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徴税請負人とその弟(前篇)
それは紛れもなく、事件だった。
いつも通りの昼下がり、いつも通り変わらぬ居酒屋のぶにいつも通り訪れた徴税請負人のゲーアノートはいつも通りなら頼むはずのナポリタンを、注文しなかった。
「……赤ワインを。つまみは要らない」
呟くように言ったのはそれだけだ。
カウンターに両肘を付き、秀でた額を両掌で支えるようにして黙り込む。酔いたい気分なのかと思ったが、リオンティーヌが赤ワインのグラスを持って行っても、一瞥して受け取るだけで口を付けようともしない。
「何かあったんですかね?」
「さてね、珍しいこともあるもんだ」
しのぶが尋ねてもリオンティーヌは肩を竦めるだけだ。
先日のササリカ米騒動はゲーアノートの機転でどうにか収まった。サクヌッセンブルク侯爵家は安く備蓄用の穀物を買うことができたし、アイゼンシュミット商会は春用の回転資金を手に入れ、倉庫を開けることができた。
こちらの世界で取れる米がそこそこ美味しいということが分かったのも収穫だ。
品種改良した日本の米の方が当然美味しいと思っていたのだが、こちらの米にもこちらの米の良さがある。少しもち米に似た粘りがあるので、おこわや粽も試してみたくなる食感だった。
どんな料理に使えば美味しいかを考えていると、通りから旅芸人の吹き鳴らす笛の音が店内まで響いてくる。何処かの国の王族か貴族が急遽古都を訪問することになったということで、季節外れの賑やかさが街を覆っていた。
冬の寒い時期だというのに何をしに来るのかが噂になっていたが、よく分からないというのが実のところのようだ。そもそも本当に来るのかどうかさえ疑わしい。
そんなことよりも、今心配なのはゲーアノートのことだ。
ゲーアノートのナポリタン好きは堂に入ったもので、余程のことがない限りそれ以外のものはのぶで注文しない。いい加減に飽きないだろうかとしのぶも密かに心配しているのだが、そういう気配は全く感じられなかった。それが、今日に限って。
「少し心配だな」とハンスが呟く。
「ハンスもそう思う?」
「シノブさんも気になりませんか? 仕事で失敗するような人じゃないし、誰か会いたくない人にでも会ったんですかね」
「会いたくない人かぁ」
自分の会いたくない人の顔を思い浮かべそうになって、しのぶは小さく頭を振った。
「オレが今会いたくないのは、親父ですね」
冗談めかした口調でそう笑うハンスの言葉に、しのぶは無理に笑顔を返す。
たとえ肉親でも、会いたくない人には会いたくないものだ。
「そういえばローレンツさん、最近お店に来ないけどどうかしたの?」
「喧嘩中なんですよ、去年の年末からずっと」
「ずっと?」
そんなことは初耳だ。客として店に来ていた頃のハンスは親子仲がそれほど悪いようには見えなかったのだが。
「親父はオレが料理人を目指しているのが気に食わないんですよ。だから……」
「そういうのは、一度ちゃんと話しておいた方が良い」
割って入ったのは、信之ではなくゲーアノートだった。ゆっくりと顔を上げ、傍らのグラスを手に取ると一気に中身を干した。普段のゲーアノートからは考え難い飲み方だ。
「すみません、聞こえてましたか、ゲーアノートさん」
「気にする事はない、シノブさん。ほんの少しだけ人より耳が良いだけだ」
口元に薄く笑みを貼り付けながらグラスを掲げるゲーアノートに、リオンティーヌが次の一杯を注いでやる。こちらの世界のワインではなく、日本で買ったチリワインだ。安いが、味が良い。
店員として雇ったハンスとリオンティーヌには隠し続けることはできず、信之と話し合って居酒屋のぶの裏口の秘密は既に打ち明けてある。二人の反応は、今一つだ。
異世界へ繋がっているということは何となく分かっている。むしろそれが特殊なことだということが腑に落ちないようだ。御伽噺で妖精の国へ行くような話とあまり大差がないと思っている。
そうではないということをしのぶは必死に訴えるのだが、
「要するに私とハンスとエーファが内緒にしておけばいいってことだろ? あたしとしてはここで美味い肴と美味い料理が食べられて、ついでに給料に遅れが無ければそれでいいよ」
と煙に巻かれてしまった。
「それでゲーアノートさん、聞こえていたついででなんだけど、落ち込んでいる理由を聞かせちゃもらえないかね」
聞きにくい事でも、リオンティーヌは単刀直入だ。
ゲーアノートは逡巡するように少し片眼鏡を弄んでいたが、意を決したようにグラスの中身を空にした。
「どうやら、この街に私の弟が来ているらしいのだ」
重大な罪の秘密でも打ち明けるような重々しい口調だが内容は到って普通だ。
「弟さん、いたんですか?」
驚いたような声を上げたのは信之だ。
刑事ドラマを見るのが趣味な彼は、店に来た客の家族構成を勝手に想像するのを楽しみとしている。雑談の中で答え合わせをして楽しんでいるらしい。今回はどうやら外れたようだ。
「弟もいるし、両親も健在だ。どうやら私を木の股か洞から生まれたことにしたい奴もいるようだが、到って普通の人間だよ」
三杯目をリオンティーヌに注がせてすぐに、また飲み干す。今日のゲーアノートはやはりいつもと様子が違う。ビールなら随分と飲んだのをしのぶも見たことはあるが、ワインをこれだけのペースで空けているのは見たことがない。よくない飲み方だ。
「で、その弟さんってのがこの街にいるとどうして拙いっていうんだい?」
グラスを掲げて四杯目を求める手をやんわりと制しながらリオンティーヌが尋ねると、ゲーアノートは観念したように渋々応えた。
「弟は、私が徴税請負人をしていると知らない。知らせるつもりもない。だから、会う訳にもいかない。そうでなければ昼間から仕事もせずに酒など飲んではいないよ」
「そうだったんですか……」
しのぶの知っている徴税請負人はゲーアノート一人だが、こちらの世界では随分と嫌われる職業だということは常連客の口ぶりから分かる。自分の仕事に誇りを持っている筈のゲーアノートが実の弟に打ち明けられないというのもその辺りの微妙な機微があるのだろう。
「そういえばゲーアノートの旦那はどうして弟さんが古都にいるって分かったんだい?」
リオンティーヌがそう尋ねるのとほぼ同時に、居酒屋のぶの硝子戸が控えめに敲かれた。
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