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〆の鮭茶漬け(〆)
酢で湿らせた布巾でテーブルとカウンターを綺麗に拭いていく。
普段はしのぶやエーファに任せている仕事だが、週に一度だけ信之が掃除することが習慣になっている。
今日は、古都の安息日だ。
表の通りには朝だというのに誰もいない。
古都で広く信じられている宗教では働かなくても良い日ということになっている。信之としては店を開けてもいいのだが、開けても客は来ない。
皆が経験だからと言うよりも、週に一度は家族で過ごす日を大切にしているようだ。
実は一度だけ開けたことがあるのだが、その日の客はエトヴィン助祭ただ一人で、まるで商売にならなかった。
最後に神棚を清め、榊の水を替える。
エーファが一度いなくなったあの日から、週に一度くらいの割合で稲荷寿司も備えるようになった。どういう意味があるのかは分からないが、これを始めてから少しだけ商売が繁盛するようになった気がする。
稲荷と言えば、不思議なのはこの店そのものだ。
シャッター通りと陰口を叩かれる商店街の隅にあるこの店の入り口は、どういう訳か古都に繋がっている。
正面のシャッターを開けて商店街側から入ることもできるが、店から出ようとすると古都に繋がっているのだ。
信之もしのぶもあまり細かいことは気にしない性質なので、大家にも黙っている。稲荷神社のすぐ傍に住んでいる大家はこの店を見に来ることもないし、月々の家賃は銀行振り込みだ。
それでもたまに信之が稲荷神社まで足を運ぶのは単なる散歩ではない。
本当に困っていた時に、助けてくれたのがその稲荷神社だったからだ。
「さて、そろそろ準備をするか」
普段の安息日であれば掃除をすればそれでおしまい。
後は二階の自室で撮り溜めた刑事ドラマを見るか、ボトルシップやプラモを組み立てるか、研究と称して外食をしに行くかである。
だが、今日は違う。特別なお客さまが来るのだ。
掃除の時にいつも着ている作務衣から料理人の服装に着替える。
白の和帽子を被れば、気持が澄んで落ち着いてくるのは修業時代からの信之の特技の一つだ。
包丁の消毒も終えて支度をしていると、裏口から物音がした。
「……らっしゃい」
「……こんにちは」
恥ずかしそうに入って来たのは、しのぶだ。
夏らしい涼しげなワンピースに薄手のジャケットは普段の割烹着姿と随分印象が違う。
信之の後ろを回って店内に出ると、しのぶはカウンターに腰を下ろした。
所作の一つ一つが普段のものとは違い、落ち着いている。
「大将、今日は無理を言ってごめんね?」
「良いんだよ。記念日なんだから」
居酒屋のぶが、古都に開いて今日でちょうど半年になる。
店を開けた時はまだまだ寒く雪のちらつく日もあった古都が、今では汗ばむほどの暑さになっていた。
ジョッキではなくグラスに二杯、ビールを注ぐ。
表面に汗をかいたグラスを手渡す時、しのぶの指が思ったよりも細く、長いことに驚かされた。
「乾杯」
「……乾杯」
口を湿らすだけのつもりだったが、喉が渇いていたのだろう。思わず一杯干してしまってから信之は苦笑を浮かべる。
料理を食べに行く時は化粧をほとんどしないしのぶだが、その肌理は瑞々しい。いや、化粧をあまりしないからなのだろうか。
「ビールと言うと、いろいろあったよね」
「あったなぁ。バッケスホーフ事件」
「そうそう、バッケスホーフ、確かそんな名前だった」
グラス片手に面白そうに笑うしのぶのために、信之は用意しておいた肴を出してやる。
古都の人たちにはまだまだ浸透していない刺身も、今日は遠慮なく出すことができた。
しのぶが賞味する姿を、じっと見守る。
料亭の娘として厳しく躾けられてきたしのぶは、食べ方が美しい。
そして、その舌も確かなものだ。
「大将、また腕上げたんじゃない?」
「そうかな。しのぶちゃんがそういうなら、そうかもしれない」
「前よりも、味がお客さんの方を向いてると思う」
「お客さんの方を、か」
家出したしのぶと一緒に料亭を飛び出したのは、九カ月ほど前のことだ。
駆け落ちのようなロマンチックなものではない。
別々に飛び出した二人がたまたま一緒に行動したと言った方が、まだしっくりとくる。
しのぶが家を捨てたのは、意に染まぬ結婚をさせられそうになったからだ。
格式はあるが左前の料亭を再建するために、ある銀行の副頭取の息子を迎えようという計画があった。
そんなのは嫌だと家を出るのは、しのぶの性格を見れば明らかなのに。
「大将、私、天ぷらが食べたい」
「はいはい。何でも揚げますよ」
料亭再建の切り札だったしのぶの結婚が流れたことで、板場でもリストラが必要だという空気が流れ始めた。
腕はあると自負していた信之だが、人付き合いは得意ではない。やめさせられるならいっそ、と店を捨てたところで、ばったりとしのぶお嬢様に再会したのだ。
からりと揚がった天ぷらに塩を振って馴染ませる。
しのぶの好物は鱚と舞茸、春菊と烏賊だ。珍しい所では紅しょうがの天ぷらの愛好家でもある。
「この烏賊、美味しいね」
「これだけ美味しい烏賊ならベルトホルトさんでも食べられるかもね」
「最近は大分克服したみたいじゃない」
余分に揚げた烏賊を摘まみながら、二杯目のグラスを空けた。
自分で言うのもなんだが、よく揚がっていると思う。
酔いが回ったのか、顔が少し火照ってきた。
そこからはしのぶの注文のままに、色々と肴を作っていく。
古都では出しにくいと思うもの。一工夫すれば古都でも出せそうなもの。逆に古都の料理でアレンジできそうなもの。
一品作るたびにしのぶの容赦ない批評が飛び、食べさせたい常連の話で盛り上がる。
こういう休日も、悪くはない。
最後の〆には、鮭の茶漬けを二人前。
知らぬこととは言え、先帝陛下にも召し上がって頂いた品だ。
さらりさらりと流し込むと、胃の腑が心地良さに満たされていく。
「ねぇ、信之さん」
「ん?」
「これからも居酒屋「のぶ」、続けて行こうね」
「……ああ、そうだな」
どこかで微かに蝉の声がしたような気がした。
盛夏はもう、目の前まで迫っている。
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