家庭内暴力~親の側にも暴力を生み出す要因がある~
家庭内暴力が起きたとき、たいていはその暴力をふるうひきこもりやニートの本人に原因があると考えられがちです
しかし暴力をふるうのは、なにもひきこもりやニートの本人だけが悪いのではありません。
「暴力をふるう若者は加害者で、それを受ける親は被害者だ」そう考えるだけでは、この問題の本質は何も見えてきません。
「若者=加害者」VS「親=被害者」そんな図式で考えられるほど、この問題は単純ではないのです。
酷な言い方かもしれませんが、一見激しい暴力の「被害者」に見える親の側にも、子どもたちを暴力に駆り立てている要因が存在するのです。
「普通の子」を暴力に駆り立てる親側の原因について、次に考えて見たいと思います。
家庭内暴力の相談を数多く受けていると、親御さんに共通する部分が見えてきます。
そのひとつが、子どもに腫れ物に触るように接する態度です。どの親御さんも、子どもがニートやひきこもりになったばかりのころは、いろいろ子どもとも、コミュニケーションをとろうとします。
「本当は何がしたいんだ」と聞いてみたり、「なんでもいいから、バイトでもしたらどうだ」と小言の一つでも言ってみたりします。
しかし、それも最初のうちだけです。ニートやひきこもりの状態が長期化してきたり、家庭内暴力が始まったりすると、とたんにそんなコミュニケーションはなくなります。
子どもを刺激しないように、なるべく子どもと距離を置くようになります。まるで腫れ物に触るように、子どもと接するようになるのです。
たとえば子どもが、まだ暴力はふるっていなくても、親に対してすぐに切れたり、暴言を吐くようになってきたとします。
あるいは、部屋のドアをバシッときつく閉めるようになってきたとします。すると親は、ワイドショーなどでいろいろ情報を得ているので、「このままいくと、暴力をふるうようになるのでは」と心配になってきます。
「子どもの気に障るようなことを言って、暴力をふるわれたらどうしよう」そんな心配が、頭をよぎってしまうわけです。
するとそれ以降、子どもに親としてはっきりものが言えなくなります。きついこと、厳しいことがなるで言えなくなってしまうのです。
こうなりますと、事態はいっそう深刻になります。子どもの暴言が日増しにひどくなっても、子どもに注意もできなければ、ほかの誰かに相談することもできません。
他人に助けを求めようと思っても、頼んだことがばれたときのことを思うと、外部にも相談できません。
暴力を恐れるあまり、「子どもを刺激しないこと」「暴力に発展させないこと」が、今度は親の行動基準になってしまうのです。
すると親は、まるで腫れ物に触るように、子どもと接するようになります。
「これ以上暴言を浴びないためには、子どもを刺激しないようにするしかない」そう思って、とにかく子どもにあまり近づかないようにしよう、触れないでおこうとなるのです。
そんな状態になると、親子のコミュニケーションは完全に断絶してしまいます。「子どもがなぜ苛立っているのか」
「本当は何を求めているのか」そんな子どもの本心を理解しようとはせず、「刺激するようなこはするな」
「気に障るようなことをしてはいけない」と、そちらにばかり気がいってしまいます。
そうなると、もはや親子の間にはコミュニケーションなど存在しません。世間話程度はできたとしても、本質的な問題、子どもの未来についての話など、一切できなくなるのです。
「子どもが怖くて、外部に助けを求められません」
「子どもを刺激しないように、家の中では距離をおいています」
実際、そうやって子どもと真正面から向き合うのを避けて、自らコミュニケーションを絶つ親御さんが、最近増えています。
そうやって子どもを避けていると、一時的には子どもとの対立は避けられ、一見何も起こらないように見えますが、そのぶん子どもの中には、かえって噴出する先のない「マグマ」が溜まっていくことになるのです。
誤解されている方もいるかもしれませんが、若者たちはなにも、ある日突然、親に暴力をふるうわけではありません。
激しい暴力をふるうようになる前に、親に反抗的になって暴言を吐いたり、物にあたったりする段階が必ずあります。
心のなかで煮詰まっている「マグマ」が、暴力という最終形であらわれるまえに、なんらかのかたちでそれを小出しにする段階が、多かれ少なかれあるものです。
では、なぜその段階で、もっと早くに適切な対応がとれなかったのでしょうか。暴力が始まる前に、親が子どもの要求や叫びに気づくことはできなかったのでしょうか。
その理由を考えたときに行き着いたのが、この「コミュニケーションの断絶」でした。
もう、家庭内暴力が始まる前から、親と子のコミュニケーションが完全に断絶してしまっています。
お互いを少しでも理解することで、歩みよろう、関係をよくしようという姿勢が、親子の間でなくなってしまっているのです。
コミュニケーションを断絶させながらも、表面上はひとつ屋根の下で暮らしています。
実質的にはもう親子関係は崩壊しているのに、表面的にだけ仲のよい姿を装っています。
そんな家庭の状態を、わたしは「家庭内冷戦」と呼んでいます。よく長年連れ添った夫婦の間で、「家庭内別居」というのがありますが、いわば「家庭内冷戦」とでも呼ぶべき状況が、今の日本の多くの家庭を覆っているのです。
親と子の間にコミュニケーションがまるでありません。世間話程度はしますが、本質的な話は何もしません。
