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カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
小説・詩・短歌のアンソロジー「ヒドゥン・オーサーズ」が5月中旬くらいに発売されます。
ぼくは大滝瓶太として「二十一世紀の作者不明」という短編小説を寄稿しました。

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「サイコパス」を知ることの意味/【悪の教典】【コンビニ人間】に見る「社会」と「狂い」の軋り

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※映画「悪の教典」より 

 

高校生ぐらいのときから、心理学というもの全般に胡散臭いイメージを抱いている。

とは言っても、ぼくはこの学問分野を否定したいわけじゃなく、あくまで個人的に釈然としないことが多いという、それだけの印象から思っているにすぎない。素人目から見ての話だ。

じゃあなんでぼくが「心理学」についてそんなイメージを持っているのかといえば、この研究の大多数が「統計」により支えられているからだ。

今回はそんな話を以下でしていくよ!

 

目次

 

なんとなく”ふわっと”した学問「心理学」

またしてもいうまでもないことだけど、「統計」はじゅうぶん信頼にたる学問だし、それを元にした学問だってしかるべき強度を備えている。しかし、これもまたぼくの個人的な印象でしかないのだけれど、ある統計をとったときに現れる「統計的特徴」ありきで議論が始まっているような気がしてならない。その典型例が「こういう人にはこういう傾向がある」という列挙。

ここでぼくは思うのだった。学問として語るならば、「なぜそのような傾向が現れたのか」という点を、自然科学的な観点から解明しなければならないんじゃないだろうか。

自然科学的な観点というのは、たとえば物理法則に代表されるような「こうしたらこうなる」という絶対性を持った論理のことだ。それが現状無理であれば、統計データの数学的構造を読み解くとか(複雑系科学みたいな)、そういうことをしてくれないとまず読む価値すらないと思えてならない。

 

”ふわっと”が変わりつつある「心理学」

心理学全般において、この「自然科学的な観点」がどうも弱いように感じられ、なんだか「ふわっとした学問だなぁ」と思っていたのだけれど、最近ではもう少しソリッドな話がなされるようになった。

それがいわゆる「脳科学」というものの進歩なのだけれど、いかんせん、テレビをはじめとするメディアに登場する「脳科学者」たちが「脳にいいんです!」というキラーフレーズを連発することで、この「脳科学」なる学問分野が、どうも学問とは関係のないところですくすくと胡散臭く育っている気がしないでもない。

これを信じる・信じないの問題は、それ自体けっこうな深刻さを内に秘めているのだけれど、しかし神経科学と心理学の合流には大きな意味があるとぼくは思う。

というのも、今まで統計として「性質・傾向」を見ることしかできず、どうもふわっとした成果ばかりが目立っていた心理学という分野に、自然科学的な議論(こうだからこう!)が可能になったということは、おそらく業界的には革新的な出来事なんじゃなかったのだろうか、と思っている。論法・主張の形式の変化というのは、それこそ反発する者が多数いてもおかしくないくらいだ。

 

「サイコパス」というベストセラー

以上のような流れの中にある心理学の本としてあげられるのは、昨年に文春新書から出た中野信子の「サイコパス」じゃないだろうか。

この本はどこの本屋でも平積みされていたし、いくつもの書店の「売り上げランキング」で上位に入ってて、おまけに「新書大賞2017」の3位に選ばれるなど、ベストセラーとなっている。

この本を読んで思うことというのは、まさに上述の「心理学に”ふわっと”してない議論が持ち込まれるようになった」という感触だ。もちろん、従来のように特徴的な事例を挙げ、単純なゲームを用いた実験とその統計処理をベースに序盤は進められている。しかし2章では、サイコパスの「特徴的な言動」が脳構造や遺伝に依存する可能性を、指摘する。興味深かった内容はフィアネス・ケージという事故が原因で後天的にサイコパスになった男の話だ。

