許した機関、公安委員会と一般安全委員会を打ち破ろうとした。その抱負は、均衡制度の手段での功績を確固とし、そのような制度を財産家に代表される国民の安定的部分のうちに定着させることで、革命の波を食い止め、革命を終わらせることであった。
バンジャマン・コンスタンが一七九六年に筆を執り、非常に明示的な表題のDe la force du gouvernement actuel de la France et de la nécessité de s’y rallier(『フランス現行政府の力とこれに加わることの必然性について』)の著作で公論に訴えたのは、平等派の陰謀に脅かされた直後において、この共和的政権の立憲的経歴の第一歩を支持することであった。彼はLa Décade(『十年』)誌で速やかに同調された。この雑誌は一七九六年五月十九日と二十九日の号で、この書籍から長い抜粋を行いながら彼に二つの記事を捧げた。
『十年』は一七九四年に創刊された。それは『哲学的、文芸的、及び政治的』雑誌を予定した。それは、ロックとコンディヤック、コンドルセを主要な参考知識人にとり、公然と共和主義者を自認する、啓蒙と百科全書の世紀を継承する若い進歩派知識人の運動、イデオローグの機関誌として通っていた。その総編集者、今日でいう編集長こそ、ジャン=バティスト・セーであった。
『十年』は後の一七九七年に再び、王政派で活気付くクリシーのサークルに抵抗するためのバンジャマン・コンスタンの主導での立憲サークルの創造を支持した。
かくて、コンスタンとセーの第一の収斂は総裁政府の下に観察される。
この収斂はまずpolitique〔政治的〕であり、république〔共和的〕と称された。
しかしどんな共和政でも、とはいかなかった。権力分立に特徴付けられ、ジャコバンや王政派の極端から疎遠で、なによりも、かの革命の戦利品たる自由と平等、特権の廃止、財産の尊敬、世俗的と精神的の分離、公共教育の発達と才能の活用を実施するために設立された、穏健な共和政だ。
バンジャマン・コンスタンは記す。「人々の不平等、道理に適ったその二つの理由、財産と才能が、その権利を取り戻すだろう」。[3]
[3] Paul Bastid, op.cit., p.109.
そのうえ、バンジャマン・コンスタンに当時の共和主義の特許を授けるべきとしたら、それはネッケルに与えられていた。一七九六年一月、彼は友人宛の手紙において、娘のスタール夫人とバンジャマン・コンスタンが「ともに、驚くほど共和的な理念と希望に傾いている」と語っていた。[4]
[4] Ibid., p.110.
共和暦三年憲法が立法と司法の紛争を調停するための有効な手続きを制定せぬまま非常に過剰な仕方で別々の権力を分割しようとその制限を示し、その政権が国をアナキーの瀬戸際まで突き進めたたとき、この政権の一幕は区切られなければならなかった。
一七九九年十一月、セーと『十年』、イデオローグの大多数は、ボナパルトのブリュメール十八日クーデタを支持した。バンジャマン・コンスタンはこの成り行きに従って、彼の成功をスタール夫人に伝えるため、サン=クルーに姿を現した。その支持の理由は二つあった。先の総裁政府の非効率を非難するものすべてと、ボナパルトが秩序と自由の両方を行き渡らせることのできる「フランスのワシントン」になりうると考えるものすべて。とりわけ、当時のボナパルトは知識人の下に足繁く通い、進歩的将軍の名声を勝ち取り、学士院のメンバーに選ばれていた。
それは第一統領にとっては、イデオローグたち――及びジェルメーヌ・ド・スタールとバンジャマン・コンスタン――からの思いがけない出来事であった。
彼の態度は、概していえば、幾らかの「甘さ」で報いるものだった。
一八〇〇年の早期には、新政権の諸制度、すなわち国務院、護民院(ジャン=バティスト・セーとバンジャマン・コンスタンの事例)、立法院、元老院にはイデオローグが指名された。
しかしこの議会的な旅路は短かった。自由への最初の攻撃に抗議し、一定の極度に権威主義的な企画への投票を拒否することで、多くのイデオローグたちが一八〇二年には護民院から排除された。
