| |||
韓国に駐留した米兵を相手に「慰安婦」として働いた女性たちが、国家賠償を求めてソウル中央地裁に提訴し、ようやく検証が始まった米軍慰安婦問題。同国内に80カ所ほど残る駐留米軍基地の周囲には、かつて慰安婦の女性たちが働いた「基地村」と呼ばれる繁華街の施設が残り、当時の面影を伝えている。ソウルに近い基地村を歩いた。
■性病女性収容
北朝鮮との境界まで約20キロ。米軍基地キャンプ・ケーシーを抱える京畿道東豆川(キョンギドトンドゥチョン)市の基地村から、車で5分。高台に立つ白い建物は廃虚と化し、ガラスが割れた窓には、さびた鉄格子が今も残っていた。
地元で「丘の上の白い家」「モンキーハウス」などと呼ばれてきたこの建物には、性病にかかった慰安婦が監禁に近い状態で収容されたといわれる。東豆川市も、女性たちの性病の管理が行われていたことを認めた。中には食堂や共用便所、10人ほどが雑魚寝できる部屋が八つ。ぼろぼろの布団やごみが散乱している。
1960年代、各地の基地村で性病に感染した米軍慰安婦は、こうした施設で隔離治療が行われた。訴訟で証拠として提出された京畿道揚州(ヤンジュ)郡の65年の条例には「国連軍駐屯地付近の特殊業態婦の性病保菌者を隔離収容し完治させる」とある。京畿道の記録によると、70年1年間で各地の収容患者は合わせて延べ4万5千人だった。
「薬を大量投与された。死んだ友達もいた」。60代の元米軍慰安婦チェ・ヨンジャさん(仮名)は語る。支援団体は「米兵の健康を守るために、女性の人権が侵害された」と主張する。
■外貨の稼ぎ手
「あなたたちは愛国者。国のため、外国人にサービスしなさい」
元米軍慰安婦の女性たちは、自分たちの体験を演劇「淑子(スクヂャ)の物語」にまとめ、昨年も舞台で演じた。この中に、自治体職員が女性たちに慰安婦としての労働を促すせりふがある。多くの元慰安婦が同じような言葉を覚えているという。まだ経済力の乏しかった韓国では、基地村の女性たちは貴重な外貨の稼ぎ手だった。
元米軍慰安婦らを支援する市民団体トゥレバンの劉英任(ユヨンニム)さんは「性売買をあっせんする人間がいて、女性たちが自立できない仕組みがあった」と指摘する。
ソウルから北に車で1時間の議政府(ウィジョンブ)市。米軍基地キャンプ・スタンニー周辺では、基地村時代からの店が営業を続けている。路地裏のクラブでは装飾の豆電球がまたたき、大音響でロックが流れる。薄暗い店内では韓国人ではなく、フィリピン人の女性が米兵の相手をしていた。
40年前から店を経営するパク・ジョンオクさん(75)=仮名=は「当時は農村から来た韓国人女性が5、6人働いていた。米兵と結婚して韓国から逃げたかったんだ」。今は店内に「内国人入店禁止」「性売買は不法」と張り紙がある。
■長くタブー視
各地の基地村で働いていた韓国人女性は、90年代半ばまでに他の仕事を見つけて姿を消した。韓国政府は元慰安婦への聞き取り調査を公式には行っておらず、政府や自治体による人権侵害があったかどうかは立場を明らかにしていない。
昨年10月、ソウルの路地裏のギャラリーで、米軍慰安婦をテーマにした小さな写真展が開かれた。元慰安婦の70代の女性は、写真の中に友人の姿を見つけ「このハルモニ(おばあさん)は計算ができず、慰安婦で稼いだ金もだまされて奪われ、苦労だけして先月死んだんだ」と涙をこぼした。
米軍慰安婦問題は韓国では長くタブー視され、この写真展も訴訟も大手メディアはほとんど報じていない。高齢化が進む基地村の女性たち。彼女たちの経験が、隠されずに語られる日が、いつかくるのだろうか。(ソウル・松本創一、写真も)<どうしん電子版に全文掲載>