話し合う以前に、親と子がまともに向き合っていません。子どもの暴力を避けたいがための「家庭内冷戦」です。
しかしそれが、親への激しい暴力を生み出す温床となっているのです。
考えてみると、家庭内暴力の相談に来られる親御さんの9割以上は、この「家庭内冷戦」を経ています。
完全な「冷戦」状態に入る前に暴力が始まるケースもありますが、多かれ少なかれ、まず「家庭内冷戦」の時期があって、それから暴力が起こっています。
「家庭内冷戦」というのは、当たり前ですが、ある日突然、始まるわけではありません。
完全な「冷戦」状態に至るまでには、いくつかの段階をたどっていくことになります。
いろいろなケースから判断すると、それは全部で四つの段階にわかれます。まず第一段階では、子どもが親に「肝心な話」をしなくなります。
「肝心な話」というのはほとんどの場合、自分の将来に関わるような話です。「専門学校に行こうと思うんだけど。どうだろう?」
「こういうことをしたいと思っているんだけれど、どんな仕事があるかな?」そんな自分の将来に関わる本質的な話はせず、当たり障りのない世間話のみをするようになるのが、「家庭内冷戦」の第一段階の特徴です。
第二段階では、親子の間で、会話そのものがなくなります。何度も言いますが、ひきこもっている子というのは、自分自身を責めています。
「このままではよくない、何かしなければ」というのは本人がいちばんわかっています。
しかし親の側は、そんな子どもの気持ちを、なかなかうまく汲み取れません。「もっとしっかり将来のことを考えなさい」
「進路の希望を早く決めなさい」
て、ついつつ子どもにせまってしまうのです。すると子どもは、「この人たちには、もう何を言っても無駄だ」と思ってしまい、親と話すこと自体をあきらめてしまいます。
そして子どもが一切、親と口をきかなくなってしまうのです。これが、「家庭内冷戦」の第二段階です。
この段階になると、親が何か話しかけようとすると、ドアをバンッと音を立てて閉めるような行動が始まります。
このドアの音に、たいていの親御さんはまいってしまうのです。そして次の第三段階では、子どもの暴言が始まります。
「うるせえ、くそばばあ!」
「お前には関係ないだろ!」
「もう放っておいてくれ!」
話しかけようとする親に対し、そんな暴言が飛んでくるようになります。こうなると、親が腫れ物に触るように子どもと接するようになるのは、先ほど指摘したとおりです。
「もしかすると、この先、暴力をふるわれるかもしれない」という不安に駆られ、うかつに言葉をかけられなくなるのです。
そして第四段階で、完全な「家庭内冷戦」状態が生まれます。この段階になると、親子が家の中で、ほとんどすれ違わなくなります。
ひどいケースになると、「子どもを5年間、後ろ姿でしか見たことがない」という親御さんもいますが、よくあるパターンは、子どもが家族と、別の場所や時間で食事をするようになることです。
食事というのは、家族にとって大切なコミュニケーションの場ですから、それがなくなると、親と子が顔を合わせて会話をする機会が、完全に失われてしまいます。
だけど親は、暴力に発展することを恐れて、なるべく子どもを刺激しないよう、必要最低限しか話しかけなくなります。
なるべく、子どもと顔を合わせないようになります。こうして、完全な「家庭内冷戦」が誕生するのです。
ひきこもり自立支援センターに相談に来る親御さんの中には、「家庭内冷戦」のまま、もう10年近く過ごしている、という方が少なからずいらっしゃいます。
そんな家庭では、子どもは自分の部屋にひきこもったまま、もう「廃人」同然になっています。
動きは鈍く、身なりも構わず、ぼんやりした視線で、他人とは目も合わせない・・・・そんな20代、30代の若者もいます。
親と子がなんらかのかたちで向き合わない限り、この「家庭内冷戦」は延々と続き、事態はどんどん危険な方向に向かっていきます。
子どもの焦りや苛立ちは、ぶつける場所もなく、「マグマ」のように内側に溜まっていき、何らかのかたちで火がつけば、いつなんどき、爆発して暴力が始まってもおかしくない状況になっていきます。
「家庭内冷戦」は、いつ暴力が始まってもおかしくない「一触即発」の状態です。
子どもは常に「マグマ」を溜め込んでいて、はけ口がないため、何に突然切れるかわかりません。
たとえば用意した食事に対して、突然切れる若者もいます。
「こんなまずいもの、食えるか!」
「これは嫌いだと、前に言ったはずだろ!」
そう叫んで、お皿を投げつけた若者もいました。わたしの感じでは、将来に関わることを言われたときに、暴力が始まった若者が一番多いです。
「いつまでも家にいないで、バイトでもしてみたらどうだ?」
「この先、どうするの?人生の目標をきちんとたてているの?」
親のそんな言葉が引き金になって、子どもが突然暴れだすことが結構あります。
それはとりもなおさず、若者自身が将来のことをいちばん気にしている、不安に思っているということです。
自分でも「このままではいけない」と思っているから、親に言われると追い討ちをかけられた気がして、彼らの中で何かが切れてしまうのでしょう。
今お話したような「家庭内冷戦」の状況は、いま日本のあらゆる家庭の中に、広まってきているように思われます。
子どもとの全面対決を回避するあまり、親子の間でコミュニケーションがなくなっていて、互いが互いを理解しあう機会をもてなくなってきています。
