『サクラノ詩』(枕)
まず、この作品については、最初にケロQの姉妹ブランドとして「枕」ができ、その第一作としてこの『サクラノ詩』の制作が発表された10年以上前の出来事から記しておく必要があるのでしょうが、それは『素晴らしき日々』の前段で書いたので今回は省略。
全体的な印象を先に書いてしまうと、私の期待していた方向性からは違うものに仕上がったなあ…と。
本作は序盤の共通パートからⅢ章で大きく分岐しますが、まずはそのⅢ章各シナリオについて。記載順が私のプレイ順です。
Ⅲ「picapica」
全編の中で私的には最も素直に読めたシナリオです。ポジションとしては鳥谷真琴ルート。
さて、この「picapica」は果たしてハッピーエンドだったのでしょうか。鳥谷真琴(以下「鳥谷」)は、この物語で至った結末で幸せになれたのでしょうか。
鳥谷の母親(鳥谷紗希、以下「校長」)が、おそらくはそれほど愛していたいなかったであろう男と結婚して中村家に入った理由ははっきりと描かれません。さらにはその後の離婚を経て、娘には嫌われながら、一人でその仕事をこなしていたように見えます。しかし一方で、この時点の彼女の表情に陰りは描かれなかったように感じました。
校長には、おそらく、同窓であった草薙総一郎に対する相当の想いがあったはず。しかし同時に、彼女は自分の創作における才能の限界を悟っていました。自分が、多才で器用であれ、草薙総一郎の域に達することはできないことがわかっていたはずです。
校長が、彼女なりの形として、自分の望むものを得るには、自ら創作に取り組むのではなく、他人を……本当の天才を動かさなくてはなりませんでした。
彼女の私室にあった美術品は、自ら「ガラクタばかり」と言うように、必ずしも世間的・金銭的評価の伴うものではありません。彼女はあくまでも、「自分の好むもの」だけをあの部屋に置いている。それをひたすらに追い求める人生は……ひょっとすると、猛烈に新鮮で興奮できるものなのかもしれないと思うのです。
さて、ここで、話を鳥谷(娘)に戻します。
もうお気付きでしょう。鳥谷が、途中までは母親と同じ道を歩もうとしていたことに。そして、それに失敗したことに。
鳥谷も自分がそうではないことを悟りつつあるわけですが、母親は既にそれをはっきりと理解していました。「天才って何だと思う?
私にとっての天才は……あの月に手が届く人たちのことだわ。私とは決定的に違う、そんな世界に住んでいる。自由な発想で、月まで飛ぶ……。
『最先端の自由は発想とは、理由も、言葉も、理論も、まだないところへ飛ぶことなの。そこへ飛躍できた人だけが、そのインスピレーションを掴むことができる。それを凡人が、あとから丁寧に理屈をつけて、そこまで行ける道を作るわけ』
天才だけが月に飛べるのよ。そして、その飛躍を埋めるように、凡人が道を作っていく……」
結局、彼女が高校生活最後の夏をかけて打ち込んだ精一杯の一作であっても、夏目圭を、そして草薙直哉を動かすには足りなかったわけです。かつて、母親が草薙健一郎を動かせなかったように。「あの子の描くものは……堅実で誠実だ。今はまだ、思春期独特の切実さがかろうじて……あの子の絵を“見られる”ものにしている。
あの子の生み出すものは、芸術方面には向かないよ」
「白洲兎子」の陶器に対する直哉の絶賛を思い返してみてください。その内容は「機能美」に特化しており、鳥谷の追い求める「月」のイメージとは違う方向性のものです。今から思えば、あれは逆に、彼女の特性と限界を示す、ある意味で残酷な言葉だったように思えます。
末竹弁護士が絶賛したあの4部作にしても、鳥谷自身の意図や評価とはちょっと離れたところに位置しています。鳥谷が思うように作ったものが、彼女の生真面目さをそのままに、あのような偏執的なまでの執着を生み出せたのでしょうか?