これはバンジャマン・コンスタンに当てはまる。
彼らは「形而上学者」、「弁護士」――あるいは口達者どもの別の言い方で――「害虫」になった、このようなものが先の友、第一統領からの言葉だった。
またジャン=バティスト・セーも、先〔〇三年〕に出版されて成功を収めた『政治経済論考』の幾つもの部分をボナパルトの指示の下で書き直すことを拒絶したかどで一八〇四年に排除された。第一統領はこの論考を自分の国家政策に役立てようとして欲していた。このそれまで接近していたこの二人の男たちの衝突は、決定的な決裂を記録する。セーは称号や金銭で妥協せず、ボナパルトの失墜までに彼と全面的に絶縁した唯一のイデオローグとなった。
短い議会的経験の後、コンスタンとセーの行く道が分かれたとしたら、それはコンスタンが政治家と著述家の二足のわらじを続けたかたわら、セーが経済教授の後パ=ド=カレーで企業家になったことであり、彼らの政治的理念が隔たったとしたら、それはコンスタンが立憲君主制を、市民の法的形式と保障を尊敬するかぎりで受け入れたかたわら、セーが命のかぎり、ジョン・スチュアート・ミルの判断いわく「最善の種類のフランス共和派の好例」だったことであれ、二人ともその多様な経歴を通して、自由の熱烈な擁護者なままであった。
彼らは、同じく経済の領域でも、若かりしころに受けた影響に忠実なままであった。というのは、アダム・スミスの影響だ。
コンスタンとセーは早くからアダム・スミスの作品を発見していた。前者はエディンバーグで研究していた十七歳のとき。後者は後のジドンロ派大臣クラヴィエールの秘書を務めていた一七八九年、二十二歳のときだ。クラヴィエールはその書斎に『国富論』の献呈本を所有していた。また、『十年』はスミスの著述の翻訳を考慮していた。かくて一七九八年、アダム・スミスのもう一冊の大著にして、ちょうどコンドルセ未亡人ソフィー・ド・グルシーの新しい翻訳の対象となった『道徳感情論』に二つの長い記事が割かれた。
コンスタンとセーのパラレルは他にも多くの要素を加えることができる。
たとえば出版の自由を擁護する同じ情熱。
たとえば奴隷貿易を非難する同じ関与。出版の自由の友の会以前のジャン=バティスト・セーが一八一八年、アテナエウムでのバンジャマン・コンスタンが一八一九年に、奴隷制に抗して立ち上げた「世界市民」のため、サミュエル・ロミニー卿の雄弁な追悼弔辞を読んだのは偶然ではない。
たとえばイギリス制度への同じ関心。二人ともイギリスに滞在していた。二人ともイギリスの言語を喋った。二人とも自由の存在と行使が伝統と立法に起因する確固たる保障に包まれている民族を賞賛した。ここではイギリスが当時の最良の精神に及ぼした魅力を力説しよう。ベーコンとロックを介しての、哲学的魅力。一六八八年の大革命をもっての、政治的魅力。発明家と企業家の天才による、技術的魅力。生産的装置の途方もない発達に伴う、産業的魅力。ピエール・ルブーよりうまくこの魅力を纏めた者はいない。彼が記すとおり、当時のフランス人にとってのイギリスは、現代人にとってのアメリカ合衆国、いわば「未来の生活の景色」であった。[5]
[5] Cité par Bertier de Sauvigny dans son livre La Restauration, Paris, Flammarion, collection Champs, p.331.
はては、たとえば若いアメリカへの同じ魅了。コンスタンは恐怖政治の下、セーはナポレオンの下で、二人がフランスに絶望したとき、アメリカに立ち去ることを夢見た。
「アメリカよ、アメリカよ〔……〕ヨーロッパですべての自由が死に果てるならば、わたしはそれゆえにアジールに留まるのだ」とバンジャマン・コンスタンは記した。[6]
[6] Henri Grange, Benjamin Constant amoureux et républicain 1795-1799, Paris, 2004, Les Belles Lettres, p.25.
