34/145
老人と魚(後篇)
出てきた一皿は良い塩梅に焼き色の付いた細い魚だった。
魚と言えば干物が当たり前のヨハン=グスタフにはこういう魚は却って物珍しいものに見える。
伯父の方はまた違った印象を受けたようでにんまりとした笑みを浮かべてフォークを手に取った。
「鰯の醤油漬け焼きです」
イワシというのはまた聞き慣れない魚だが、塩気がしっかり染みていてこれも美味い。エールやラガーに合う味ではないかもしれないが、食が進む。
「先程のナンバンヅケも良かったが、こっちの方が私は好きだな。野趣があるというか、漁師町で食べているような素朴さがある」
「伯父上は漁師町に行かれたことが?」
「婿養子に入る前は海沿いの育ちだったからな」
漁師町の食べ物は味が濃い、と伯父は続けた。
「身体を動かすとな、汗を掻く。私たちが狩猟で流すような量ではないぞ。乾くと塩を吹くほどだ。それほど汗が出るとどうしても塩気のある食べ物が欲しくなるのだな」
そう言って骨まで食べる伯父の健啖ぶりに驚きつつ、ヨハン=グスタフも鰯を食べる。宮廷や貴族の祝宴で供される食事とは全く違った文化が、そこにはあるのだ。
「ところ変われば食も変わる。帝国は広いからな。私たちが普段食べているパンは小麦で作られるが、古都より北では大麦が混ぜて使うと聞く。そういう人々と、帝国は交渉するわけだ」
「食べる物が違う人々とは、分かり合えないと?」
「馬鹿を言うな。そういうのは王国までの話だ。帝国と言うのは、食べる物も着る物も、生きる目的さえ違う人々を包み込む度量の広さがなければならない。それができないなら、帝国などと名乗るべきではないな」
伯父の言うことは、貴族であるヨハン=グスタフにも時折理解できない程に高尚なことがある。こういう調子の時、迂闊なことを言うと臍を曲げてしまうので注意しなければならない。
「続いてはアジのフライです。ソースをかけてお召し上がり下さい!」
次の皿を運んできたのは先程までの給仕ではなく、皿洗いをしていた少女だった。なかなか愛らしい娘で、この子は他の二人の店員と違って帝国人の血を引いているようだ。
「ソースを自分でかけさせるのか。これはまた面白い趣向だな」
どぼどぼとソースをかけて伯父は衣を真っ黒に染めてしまう。
だが、カラリと揚がったフライはそれでもなお美味しそうに見える。
「これは、ナイフとフォークで切り分けるのかな?」
運んできた少女にヨハン=グスタフが問うと、彼女は笑って答えた。
「アジのフライはお行儀よく食べちゃ駄目です。ガブリと下品に食べるのが一番おいしく食べる秘訣です」
それを聞いて伯父は愉快そうにナイフを置く。
「下品に食べる、か。久しくやっていなかったな」
フォークを突き立てると、ヨハン=グスタフは恐る恐るフライを口に運んだ。
サクリとした衣と微かに酸味のある味の濃いソースがアジの淡白な味に実によく合っている。
「これはラガーに合いますね、伯父上」
「ああ、これは美味い。確かに上品に切り分けたのでは味わうことのできない美味さがある」
一人二匹出されたアジをぺろりと平らげ、伯父はラガーをお代わりした。
「ヨハン=グスタフ。そう言えば北方三領邦ではまだ手掴みで物を食べるという話だったな」
「ええ、三領邦の一つ、ウィンデルマーク伯爵家の者が帝都の晩餐会で恥を掻かされたとえらく怒っていたはずです」
「そういう小さなことの積み重ね、ということであろうな」
現皇帝は三領邦の独立を頭ごなしに押さえつけようとしているようだが、果たしてそれが正解なのだろうか。伯父と話していると、不思議にその方針が誤っているように思えてくる。
もちろん、帝国貴族としては独立を認めることには反対だ。一ヶ所で認めれば、離脱は際限なく続く恐れがある。帝国の威信にかけて、それは看過されるべきではない。
そんなことを考えていると、次の皿が運ばれてきた。
運んでくるのは先程の少女だが、どうにも皿が大き過ぎるように見える。
「カレイの煮付けで…… きゃっ!」
やはり皿が大き過ぎたのだろう。少女が躓き、皿に載っていた見事な魚が床に落ちてしまう。
幸いにして皿は割れなかったが、料理は台無しになってしまった。
見るからに立派な魚なので、多少惜しい気がする。
「た、大変申し訳ございません! 御怪我はございませんか?」
