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2017.05.10

[書評] 数学の歴史(三浦伸夫)

 この3月のことだが、テレビ番組の改編期にあたりテレビ・レコーダーの機能を見渡し、ジャンル別に自動選択するモードを使ってみると、「数学の歴史」という番組がひっかかり、それはなんだろうかと概要を見ると、放送大学の講義だった。どうやら3月に数学の歴史と限らずいくつか集中講義というか、まとめ講義をするらしかった。

 現代では数学の歴史をどう教えているのだろうかと興味があったので、とりあえず全部録画して、そして学生さんのように学んでみた。この講義が意外なほど面白く、その後、講義のテキストと関連書籍なども読んだ。
 数学史への関心には懐かしさもあった。10代の終わりになる。自著にも書いたが、たまたま文系・理系といった分類のない大学に入り、入学して最初に学ぶことができたのが数学史であった。その講義は、当然といえば当然なのだが、当時隆盛を極めたブルバギの数学史を基礎にしたもので、それからヒルベルト・プログラムからゲーデルの不完全性定理などの話に進んだ。1970年代の終わり、ゲーデルについてはまだ日本のポストモダン哲学が騒ぎ出す前のことだった。
 あのブルバギの数学史はたしか現在では、古典として、10年くらい前にちくま学芸文庫に入っているはずだと、アマゾンを覗くとすでに絶版だったので少し驚いた(参照上参照下)。こういうとき、もとの東京図書のほうが残っていたりするものだと、見ると、1993年の訳書すらもう絶版だった(参照)。どちらも中古本はある。それでも現代では、数学史をブルバギで学ぶ人はいないのかもしれないと感慨深い。大学でも教えていないのではないだろうか。
 放送大学の数学史の講師は三浦伸夫・神戸大学名誉教授で、講義は淡々と進められた。が、知的な関心ポイントでは微妙にキラーンと目の輝くような印象もあり、意外に飽きない。古代における原論の扱いはややブルバギ史風の印象もあり、そこも面白いと言えば面白いと思いつつ、そうして淡々と講義を聴いていたのだが、「第3回 エウクレイデス『原論』と論証数学」に続く、「第4回 アラビア数学の成立と展開」あたりから、おや?という新しい知的な関心が湧きだした。
 一般に数学史というと、「いかにして西洋の数学は成立したのか」、特に「17世紀の微積分学の成立」あるいは、「多文化主義から見た数学」といった視点で啓蒙的になりがちである。恐らく現在でも米国の大学などでは使われているだろう古典的なカッツの数学史(参照)やボイヤーの数学史(参照)などもこうした基調である。これらは邦訳もある(カッツ参照ボイヤー参照)。実際のところこの講義でもそうした傾向は見られるのだが、なんというのだろうか、そうした多元性を支える数学の根源性に今回の講義の注意が払われている。
 ブルバギ史観では公理主義に視点が置かれるのだが、この講義ではそれもあるにせよ、基本的にギリシア数学というものの幾何学的な特性・制約、そしてそれを受け継いだアラビア数学から中世西欧数学という流れで見てゆく。そして原論ですら、実質、ルネサンスでその流れで受け止められていく経緯も詳しい。うかつにも知らなかったのだが、そうした系統で原論を支えていたのはイエズス会であった。
 そのついででびっくりしたのが、オマル・ハイヤーム(ウマル・アル=ハイヤーミー)である。テキスト注に「『ルバイヤート』で有名な詩人オマル・ハイヤームは、今日この数理科学者とは別人であると考えられている」とあり、講義ではもう少し強く注意を促していた。慌ててカッツの数学史で彼についての言及を見ると、カッツはけっこう暢気に詩人と同一としていた。他、ウィキペディアの各国語版をざっと見たが、カッツと同程度であった。
 講義はそれから数学史の常としてニュートンやライプニッツについても扱っていくのだが、両者についても面白い説明だった。特に、ニュートンの『プリンキビア』と微積分学の乖離性なども納得がいった。そもそもニュートンの主眼の関心は数学ではなかった。
 そして何より今回の講義で圧倒的に面白かったのは「第14回 18世紀英国における数学の大衆化」であった。ほとんど度肝を抜れた。

《目標・ポイント》18世紀数学は、オイラー、マクローリン、ラグランジェ、ラプラスなど巨星に事欠かないが、それでも数学史において谷間の時代とされることがある。それはその前後の時代の、天才達による革命時代の17世紀と、広範な数理化学応用の時代が始まる19世紀と比較すればの話である。英国に限れば、ニュートンとライプニッツによる微積分学優先権論争の影響で大陸と学術上の断絶が生じ、他方で数学とは異質な博物学の大流行で、数学は低迷したと言われている。しかし視点を変えて見ていくと、この時期、英国では大衆数学が花咲いていた時代でもある。本章では、18世紀英国の大衆数学とそれが支持された背景を見ることで、数学とは何かを考えてみる。

