今日は、チェコのカレル大学(プラハ)の日本学科長で、現在大阪大学に滞在して研究を進めているヤン・シーコラ先生の「チェコにおける日本研究の現状」というお話を聞いた。小さな会だったが、活発な質疑が交わされた有意義な会だった。シーコラ先生は、近世から近代の日本の経済思想史がご専門であり、「懐徳堂及びその周辺における経済思想の成り立ち ― 「利」をめぐる議論を中心に」(『懐徳』第75号、2007年)という論文もある。かつて、懐徳堂記念会で講演していただいたこともある。
東洋学において、国際的には日本から中国に学生の関心が移りつつあると言われている中で、カレル大学では日本研究の人気が逆に高まっているという。約20人の狭き門に150人から200人が入学を希望するという状況。中国学は逆に・・・・。当然、日本語や日本についての知識のレベルが高い学生が入ってくる。そこで、学部時代は日本語漬けともいえるようなカリキュラムで、徹底的に日本語を鍛えるのだとか。卒業試験は、辞書なしで、たとえば日経新聞を読ませ、訳をさせるようなレベル。常用漢字は全部覚えておかねばならないのだと。
学生の関心は、90年代までは、伝統的文化に関心があったが、近年は現代日本の政治・社会・経済・ジェンダーなど実用的な側面に移ってきていた。しかし、最近になって、再び伝統文化へのUターン現象が起こっているのだとか。これは前近代をやっているものにとっては有り難いことである。理由はいろいろあるだろうが、ざっくりいえば、学生のレベルが高くなっているので、より深く知ろうとするからなのだとか。大学院の試験は、かなり深いテーマが出され、3時間で2000字の論文を書くのだとか。このような学生の日本に対する知識は、翻訳が充実するなど、条件が整備されているからだということである。おそらくカレル大学の日本学科の学生は、日本の日本文学を専攻している大学生の日本語運用能力や知識において、さほどわらない力を持っているのではないかと予想される。それはハイデルベルク大学で教えた経験からも十分考えられるのである。変体仮名・くずし字・古文書学などの講座も開講されているので、歴史的典籍を扱う学生は、これらを読むのが普通だということである。
他にも教育や研究のシステムの問題について、詳細な説明をきくことができた。チェコの日本研究においては、日本語で書かれた論文は、業績にカウントできない。もちろんチェコ語でもだめで、英語でないと国際的に認知されないから業績として扱わないのである。少なくとも現実はそうである。海外の大学の研究者と連携するという前提は、日本研究においても、「英語を使えるということ」になっていくのは流れとしか言いようがないだろう。もちろん、海外の日本研究者が「日本語を使えるということ」は、絶対的な条件であることもまた確かである。しかし、彼ら、とくにチェコの学生に関しては、その使えるレベルがかなり高そうである。
というわけで、海外の日本研究の状況をまた知ることができた。備忘として記しておく。私の主観的なまとめなので、その点ご留意ください。
2017年05月11日
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