これは鳥谷の台詞です。しかし、鳥谷の至った結末は、この通り、はっきりと描かれています。「ときどき私、すごく不思議に思うのよ。
愛ってものが、とても大切なものとして扱われることについて。
愛と、その他の全ては等価値なのかしら。天秤は釣り合っている?
成就される愛以外のもの。
それが誰も望まぬこと、悲劇であれば、大変な問題だけど……でも……愛を犠牲にして得られるのなら……私は、欲しいものがあるのだけど……」
真琴は、愛以外を手に入れることはできなかった。
一方、校長は…「愛」を手に入れることはできなかったかもしれません。しかし、彼女は一方で彼女の「美」を愛した。その果てに、結果してあの壁画を手に入れることになります。
校長は、幼年期の鳥谷に対して常に明確な愛情を示したわけではないですが、彼女と圭の生み出した絵……その美しさについては猛烈に愛しました。例え、それが子供達の絶望から生まれたものだとしても。それが鳥谷にとって如何に許せないことであったかは想像に容易い。
繰り返しになりますが、この「picapica」は、鳥谷真琴にとってのハッピーエンドだったのでしょうか?
結末で描かれたのは、せいぜい大学進学前までのほんの少し先の未来。これから二十年くらい経って、鳥谷が今の母親と同じ年齢になった時に、母親と同じものが得られるのでしょうか。自らの求める「美」にひたすらに貪欲であったあの母親のように。
やや短期的な「愛」の獲得と、人生の長い時間を経てもなお凡人が今の段階では想像も出来ない領域を手に入れることができるかもしれない可能性、この二つを天秤にかけた時に、果たしてどちらに傾くのか。
それはなかなか簡単に言えないものと思うのです。少なくとも、歴史上の芸術家と彼らの生み出した芸術を愛する者のかなりの割合は、後者を選んできたのではないかと。ある程度の年月を経たからかもしれませんが、私的には、校長の生き方や価値観はそれなりに腑に落ちるものだったりします。
たぶん、本作の数あるシナリオの中で私が「picapica」を最もしっくりと読めたのは、鳥谷が適度に私に近い立ち位置にいるからです。彼女は有能な人間ですが、決して「天才」ではありません。彼女がどれだけ頑張っても届かない領域、高い壁を前にした時の気持ちは、ストレートにこちらにも通じるところがあるのでしょう。
また、人物について「その行動の端々から内心を垣間見せる」描き方をしていたのは、この「picapica」だけのように思えました。聞くと、このシナリオはメインプロデューサーのすかぢ氏ではなく、浅生詠氏が担当していたと聞いています。
Ⅲ「Olympia」
一方で、御桜稟ルートであるこの「Olympia」は酷いなあ…と思いました。
私は、前述の通り、最初に今作の制作発表が行われた日からこの作品を見てきたわけです。その過程で本作に期待するようになった要因は、ケロQ(系)ブランドが思いもよらない方向性を打ち出してきたことが一つと、何よりも「枕」公式サイトの作品紹介そのものでした。
今作の筆頭ヒロインである御桜稟の、当初の登場人物紹介は以下の通りです。2013年くらいまで、御桜稟とはこういう登場人物だったのです。
この後、本作は原画担当が変わったため、それに合わせて作品紹介ページがリニューアルされました。その際、登場人物の名前や容姿の基本はさほど変わっていません。以下が発売時点の登場人物紹介です。
正直なところ、個人的には前のエッジの効いた原画の方が好みでした。しかし、紹介コメントが簡略化されたものの「ブランコが乗れないなどどうでもいい能力が欠落」とあり、私の中には旧バージョンの登場人物紹介の印象が強く残っていました。
登場人物紹介の変更の時点で「全体構成を大きく見直した」とのアナウンスがあったわけでもありません。
そんな私にとって、今作の御桜稟は「誰?」という感じでした。
ブランコに乗れなかったことは本当にそれだけ一瞬の描写で終了し、彼女が「あまりになんでも一生懸命」な姿はまるで見えません。ただエロいだけでした。全くの期待外れ、というか別物です。