ジャン=バティスト・セーについて言えば、彼は紡績工場を売却した後の一八一三年に、アメリカン・ドチームの誘惑を催して、家族とのアメリカ永住を企てた。彼はその巨大な国土地図を研究史、異なる地域ごとの、気候、土壌構造、土地価格の情報を集めた。バージニアの選択さえ決定した。この歓迎する国土へ彼を案内したのはその住民のなかでも最も著名な人物――一七八五年から八九年までのパリ駐在アメリカ人大使、フランスとイデオローグたち、わけてもジャン=バティスト・セー彼自身の親友、トーマス・ジェファーソンであった。最終的には、セーは祖国離脱の計画を放棄した。
この一頻りの悲観の後、恐怖政権の絶頂にもかかわらず、セーとコンスタンは革命的時代のそこそこ楽観的な判断に辿り着いた。
セーが一八〇一年に、一七八九年~九九年の期間をざっと振り返って記すには、
先の十年は概して言えば先の世紀の最も美しい十年にして、最も長く、最も大きな帰結を生じる十年であった。
そしてコンスタンとしては、「我々の幸福な革命」という演説において、「わたしはこれを、その過剰にもかかわらず、幸福な、と称します。なぜならばわたしは成果に視点を合わせるからです」。
ナポレオン帝政の崩壊後、ジャン=バティスト・セーとバンジャマン・コンスタンはそれぞれパリにおいて、一般公衆向けの会議を開く自由教育協会アテナエウムの教壇で自由主義の講義を行うことに相成った。また、セーのアーカイブにはコンスタンの一八一九年二月十三日の会議に出席を申し込むセー自筆の文書を見つけることもできる。
ここには二人の男たちのもう一つの本質的な収斂が現れている。公共教育への同じ献身だ。これはイデオローグたちの非常に強力で非常に現存的なテーマであった。この教育への献身はコンスタンとセーの一生涯を通じて続いていた。そのような教育の意志は自由の利益を理解でき、これを擁護できる啓蒙的な公論の形成を目指している。
バンジャマン・コンスタンは『政治学原理』の発表において、彼の執筆時のそのような意志を主張する。
わたしの目的は初等的な作品を執筆することであった。政治学の根本的諸原理については、わたしの知るかぎり、この種の作品が欠けているように思われた。[7]
[7] Benjamin Constant, Principes de politique, Paris, 1997, Hachette-littératures, collection Pluriel, p.21.
セーにとっても同じで、彼は最後の作品Cours
complet d’économie politique pratique(『実践的政治経済の完全講義』)でその目標を実に明示的に述べている。すなわち、為政者、土地所有者と資本家、学者、農家、製造業者、商人、全市民一般の目の下に、諸社会の経済を置くことだ。
ジャン=バティスト・セーも出席を願ったコンスタンのアテナエウム〔パリ王立アテネ〕での会議は政治的自由主義の歴史の暁であり、その創始テキストの一つになった。その表題はDe la liberté des Anciens comparée à celle des Modernes(『近代人の自由と比較された古代人のそれ』)だった。
近代人――これこそがコンスタンとセーの思想を取り結ぶキーワード、コードワード、サインワードだった。
近代人の政治的自由はバンジャマン・コンスタンの成句に纏められる。個人の独立だ。
また、近代人の経済的自由はジャン=バティスト・セーの成句に纏められる。生産者活動の独立だ。
コンスタンが近代人の自由に関する性格を定義し明示しようと努めたならば、セーがその自由が花開く将来社会の輪郭を定義し明示しようと努めたといえる。
その社会とは、産業的社会であった。[8]
[8] Voir à ce propos l’étude de Philippe Steiner : Say, les Idéologues et le groupe de Coppet. La société industrielle comme système politique, Revue française d’histoire des idées politiques (numéro spécial sur les Idéologues) 2003/2, N°18, p.331 à 353. Sur Internet.
したがって、その法律的形式と立憲的保証は国家の侵犯に対する権利と自由の保護的領域を市民個人と生産者個人のまわりに創造することが目標である。
一八一九年から一八三〇年までに広がる、長からず高からぬ期間――されど、自由主義の歴史においてかくも重要な時代――を眺めるとき、何が見えるだろうか? バンジャマン・コンスタンが代議院の演壇で議会政権に教授を施し、ジャン=バティスト・セーが工芸院ひいてはコレージュ・ド・フランスの講談で自由主義経済を教授するところが見える。
歴史家はこの時代をLa Restauration(ラ・レストラシオン、『王政復古』)と呼び、この用語はブルボン家のフランス復帰に適用される。我々自身としては、これがもう一つの領域における復古であることを強調しよう。自由主義理念の復古である。ロベスピエール独裁で追いやられ、ナポレオン権威主義に押し殺されながらも、一八一四年憲章が差し出したきっかけのおかげで、それらの理念は公的討論の余地を取り戻したのだった。
一定数の論評家がバンジャマン・コンスタンを自由主義の学長、ジャン=バティスト・セーをフランス自由経済学派の教師と称したのはもっともである。自由を教える――あるいは、教えなおす――べきときがきていたのだ。
かくて我々は、自由主義の二冊の教科書、あるいはもっと適切に、その二冊の聖書のようなものである、バンジャマン・コンスタンの『政治学原理』とジャン=バティスト・セーの『政治経済論考』、この二冊の書籍に及ぶだろう。
今日でさえこの二冊の書籍は、二世紀を経ても明晰さと正確さにかけてなお若々しく、現代の退屈で曖昧な言説の多くに対し、政治学と経済学の導入として価値がある。