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異世界居酒屋「のぶ」 作者:蝉川夏哉/逢坂十七年蝉
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牡蠣(後篇)

 慣れた手付きでタイショーが鉄砲貝の殻を外していく。
 ナイフを捻るようにゆっくりと差し入れ、貝柱を切って開くのだが、これが普通ならなかなか骨が折れる。
 網で焼いた魚介を客が勝手に食べるという趣向の店でベルトホルトもやったことがあるが、コツを掴むまでは大変だった。

 まるで魔法のように次々と鉄砲貝の殻が剥けていく。
 現われるのはぷりぷりとした肉厚な貝の身だ。
 生で鉄砲貝は食べないと誓ったばかりなのだが、あの見た目は非常によろしくない。目の毒だ。思わず喉が鳴るベルトホルトの袖を、ヘルミーナが少しむっとした表情でまた引っ張る。

「しのぶちゃん、タルタルソースの用意をしておいて」
「はーい。あ、今日はちゃんと漬物(ピクルス)もあるんだ」
「こんなにいい牡蠣だからね。本気を出さざるを得ない」

 タイショーが鉄砲貝の下拵えをしている横で、シノブが茹でた卵を微塵に刻んでいく。これはチキンナンバンの時に見た!

「鉄砲貝を揚げるのか」
「はい、ベルトホルトさん正解です!」

 卵の殻を使って器用に黄身だけを取り出しながらシノブが笑う。刻んだ茹で卵や漬物も加えて、あのソースを作るようだ。
 前にチキンナンバンを食べた時には味ばかりが気になっていたのだが、ソース一つを作るにも結構な手間が要るらしい。

 感心して見ている横を、エーファが硝子戸の方によいしょよいしょと何かを運んでいく。
 シチリンだ。
 肌寒さを感じるようになった頃から居酒屋ノブで活躍するようになった携帯用の焜炉で、炭を燃料にして網焼きの料理をする。
 ベルトホルトがまだ傭兵をしていたら、冬の長期帯陣用に欲しくなりそうな代物だ。

「……タイショー、あれはまさか」
「今日は少し牡蠣を仕入れ過ぎましたから。馬丁宿通りのお客さんに、香りだけでもお裾分けしようかと」

 そう言って口元を緩めるタイショーの顔には、それだけではないとしっかり書いてある。
 大した策士だ。
 鉄砲貝の焼けるのを店の前で見てしまえば、あの味を知らない者でも思わず足を止める。後はもう、誘われるようにノブのノレンを潜るしかない。

 ワカドリのカラアゲよりも心持ちふんわりとした衣が付け終わると、鉄砲貝がたっぷりとした油の中に滑り入れられた。
 プチプチプチプチと小さな泡音が既に耳から胃袋を刺激する。

「ヘルミーナも食べるかい?」
「ええ、少しだけ頂いてみようかなって」

 そう言いながらヘルミーナが摘まんでいる物を見て、ベルトホルトは思わずのけぞりそうになった。
 レモンを、ヘルミーナは美味しそうに齧っている。
 先程シノブが山盛り切っていたレモンの櫛切りだ。

「お、おい、ヘルミーナ……」
「こういう風になると、酸っぱい物が美味しく感じるんですよ」

 そう言ってお腹を撫でられると、ベルトホルトもむむむと唸るしかない。
 戦場のことなら酸いも甘いも噛み分けてきたが、家庭のこととなるとさっぱりだ。まして妊娠など、どうしていいのか分からない。

「色々あると思いますけど、しっかりヘルミーナさんを支えて下さいね」
「そうは言うけどな、シノブちゃん。さしあたって何をすればいいのか、見当も付かんのだ」
「赤ちゃんの名前でも考えていればいいんじゃないですか?」

 名前、と言われると確かにそうだ。
 気が早いのかもしれないが、先にできることから順番にやっていくというのは戦理に適っている。

「そうだな、名前だ。強そうな奴が良い。ゲオルグとかアルトゥールとか」
「ちょっと待って、ベルトホルトさん。私たちの子が男って決まったわけじゃないんですから」
「ああ、そうか。女の子という事もあり得るのか」

 勇ましい名前と愛らしい名前。
 同時に考えると頭の中で随分とこんがらがって来る。良い名前が思いついたと思えば、そこから紐でも引いているように同じ名前の見知った人の顔が浮かんできて、またやり直しにしなければならない。
 いっそのこと尊敬できる人に肖ろうかという気も起きるが、折角この世に生を享けるのだから、その子自身の名前にしてやりたいとも思う。

 そんな風に色々なことを考えていると、鉄砲貝の泳ぐ鍋の油がパチパチパチと爆ぜるような音へ変わって来た。

「お、タイショー、そろそろ良いんじゃないか?」
「ええ、そろそろですね」

 そう言って油を切った鉄砲貝を、タイショーは皿に盛り始める。

「ん? ワカドリの時みたいに二度揚げはしないのか?」
「鶏や豚は二度揚げすると美味しくなるんですが、貝は少し火が通り過ぎてしまうんですよ」

 へぇ、と相槌を打ちながら、トリアエズナマで口の中をさっぱりさせる。
 頭の中では生の鉄砲貝のちゅるりと濃厚な食感が思い返されているのだが、目の前にあるのは揚げられたものだ。
 果たしてどんな味になるのか。
 唾をまた飲み込んだところで、シノブが目の前に皿を置いてくれた。コトリ、という皿の音がまた、胃の腑を刺激する。

「さ、どうぞ。カキフライです。タルタルソースで召し上がって下さい」

 ナイフとフォークが添えられるが、ナイフの方は使わない。
 一口で齧り付く。それこそが正しい作法だ。直感で分かる。

 サクリ。
 小気味のいい歯触りと共にやってくるのはクリーミィな至福の濃厚さ。
 これまで鉄砲貝は生で食べるのが最高だと信じて生きてきたが、これも素晴らしい。生とは全く違った美味さだが、どちらが上という問題ではない。
 あちらが至高なら、こちらは究極。
 比べることのできない二つの頂きだ。

 心配そうに見つめてくるヘルミーナに力強く頷きを返し、次の一個にたっぷりとタルタルソースを付ける。
 チキンナンバンの時も美味かったが、このカキフライにもよく合う。

 タイショーが硝子戸を開けた。暖かい部屋にさっと冷たい風が吹き込む。
 店の暖かさとトリアエズナマとで火照った頬に、心地良い。
 表から、鉄砲貝を網焼きにするパタパタという音が響いてきた。

 匂いに誘われて、もうすぐ店内は満席になるだろう。
 いつか、自分の子供を連れてこの店に来たい。
 三つ目のカキフライを頬張りながら、ベルトホルトはヘルミーナと微笑み合った。
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