暴力が始まる前から、親子の関係は、崩壊していて、お互いに理解不能な状態になっているのです。
そのせいで、子どもは「マグマ」を小出しにする機会を見つけられないまま、家のなかで鬱屈して過ごしています。
ある日、「家庭内暴力」というかたちで噴火するまで、その「マグマ」を溜め込めざるを得なくなっているのです。
それが、「家庭内冷戦」が家庭内暴力の温床だ、とわたしが考える理由です。そんな状態で暴力がいったん始まれば、関係は悪化するばかりです。
すでの親子にコミュニケーションがなくなっているわけですから、子どもたちの不安やいらだちは、その本心を親に受け止めてもらうことなく、暴力へ、暴力へ、と追い立てられてしまいます。
家庭は、暴力が始まる前から「家庭内冷戦」の段階で、実質的にはすでに崩壊しています。
まだ暴力は始まっていなくても、かろうじて表面的に平和を装っている家庭は、山ほどあります。
外から見ると何の問題もない家庭ですが、そんな家庭では、いつ何かのきっかけで暴力が始まり、その崩壊状態が露呈されるかわかりません。
暴力が出た段階では、親子関係は壊れています。暴力が始まったから壊れたわけではなく、始まる前からすでに壊れています。
家庭内暴力は「崩壊のレクイエム」にすぎません。実質は崩壊状態なのに、かろうじて表面的に維持されています。
「家庭内冷戦」にある家庭は、まさに「仮面の家」なのです。
これまで、「普通の子」を暴力に駆り立てる原因を、主に二つの点から考えてきました。
まず、若者側の原因としてあげられるのが、未来が見ないことへの不安です。この閉塞した状況をなんとかしたいけれど、自分ではどうすることもできない・・・・その苛立ちと焦りが「マグマ」となって溜まり、自己嫌悪などと結びついたとき、暴力というかたちで爆発するのが家庭内暴力のひとつのあらわれです。
子どもは家庭内暴力という形で、親に「なんとかしてくれ」と訴えているのに、親は暴力におびえるあまり、子どもの本当の心の叫びになかなか気がつかない・・・・・そんな親と子のコミュニケーション・ギャップの背景にあるのが、家庭内暴力の温床ともなっている、「家庭内冷戦」だとも述べました。
家庭内暴力が始まる前から、親子の間で互いを理解しようという姿勢がなくなってきています。
親が子どもに腫れ物に触るように接するあまり、親子のコミュニケーションが完全に崩壊してしまっているのです。
こうなると、子どもは自分の中に溜まる「マグマ」を小出しにもできなければ、言葉にもできず、最終的に暴力というかたちで親に向かうほかなくなります。
そんな「家庭内冷戦」が「一触即発」の暴力を生み出す温床になっている、とも述べました。
しかし、「普通の子」を暴力に駆り立てる原因は、この2つだけではありません。
もうひとつ、親側の原因として、「家庭内冷戦」よりももっと根深いとろこにひそんでいるものがあるのです。
子どもがのちに家庭内暴力を引き起こすような原因が、子育ての段階から、親子関係そのものの中に、じつは潜んでいるのです。
「友だち親子」、みなさんはそんな言葉を聞いたことはありますか?おそろいの服を着た母と娘が、まるで友だちのように腕を組んで歩いている・・・・そんな光景を一度は目にしたことはないでしょうか。
「友だち親子」というのは、まさにそんなイメージの親子です。親という権威をふりかざして、あれこれ子どもに命令することのない親です。
子どもと「上」から接するのではなく、子どもの「横」にぴったりと寄り添うような親です。
友だちのように、なんでも話せる親です。子どもの自主性に、いつも任せる親です。
「えーっ、そんな親なら、うちの親と取り替えて!」そう思われるお子さんもいるかもしれません。
「なんだ、うちのママと同じじゃん」あるいは、そう思われるお子さんもいるかもしれません。
しかしこの「友だち親子」という関係が、じつは「普通の子」を家庭内暴力に駆り立てる、親側の大きな原因になっているのです。
「友だち親子」とはどんな親子かを知るために、まずは典型的な「友だち親子」の例を、ひとつご紹介したいと思います。
「俺を変えるには、空白の時間が必要なんだ!」
「お前のせいで失った時間を返せ!」
今年、28歳になる孝太さんは、毎日そうやって母親をののしり続けていました。
翌日に仕事を控えている母親を眠らせず、深夜延々と堂々巡りの話をする孝太さんです。
彼は、ひきこもって丸三年の若者です。家族は、母と弟の三人です。母親がひきこもり自立支援センターに相談に来たのは、精神的にも肉体的にも限界になったころでした。
いまのところ暴力は出ていませんが、精神的にかなり虐待されていたようです。
「息子が家に火をつけたらどうしよう・・・・」母親はそんな不安をしきりに訴えていました。
家のなかで孝太さんがギロッとにらむだけでお母さんはちじみあがってしまい、すべて彼の言いなりに動いていたといいます。
「どうして、こうなってしまったのでしょう・・・・」悲観にくれる母親は、こうなったことが自分には理解できない、といった様子でした。
子どもによかれと思って、「友だち親子」を始めたのに、というわけです。ここに至るまでの経過を語ってくれましたが、それが本当に途方にくれるような表情だったのを、いまでもはっきり覚えています。
