32/145
トリアエズナマの秘密(終)
「乾杯!」
店内に乾杯の声が響き渡る。
その晩の居酒屋のぶは常連を集めての祝宴になった。
祝宴と言ってもしのぶや信之が企画した訳ではない。いつの間にか三々五々と常連が集まって、宴会のようになったというのが正しかった。
二つしかないテーブルをくっつけ、立食パーティの形を取っている。
卓上には信之が腕によりをかけて作ったメニューが並んでいた。
「乾杯!」
またハンスとニコラウスがジョッキをぶつけ合わせる。
これでもう何度目になるか分からない。肩を組みながら飲んでいるので折角のラガーが床にこぼれている。
その二人の足元を拭うのはヘルミーナだ。旦那が見たら怒りだしそうな光景だが、当のベルトホルトはカウンターで信之たちと話し込んでいる。
「しかしゲーアノートは大したもんだな。この短期間でそれだけしっかり調べて来たって言うのは」
ベルトホルトがこの場にいないゲーアノートの名前を出すとカウンターに座る常連が一様に頷いた。
「帝都の造酒司に伝手なんてないだろうに。ウナギ弁当に賭ける情熱ということかね」
「それがなホルガー、違うみたいなんだよ。ウナギじゃなくて、ナポリタンとかいう料理なんだと。今日の参事会の後に言ってたのを聞いたから間違いないぜ」
ガラス職人ギルドのローレンツの言葉に信之が首を傾げる。
「おかしいですね。うちの店でナポリタンなんか出したことは…… しのぶちゃん、何か知ってる?」
突然声を掛けられて、しのぶは盆で顔を半分隠した。
「えっ、いやだなぁ、そんな。ナポリタンなんて知りませんよ。ゲーアノートさんの勘違いなんじゃないですか?」
「……そう言えばどきどき晩酌用のベーコンが無くなってることがあるんだけど、しのぶちゃん、ベーコン入りのナポリタンが好物だって前に言ってなかったっけ?」
「え、えへへ…… あっと、新しいお客さんみたいですよ」
硝子戸の前に気配を感じ、しのぶはこれ幸いとその場を逃げ出す。
迂闊なことを言うとこれまでの賄いに関わる悪行の数々が表に出てしまいそうだ。
「すいません、エトヴィン助祭はこちらにお邪魔していませんか?」
ひょっこりと顔を出したのは教会で雇われている下男の青年だった。
夜の時課をすっぽかしたエトヴィンを迎えに何度かここに来たことがあるので、しのぶも顔を知っている。
「おお、どうした。今日の時課は休むと司祭には伝えておいたはずじゃが。何せめでたい祝いの席に招かれておるからな。断わるわけにもいくまい」
「その件について司祭様は随分腹を立てておいででしたが、そのことではありませんよ。至急のお届け物です」
そう言って青年が懐から取り出したのは一通の封筒だった。
受け取ったエトヴィンは老眼なのか封筒の封緘を矯めつ眇めつしながら眺めた後、小さく笑みを浮かべる。
「どれどれ…… ああ、これか。少々骨を折ったが、結局無駄になってしまったな。ベルトホルト、お前さんにプレゼントじゃ」
「エトヴィン助祭からオレに? 気味が悪いな」
何事かと皆で覗き込むが、封緘の印章にしのぶは覚えがない。
だが、常連たちには心当たりがあるようだった。
「これは聖王国の印章ではないか……」
「ゴドハルトさん、口元にウナギのタレが付いていますよ。食べるか喋るかどちらかにしてくださいよ。ああでも、確かにこれは聖王国の教導聖省の印章ですね。珍しい」
店を一歩出れば敵対している筈のゴドハルトとラインホルトが一緒に封筒を覗きこんでいる。
エレオノーラも今日の宴会に参加したがっていたが、どうしても外せないようがあるということで不参加になっていた。
「教導聖省って、何です?」
「しのぶさん、教導聖省って言うのは教会の上の上の上の組織です。法主台下や枢機卿猊下がいらっしゃるところですよ」