私の中に(旧バージョンの)御桜稟の描き方への期待は少なからずあったので、残念でなりません。
それだけでなく、このシナリオ辺りから、中村家という「敵」を作り出し、それに対峙していくという場面が多用されます。そして、首を突っ込む直哉の「優しさ」を描いている…ことになっているのですが、そんな馬鹿な話はないでしょう。勝手に悪役を用意して悪役の行為をさせて、悪役だから倒してもいい、そういう描き方は、ただ「殴ってもいいサンドバック」を用意しただけ。
ケロQの人達は少なくとも大企業の社長ではないわけですが、その「自分とは違う立場の人」をただ悪く描いてしまえるのは、卑怯な方法であり、想像力と敬意の欠如と思います。
かつて、貴方達だってこう描いていたじゃないですか。「弘瀬グループは大きいが…大きいことをするためには、多くの人の協力が必要だ。一見スムーズに動いているように見える計画も、すべては一人一人の人間の力によって動かされている。そういうグループのトップに立つ者として…必要な素質は…知的な能力だけではない。…人間性であり、人に敬愛されていることだ」
(『H2O √after and another CSE』)
Ⅲ「ZPRESSEN」
里奈シナリオです。旧バージョンの里奈の登場人物紹介は以下の通りです。
見ての通り、旧バージョンの里奈は、御桜稟あっての構成になっていたように思えます。そのため、これもまた元のままにはいかないのだろうな、とは思っていました。案の定、「妹後輩」の部分はごくごく簡単に触れられただけ。
このシナリオも、冒頭でいきなり義貞と伯奇という伝奇のお話が加わってきたのを目にした時は、思わず頭を抱えてしまいました。
繰り返しになりますが、私が今作に対して期待していた大元のイメージはこの旧バージョンの作品紹介です。この中に、伝奇要素が入ってくる余地は見受けられないと思うのですが…。
ケロQの過去の作品を見れば、彼らが伝奇モノを得意とし、それなりに描けるのは知っています。しかし、それと違う作品を打ち出してきたからこそ今作には興味を持ったんですけどね…。
むしろ、上記のSTORYを見る限り、絵画や芸術の話が中心に来るというイメージすら無かったです。
また、このシナリオは、「絵を描ける」ことが前提になっている展開であることが気になりました。直哉は、手が動かないとか何とか言いながら、最後には結局絵を描き上げてしまう。今作は、制作者がそういう設定をしているからそれが起こってしまう…という展開の繰り返しなんです。
一般的には、そこに挑戦すれど失敗する挫折の可能性の方が高くて、それゆえに思い悩むわけですが、結果ありきですから、登場人物は悩まない、挑むだけでよい。そこにリアリティが感じられず、行動に対する「想い」が今一つ伝わってこない感がありました。
Ⅲ「Merchen」
優実とのエロシーンです。シナリオ的にどうでもいいです。今作のエロシーンは、どれもこれも「エロゲにエロを入れないとダメだから入れました」と言わんばかりの取って付けた感。
個人的には、「エロゲにエロを入れなければならない」という呪いは、いまやエロゲが「物語」を描く上での最大の制約だと思っています。かつては「エロシーンが描ける」という自由を意味していたものが、今日では「描かなくてはならない」という縛りに。単一主人公複数ヒロイン並行分岐というエロゲの「おやくそく」を今作も踏襲しています。その上で直哉に「草薙の人間は一途なんだ」と言わせたのは、皮肉のつもりだったんでしょうか。
この点も、かつてケロQは『モエかん』で本編シナリオとエロシーンを切り離すことを普通に行っていました。メインルートをリライトして一本化した「Route of Kirisima」では完全に省いてしまったくらい。なのに、なんで今更、流れを寸断し雰囲気を一変させるエロシーンをわざわざ本編の中に入れ込んだりしたのでしょうか。
Ⅲ「A Nice Ferangement of Epitaphs」
雫は非常に可愛いのですが、「夢吸い」が出てきた時点でげんなりしました。
