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だしまきたまご(前篇)
「これはどういうことだろうか、男爵」
開店したばかりの居酒屋のぶに、また厄介そうな客がやって来ていた。
二人連れの客の内、一方は一度この店に来たことがある。
ブランターノ男爵。
古都近くに領地を持つ貴族で、大のカードゲーム好きだ。
居酒屋のぶを一晩借り切りたいという無理難題を吹っかけてきたが、しのぶが作った賄いのカツサンドを美味い美味いと食べて帰った貴族である。
問題なのは、もう一人の方だ。
男爵に対して慇懃無礼な口を利く白髪の老人の正体が、しのぶにはどうしても分からないのだ。
美しく着飾り、小脇に胴の丸い小さなギターのようなものを抱えている。しのぶには何の職業をしている人物なのか全く見当も付かない。
「美食家と名高い男爵の饗応を受けられると聞いて、遥々帝都から罷り越したのだが、宴はこの居酒屋でするという。私は気付かぬうちにブランターノ男爵の気に何か障るようなことでもしでかして、その意趣返しに手の込んだ招待状まで認められたという事であろうか?」
「そうではない。そうではないよ、クローヴィンケル」
クローヴィンケルという名前が出た途端、たまたま居合わせた水運ギルドのゴドハルトと、アルヌがこちらを振り向いた。
二人の知り合いかとも思ったが、水運ギルドのマスターと放蕩息子ではどこで人脈が重なっているのかしのぶには見当も付かない。
「ここの料理は素晴らしいのだ、クローヴィンケル。先だってのヒルデガルド妃の結婚式での騒動はもちろん覚えているかと思うが」
「アンカケユドーフ事件、でしたかな。東王国にもそれらしい料理がないということで歳若い妃の想像上の食べ物ではないかということで一応の決着を見たように記憶しておりましたが、その後ブランターノ男爵の周囲で何か新しい事態が出来しましたかな?」
「クローヴィンケル、この店だ。この店こそが、アンカケユドーフを出した店なのだよ。私も気に入っている」
大袈裟な手振りで居酒屋のぶをブランターノが讃えて見せる。
だが、ゴドハルトとアルヌはそれどころではないらしい。まるで芸能人にでもあったかのように、クローヴィンケルという男の方をチラチラと確認している。
「何と! あの店は本当に存在したのですか。あれだけ多くの帝国貴族諸氏が探しても見つけ出せなかったものをブランターノ男爵、よく見つけ出して下さいました。先程は誤解からとは言え大変失礼なことを言ってしまったと深く反省しております」
「いや、良いのだ。それよりも酒場に来て肴にも酒にも親しまないというのは具合が悪い。早速注文しようではないか」
「ええ、ええ、そうしましょう」
おしぼりとお通しを既に置き終えたしのぶを、ブランターノが優雅に手を上げて呼ぶ。
「“トリアエズナマ”を二つ貰おうか」
「はい、生二丁ですね」
どこか得意げなのは、事前にこの店の事を調べさせたからだろう。
前回来た時もカツサンドの代金に金貨を置いて行ったり、意外と御茶目なところがある貴族なのかもしれない。
「それと、何かお勧めの肴を出して貰おう。できれば、温かい物を」
「はい、温かい物ですね」
「敢えて断る必要もないが、美味いものを頼む。何と言っても、こちらの吟遊詩人のクローヴィンケルの口に入るものだからな」
「あっ」
吟遊詩人と聞いてしのぶの脳裏に閃くものがあった。
そういえば、ゴドハルトが好きだと言っていた詩人もクローヴィンケルという名前ではなかったか。それと、アルヌが目指そうと言っていたのも。
道理でさっきから二人が仔犬のように目を輝かせているわけだ。
しのぶはこのことを信之に伝えようと振り返ってみるが、どうやらあちらでも既にこの事に気付いていたようだ。
何とも言えない良い笑みを口元に封じ込めて、二人の美食家に出す料理の盛り付けに勤しんでいる。
「お待たせしました」
「ほう、これは」
注文に対して信之が選んだのは、牡蠣のグラタンだ。
普段はあまり奇を衒った料理を好まない信之だが、たまにこういうことをしてみる。
牡蠣の身をそのままに、ホワイトソースで旨味を封じ込めた牡蠣のグラタンを牡蠣殻に盛り付けている。
見た目も楽しいが、味も良い。しのぶの好みからすれば少し味付けが古都寄りに過ぎている気がするが、あくまでも趣味の範囲のことだ。
これを美食家二人はどう判断するのか。
「鉄砲貝の殻を使ってグラタンを盛っている、というのは中々面白いですな。東王国の宿で似たようなことを考え付いた料理人がいたはずですが、あれは確か西瓜をくり抜いて中にフルーツの糖蜜付けを盛ったんでしたか。あれも面白いが、こちらもなかなか素晴らしい」
「味もなかなか良いぞ、クローヴィンケル。鉄砲貝への火加減が良い具合だ」
二口ほどでグラタンを食べてしまったブランターノは次の牡蠣に取り掛かっている。長い指先で牡蠣殻を摘まむさまは優雅で、流石に洗練されていた。
それに対してクローヴィンケルは一つ目の牡蠣を口に含んだまま、じっと何かを考え込んでいる。
「あ、あの、お気に召しませんでしたか?」
思わず聞いてしまったしのぶだが、クローヴィンケルは応えない。
ただグラタンを味わいながら、瞑目して低く唸っている。
こういう客は、珍しい。
その所作は、料亭ゆきつなに来た覆面調査員を思い出させる。
「なるほど」
これまでの饒舌さとは打って変わって、クローヴィンケルはたった一言そういうと、ビールのジョッキに口を付けた。
その表情からは、満足したのかそうでなかったのかは窺い知れない。
「どうだった、クローヴィンケル。結構いけるだろう?」
「そうですな、男爵」
「なんだ、グラタンは気に入らなかったのか?」
「いえ、そう言うわけでは」
クローヴィンケルは小さく咳払いをすると、信之の方をじっと見つめる。
信之も、向き直った。
吟遊詩人と料理人が、互いの力量を計るように視線を交錯させる。
先に口を開いたのは、吟遊詩人クローヴィンケルの方だった。
「これは大変美味しいが、あなた本来の味ではない。違いますか?」
「……仰る通りです」
信之が、恭しく頭を下げて見せる。
こういう所で信之は誤魔化すような嘘を吐かない。料亭ゆきつなの板長、塔原にそう言う面ではしっかりと仕込まれている。
「私はブランターノ男爵の舌に深く信頼を置いています。彼の勧める店であれば、その料理の奥義まで味わい尽くしたい」
そう言われてしまうと、しのぶは困ってしまう。
前回男爵を持て成したカツサンドは、しのぶが作った物だからだ。ただ、ここで口を挟むとややこしくなるのでそのことは黙っておく。
「店主に注文します。今、貴方が最も自信のある料理を食べさせてください」
「分かりました」
「その味が私を満足させることができれば、何か一つだけ願いを聞くとしましょう」
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