かぐや姫、もう一人のナウシカの物語
「かぐや姫の物語」は、天才・高畑勲の大傑作であると同時に、「風の谷のナウシカ」の続編である。
こう言うと、何を言っているんだ、という声も上がるだろう。
それでも、声を大にしていいたい。かぐや姫の物語こそがナウシカの正当なる続編だということだ。
かぐや姫・虫愛づる姫
「かぐや姫の物語」を見られた方は、少なからず違和感を感じたかと思う。
「竹取物語」に出てくる姫と「かぐや姫の物語」に出てくる姫は、だいぶ印象が違う。
かぐや姫は、「よくもない顔立ちで、相手の深い心も知らず軽々しく結婚して、浮気でもされたら後悔するに違いないと不安です。天下の恐れ多い方々であっても、深い志を知らないままに結婚などできません」と言う。
五人の中に、私が見たいと思うものをお見せくださったならばその御方に、御志がすぐれていると思い、妻としてお仕えいたしましょう、とお伝えください」と言う。翁は「よろしい」と承知した。
(竹取物語〜現代語訳より)
「竹取」のかぐや姫は、愛が消えてしまうことへの「恐れ」「不安」を表に出しているけど、結婚そのものや宮廷生活そのものを拒否する言葉はない。
帝とも和歌でこころを交わしていて、間違いなく二人の間には通じ合うものがありました。(アニメ版の帝がいやらしすぎたのでは、という説は置いておくとして)
野山を愛し、故郷から宮廷に連れて来られた…というキャラクターは、高畑勲が作り上げた「かぐや姫であってかぐや姫ではない」主人公にすぎない。
では、「かぐや姫の物語」に出てくるあの魅力的な姫は、いったい誰がモデルになっているのだろうか。
その鍵は、原作版「風の谷のナウシカ」の中の宮﨑駿へのインタビューの中にある。
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ナウシカを知るとともに、私はひとりの日本のヒロインを思い出した。たしか、今昔物語にあったのではないかと思う、虫愛ずる姫君と呼ばれたその少女は、さる貴族の姫君なのだが、年頃になっても野原をとび歩き、芋虫が蝶に変身する姿に感動したりして、世間から変わり者あつかいにされるのである。(「風の谷のナウシカ」アニメージュ版より)
風の谷のナウシカで宮﨑駿監督が「ナウシカ」のモデルとして紹介した「姫」が、堤中納言物語で「虫愛ずる姫」と呼ばれた姫だ。
そして、この「虫愛ずる姫」こそはこの「かぐや姫の物語」の主人公であるかぐや姫のモデルではないだろうか。
虫愛ずる姫は、日本の古典の中でもひときわ活き活きと描写された、とても魅力的なキャラクターだ。
お歯黒を塗らず、自然を愛し、物事の本質にひときわ敏感な女性だ。
この姫君は「人々が蝶や花を愛でる様は、ほんの一時的なことで良くないわ。人は誠実で本質を突き詰めようとする心映えこそが美しいのよ」と言っていろいろなたくさんの恐ろしそうな虫を採り集め、「これらが成長する様を見届けるわ」と籠箱に入れて飼っていました。
「心苦しいと思うことなんてないわ。どんなことでも根本を見極めて、その末を見届けてこそ意味があるのよ。世間のことを気にするだなんて、子供っぽいと思うわ。私は烏毛虫が蝶になる過程に興味があるの」と、その様子を取り出して見せるのでした。
(虫愛ずる姫君(現代語訳)より)
「虫愛ずる姫君」では、当時お歯黒や眉毛を抜くことが常識だった中、世間の常識に従わず、虫達や生命を愛し、生きることの喜びを愛した姫君が、イキイキと描かれています。それは、下のようなセリフにも現れている。
人々の、花、蝶やとめづるこそ、はかなくあやしけれ。人は、まことあり、本地たづねたるこそ、心ばへをかしけれ
(人々の、花や蝶を愛する心は無意味で虚しいでしょう。真の本質を探ることこそ、本当に価値があるのです)
「かぐや姫の物語」とは、「竹取物語」のプロットの中で生きる「虫愛ずる姫」を描いた作品だと言えるのではないだろうか。
ナウシカア
同じモチーフにも関わらず、かぐや姫とナウシカの人生は対極にある。
ナウシカの物語は、「異世界への冒険」が主軸になっており、彼女には風の谷という帰る場所がある。
ナウシカは破壊と死の中から生を見出したが、約束された正常な世界をその手で引きちぎり、汚染された腐海で森の人と暮らすことを選んだ。
かぐや姫はあくまで異邦人であり、罪を洗い流すためにやってきた現世(下界)が、彼女にとっての異世界だ。
彼女は汚染された下界で愛する人を見つけ、翁と媼の精一杯の愛を受け、虫や、木々や、獣のはちきれんばかりの美しさを知り、そして、それを全て忘れて月へと帰った。
宮﨑駿監督は、虫愛ずる姫についてこう語っている。
社会の束縛に屈せず、自分の感性のままに野山を駆けまわり、草や木や、流れる雲に心を動かしたその姫君は、その後どのように生きたのだろうか・・・。今日なら、彼女を理解し愛する者も存在し得るが、習慣とタブーに充満した平安期に彼女を待ちうけた運命はどのようなものであったのだろう・・・。
これは、まさに「かぐや姫の物語」そのものではないだろうか?
残念なことに、ナウシカとはちがって、虫愛ずる姫君には出会うべきオデュッ セウスも歌うべき歌も、束縛を逃れて流浪らうあても持っていなかった。しかし彼女に、もし偉大な航海者との出会いがあったなら、彼女は必ず不吉な血まみれの男の中に、光かがやくなにかを見い出したはずである。
そう、「かぐや姫の物語」こそ、描かれなかったもう一人のナウシカなのだ。
風の谷に風が吹かず、メーヴェを持たず、しきたりと慣習に縛られたナウシカの姿こそがここにある。
我々はナウシカを知るからこそ、我々は無意識にかぐや姫が成し得たはずの沢山の冒険譚を想像し、それらが永遠に訪れないことを考え、涙する。
あふれんばかりの魅力を持った「虫愛ずる姫」を、「竹取物語」という悲劇に押しこめて。
駆け回れなかった野山を、収穫されなかった茸を、歌われなかった歌を、見られなかった笑顔を、僕らの胸の内にぽっかり空虚として残していく。
こんなことは誰にもできっこない。
そう、高畑勲は天才なのだ。