またもや旧バージョンの登場人物紹介から話をすると、元の雫には伝奇的な側面は皆無で、むしろモデルとしての色が濃く出ていたわけですが、本作ではそれが「お金を稼ぐため」という手段の話の一言で終わっており、これまた仕様変更があったのではないかと邪推させます。原画変更の影響もあってか子供っぽくなり、「過去を作るために生きてるわけじゃないから」という力強い台詞は、最後まで出てきませんでしたね…。
また、ここで御桜稟=天才という記述が出てきてびっくり。
元の登場人物紹介にそんな表記は全く見当たりません。むしろ、「初めての事はどんなつまらないことでも必ずミスしてしまう」という性質は、その対極に位置するものです。努力型の、平凡なことを淡々と積み重ねていくタイプの才女として設定されていたはずです。
この時点でなんとなく憶測したのですが、この『サクラノ詩』の制作が10年以上遅れた中で、内容に抜本的な変容があったのではないかと考えます。
旧バージョンで登場人物紹介があった3人(御桜稟・夏目雫・氷川里奈)における「不器用な努力型才女」「モデルの道」「妹後輩」といった特徴的なキーワードは、本作でかなりトーンダウンしています。今作の展開ならば「無くても通じる」どころか、「無い方が自然」くらいの存在になっていて、それを旧バージョンの登場人物紹介で一度書いてしまったから(ブランコの例のように)申し訳程度に加えた…ような気がしてなりません。
また、STORYについても、単に夏目家と学園での稟たちとの生活という日常的な要素を描くだけでは展開を捌き切れなかったがために、「夢吸い」等の伝奇要素や、中村家という「敵」との戦いの要素を加えたのではないかと邪推します。
ひょっとすると、今作終盤の最も大きなモチーフとなった芸術論の話ですら、その一環(展開を回すためのもの)として加えられたのかもしれません。私が前もって先述のような第一印象を持ってただけかもしれませんが、彼らが制作当初から今作を芸術論を主軸に描こうというようなことを述べていたような記憶もないのです。
ただ、この変化(変化だとしたら)は個人的にとても残念。長年待っていた身としては。それくらい、旧バージョンの作品紹介を見て今作を楽しみにしていたんですよ…。
今作は、当初案の登場人物の名前と初期設定と容姿をベースに、グラフィックは別の原画家に描き直させて、全く違うシナリオを乗せ、最後に「サクラノ詩」というラベルを貼った、という作品…当初案とは別物のように見えます。
ここまで「違う」作品とするのであれば、そのことをどこかでしっかり告知して欲しかったです(もちろん、私自身の思い違いや過度な期待等が含まれている可能性があることは承知の上ですが)。
それにしても、「千年桜の奇跡が起こりました」は酷かった。作者がそう設定したというだけのファンタジー。これはもはや機械のお話であり、人の物語には見えません。
鳥谷のルートである「picapica」が私にとって一番素直に読めたのは、鳥谷については旧バージョンの登場人物紹介が無かったので先入観が無かったこと、あとやはり、美術部長としての現実に即した人物とその行動について描かれていたからだと思います。
Ⅳ「What is Mind? No matter. What is matter? Never mind.」
前日譚である短めの章。
Ⅴ「The Happy Prince and Other Tales」
ここで長山香奈をこういう風に使ってきたのは流石に驚きました。
旧バージョンの御桜稟が持ち合わせていた「努力をするだけの人間」という要素は、ひょっとしたら彼女に引き継がれたのかもしれません。確かに、メインヒロインとするにはあまりにも後向きな思考ではありますが。
そして、次第に芸術論にシフトしていきます。
今作の芸術論で気になっていたのは、賞の獲得にやけに拘っていたところ。「賞を取ったものが良い芸術作品」という思考は、なかなか抜け切らなかったように見えました。そもそも印象派の原点は、(今作終盤でも出てきましたが)既存の官製サロンにどうやっても入選できなかった若い画家達の活動に端を発するものですからね。