しかし、脳科学自体がまだ完全じゃないこと(そもそも人間の脳の構造を実験することができないし、人体実験になっちゃうし)などもあって、やはり「こういう人にはこういう傾向が多い」の域を出ない。それは歯がゆい。しかしこの分野の研究が、その外に出ようとしているんだな、とは思った。

 

「サイコパス」は「天才」か

「サイコパス」とは、一般に

  • 他者に対する共感性が非常に乏しく、利己的な選択を躊躇なくする人間

というイメージが持たれている。これは価値基準がいわゆる「心情」にないことに由来するんじゃないかとぼくはおもった。

本書では「最後通牒ゲーム」という実験についての説明があるのだけれど、これは、

ゲーム参加者はふたり。これからふたりで1万円を分けるのだけれど、一方が分け方を提案して、もう一方が承認か否認を告げる。承認された場合は提案通りにお金が分配されるけれども、否認の場合は双方とも何も獲得できない。 

 というものだ。ここで参加者を提案者をA、決断者をBと名付けることにして、提案者Aが「Aは9900円、Bは100円」という提案をした時、Bがサイコパスならばほぼ確実にすんなり提案は通るらしい。

このゲームは一体何を目指すのかが不明だという仕掛けが(たぶん)あって、一方的に不利な提案をされた場合、Bはいろんなことを考えうる。お前だけ得してんじゃねぇ、という不満がその典型になるのだけれど、そもそもそういう不満が起こらないのであればゲームとは呼べない。交渉の余地がない。このゲーム性のなさによって、Bは利益を得たいのであれば「承認」するしかないのだけれど、そこに「相手に対してどう思うか」という心象を有無が実験として重要らしい。サイコパスは不満に思わないのだ。

一言でいえば、「自分が得ることのできる最大の利益」に特化した興味を持っていて、他者がいくらとろうが知ったことじゃないということらしい。その行動原理からは「心情」がごっそり抜け落ちている。

これは場合によっては「余分な要素を排除して合理的な判断ができる」ようにも見え、サイコパスと呼ばれる人たちが時に「天才」的だと言われる所以にもなっている気がする。統計によると別にサイコパスだからと言ってその集団の平均IQはそうじゃない人たちと大差ないらしく(むしろ低い)、あくまでも「普通の人との違い」が光って見えているだけなのだろう。まぁ、こういう話は何も言っていないに等しいのでこれ以上はやめておくけれど。

 

「イケ○ハ○ト」や「暇な女子○生」がサイコパスかどうかを考えても無益

この本のもっとも読んでいておもしろいのは、「第5章 現代を生きるサイコパス」のあまりにもくだらない内容だった。

この章では「日本はサイコパスにとって生きにくいですね。じゃあ身の回りのどこにサイコパスはいるんでしょう??」的な話をしているのだけれど、これがあまりにも個人の”ふわっと”した感覚すぎてガクッとくる。

どうでもいいけれど、 

「炎上ブロガー」がそうですよ、「オタサーの姫」「サークルクラッシャー」がそうですよ、みたいなことが列挙されていて、まぁそういうのが好きなフレンズはそれで楽しいのだろうけれど、なにせ安直な印象論でしかない。ブログでやれ!と思う。ちなみにぼくの文章は所詮ブログなので印象論全開で書いているよ!!

どうでもいいけど、

「オタサー」とは、漫画研究会やアニメ同好会のようなオタク系サークルを意味しています。こうしたサークルには、奥手で女の子と話すのが苦手な男の子が集うものですが、童貞の男の子がいかにも好きそうな、一見清楚で汚れのなさそうに見える女の子が入ってくることがよくあります。男女比が極端なので自然とモテやすくなる。それが「オタサーの姫」です。

という説明には笑った。どどどどどどどど童貞ちゃうわ!

