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たこわさ(後篇)
「お、おい、ラインホルトさん。こいつは一体」
蓋の空いたつぼから、ずるりと“それ”が床に這い出る。
ぬらぬらとした粘液に包まれたこの不気味な生き物はまだ生きていると見え、ゆっくりと床を這いずっていた。
タコという生き物を、ゴドハルトは生まれてこの方、見たことがない。
イカなら、知っている。
居酒屋ノブでイカを知らないと言えば、とんだモグリだ。
古都の守備を司る衛兵隊の中隊長、<鬼>のベルトホルトの元弱点のイカ。
それとよく似た生き物だが、このタコという奴も食べられるのだろうか。
思わぬ珍客の出現に店内が俄かに騒がしくなる。
客の中には叫び声をあげる奴まで出る始末だ。
普段は参事会でも沈着冷静さを誇っているゲーアノートは平然とした顔をしているが、ナポリタンの皿を持って壁際に避難している。
落ち着いているのはタイショーとシノブ、それにエーファと中隊長の確かヘルミーナという名前の若奥さんくらいのものだ。
こういう時に女は強い。
そうこうしている内にヘルミーナが手慣れた所作でタコをさっと捕まえ、壺の中に押し込めた。
衛兵二人組は呆然としていて何もできなかったらしい。本当にそんなことで街の守りができるのだろうか。
「すみません、まさかまだこんなに元気だとは」
申し訳なさそうにラインホルトが頭を掻く。
客からはしっかりしろよと野次が飛ぶが、ゴドハルトはタイショーの表情に注目していた。
あれは、料理人の目だ。
タコが売り物になるか、見極めているのだろう。
ラインホルトのタコがイカのように食材だとすれば、活きの良いまま古都に運べるというのは大きな利点だ。
死んで時間の経った魚は食えたものではないが、生きたまま運べるというなら話は別。鮮度は比較的良い状態に保たれるのではないか。
ひょっとすると、とゴドハルトはラインハルトの方に向き直る。
育ちのいいお坊ちゃんだと思っていたが、この男はわざとタコをここで話してみせたのかもしれない。
だとすると、とんでもない策士だ。
考えてみれば、ゴドハルトがラインホルトの歳の時分は何をしていただろうか。喧嘩に明け暮れていただけではなかったか。
「うぅむ」
「どうしたんですか、ゴドハルトさん。唸り声なんかあげて。折角のウナギが冷めちゃいますよ」
「ん、ああ、そうだな」
騒ぎの間に温くなってしまったラガーをシノブがさりげなく交換してくれる。こういう配慮は、他の店ではなかなか見られない。
持って来てもらったラガーを呷っている内に、ラインホルトは今のタコをタイショーに譲るという話を持ちかけていた。
「どうでしょう、このタコ。お譲りしますから、ちょっと料理してみてくれませんか? もちろん、御代は頂きません」
「それはありがたいですが、少し時間がかかりますよ」
「構いません。夜はまだ始まったばかりですから」
周りの客も二人の会話に興味があるようで、しっかりと聞き耳を立てている気配がある。
みんな、試食のおこぼれに与るつもりなのだ。
タコを捌くことに決めたタイショーの動きは早かった。
ゴドハルト達の目の前でさっとタコを〆てしまうと、シノブにダイコンをおろさせる。
「本当は塩で揉むだけでいいんですが、このタコは身が締まってみたいなんで、ダイコンオロシでも揉みます」
普段は給仕をしているシノブだが、大根をおろす手際は大したものだ。
あっという間に器いっぱいのダイコンオロシが摺り上がる。
客の喉が期待にごくりと鳴る。
ここで帰ってしまうほど勿体ないことはない。
どうやらタコの色々な食べ方ができるらしいと、ラガーを頼んで長期戦の構えだ。