直哉「俺は親父をずっと見て来た。親父だってずっと売れない芸術家だった。ヤツの才能は本物だった。それでも世の中は簡単には認めてなんてくれない。
草薙健一郎という作家は、自分の愛する妻の死という、最大の転機を迎え『横たわる櫻』を完成させた。想像も出来ない絶望感が、やつに神がかった作品を生み出させた。ヤツにとって、人瀬でもっとも大切なもの、絶対に守らなければならないものこそ草薙水菜だった。そのために草薙健一郎は芸術家になったにすぎない。
にも関わらず、皮肉にも、その目的だったものが失われ、手段にしか過ぎなかった芸術だけが残った時に、その時はじめてヤツは世界的な芸術家となった。
芸術は残酷なものだよ。夢は人を喰らい。喰らった夢は、芸術という実を熟す。熟した果実は、地に落ちて、人々を潤す。それがどの様な果実であるかなど、分かりもせずに人々はその甘さだけを褒め称える」
香奈「私は凡人です。凡人だからこそ、私は私の感覚を信じている。
だって、才能が偽物である私が、本物の芸術家の前に立つには、その目だけは、その感覚だけは、本物でなければならない。じゃなければ、私はこんなバカバカしい事なんてしていない。本物かどうか分からなければ、すぐにあきらめがつくんだ……」
香奈「価値の無い物を作り出す人間どもに、おもねる事なんて出来ない。だから、私は戦おうとする。
自分で価値が作り出せない芸術家など、存在しないも同じです。私はそう信じている。だから、私は私の信念によってしか動かない。それが、正しいかどうかなんて知った事じゃない」
香奈「美の基準なんて主観ですよ。
信じてますよ。絶対的な美の主観。でも、それは弱いものです。だから強いものにしなきゃなりません。
(私の美は)私が美しいと思うものです。私の心が、美を感じたならば、それが絶対です」
直哉「人は幸福を望む。人には許容量以上の幸福なんて、吐き気でしか無いのに、それでもその幸福を手に入れようとする。
でも、度が過ぎた幸福に人は耐えられない。幸福に耐えられずに、気分が悪くなってトイレですべて流してしまう。
人にとって、度が過ぎた幸福は。苦痛でしか無く。また、苦痛自体も幸福と背中合わせのものでしかない。不幸なんて苦痛は、幸福と背中合わせでしかない」
これらは一見「芸術論」…に見えます。さて、この作品が書きたかったのは、書こうとしたのは、「芸術論」だったのでしょうか、それとも「創作論」だったのでしょうか。直哉「俺の神さまは、人と共にしかあり得ない。絶対的な存在ではなく、何も調停しない。裁く事もなく、罰する事もなく、また許す事もない。
でもさ、だからこそ、弱い神は人と共にある。
芸術とは、見たものによって、再び生まれ直さなければならない。見たものによって、生まれるからこそ、芸術には意味があるってさ。美は、見るものにとって再び発見される。美は、見るものによって生まれ変わる。その時、神がいるんだよ。
だが、人が美と向き合った時、あるいは感動した時、あるいは決意した時、そしてあるいは愛した時、その弱き神は人のそばにある。人と共にある神は弱い神だが、それでも、人が信じた時にそばにいる。
芸術作品は永遠の相のもとに見られた対象である。そしてよい生とは永遠の相のもとに見られた世界である。ここに芸術と倫理の関係がある。何も、永遠の相を保証するのに、絶対的な神なんていらない。人は、人のための神を感じ、そして、感動すればいい……。弱い神は、かよわき人々の美の中にいる。だから、そのかよわき神には意義がある」
Ⅵ「櫻の森の下を歩む」
この章は異様な章だと思います。「余計」と言い換えてもいい。作品としては、無くても十分に済んだでしょう。では、なぜこの章が加わったのでしょうか。
草薙直哉は、最後の一枚を描き上げるも、夏目圭の前に敗れ、そして彼を上回る機会を永遠に失いました。さらには、「御桜稟」が目覚め、これまでの芸術界の全ての全てを塗り替えるかのような存在に駆け上がっていきました。
そんな中での…いわば敗者である草薙直哉の姿には、痛々しさすら宿ります。にも拘らず、この章を書いた理由とは。
