相談を待つのでなくて、掘り起こす。 / 浦崎 寛泰 弁護士


このエントリーをはてなブックマークに追加

JRと地下鉄を合わせて5路線が乗り入れる、都心の交通の要所、飯田橋駅から徒歩圏内に、福祉に関連する法律問題に注力する法律事務所がある。
今回は、浦崎寛泰先生(PandA法律事務所代表)にお話を伺った。

裁判員裁判で全国初の全面無罪判決を、千葉地裁で勝ち取った弁護人としても知られるが、注力分野は別のところにあった。

「問題を掘り起こす」アウトリーチ弁護士

– 弁護士とともに、社会福祉士の肩書きも掲げていらっしゃるのですね。

そうですね。千葉の法律事務所にいた頃から勉強していましたが、資格を取得したのは都内に移ってきた後です。
社会福祉士として何か具体的に活動するわけではありませんが、弁護士として福祉と連携するにあたって、必要な知識を身につけるつもりで取得しました。

– 弁護士になろうと思われたきっかけは、何だったのでしょうか。

司法試験の勉強は大学1年から始めていまして、当時は漠然とした憧れだったのですが、大学2年のころに、ハンセン病患者の隔離政策に関する違憲判決が出まして(2001年 熊本地裁)、あのニュースに衝撃を受けたんですね。

– どういう点に衝撃を受けましたか。

この日本で、ひどい人権侵害が長い間にわたって放置された状態だったということもさることながら、あの人権問題を手弁当で掘り起こしてきて、白日のもとに晒した弁護士の努力も凄いなと思ったんです。

ただ、弁護士になってどうするかは、司法試験に合格した後になってから真剣に考えました。ひとつは、弁護士過疎地の問題。先輩弁護士の誘いで、小笠原諸島での法律相談を、船で片道25時間かけて務めてきた経験から、ひとつの裁判所の管轄に弁護士が1人しかいない、あるいはゼロという地域を解消する活動に関心がありました。

また、別の先輩弁護士が、ホームレス支援に関わっていて、その問題にも取り組みたいと思いました。ホームレスの緊急一時宿泊施設での法律相談に同行したときのことですが、とあるホームレスの方が借金問題を抱えて、それを苦に夜逃げしてきたというんです。けれど、よく話を聞いてみると、借金はとっくの昔に消滅時効にかかっていたりするわけです。でも、本人はそれに気づかずに悩んで、怯えているわけですね。

つまり、「法律トラブルで困っていたら、相談に来てください」という呼びかけでは不十分だと思うんです。

– 自分がどう困っているのか、わかっていない場合があるわけですか。

離島の住人ですと、物理的、環境的に弁護士へのアクセスにおいて障壁があるという問題があります。ホームレスの場合は、近くに弁護士はいるんだけど、じつは法律的に救える場合であるとか、その事実に気づいていないことがあるのです。

ですから、「困ったら来てください」というタイプの弁護士でなくて、「問題を掘り起こす」弁護士でありたいと思ったのです。福祉の世界では「アウトリーチ」といいますが、法的サービスを必要とする人や場所へ、こちらから近づいていく発想を持っておくべきではないか。先輩方の活動を見ながら、そのように感じたのです。

刑事事件の陰に潜む、福祉の問題

浦崎 寛泰 弁護士

– 最初は離島に赴任なさったんですね。

小笠原での経験から弁護士過疎地の問題に関心があったので、離島への赴任を希望し、法テラスから長崎の壱岐島に派遣されて、そこで3年間過ごしました。その後千葉市内の法テラス法律事務所に転勤となりました。

千葉で印象的なのは、障害のある方の刑事事件ですね。

窃盗を続けて前科17犯の男性が、人を死なせてしまい、その刑事弁護人を担当したことがあります。刑務所を出ても、身よりも住む場所も食べるものもないということで、すぐに追い詰められて、また盗みを繰り返してしまうんですね。