こういう話を聞くと、やっぱり具体的な人物を想起してしまうわけで、某煽り職人ブロガーや、(オタサーの姫でもサークルクラッシャーでもないけれど)ストイックなドカタ活動を続ける某女が脳裏をよぎる。

ちなみにぼくは上に挙げた両氏がサイコパスかどうかは全く気にしていない。と言うより、

「○○はサイコパスだ」

なんてことを安易に考えてしまうことに関して、自分でいうのもなんだが嫌悪感が湧いてくる。サイコパス研究の意義とは、社会に潜んだ「サイコパス」から我が身を守るためになされているのだろうか。たぶん、そうじゃないような気がするし、ただマジョリティでないだけで異常者だと脊髄反射的に分別することはいかがなものだろうか。

 

サイコパスを扱った小説

サイコパスを扱った小説で言及しておきたいものが2つある。

「悪の教典」貴志祐介

貴志祐介のサイコミステリ「悪の教典」は伊藤英明主演の映画でも有名。

この物語では「サイコパス」についてぼくらが持つ典型的なイメージを形にした人物・高校教諭の「蓮見(ハスミン)」が、一つの殺人を隠蔽するために、担当するクラスの生徒を皆殺しにする。人の感情という問題を度外視した時、「信頼できない不確定要素はすべて排除するのが合理的」という発想から即座に凶行にいたる蓮見の思考回路は、まさに昨今取り上げられる「サイコパス」の像を象徴したものになる。

エンターテイメントとして、伊藤英明の演技が完璧すぎるところが見どころ。

ちなみに映画はdTVで公開されているので、それで見るのが一番安上がり。

また、dTVオリジナルドラマで「悪の教典 序章」という前日譚も見れる。

これは蓮見がニューヨークでトレーダーをやっていた時の話や、原作にはあるけれど映画では描かれなかった物語があって楽しい。本作を特徴付ける不気味なユーモアも健在である。

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「コンビニ人間」 村田沙耶香

この小説の主人公には「他人に共感する能力」の欠如が見られ、そして彼女(主人公)は自分が「普通じゃない」ことも客観的に理解している。表立っては「サイコパス小説」というわけじゃなく、むしろ「サイコパス」だと読むことがひとつの誤読とされている風潮もあるのだけれど、この小説の文体は「共感」と「自意識」をめぐる議論のをするに当たって、無視できない重要性を抱えてる。例えばこんな感じだ。

どちらかというと白羽さんが性犯罪者寸前の人間だと思っていたので、迷惑をかけられたアルバイト女性や女性客のことも考えずに、自分の苦しみの比喩として気軽に強姦と言う言葉を使う白羽さんを、被害者意識は強いのに、自分が加害者かもしれないとは考えない思考回路なんだなあ、と思って眺めた。

最初に挙げた新書「サイコパス」でも、サイコパスと呼ばれる人物の特徴で、

他者に対して「共感」はできないが「理解」は できる。

という言及もあった。この「理解」とは、他者の心情に寄り添うのではなく、状況・文脈から、「このような心情を抱くのが妥当」というように、国語の読解問題的な発想で他者のことを考える行いを指す。そして上に挙げた「コンビニ人間」の語り手の思考運動は、まさにそのようなプロセスでなされている。

しかし「コンビニ人間」が優れた小説である理由は、いわゆるサイコパスの視点から現代社会を描いた点にあるわけではないし、没個性を処世術とする生存戦略を描いたことにあるわけでもないように感じる。

この小説にあるのは、どうしようもない「狂い」だ。

そして、その「狂い」というものが相対的なものでしかないという事実をこの小説はつきつける。つまり、本当に「おかしい」のは誰かという問題だ。

ぼくらは単純に基準からの「大きなズレ」や「偏り」を「狂い」とみなしているにすぎない。そして、一方から「狂い」が見られたなら、それは見られる側の「狂い」も暴き出している。「狂い」を語る時に見過ごしてはいけないのはここだと思う。

自らの内なる「狂い」に耳を済ませるためにこそ、「サイコパス」の研究はなされるべきなんじゃないか、とぼくは一連の読書を通して思うのだった。

 

dTVについての解説も書いてます(ステイサム大好き…)↓

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