この章の草薙直哉は、サーフィンをしています。わざわざここでしか使わないCGでそれを示しています。で、すかぢ氏は、サーフィンをする人なんですよね。
私は、先述の通り、この作品の芸術に関する記載を見て、果たして「芸術論」とより広範な「創作論」のどちらを念頭に置いているのだろう、と思っていました。
「picapica」の鳥谷母娘や長山香奈は、「才能が無い者が才能がある者を見上げる」視線です。一方、草薙健一郎や夏目圭、そして目覚めた後の御桜稟は、明確に「才能がある者」です。では、今作の主人公たる草薙直哉は、どちら側に位置する人間として描かれていたのでしょうか。
個人的に、それは最後までブレ続けたような気がします。
序盤は、単純に草薙直哉の天才性を描いていたかと。しかし、時間を経て、特にⅤ・Ⅵ章は、長山香奈のような凡人を否定しつつも、夏目圭や御桜稟のような圧倒的な天才には及ばないという、中間のポジションから描かれたような印象があります。
これは本稿の中でも最も根拠のない憶測ですが、当初は中村家を打ち破って直哉が天才たる作品を作ってめでたしめでたし、そんな単純な構成を考えていたところ、本作を完成させるにあたって、次第に「自信」が持てなくなってきたのではないかと思うのです。昔のSCA-自氏なら、自分の好き勝手に主人公を暴れさせたのではないかと。しかし、今のすかぢ氏は、そこまで「自分」の創作に自信が持てなかったのではないかと邪推します。
ただ、この点については、非常に中途半端な印象が否めず。
今作が「芸術論」をどこまで突き詰めていっても、それは地に足の着いた描写にならなかったように思えます。
実際、「一枚で世界の芸術観を塗り替えることのできる絵」は、現実的ではありません。過去において、モナ・リザも印象派も、御桜稟のように一人で・一枚で劇的に全てを変えたわけではありません。そこをどれだけ突き詰めたところで、逆に「フィクション」という感触は強くなっていきます。
むしろそこは、絵画よりも文字情報たる小説の方が強い影響を及ぼすことができるように思えますが、今作が最後まで絵画の話以上にならなかったのは物足りません。
そうではない、これはやっぱり単なる「芸術論」に留まらず、彼らが作品を作る上での汎用的な「創作論」なんだ、という見方もあるかもしれません。
すかぢ氏は、発売直後にTwitterでこんなことを述べています。
上記を見る限り、作品を創る者と受け取る者との関係は、作中の絵画に関する描写のみならず、本作に対峙する読者との関係も射程に入れていたのではないかと。
しかし、創作論は、あくまでも創作の「入口」でしかないはずです。今作が制作に10年以上かかった割に、その入口の整理で止まってしまったことは不満。
今作において本来的に必要なのは、その「絵」を描き上げるというただ一点ではなかったかと思います。
彼らは、前作で既にある程度の創作論を述べていたはず。
むしろ、下手に芸術論とせず、ジャンルをエロゲに特化していたあちらの方が、彼らの立場からの創作論として純粋。創作論を芸術論に重ねた本作が、どこか遠い世界の出来事のように見えた点は否めません。「今おまえがかけている『え~エロゲーなんて~』という色眼鏡をはずして、今から俺が言う色眼鏡にかけなおすのだ」
(『しゅぷれ~むキャンディ』)
もう一点、今作の描写の方法について。
すかぢ氏は予約特典のオフィシャルアートワークスでこう述べています。
ただ、実際に本編の内容がそういう類の書き方をしていたとは思えません。サクラノ詩という作品は、人間ドラマこそが見せ場であって、すばひびのような大どんでん返しが目的ではありません。
全体的に今作の描写は「後出し」です。雫にはこういう過去がありました、稟とはこういう経緯がありました、直哉が遺産を受け取らなかったのは実はこういう理由でした、父親と確執しているようで実際はそれなりに話して敬意も抱いていたんですよ、絵を全く描いていないかのような言い振りで実際はずっと描いていました、といったことの連続。叙述トリックとまでは言わないまでも、主人公の中に明確な意識があったものを、物語の展開を恣意的に進めるために読者に伏せていた箇所が実に多い。
