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異世界居酒屋「のぶ」 作者:蝉川夏哉/逢坂十七年蝉
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古都の秋刀魚(前篇)

 いつものように乱雑に散らかった机を見渡し、エレオノーラは小さく溜息を吐いた。
 窓の外は既に薄暗く、漸く仕事を終えたエレオノーラの肩には一日分の疲労がずっしりと圧し掛かっている。
 水楢の巨木から切り出した一枚を使った大きな机の上には、使い慣れた羽ペンと墨壺、それに積み上げられた羊皮紙の束。

 どれもこれも上質の物だが、それは華美を求めてのことではない。
 仕事で酷使する以上、それなりのものを使わなければ却って割高になるのだ。古都の水運の三分の一を取り仕切るギルドのマスターともなれば、決済しなければならないことも多い。

 そして、手紙の山。
 東王国や北方三領邦との太い人脈を武器にここまで成り上がって来たこのギルドにとって、ギルドマスターであるエレオノーラ自身の手による手紙は、強力な武器であり、同時に生命線でもある。

 美しい容姿と妖艶な雰囲気も相俟って、エレオノーラは仕事を全て部下に任せているという噂があった。本人に言わせれば勘違いも甚だしいのだが、そう見られる原因には思い当たる節がある。

 指に胼胝(たこ)を作り、日に何十通もの手紙を書かねばならないのは、エレオノーラの母の放漫経営のせいだった。
 代々女系に受け継がれてきたこのギルドだが、急拡大したのは母の代になってからだ。
 落魄したラインホルトのギルドから優秀な構成員を引き抜き、一気に古都第二位の規模を手に入れた。

 全ては、女の魅力だ。
 娘のエレオノーラから見ても十分以上に美しかった母は、自分の美貌の持つ値打ちを誰よりも正確に把握していた。
 拡大も女の魅力に頼れば、維持もそれを上手く使わなければならない。

 だからこそ、エレオノーラは男嫌いに育った。
 周りに気付かれるほど、下手な演技をしているつもりはない。
 男好きだと見られるように仕向けながら、その実、エレオノーラの手を握った男さえ数えるほどしかいないのだ。

 美貌には、人並み以上に興味がある。
 女として母に負けたくないからだ。母よりも美しくいて、母のようにはそれを使わない。それがエレオノーラの美学だった。
 ただ、それだけだ。
 日中は、仕事。趣味も、仕事。
 そんなエレオノーラにも最近、密やかな楽しみがある。



「いらっしゃいませ!」
「……らっしゃい」

 いつものように温かく迎え入れる挨拶に軽く会釈をし、エレオノーラは迷わずカウンターの一席に腰を下ろした。
 仕事で疲れた手に、シノブの手から受け取るおしぼりが堪らなく心地良い。
 強張った掌の隅々にまで血が通う感覚を愉しみながら、エレオノーラは品書きを眺める。
 この店のラガーは確かに美味いのだが、最近は専らレーシュを頼むのがエレオノーラの流儀だ。
 冷たく澄んだ味わいは、料理の味と一緒に生業の憂いも胃の腑の底へと流し込んでくれるような怜悧さがある。

「今日はこのデワザクラを貰います。それと、何か美味しい魚を」
「焼きますか? 煮ますか?」
「そうですね……では、焼いたものを」

 オトーシのキンピラゴボウを運んできたシノブに註文を伝えると、すぐに美しいグラスが運ばれてきた。注いでから運ばれてくるトリアエズナマと違い、レーシュは客の目の前でボトルから注いでくれる。
 トクトクという涼しげな音と共に透明なレーシュが杯を満たしていくのは、不思議なことに見ているだけでも嬉しさが込み上げてくるのだ。

 まずは一口、デワザクラに口を潤す。
 この銘柄は、香りが良い。端麗な味わいを楽しみながら、キンピラゴボウに箸を付ける。
 シャキシャキとした歯応えと、味を引き締めるピリリとした辛さ。
 そこにもう一度、杯に口を付ける。キンピラゴボウのショーユ味が流れ、口の中にはすっきりとした後味だけが残る。