孝太さんと母親は、かつては仲のよい「友だち親子」でした。孝太さんは小さいころからおとなしい子で、母親がひざに乗せていると、いつまでもじっとしているような子だったといいます。
お母さんも、とても教育熱心な方でした。教育書をたくさん読み、立派な子育てをしようといつも努力していて、3歳から孝太さんを週2回の幼児教育に通わせたほどです。
孝太さんが、小学校の高学年になったある日のことです。母親は、息子に向かってこういいました。
「これからは、わたしのことを栄子さんって呼んでね」彼女はそうやって子どもに名前で呼ばせることで、また、自分自身を「母」ではなく「わたし」と呼ぶことによって、思春期になった孝太さんと対等に付き合おうと思ったのです。
日ごろから読んでいる教育書に、そんなアドバイスが書かれていたといいます。だから母親は、息子と「親」としてではなく「友だち」として会話をするように心がけたのです。
「何か困ったことがあったら、なんでも栄子さんに相談しなさい」それ以降、孝太さんと母親は、まるで親友のように、どんなことでもよく話しました。
もちろん孝太さんには、反抗期などまったくありませんでした。何か息子に言いたいことがあっても、母親は頭ごなしに叱ったりはしません。
「こうしたらどう?」
「どう思う?」
そうやっていつもやんわりとアドバイスするだけです。
「こうすべきよ」
「それはしてはいけませんよ」
そんな高圧的な言い方は、絶対にしなかったといいます。実際、強く主張しなくても、孝太さんはいつも母親の思うとおりに動いてくれました。
公立小学校から私立中学を受験したのも、母親の望みどおりでした。夏休みもないような学習塾にも、自ら希望して通ってくれました。
そして無事、私立中学に合格したのですが、皮肉なことに、それが彼の人生を狂わせ始めたのです。
進学したその中学校は、厳しい進学指導で有名な学校でした。そういう学校では往々にして、陰湿ないじめが行われるものです。
現に孝太さんは、友人がいじめられるのを目の当たりにしてしまい、それ以降、だんだんと不登校気味になっていきました。
「いいのよ。無理して学校に行かなくたって」学校を休みがちになった孝太さんに対しても、母親は優しく語り掛けました。
子どもの自主性を尊重する・・・・・それを自らの子育ての方針にしていたお母さんです。
息子が自分で決めたことならばと、登校を無理強いすることはありませんでした。
「子どもが不登校になったら、登校を無理強いせずに受け止めなさい」よく子育ての教科書に載っている、そんなアドバイスに忠実に従ったのでしょう。
孝太さんは、やがてまったく学校に行かなくなりました。そして高校3年の3学期には、ついに学校を退学してしまったのです。
その後彼は、公立の通信制高校に転入しました。高校の卒業資格ぐらいはとっておきたいと思ったのでしょう。
通信制なら、自宅で自分の好きなときに勉強できるし、「そこならいじめがない」と思ったのかもしれません。
しかし結局、それもうまくいきませんでした。6年間在籍したものの、結局、24歳で退学してしまいました。
そしてそれ以降、25歳のころから、彼は完全にひきこもるようになりました。
不登校になったころから、家でゴロゴロする生活を続けていたのですが、退学後は、特に精神的に不安定になったといいます。
そして酒を飲んでは、母親にからむ毎日です。孝太さんは、小学校高学年で母親に「対等」だと宣言されて以来、学校の人間関係でうまくいかないことや思春期特有の苛立ちを、すべて母親にぶつけてきました。
その一切合財を、母親は「親」としてではなく、対等な立場の「友だち」として受け止めてきたのです。
「友だち」ですから、時には子どもを自立させるために放り出したり、突き放したりといった「親」が本来しなければならないような接し方はしません。
いつまでも、孝太さんの横に座り、愚痴に付き合い、共感したり、なだめたりするだけです。
そのうちに、二人の関係は徐々に対等ではなくなっていきました。孝太さんには、ひきこもってから考える時間がたっぷりあったため、そのなかで、母親を責める理由をいくつも見つけてきたのです。
「どうして子どものころ、おもちゃのピストルを買ってくれなかったんだ。それで、近所の子と一緒に遊べなかったんだぞ」
そんなささいなことでも、母親を責めるようになりました。母親も、最初はいろいろ言葉を返していましたが、何か言うたびに、「うるせえ、お前は黙ってろ!」と孝太さんにきつく言われます。
それが続くと、母親もだんだん怖くなり、口答えせず、じっと彼の暴言や愚痴に付き合うようになりました。
そしてしばらくすると、孝太さんの機嫌をとり、その言動一つひとつに右往左往する「奴隷」状態になっている自分に気がついたのです。
「友だち」になろうとした母親は、こうして「奴隷」に転落してしまいました。
今、孝太さんの例を見てもらいました。この「親が自分のことを名前で呼ばせたがる」というのは、「友だち親子」の典型的な例です。
それは、「自分のことを友達として扱って」という合図なのでしょう。じつは、こういう親子が最近急増しています。
ひきこもり自立支援センターに相談に来る親御さんのなかにも、このような親御さんはたくさんいます。
「自分たちは名前で呼び合うくらい、仲がよかったのに・・・・」「なんでも友だちのように相談にのってきたのに・・・・」というわけです。
ここで、「友だち親子」をより理解していただくために、もうひとつ、典型的なケースをご紹介しましょう。