そういう描き方をしているせいで、この作品は登場人物の想いが「読めない」んですよね。本来、その人が何を考えているかは言動の端々から読むしかないのですが、今作はそれをわざと隠している。後で本人の口から「こうでした」と語られることでしか、外部に示されない。
そのせいもあり、この作品は「(設定が)こうだから(展開が)こうなるんだ」という描写が目立ちます。無謀に思えた挑戦が成功したり、悪者を悪者と設定しているからどこまでも単純な悪者だったり…といったところの違和感を感じました。
この人のこういう性格ならこう行動するのか、という繋がりで作品が見えてきません。唯一、書き手が違う「picapica」だけが比較的そういう描き方をしていた(ように見えた)ため、その他のシナリオで尚更不満が募りました。
また、今作が他作品の引用を重ねる中で、それをただそのまま転載した例が多いです。これは読者に対してどういう意図だったのか。読者は原典を必ずしも読んでいるわけではありませんが、今作を読んだ後に引用の原典を読め、読まなきゃ今作は理解できないぞ、ということなのでしょうか。
誰でも他の作品からインスピレーションを受けることは多々あることですが、同じものを見ても人によって受け取り方が変わることを彼らはよく知っているはず。ならば、原典をただ示すだけでは不十分であり、彼らが消化したその自らの言葉で語るべきではなかったかと。
かつて、貴方はこう言っていたわけじゃないですか。
『愛の中には、常に幾分かの狂気がある。しかし狂気の中には常にまた、幾分かの理性がある』
ひなた「ニーチェだね」
『愛とは、人間という謎に満ちた独特の存在が、不思議に融けあっていくことなのだね』
ひなた「ノヴァーリス」
『恋をすると、すぐ身近に、しかし幾ら願っても手の届かない巨大な幸福があるような気がする。しかもその幸福は、ただ一つの言葉、一つの微笑にのみ左右される』
ひなた「スタンダールだね」
『欲するものを得られないでは生きられず、其のためには、時も快楽も生命も犠牲にする、其れが恋なら私は正真正銘恋しているのです』
ひなた「ラクロ」
『何が残酷かといって、相手を愛しているのに相手からは愛してもらえない男には、女心ほど残酷なものはない」
ひなた「モーム」
『愛を求める心は、悲しい孤独の長い長いつかれの後に来たる、其れは懐かしい、おほきな海のやうな感情である』(萩原朔太郎)
「…ところで、教授さんはその詩について、どのような意見を持っているの? さっきから、教授さんは人の言葉でばかり愛を語るけど、自分の言葉で愛を語らないのは、どうしてかな?」
(『H2O √after and another CSE』)
以上、10年以上待った割には、全般的に物足りない作品でした。
旧バージョンの作品紹介との差異自体はさておき、作品の方向性が、「実際に絵を描く」ことではなく、「"絵を描いた"というお話」や「どういう風に絵を描いたらいいんだろうね」で終わってしまった印象です。私はただ、(今作で言うところの)「絵」が見たかったんですよ…。
それは、御桜稟が作中でどういう絵を描いたかというただのグラフィックの話ではなく、「受け手を突き動かす何か」、「作品そのもの」と言ってもいいかもしれません。『サクラノ詩』は、それ自体が「作品」として何かを目指したという印象に乏しく、あくまでも「作品」という概念を外から眺めてそれについて言及するに留まったように思えます。
上記は、『サクラノ詩』の制作が行き詰った中で先に制作された『しゅぷれ~むキャンディ』の一節。これを書いたのはすかぢ氏だと個人的に確信しています。では、ここで述べた「伝えたいこと」とは、本作における何だったのでしょう。優「部長。部長は、ゲームを作ったことってありますか?」
部長「…あるぞ」
優「そりゃ、そうですよね…あれだけ絵が上手くて…文章も書けて…システムも組めて…色んなことが出来るんですから」
部長「だが、途中でやめた」