慌てて謝る少女に、伯父は優しく微笑むと自分のハンカチを取り出し、少女の顔を手ずから拭ってやっていた。
「私は大丈夫。服も汚れてはいないようだ。それよりもお嬢さんの方は大丈夫かね?」
「は、はい!」
「火傷をしているとよくない。そのハンカチは君にあげるから、すぐに水で冷やしてきなさい」
「ありがとうございます!」
店主と先程の給仕も出てきて頭を下げる。給仕はすぐに少女と一緒になって床の掃除を始めた。
粗相があったのは事実だが、嫌な気持ちにならない処置だ。
こういう居酒屋では普通ならまず期待できない対応だろう。
「しかし、このカレイという魚は惜しいことをしたな」
呟く伯父の姿は、本当に残念そうだ。
伯父の普段暮らしているところではまず手に入らない魚だろうから、無理のないことかもしれない。
「大変申し訳ございません」
店主が頭を下げ、丁重に詫びる。これだけの魚だ。きっとメインの料理として考えていたのだろう。
「いや、良い。こういう魚を出す店が古都にあると分かっただけでも、私は満足だ」
「ああ、違います。どちらかお一人のカレイが、少し遅くなってしまうということでして」
「どういうことだ?」
何を言っているのかよく分からなかったが、疑問は給仕の持ってきた皿で氷解した。そこには先程のカレイに見劣りしない大きさのものがちゃんと載せられている。
「もう一匹もすぐに用意致しますね」
「あ、ああいや。結構だ。私はヨハン=グスタフとこのカレイを分けて食べることにしよう」
「そうですか? 畏まりました」
あれだけの魚が、もう一匹用意してあった。信じられないことだが、現にカレイは目の前にある。
ヨハン=グスタフはこの居酒屋ノブをさらに見直していた。
だが、隣でカレイを口に含む伯父はまた別のことを考えているようだ。
現役を退く前の怜悧さを思わせる顔付きで何かを深く考えている。
「本日の〆は鮭茶漬けです」
そう言って運ばれてきたのは、ライスにスープをかけたものの上に、紅色の魚が載った料理だった。
「この魚は…… 鮭か」
「伯父上、ご存知なのですか?」
「ああ、北方三領邦より北では、冬になるとこれが川を遡ってくる。塩漬けにしたものは広く流通していてな。私も若い頃には随分と食べた」
そう言って木匙を茶漬けに差し入れた伯父は少し残念そうな顔をした。
「ああ、流石に皮は付いていないか」
その独白があまりにも絶望的だったのに気付いたのか、給仕がそれに慌てて応じる。
「大丈夫ですよ! 皮は捨てずに取ってあります! 少し炙りますね!」
その言葉を聞いて、店主が鮭の皮を網で炙りはじめた。
何とも言えない香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。
「お客さんも、鮭の皮が好きなんですね」
「おおとも。お嬢さんも好きかね?」
「はい、大好物です」
鮭の皮がどんな味なのか分からないヨハン=グスタフは完全に置いて行かれてしまっているが、どうやら途轍もなく美味いものなのだろう。
「若い頃、私に親指ほどの厚みの鮭の皮を持って来てくれたら、どんな褒美でもやろうと言ったことがあったのだ」
「またそれは大それたことを」
「幸いにして鮭の皮を持って現れる奴はいなかったから、よしとしよう。いや、不幸にして、かな」
鮭の茶漬けを食べ、伯父が鮭の皮を当てにサケを飲んでいるのを見ると、心地良い眠気が襲ってきた。
このところ、忙しさにかまけてしっかりと眠っていない。
「ヨハン=グスタフも眠そうであるし、そろそろ引き上げるかな」
「本日はお越し頂きどうも有り難うございます。またのご来店をお待ちしております」
給仕の挨拶に、伯父は嬉しそうに相好を崩す。
「有難いお申し出だが、少々遠方に住んでいてな。ただ、また機会があれば是非にでも寄せて貰うとしよう」
「ありがとうございます」
「なに、美味い鮭の皮を食わせて貰ったからな」
店に入ったのは夕暮れ時だったのに、古都の空にはもう星が瞬いている。
店を後にして取ってある宿に向かう道すがら、伯父は集まってきた近衛と執事に手早く指示を出していく。
「明後日の会議の料理の内容に変更を加える。急ぎだが、必ず手配してくれ」
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。