これも、よくある「友だち親子」の姿です。先日、35歳のエリート銀行員の息子さんのことで、あるお母さんが相談に来られました。
その息子さんは、会社が終わると、友だちや上司、同僚とも出かけることなく、毎日、一目散に家を目指して帰ってきます。
そして母親の手作りの夕食を食べながら、今日あったことや仕事の愚痴を、すべて母親に話すというのです。
「今日はこんなことがあったんだ」
「職場の同僚がとんでもないミスをしたんだ。あいつは駄目だね」
そんな話を、毎日延々とするのです。「会社の女の子と話したらどう?」そんな息子さんを見て、さすがのお母さんも心配になったのでしょう。
あるとき、息子さんにそう聞いてみたのです。「会社の女の子たちはぜんぜん話が合わないよ。
彼女たちはレベルが低すぎるんだ」だけど、息子さんはそういうばかりです。何度聞いても、そう言ってはばかりません。
そして最後にはいつも決まって、こう言います。「お母さんと、一番話が合うんだ」
「これでいいのでしょうか?」お母さんが相談にいらしたとき、わたしにそう聞いてきました。
そんなのよくないに決まっています。どう考えても、、35歳の男性のすることとは思えません。
しかし、母親も母親です。35歳にもなって、ガールフレンドができないことを心配しながらも、そんな息子の話に延々と付き合っています。
息子も親離れできていないのですが、母親もまるで子離れできていないのです。もうこれでは、手も足も出ないという感じです。
この息子さんは、きっと死ぬまでお母さんとしか会話は成立しないでしょう。そもそもこの歳になるまで、母親は息子を仲のよい「友だち」として育ててしまったのです。
そして息子は、30歳を過ぎても「友だち親子」のカプセルの中から、世間を見下ろしています。
「会社の女の子なんかまるで話が通じないよ。お母さんくらいのレベルでなくっちゃ」彼のそんな言葉に、それは象徴されています。
この息子さんは幸い、いまは会社ではうまくいっています。会社は約束事の社会ですから、それさえ守ればなんとかやっていけます。
一流大学から、一流企業の正社員・・・・彼は、まさしく「勝ち組」です。しかし、もしリストラされてつまずいてしまったら・・・・彼が非常に危険な事態に陥ることは間違いありません。
典型的な「友だち親子」ですから、家に閉じこもって「母子カプセル」の中に入るしかないのは、目に見えています。
この2つの「友だち親子」の例を見て、みなさんはどう思われたでしょうか。孝太さんに関しては、「このお母さんは異常だろう」
「息子に名前で呼ばせるなんて」と思われた方もいるかもしれません。あるいは、銀行員の息子さんに関しては、「たんなるマザコンじゃないか」
「母親がいちばんの話し相手なんて、気持ち悪い」と思われた方もいるでしょう。
たしかに親が自分のことを名前で呼ばせたり、母親がいちばんの話し相手というのは、「友だち親子」のわかりやすい典型的なパターンですが、少々極端ではあります。
ただ間違ってほしくないのは、この2つはいわば極端な例であって、こんな親子だけが「友だち親子」というわけではない、ということです。
「友だち親子」とはどんな親子だったのか、もう一度思い出してみてください。あれこれ「上」からモノを言わない、常に子どもと同じ目線に立ち、子どもの「横」に寄り添って、一緒に物事を考え、話し合う。
「自主性尊重」という名目のもと、命令的なことは一切言わず、子どもと対等に付き合おうとする、そんな親御さんなら、まわりにも大勢いるのではないでしょうか。
「自分は友だち親子ではない」と言いきれる人が、どれほどいるでしょうか。20代後半になりながらも、ずっと実家にいて母親と仲良くやっている女性も多くいます。
平日は仕事から帰ってくると、、母親がつくってくれた食事を摂りながら今日あったことをいろいろ話し、週末になると母親と一緒に買い物に出かけます。
あるいは、なんでも親に相談して、親がOKしないと何事も実行できない若者もいます。
何歳になっても、親の了承がないと、何も決断して行動できないのです。これも立派な「友だち親子」です。
わたしの感じからすると、日本の家庭のほとんどが「友だちファミリー」です。
父親も母親も、「ああしろ、こうしろ」とは言いません。子どもには「あなたはどうしたいの?」という態度でいつも接します。
いまの日本は、「一億総友だちファミリー」と言っても、けっして過言ではないと思います。
こんな「友だち親子」は、いったいいいつころから、どのようにして出てきたのでしょうか。
ここで少しわたしの考えに耳を傾けてください。わたしは1943年生まれです。
そんなわたしが育ったのは、まだ親が子どもに対して絶対的な力を持っている時代でした。当時はまだ、戦前の家父長制が色濃く残る時代だったのです。
親といえば、「頑固親父」か「カミナリ親父」です。何か悪いことをすれば、すぐにゲンコツが飛んできます。
親、特に父親は、とにかく怖い存在でした。親が「友だち」なんて考えたことなど、一度たりともありません。
それがいつ頃から、「友だち親子」と呼ばれるような親が出てきたのでしょうか。
それを考える時にいつもわたしの頭に浮かんでくるのは、1980年に神奈川県で起こった、ある事件のことです。
1980年に、当時20歳の浪人生が就寝中の両親を金属バットで撲殺するという、いわゆる「金属バット殺人事件」が起こりました。