 この18世紀英国における大衆数学の実態が、とてつもなく面白い。まず、博物学との関連で数学器具が流行していくのも面白いのだが、それを超えるのが『レディーズ・ダイアリー』である。名前からわかるように女性向きの雑誌である。『貴婦人の日記』。1704年に発刊された。
 これが1707年に算術問題が掲載される。今で言う数独とかパズルとか、ようするに知的な暇つぶしクイズである。当初は詩文的なぞなぞ形式だった。読者投稿問題も増える。
 これが人気を博す。そしてついに、18世紀半ばで誌面の半分が数学問題を占めるようになる。大陸でも人気になった。同世紀後半には『レディーズ・ダイアリー』という名前のまま数学雑誌になってしまった。『貴婦人の日記』の中身は数学だらけなのである。ただし計算問題で証明問題はないが。
 当初この傾向を支えていたのは、当然、淑女たちであり、当時の英国の貴族や知的階級の女性の数学能力が非常に高かったことを示している。ただし、後に専門的な数学誌となってからは男性数学者が増えていった。
 テキストでは頁制限もあり簡素に要点が書かれているが、講義では三浦先生が当時の原典を持って見せてくれるので、その迫力もあった。「女性は数学にあまり関心を抱かない、あるいは向かないと言われることもあるが、それは正しいのであろうか」と問いかけられる。

 そして最後に、『レディーズ・ダイアリー』は「気晴らし」としての数学の有様を見事に示してくれたことが挙げられる。掲載されている問題の順に系統性はほとんどなく、読者は数学を学習するというのではなく、問題を解くということに喜びを見い出したのである。こうして『レディーズ・ダイアリー』は、「数学の楽しみ」の本来の姿を我々に示してくれるのである。

 大門カイトではなく井藤ノノハが活躍する第4シリーズが期待されるところだ。と、冗談はさておき(何の冗談かは触れず)、『レディーズ・ダイアリー』についてはもう少し読みたいと思った。
 テキストには「18世紀英国の大衆数学を扱った参考書はない」と素っ気なく書かれているが、三浦先生が監修された「Oxford 数学史」には少し関連はあるんじゃないかとそちらも読んでみた。紹介文にも心惹かれた。

 こんな数学史の本は初めてだ!
 数学とは何であろうか。それは人間生活とどのような関わりを持つのだろうか。こういった疑問のもとに従来多くの数学史が著されてきた。そこではニュートンやフェルマなどの天才的数学者,そして彼らの著作や書き残されたノートなどが主役であった。また人間面から数学者を紹介する伝記であったり,数式や図形のオンパレードであったりした。しかし数学と呼ばれるものは著名な数学者のみならず,無名のあらゆる分野の人々と関係してきたことも事実である。しかもそれは世界中の至るところに,そして数学テクストに限らず建築物や製造物などおよそ人間に関わるさまざまな事物に現れている。
 本書は従来の数学史のテーマや方法論とはまったく趣を異にする新視点から描かれた数学史であり,数学文化史と言ってもよいものである。特徴としては,対象を全世界に広げて従来の数学史が視野に入れてこなかった事例を取りあげたこと,人類学や言語学などの関連領域の視点を広く取り入れた構成になっていること,数学そのもののみならず時代の思想潮や教育制度といった社会的文化的背景が常に配慮されていること,などがあげられる。
 しかし何といっても本書の素晴らしい点は,必ずしも数学史家にとどまらず学者世界の外に身を置くような者を含めた各分野の最先端の研究者が,独自の事例を用いて生き生きと話題を記述していることである。その多様な実例を通じて,人間は数学とどのように関わりながらさまざまな文化を築きあげてきたのかを知ることができる。
 網羅的ではないので数学の通史を期待することはできないが,どこでも関心のあるところから読み始めていただき,知的好奇心を刺激する面白さと新たな問題提起に満ちた本書をじっくりと味わってほしい。

 手にとってみると、まさに「網羅的ではないので数学の通史を期待することはできない」というのはその通り。
 かなり分厚いが論集なので一編で見るとそれほど読みづらくはない。それぞれの訳者はまばらである。和算についての話題はないが、「伝統的ベトナムにおける数学と数学教育」とか「第三帝国における数学についての史料編集と歴史」とか、へえと思える論文もある。というか、そういうものが数学史研究なのだと思い知らせるきっかけとなった。
 そして、ブルバギについても、「究極の数学教科書を書く:ニコラ・ブルバキの『数学原論』」としてすでに数学史の対象となっていることを知った。
 日本の教育課程では、大学入試の視点からだろうが、初等教育を理系と文系とに分ける。しかし、数学史研究というものの本質的な豊かさはその分断のなかにはない。あるいは、知というものの本源的な喜びを暗示する数学史というものを理解するには、理系・文系を超えた教育が必要とされる。さらに遡及していえば、「問題を解くということに喜びを見いだす」という数学の「本来の姿」はそこで再発見できるだろう。
 なお、放送大学の同講義は今期も続けられている。来年も続くらしい。本書については、放送大学のテキストとしても優れているが、図版も美しく、一般書としても出版されたらよいのではないかと思えた。
 

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