それでは、専門職への就職に直結する一部分野以外の大学教育は、いま何をすべきなのだろうか。
筆者は、この国で大学生の自由と教養が壊滅してしまう前に、いまこそ新しいリベラルアーツを構築することが急務だと考えている。
近代の大学は長らく、将来ホワイトカラー労働者やエンジニアになる若者たちに学士号を与える役割を果たしていれば、政府や企業社会からの相対的な独立を保障されてきた。しかしこの大学モデルは、20世紀とともに終焉を迎えた。
20世紀の大学における教養教育=リベラルアーツは、学生に人文社会科学と自然科学の幅広い教養を身につけさせることで、社会的・政治的に自立した市民を育成する目的を掲げていた。
日本の大学でそうした教養教育が成果をあげてきたのかについては評価が分かれるが、若者に広範な教養教育=リベラルアーツと一定の専門教育を施すことが、大学の主な役割だとされていた。
たしかに、そうした20世紀型の教養教育は、すでに役割を終えた。
だが、大学生たちが卒業後、グローバリズムと国家主義の嵐が吹き荒れる世界に否応なく投げ入れられるいま、“自由であるための技法”=リベラルアーツは、20世紀以上に重要になっている。
新しいリベラルアーツは、グローバリゼーションがますます進む社会のなかで、学生たちが自らの歴史的・空間的・文化的な立ち位置を批判的にとらえ直し、バックグラウンドが異なる人びととともに生きていけるような、知識と思考力・想像力を身につけるための教育となるだろう。
日本は先進国のなかでも、社会のなかでの自由や自治が異様なほど抑圧されている国だ。国際ジャーナリスト団体「国境なき記者団」による報道の自由度ランキング(2017年)で日本は72位にまで落ち込むなど、著名な各種国際調査が、日本のリベラル・デモクラシーの現状に警鐘を鳴らしている。
そんなこの国で、大学はこれだけ腐っても依然として、“労働者”や“国民”としての役割から一定の距離をとって、思考や行動の自由をはぐくむことができる数少ない場のひとつである。
そうした場において、“自由であるための技法”=リベラルアーツを模索する大学生たちの手助けをすることが、大学(教員)の重要な役割なのではないだろうか。
(追記)
筆者のゼミナールに集まってくる学生たちのほとんどは、学部生としてはそれなりに厚い社会調査にもとづく論文を執筆し、卒業していく。そこにあるのは、冒頭の安倍首相の演説にあるような「もっと実践的な職業教育」といった「ニーズ」とは真逆の、限られた自由な時間のなかで、自由な思考のもとに「学術研究を深める」ことを模索する学生たちの知性と情動にほかならない。
筆者が勤務する私立大学の社会学科は、専門職の養成機関ではない。少数の例外を除いてプロの研究者を目指す学生もいない。だが、彼ら彼女らは程度の差こそあれ、大学に進むことのできた自らの特権性を自覚しつつ、思考し、学問をすることの自由を獲得するために大学に出てきている。
社会・歴史・文化・自然を批判的に捉え返し、他者とともに生きるセンスを高めてもらうこと――そうした“自由であるための技法“=リベラルアーツこそ、大学生たちが将来、社会や組織の主流から置き去りにされ、排除されたときに、個として思考し、他者とともに行動しながら、生き抜く力につながると私は信じている。
<明日公開の【後編】につづく>