事件の舞台になった一家は、いわゆるエリート家族でした。事件を起こしたのはこの家の次男でしたが、父親は東大出身で一流企業のエリートサラリーマン、母親は地方の名家の出身、長男は早稲田大学を卒業し、有名メーカーに勤務していました。
次男は、兄と同じ早稲田大学を目指しますが、成績はふるわず落ちこぼれていってしまいます。
父親にはそのことで、いつも叱責されていたといいます。ある日、父親の財布からカードを盗んでお金をおろしていたことがばれて、両親に激しく叱責されました。
「大学も受からないようなやつは、うちから出て行け!」と父親が言いました。「あんたはだめな子ね」と母親も言いました。
その3時間後に、彼は寝ている両親の頭にバットを振り下ろしたのです。この事件は当時、エリートコースから落ちこぼれた息子の犯行として、世間で大きく報じられました。
受験戦争が過熱し、「いい大学」に進学することが「いい会社、いい将来」につながると誰もが信じ、突っ走っていた時代です。
ちょうどその少し前から、有名私立進学校の生徒が当事者となる事件が相次いで起こっていたことから、「いい学校」から「いい会社、いい将来」へとつながる一直線の路線を批判する論調も、数多くあらわれました。
事件の根本的な原因は、社会を取り巻く受験教育や能力主義的な価値観にある、というのです。
しかし、当時30代で親になりつつあった「団塊の世代」の若者たちは、事件の原因を別のところに見たのではないか、というのがわたしの考えです。
団塊の世代というのは、戦後のベビーブームに生まれた人たちです。彼らはあの事件から、「子どもを無理やり、押さえ込む父親はよくない」ということを学んだのではないでしょうか。
親が一方的に押さえつければ子どもの側に暴力が生まれる、と。子どもに暴力をふるわれないためには、子どもの殺されないためには、どうしたらいいのかを考えた末に、彼ら団塊の世代が親になったときに目指したのが「友だち親子」だったというのがわたしの考えです。
また、この「友だち親子」誕生の背景には、家父長制の強かった戦前の親子関係との決別という意味もあったと思います。
戦後民主主義から生まれた「民主的な親子関係をつくる」という幻想が、戦後教育を受けて親になった世代にはありました。
子どもは親の所有物ではなく、ひとりの人間として対等。平等に扱うべきだという人権の理念です。
しかしそれが、なぜか親と子が「友だち」というところまで、エスカレートしてしまいました。
「ああしろ、こうしろ」と頭ごなしに言わない、物分りの良すぎる親です。子どもに親の考えを押しつけるのではなく、「なんでも話し合いで決めよう。子どもの自主性を尊重しましょう」と、子どもとできるだけ対等に付き合おうとする親がいます。
いずれにせよ、団塊の世代から始まった「友だち親子」は、その後の世代にも踏襲され、現在へと受け継がれていきました。
「金属バット殺人事件」が起こってから、もうすぐ40年がたとうとしています。
「友だち」として育てられた団塊の世代の子どもたちが、いま40歳前後の年齢になっています。
しかし残念ながら、「友だち親子」は親の期待とはかけ離れた方向へ行ってしまいました。
じつはいま、ニートやひきこもりになったり、家庭内暴力や親殺し事件を起こしている若者の大半は、この「友だち親子」の中で育った子どもたちなのです。
では、「友だち親子」の何がそれほど問題なのでしょうか。それは、「友だち親子」になると、親が子どもに指針を示さないことにあるとわたしは思います。
「指針を示す」というのは、親が大人のモデルとなって、子どもに行き方を示すということです。
自分の考えや希望を、親が子どもにきちんと伝えるということ、それは言い換えれば、親が自分の価値観を子どもに押しつけるということです。
「浪人は認めないぞ」
「人のためになるようなことをやれ」
そうやって、子どもに自分の価値観をきちんと示すのが、親の本来の役割です。しかし「友だち親子」にはそれができません。
親は子どもに指針を示しません。自分の考えや願望を、きちんと言葉にして子どもに「上」から伝えません。
「自主性尊重」という名目のもと、「あなたはどうしたいの?」と「横」に寄り添うばかりなのです。
そうやって指針を示さないことの、いったい何が問題なのでしょうか。それは結果として、「子どもに反抗期を与えないこと」にあるとわたしは思っています。
考えても見てください。これまで紹介してきた家庭内暴力のほとんどの若者には、反抗期がありませんでした。
ひきこもり自立支援センターにやってくるニートやひきこもりの若者たちも、みんな反抗期なしに、20代、30代に突入しています。
1980年の「金属バット殺人事件」以前は、事態はまったく違っていました。
「お前はこういうところへ行け」「こういうコースを歩け」露骨に、そう口にする親も多かったのです。
それは、いわば「頑固親父」の時代で、それは、よくも悪くも親から子への指針になっていました。
誤解のないように言っておきますが、「指針を示すこと」と「指針を強制すること」は違います。
自分の考えや希望は示すけれど、それを無理強いするのは当然よくありません。ただ、最初にそれをきちんと伝えないことには、なにも始まらないとわたしは思うのです。
なぜなら子どもというのは、親に「ああしろ、こうしろ」といわれると、かえって「うるさい、俺はこう思っているんだ」と、反発するものです。