優「なぜですか?」
部長「伝えたいことがないことに気が付いたからだ」
優「…………」
部長「斗南。俺にはスキルがあったが、…想いがなかった。そんな俺が、伝えたいこともないのにメディアを騒がせることが…怖かった。俺の作ったゲームは、いわば香味を欠いた酒。愛のないラブレターだったんだよ」
(『しゅぷれ~むキャンディ』)
これは旧バージョンの作品タイトル。「伝えたいこと、たったひとつ」のフレーズは今作Ⅵ章で実際に使われていますが、「伝えたいもの」が実際に何であるかを示すのではなく、「そういう場合があるんだよ」に留まっており、つまらない使い方をされてしまったなあ、と感じています。
今作の副題も、先述のSTORYや登場人物紹介の改定に併せて「The tear flows because of tenderness」から「櫻の森の上を舞う」へ変更になっています。
確かに、序盤・中盤で何にでも首を突っ込んでいく草薙直哉の姿を通して「優しさ」について描こうとしていた意図は見受けられました。ただし、そのコンセプトに描写が追い付けなかった感があります。草薙直哉は結局のところ「敵」を打ち負かして自分(の側)のためだけに行動する。
元々、すかぢ氏はこれまでその心根たる「感性」でもって作品を紡いできた人ではありません。むしろ「優しさ」とは真逆の、主人公が敵を倒す単純な暴力的爽快感を多用してきた人です。そこは「スタイルの違い」ですが…彼が原案通りの「優しさの物語」を描き上げるのは難しかったのかもしれません。
そして同時に、改変後の副題とⅥ章タイトルとの差が、すかぢ氏の今のポジションを意味しているのかと。本編の副題「櫻の森の上を舞う」に対し、Ⅵ章のタイトルは「櫻の森の下を歩む」。「櫻」が今作の中で描かれたような「才能ある者たちによって創られた作品」を指しているのであれば、それが「自分」よりも上にあるのか下にあるのか、その自覚の差ではなかったかと。
最後に蛇足ですが、今作の制作発表から10年以上の間に、エロゲにおいても様々な作品が打ち出されてきました。本作は、制作が遅れる中で、それらにいつの間にか追い抜かれてしまったような気がします。
長山香奈が抱いていたような「自分を圧倒した天才に対する想い」としては『SWAN SONG』(Le.Chocolat meets FlyingShine)がどこまでも容赦なく書き立てています。
創作論を語る創作物としては、『ef - a fairy tale of the two.』(minori)が良い出来。『ef』は今作のように一足飛んだ芸術論へ飛躍せず、彼らにとって足元の話をしてきた分だけ、より真剣味があり、彼らが「目指すべきもの」についてもきっちりと示されていました。
残念ながら今作は(個人的評価として)この点で『ef』に及ばない。「……でも、こうやって終わりを決めて書くのは、なにか嫌ですね。神様がいじってるみたいじゃないですか。特に小説は筋道がはっきりするので」
徐々に彼女のフィルタを理解できるようになっていた。つまり、この物語で千尋が描きたいことは、作中で言及されている"人間"が核なのだろう。神様が選んだ道ではなく、あくまでも作中の人間が辿りつくべき"答え"を神様ですら見たいのだ。
模索、変化、新しい発見。もちろん最終的には、作中の人間がなにを選んだとしても、それは神が選んだ道に内包されているのだろうが。
真の意味で言えば、書き手は神であるべきだ。想定しうる読み手が楽しみ、共感、あるいは反発し、笑ったり泣いたり怒ったりする――立ち位置やエネルギーが変わるような話を書くべきだ。
それが物語の本質。書き手の本質。力だろう。
(『ef - the latter tale.』minori)
一方、それでも『ef』は私の中でそれほどの高評価ではありません。その理由は、『ef』の中で光ったものがあくまでも「創作論」であり、実際の「創作物」とはまた一歩離れたものだからです。
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