「へぇ、エーファちゃんって物知りね。でも、そんなところからなんでエトヴィン助祭に手紙が来るんですか?」
促されてベルトホルトが封筒を開けると、そこには上質な羊皮紙が一枚だけ入っている。そこには流麗な飾り文字でこう書かれていた。
「ベネディクトの子、ベルトホルトとフランツの子、ヘルミーナの婚姻を神の御名の元に祝福する。教導聖省枢機卿ヒュルヒテゴット…… え、エトヴィン助祭、こ、これって?」
「ベルトホルト隊長の驚く顔なんて初めて見るのう。そうじゃよ、お前さんとヘルミーナ嬢の婚姻に関する教導聖省の確認状じゃ。これさえあれば教区の大司教程度が少々の異議申し立てをしたところで突っぱねられるからの」
ラガーのジョッキを干しながら微笑むエトヴィンだが、これはとんでもないことなのではないだろうか。
「す、枢機卿がそんなに簡単にこんなものを書いてくれるわけがないだろうが…… 助祭、アンタ……」
「だから言ったじゃろう、少々骨を折った、と。恩に着てくれるなら少しくらいここの払いを持ってくれても罰は当たらんと思うぞ」
無言で差し出すベルトホルトの手を、エトヴィンがしっかりと握り返す。
見えないところで動いてくれている人もいたのだ。
そこにニコラウスがジョッキ片手に割り込んでくる。
「無駄になったと言えばハンスだな」
「おいばか、ニコラウス、やめろ!」
「こいつ、完全に駄目だと思ってノブの減刑を求める署名の準備をしてたんだから。結構集まってたよな? 百十八人分だっけ?」
「……百二十三人分だ。そういうお前だって!」
「ちょっと待て、余計なことをいうなハンス!」
ジョッキを持ったままで暴れるので、ラガーが飛び散る。
「前の前の前の彼女の酒保商人の娘と、前の彼女の酒造職人の未亡人に土下座までしてエール取引の証文を偽造しようとしてただろ」
「こういうのは言わないのが格好いいんだ! 何てことしてくれる!」
この店がエールを古都のどこからも仕入れていないことをニコラウスは知っていたのだろう。いや、わざわざ調べてくれたのかもしれない。
それで取引があったように証文を作ってくれようとしたのだ。
「ハンス君、君の親爺さんのローレンツも大したもんだったよ」
「ホルガー、貴様!」
「居酒屋ノブを潰すなって、バッケスホーフ派の参事会員にまで根回しにいったもんな。あまり効果はなかったようだが」
「そういうホルガーだってバッケスホーフ商会に取引先を変えるって脅しをかけてただろうが!」
図星を指されたのか、ホルガーが顔を赤くする。
「……あれはだな。こういう良い店を力づくでどうこうしようという商会は私のギルドとの取引先としては相応しくないのではないかと考えただけだ」
「はいはいはいはい、そう言うことにしておいてやるよ」
「ぐぬぬ……」
それを見て笑っているゴドハルトとラインホルト、それにこの場にいないエレオノーラが、バッケスホーフにもし買い取られそうになったらそれに対抗する金を出すと資金の準備をしてくれていたことをしのぶは知っている。
そして、エーファが毎日神棚にお祈りをしてくれていたことも。
「ねぇ大将」
「何だい、しのぶちゃん」
「私たち、この街に店が出せて本当に良かったね」
信之は何も答えず、小さく頷いた。
そして、天ぷらバットに大盛りの揚げ物を掲げる。
「さぁ、串カツが揚がったよ!」
客の歓声が上がり、揚げたてのカツが次々と皆のお腹の中に消えていく。
その日の宴会は夜が更けるまで続き、参加者は翌日、ひどい二日酔いに悩まされることになった。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。