親が「上」からおさえつけるからこそ、なんとか自分の意見を主張しようとします。
そこから親子のぶつかりあう会話も生まれるし、それをとおして子どもたちは、「自分はこれがやりたい。こうやって生きていきたい」ということを考えるようになります。
だから指針の内容そのものは、はっきりいってどうでもいいのです。必ずしも正しい指針である必要もありません。
そうやって、「上」から指針を示すこと、「上」から自分の価値観を押し付けること、それ自体が大切なのです。
親がある程度「上」から抑圧するからこそ、子どもたちはそれに反発して自分の「道」を切り開こうと必死になります。
その最初の一撃が、反抗期となってあらわれるわけです。だから反抗期というのは、本来子どもが大人になるうえで体験しなければならない大切な成長の過程です。
それを経なければ、大人になれないのです。自分の「道」がつくれないのです。だけど、「友だち親子」には、それができません。
「ああしろ、こうしろ」と言わないから、子どもはそれに反発する自分というものを見つけることができません。
そういう機会をもてないまま、大人になってしまうのです。
反抗期を持つ機会を、親が子どもから奪ってしまうのです。それに加えて、「友だち親子」のもうひとつの問題点は、子どもに何か問題が起こったときに、親にはそれを解決する能力がない、とうことです。
「友だち親子」が指針を示さないのは、子どもが不登校やニートになった場合も同じです。
「日本の学校が合わないなら、アメリカやヨーロッパにでも行ってみないか?」
「22歳までは面倒を見てやるが、それを過ぎたら家から出て行きなさい」そうやって、子どもの問題解決のための指針を示さないのです。
「この家庭では、これ以上のことは許さない」という最低限の基準すら、子どもに提示することができないのです。
「そのうち学校に戻るかな」「この子が選んだことだから」それこらいに思って、きちっとした対応をしません。
誰も何も、解決策を示しません。自分の提案を子どもが選ぶかどうかは別にしても、そうやって解決策を提示することで、子どものなかに反発が生まれ、「道」を考える手がかりになります。
それをしないのは、子どもを受け入れるというより、放置に近い行為で、責任放棄だとわたしは思います。
仮に、問題解決に乗り出したとしても、「友だち親子」の働きかけは非常に弱いです。「上」ではなく「横」に寄り添うだけの存在ですから、それも当然です。
「友だち親子」の家庭では、父親、母親、子どもの三者の合意で何事も決定されてきたため、誰かひとりがノーと言いはじめたら、 何も決定・実行できないのです。
「この家の名義は俺だ。これは俺の家だから、お前はもうこの家からでていけ!」たとえば、子どもがひきこもってどうしようもなくなった時にも、そんな台詞が言えません。
「この家はみんなの家だ。お前のほうが出て行け!」息子にそういわれたら、何も言い返せないのです。
そこで親御さんが悩んでしまって、ひきこもり自立支援センターに相談に来ます。笑い話のようですが、本当にこんな親御さんが増えているのです。
では、そんな問題を抱える「友だち親子」が、なぜ家庭内暴力の原因になってしまうのでしょうか。
それは、結論から言ってしまえば、子どもが「友だち親子」のごまかしに気づいたときに、猛烈な怒りとなって親に向かうからです。
たとえば先ほど、母親を奴隷にした孝太さんの話をしましたが、彼には母親を奴隷にした明確な理由がありました。
彼は、そうしなければおさえられないほどの怒りを、母親に対して感じていたのです。
「結局、俺は母親のいいなりになって生きてきただけだ」学校でつまづき、家にひきこもりはじめたとき、彼はそのことに気がついてしまったのです。
「あんな学校にも、ほんとうは行きたくなかったんだ」「俺がこんなにひ弱に育ったのは、母親のせいだ」
そういって、彼は母親を責め始めたのです。自分の人生をだめにした原因は母親にあると、怒りをぶつけ始めたのです。
その真偽は別にしても、一番の問題は、孝太さんが人生を自分の足で歩いてきたという実感が持てなかったことです。
ずっと親が望むように、親の希望に沿うように、親が敷いて来たレールの上を歩かされてきたとしか、彼は思えなかったのです。
これは、孝太さんや家庭内暴力の若者に限らず、ニートやひきこもりの若者の多くが感じていることです。
「お前のせいで失った時間を返せ!」「お前たちにだまされた」「結局、お前たちの望む道を歩かされただけじゃないか」
親に向かって、彼らはよくそんな言葉を投げつけますが、彼らは結局、自分のこれまでの人生を「親の希望したレールの上を、親にだまされて歩かされてきた時間」としか思うことができないのです。
しかしほとんどの親は、孝太さんの母親と同じで、子どもに「上」から「道」を押し付けたとは思っていません。
「友だち親子」ならばなおさら、子どもの好きなようにさせよう、子どもの自主性にまかせよう、と子どもを育ててきたはずです。
だから親は戸惑うのです。「父さんや母さんは一度だって、お前にこうしろと命令したことはないよ」
「お前が自分で選んできたんじゃないか」親はなぜ自分たちのせいにされるのか、まるで理解できないのです。
なぜ、こんなギャップが生まれるのでしょうか?「わたしは強制しなかったのに、子どもが受けたがるんです。
塾も喜んで行っています」たとえば中学受験をする子どもの親というのは、雑誌のインタビューなどで、よくそんな話をします。