 最初はナイフとフォークで食事をしていたエレオノーラだったが、この店ではそれは“美しくない”ということに気付いてからは、なるべく箸を使うようにしていた。

 店内ではいつもの衛兵コンビがテンプラを肴にラガーを飲みながら、何やら深刻そうに話をしている。
 北方三領邦の問題が片付いてからというもの、古都一帯は平穏そのものだ。
 魔女がどうこうという話をしているらしいが、エレオノーラには全く心当たりがなかった。

 この二人組、特に髭を生やした方のことをエレオノーラはあまりよく思っていない。
 ニコラウスというこの男は、女誑しに特有の雰囲気を持っているのだ。
 女の敵、というわけではない。むしろ女には優しいような気もする。
 だが、本当は奥手なエレオノーラの本性を見抜いてしまうのではないかという恐れからか、若干の苦手意識があるのだ。

「お待たせしました、エレオノーラさん。秋刀魚です」
「サンマ、ですか」
 シノブが運んできたのは、細長い魚の塩焼きだった。
 槍魚(ランスフィッシュ)に似ているが、それよりも若干身に厚みがある。
 脂の乗った身には見事な焼き色が付いていて、芳しい香りが鼻腔をくすぐる。

「初物ですけど、今年の秋刀魚は脂がきっちり乗って美味しいですよ」
「レーシュにも合いそうですね」

 シノブの言葉に頷きつつ、エレオノーラの目はもうサンマに釘付けだ。
 これは、美味しい。
 長方形の皿の端に盛られたダイコンオロシの白い峰にショーユを垂らしながら、エレオノーラの喉がごくりと鳴る。

 箸を付けると、パリリと皮が音を立て、中の身が姿を現した。
 もどかしい思いで身を毟ると、そのまま慎重に口に運ぶ。
 良い。これは、良い。
 魚の強い味としっかりと脂の乗った味わい。
 二度三度と噛み締め、口の中を空にしたところでデワザクラ。
 これは堪らない。

 次はダイコンオロシを乗せて、もう一口。
 脂の味をやんわりと洗い流すようなダイコンオロシのさっぱりとした味が、また絶品だ。
 白い身の奥から、茶褐色の部分が現われる。
 ここはサンマの内臓だろうか。一瞬不安になるが、居酒屋ノブに限って手抜きをすることはありえない。そのまま出てきたということは、ここも食べる部位なのだ。

 そう思ってエレオノーラは恐る恐る箸を伸ばす。
 ぱくりと一口。
 苦い。
 反射的に、デワザクラに口を付ける。

 その瞬間、不思議なことが起こった。
 苦いのだが、旨いのだ。
 子供の頃から苦味があまり好きではないエレオノーラだが、このサンマの内臓は、食べられる。むしろ、レーシュに合うのではないか。

 端麗なレーシュの味わいと、サンマの内臓。
 この不思議な調和は、エレオノーラを虜にする。

「サンマのワタ、気に入って頂けました?」

 サンマを食べる時に脂の付いてしまった手指を拭うために、シノブがオシボリをもう一つ出してくれる。

「サンマの内臓は、ワタというのですか?」
「はい。他の魚では取り除いてお出しするんですが、サンマだけは美味しく食べられるんです。冷酒に合うでしょう?」
「ええ、これはとても美味しい」

 見た目は悪い。味も、苦い。
 それなのに、この苦味が冷酒の美味さをよく引き立ててくれる。
 エレオノーラは不思議な発見をしたような気持ちで、サンマに箸を付けて行った。

 美味しい魚だが、食べるのは難しい。
 色々と弄っている内に、皿の上のサンマは見るも無残な姿になってしまった。
 レーシュもまだ少し残っている。何か別の肴を頼もうかと思ったその時、エレオノーラは後ろから声を掛けられた。

「ああ、勿体ない。まだもう少し食べられますよ」
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