タコが這いずった床を拭いていたエーファも、慌てて注文取りに走り回る。
ヘルミーナが並々とジョッキに注いだラガーが、次々とテーブルに運ばれていく。
タイショーの手が塞がっているから、追加の肴は無い。それならば、ということでどこの席でも会話に花が咲く。
テーブル席では魔女だの何だのと話題が出ているが、ラインホルトとゴドハルトの関心事は違う。
「今年の収穫祭は例年にも増して大掛かりになりそうだな」
「バッケスホーフ商会がなくなりましたから、大市の仕切りが揉めそうです」
「利益のほとんどを持って行かれるよりはマシだよ」
収穫祭自体はまだ何ヶ月が先だが、その仕度はそろそろ始めなければならない。水運ギルドでは、収穫祭と同時に開かれる大市の割り振りは重要だ。
年に一度だけ開かれる大市には、帝国全土から商人が集まる。利益も大きいが、苦労も少なくはない。
その時に物資の輸送で粗漏があれば、水運ギルドの沽券に関わる。
「タコも大市も下拵えが肝心、ということですか」
「そういうことだ。一度エレオノーラも交えて三人で、しっかり打ち合わせをせんとな」
「そうですね。で、打ち合わせの場所は?」
聞くまでもないことをラインホルトがわざとらしく聞いた。口元が笑っているところを見ると、答えは分かっているのだろう。
「決まっている。この店で、だ」
そんなことを話していると、いよいよタコの下拵えが済んだらしい。
タイショーが見事な包丁捌きで、水洗いしたタコを薄く削いでいく。
「まずは刺身です」
皿に盛られたサシミはまるで白い花弁のように美しい。
床を這い回って居た時は深海の奥底に眠る異貌の邪神の眷属か何かのような姿をしていたものが、今では随分と食欲をそそる姿に変わっていた。
一切れ摘まんでショーユに付け、口に運ぶ。
「……ほう」
ぷりぷりとした歯応えに思わず声が漏れた。
噛むとしっかりした味がする。
魚のサシミは何度か食べたが、それとは違った美味さだ。
「北の街で食べた時より柔らかいな……」
そう言いながらラインホルトもサシミを二切れ三切れと摘まんでいく。
負けじとゴドハルトも箸を伸ばしながら、意外なほどしっかりしたタコの旨みを堪能する。
これは、レーシュが合うはずだ。
「済まん、シノブちゃん。こっちにレーシュを」
「あ、私にもお願いします」
一人が頼むと堰を切ったようにレーシュへの注文が殺到した。
ナポリタンしか食べられない奇病に掛かったのではないかと疑われていたゲーアノートも白ワインを片手にこっそりと摘まんでいる。
合う。
予想した通り、タコのサシミはレーシュに合う。
きりりと冷えた辛口のレーシュが、タコの旨みを何倍にも引き立てる。
なるほど、タコとはサシミに適した食材なのだ。
新鮮な魚を生で食べる習慣の無い古都だが、生きたタコが北の港町から仕入れられるようになるとなれば話は別だ。
これはかなりの儲けが出るのではないか。
あっという間にサシミは片付けられてしまったが、丁度その頃合いを見計らったかのように次の皿が現われる。
「さ、次はタコの唐揚げだ」
足をぶつ切りにしてさっと揚げたカラアゲは、匂いからして強烈だ。
油の香りというのはどうしてこうも胃袋に対して暴力的なまでの誘惑を仕掛けることができるのだろうか。
これには、ラガーだ。
酒飲みとしてのゴドハルトの本能が強く主張する。
「シノブちゃん、こっちにトリアエズナマ!」
「こっちにも!」
「こっちにもだ!」
ラガーを一口含んで、口の中を平常に戻した。
タコのカラアゲ。
ワカドリのカラアゲは、ノブの名物メニューだ。
それと同じカラアゲで勝負できるほど、タコとは強い食材なのだろうか。
箸で摘まみ、じっと見据える。
ぱくり。
一口食べて、間違いに気が付いた。
タコは、サシミで食べるためのものではない。