たしかに、親は子どもに中学受験をするように強制したりはしなかったでしょう。だけど、強制はしなくてもほとんどの親は、なんとなく、「こんな学校もあるのよ。どう?」という感じで、自分好みの学校を子どもにきちんと伝えています。
すると、いくら「友だち親子」でも、子どもにとって親は親です。親の望みは、子どもにとってはとても大きなものなので、子どもはそれを無意識のうちに察知します。
「〇〇中学を受ければ、父と母は喜ぶだろうな」「〇〇高校に合格すれば、うれしいだろうな」そう思うわけです。
そしていつの間にか、親の望みどおりの「道」を選んでいます。結局、親の欲望に子どもが知らない間につき合わされているのですが、これを親は、「自分の希望を頭ごなしに言わずに、子どもが自主的に選んだ」という話にすり替えているのです。
ここに、「友だち親子」のごまかしがあります。子どもたちをそれと気づかぬように、親の敷いたレールの上を歩かせながら、親はそれを「子どもたちが自分で選んだ。自分たちは何も子どもに押し付けていない」と思っています。
子どもに「道」を押し付けたという自覚がまるでないのです。子どもが順調にレールを歩んでいるうちは、それでも問題にはなりません。
受験もうまくいって、クラスで落ちこぼれることなく、人間関係もうまくいっている間は、それでもいいでしょう。
そんな家庭では、「友だち親子」であっても、暴力が生まれることはないでしょう。
しかし、何かのきっかけでつまづいたとき、子どもたちは必ずその「犯人探し」を始めます。
今の自分になってしまったのは何が悪かったのかを、ひきこもった部屋でひとり考え始めるのです。
そしてあるとき、子どもはこの「友だち親子」のごまかしに気づきます。「好きにしていいのよ」と言いながら、親はぴったり「横」に寄り添って、自分たちに無理やり「道」を押し付けてきました。
親の希望する「道」を自分たちはだまされて歩かされてきました。「友達」になって「親」の嫌な役回りを放棄しながら、そのくせ自分が行き詰ると、「命令したことはない。お前が自主的に選んだはずだ」と責任を押し付けてきます。
親によってかけがえのない時間が奪われてしまった・・・・。「一発殴らせろ!」子どもがそうして親に復讐をしても、けっしておかしくないとわたしは思います。
この「親のごまかし」に関係して、もうひとつ大切な点があるので補足しておきます。
「ここは親の目がないのが、本当にいい!」
ひきこもり自立支援センターの共同生活寮に来ているひきこもりやニート、家庭内暴力の若者たちは、口をそろえてそう言いますが、この親の目、とくに「母親のまなざし」というのは、子どもにとって非常に大きな力を持つものなのです。
「友だち親子」の親が「子どもが自主的に選んだ」と言う時、重要な威力を発揮しているのは何といっても、この「母親のまなざし」です(これは「友だち親子」に限ったことではなく、どの母親もそうですが)。
頭ごなしに命令はしないし、口にも出しません。だけど、「目には口ほどにものを言う」。
父親についてはあまり指摘する若者はいませんが、「母親のまなざし」というのは、若者たちに強烈に強烈に焼きついているようです。
「こんな学校に行ってほしいな」
「将来こんな仕事をしたら、お母さんうれしいわ」
母親というのは無意識のうちに、非常に切ない目で自分の気持ちを表現してしまいがちです。
言葉にはしなくても、自分の願望をまなざしに託して子どもに伝えてしまうのです。
そんなまなざしを、子どもは敏感に察しています。そして本能的に「親の喜ぶ顔が見たい」とがんばってしまいます。
ところが子どもがいったん「勝ち組路線」からはずれてしまうと、途端にそのまなざしは非常に疎ましいものに変わってしまいます。
「お母さんは、あなたのことが心配でたまらないのよ」
「バイトじゃなくて、正社員で働いてくれないかしら」
うまくいっていたときには、「プラスのまなざし」を送ってきたのに、自分が行き詰ると、今度は「マイナスのまなざし」を投げかけてくるのです。
これは子どもには、たまらない重圧でしょう。「母親のまなざし」が、子どもへの「心の暴力」になっています。
子どもがそれを疎ましく感じて、ついきれてしまうのも、無理もありません。「母親のまなざし」には、それくらいの強制力があります。
ですから、先ほどの若者たちの発言(親の目がないのが本当にいい)が出てくるわけです。
ところが母親というのは、自分のまなざしに対する自覚がまるでありません。それが「心の暴力」と呼べるほどに子どもを心理的に追い詰めていることに、まるで気がついていないのです。
しかし、もし仮にそれに気がついたとしても、母親がそれを止めることはできないでしょう。
母親からすれば、それはいわば「子どもへの愛」なのです。「なんとかしてあげたい。幸せになってほしい」と心底思う結果なのです。
だけど子どもには、それがものすごく負担に感じられて、暴力をふるう原因になります。
そこに、親子の難しさがあります。「俺のことは、もう放っておいてくれ!」「わたしのことは、もうかまわないで!」
子どもたちは母親から、なんとか逃れたいと思っています。「母親の愛」がそれに抵抗します。
今日も日本のどこかで、こんなやりとりがなされているはずです。
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