ただ、前回刑務所を出たときは、保護観察所に相談したのですが施設に空きがないからと断られ、近くの役所への交通費だけ渡されました。役所で生活保護の相談をしたのですが、40代でまだ若いからと追い返されてしまいました。結局、食べるものがなくて栄養失調で倒れてしまいました。運び込まれた病院でようやく生活保護を受けられ、福祉事務所からあっせんされた無料低額宿泊所で寝泊まりできるようになったんです。しかし、そこはアルコール依存症の人たち10人ぐらいが共同生活しているだけで、何の支援もない宿泊場所で、腕っぶしの強いリーダー格の男が、他の入居者を暴力で支配しているような状態だったんです。

それで、そのリーダー格の男からの命令で、他の入居者に暴力を振るってしまい、相手が不幸にも亡くなってしまったため、今度は傷害致死事件で逮捕されてしまいました。

しかし、彼には知的障害があることがわかったんです。

– 前科17犯でありながら、その障害がずっとわかってなかったんですか。

それまでは、無銭飲食や万引きなどの繰り返しで、ベルトコンベア式に裁判が進められるだけだったので、発覚しなかったのです。ただ、そのときは傷害致死という大事件になったので、被告人が正式に精神鑑定を受けたことで、ようやく知的障害の事実が判明したんです。

– それは、今までに延べ17人いたであろう刑事弁護人の怠慢だったのでしょうか。

すべてに弁護人がついていたかは分かりませんが、弁護人だけでなく、警察、検察、裁判所など多くの司法機関が関わっていたはずです。そのなかで弁護人は、被疑者に一番近い立場ですから「おかしいな、何か障害があるのかもしれない」と思ったら、福祉部門に繋ぐなど、何らかの働きかけができた可能性はありました。もちろん、刑事司法の問題だけでなく、福祉の問題でもあったと思います。

その被告人は、刑務所には収監されるとしても、今後「19回目」が起きないように、福祉的な支援やケアを行っていくことになりました。私から福祉の支援機関に依頼して、服役中に、支援機関が出所後の調整をしてくれました。身元引受人も見つけてくれました。

彼は5年以上服役して、仮釈放で出所しました。出所の日、私も迎えに行ったのですが、18回目にして、「初めて迎えに来てくれた人がいた」と言っていたのが印象に残っています。

日本の刑事裁判や福祉行政の矛盾が、いろいろと詰まっていて、非常に考えさせられる事件でしたね。

ほかにも、精神障害を持つお子さんを殺害しようとした親御さんの事件や、障害のある患者さんを家族が放置して餓死させてしまった事件とか、そういう事件を担当しました。

たしかに、千葉時代には冤罪を争う刑事事件も担当したんですが、やったことは間違いなくても背後に日本の福祉の貧弱な部分が見え隠れする事件を多く担当して、どの事件も印象に残っていますね。福祉的なアプローチがしかるべき人々へ届かなくて、犯罪にまで至ったというケースばかりでした。

ほかに、いままで関わった案件の中で、印象に残っているものはありますか。

長崎の離島時代に、一家心中の事件に刑事弁護人として関わったことがあります。父親が運転する家族全員が乗った車が、玄界灘へ突っ込んで、奥さんが亡くなったという殺人事件です。

島には弁護士が私ひとりしかおらず、その一家も精神障害や多重債務など様々な問題を抱えていたので、もし、こうなる前に、法律相談に来てくれたら何かできたかもしれない、もしかすると、心中に至った原因を取り除くことができたかもしれないと、複雑な思いがありました。

その頃には、島に赴任して2年が経過していて、私なりに、島民の間での知名度も上がっていたと思っていたんですよ。でも、それでも繋がりを持てなかった島民がいたという、悔しい現実を突きつけられましたね。

どうしても、弁護士は身近になれない。一般の方が困ったときは、役所とか、警察とか、そういったところには相談しそうなものですが、弁護士は最後の最後で初めて相談するものだと思われている。

だから、弁護士が受け身でいては、法的サービスが本当に必要な人々のもとへ届かないんですね。福祉の専門家と連携して、こちらから積極的に市民と関係を持ちにいこうと考えるようになったのは、その頃からです。