カラアゲで食べるためのものだ。神がその為に創りたもうた存在なのだ。
そうと考えれば怪異な姿にも納得がいく。
あの怪しげで不気味な姿は、この美味を人間に隠しておくためのものだったのだ。
そして当然、ラガーにも合う。ワカドリのカラアゲよりも少し香辛料を聞かせてあるのが心憎い。この味は、癖になる。
「お気に召しましたか?」
ラガーのお代わりを運びながらシノブが尋ねてくる。
ゴドハルトは大きく頷き、宣言した。
「タコのカラアゲは素晴らしい。トリアエズナマにも、合う。これが明日から、オレのイツモノだ。もちろん、ウナギも時々は食べるが、タコがある時はカラアゲだ」
「そんなに気に入りましたか」
「ああ、気に入ったとも。今の気持ちを詩人のクローヴィンケルなら何と歌い上げることか」
「詩人……?」
何のことか分かっていない風なシノブの肘をつっつき、ラインホルトが助け舟を出す。
「ゴドハルトさん、こう見えて詩とか物語が結構好きなんですよ。クローヴィンケルっていうのは、料理の事ばかり歌う吟遊詩人です。詩を纏めて本にもしているのですけど」
「へぇ、色んな人がいるんですね」
感心するシノブに空のジョッキを押し付ける。
「学があるところも見せないとな。腕っぷしだけじゃギルドマスターは務まらないんだよ。な、ラインホルトさん」
「私は腕っぷしの方が少し足りないかな」
そう言って細い腕に力瘤を作って見せようとするラインホルトの首を、ゴドハルトは抱え込むようにして無理矢理乾杯する。
「構うもんかね。腕がなくても、ギルドを纏められればいいんだ。お前さんは今のところ、それを上手くやっている」
「は、はぁ……」
頼りなげな返事をしながらラガーを啜るラインホルトの分もカラアゲを突いていると、次の皿が出てきた。小鉢だ。
何かの茎と和えてあるのか、底の方にちょこんと盛り付けられている。
もったいぶらずに鉢にどんと盛って来れば良いような気もするのだが。
「最後の肴は、タコワサです。ちょっと辛いので、気を付けて少しずつ食べて下さい」
ふむ、と小さく溜息を吐く。
サシミ、カラアゲと昇り調子に来ただけに、最後の皿がこれというのは些か興ざめではある。
しかし、タイショーの事だから何か考えがあるのだろう。
例えば一口食べれば酔いがスッキリ醒めるとか、そういう料理なのかもしれない。そう考えれば、何だかありがたい気がする。
タイショーは少しずつ食べろと言っていたが、まぁ脅しの様な物だろう。
タコワサを箸で豪快に一掴みにする。
あっ、とシノブが制止しようとするのが見えたが、もう遅い。
それを一気に口に放り込んだ。
ツン。
次の瞬間、眉間と鼻梁の間に経験したこともない痛みが走った。
思わず目を瞑りながら、ラガーを流し込む。
何だこれは。辛いというよりも、痛い。
だが決して、不快な感覚ではなかった。
口の中に残ったタコワサを噛み締める。サシミで味わったぷりぷりとした食感はそのままに、塩でも香辛料でもない爽やかな辛味が絶妙な味わいとなって口の中に拡がる。
「だ、大丈夫ですか? そんなに一遍に食べて……」
心配そうに顔を覗き込むシノブとラインホルトへの返事の代わりに、タコワサをもう一口放り込んだ。こんどはちゃんと、一口分である。
そして、そこにラガー。
美味い。
これは、美味い。
「ラインホルトさん」
「は、はい」
背筋を伸ばすラインホルトの手を、両手で握り締める。
「出資の件は了解した。タコを売ろう。古都でいつでもタコを食べられるようにしよう」
「はい!」
力強く頷くラインホルトと、もう一度乾杯する。
こんなに美味い酒を飲むのは、久しぶりだという気がした。
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