ユクスキュルの『生物から見た世界』(岩波文庫)という本がある。環世界の概念について書かれた本で、これ自体とても興味深いのだけれど、この本の翻訳をしたのが、動物行動学者の日髙敏隆さんだ。
日髙さんのエッセイ『世界をこんなふうに見てごらん』(集英社文庫)には、そんな日髙さんの、幼少期のエピソードが綴られている。のちに生物学を志すだけあって、昆虫少年だったというエピソードはそれだけ聞けば確かに微笑ましい。が、カブトムシやクワガタの採集程度にとどめてくれれば可愛いものの、日髙さんは道端や公園に転がっていた犬の死骸に群がるウジや甲虫にまで興味を持ち観察していたそうで、巡回中の警官に何度も連れていかれそうになったという。しまいには見ているだけでは飽き足らなくなったのか、シデムシ科という種類の虫を飼育しようと腐った肉を用意し、汚いわ臭いわで父親に怒られたとも綴っている。子供の個性や好奇心をできる限り尊重してあげたい──とは多くの親御さんたちの願うところだろうし、私ももし自分に子供ができたらできる限りそうしてあげたいと思うが、さすがに「死骸にたかる虫を観察したいので家で飼わせてほしい」などと言われたらちょっと(だいぶ)困ってしまう。「できる限り尊重云々」などと言っていたことはすっぱり忘れて「捨てて来い!」と怒鳴り散らしてしまうかもしれない。
ユクスキュルの〈環世界〉
話はもどって、環世界の概念についてである。私はこの言葉に『暇と退屈の倫理学』という本で出会ったのだけど、環世界を知ってからというもの、この考え方をとても気に入っており、何かにつけて参照している。
環世界を説明するために持ち出される動物はマダニだ。マダニは〈光〉〈酢酸の匂い〉〈(動物の体温である)摂氏37度〉という3つのシグナルのみに反応して生きている。森の中の美しい植物、それらに降り注ぐ雨、夜空に輝く星──そういったものをマダニは体験できない。体験できないということは、マダニの中ではそれらは存在していないということだ。私たち人間とマダニ、あるいは他の動物とでは、体験している世界が異なる。と、いうと何だか当たり前のことを言っているみたいだけれど、マダニが体験している世界より私たち人間が体験している世界のほうが正確で正しいなどとは言えなくて、世界とはそんなふうにいくつもの異なる〈世界〉が重なりあって存在している。これが環世界の考え方だ。
マダニと人間では体験している世界が異なるというのはわかりやすい話だが、この環世界の考えは、人間同士の話にも適用できる。たとえば、素人にとっては何の変哲も面白味もないただの石ころでも、鉱物学者にとっては非常に面白い代物で、石ころを顕微鏡などで何時間でも観察し眺めていられるかもしれない。素人にとってはよくわからない音楽でも、ミュージシャンが聴けばその素晴らしさに感服してしまうかもしれない。この場合、素人である〈私〉と、〈鉱物学者〉と〈ミュージシャン〉は、同じものを受け取っているはずなのに体験する世界がまったく異なっている。
こういった例は無数に思いつくことができ、そうなると、人間は誰もがその人だけの、独自の世界を生きていると考えることもできる。あの人と自分とでは、マダニと人間と同じくらいとは言えないまでも、体験している世界がまったく異なっているのである。人間が、今の自分が見ている世界だけが、絶対で正しいのではない。
教養がほしいと思うのはなぜか
『暇と退屈の倫理学』では、人間が退屈を感じてしまうことは人間らしさの表れでもあり、ある程度はしょうがないことだ、としている。しかしもしこの苦痛から逃れたいとするならば、そのために贅沢を取り戻し、衣食住や芸術や娯楽を楽しまなければいけない、とも言っている。
さきほどの例を再び出すと、今の自分のままでは、目の前に石ころを置かれてもそれはただの石ころでしかない。ただの石ころを目の前にどれだけたくさん並べられても、面白くもなんともない。しかし、鉱物学や地質学を少しでも勉強すれば、途端にただの石ころがものすごく面白く見えてきたりするかもしれない。鉱物学者と会って話をする機会が持てたら、ものすごく興味深いことが聞けて、一晩中わくわくできるかもしれない。
芸術や伝統芸能などのハイカルチャーはわかりやすい例だが、何かを真に「楽しむ」ためには訓練や勉強が必要な場合がある。訓練や勉強を経なければ、本当はものすごく濃密な情報が詰まっているものでも、それは何の面白味もないただの石ころに見えてしまう。石ころをボール代わりに蹴ったりしていれば少しの時間は遊べるかもしれないが、やはりそんなのではすぐに飽きてしまうだろう。
私が教養に興味を持つのは、非常に俗な理由だが、少々飽きっぽいからなのかもしれない。今の自分に見える世界にすぐに飽きて退屈してしまい、世界をもっと別の見方で捉え直したいと常に考えている。(さすがにそこまでしたいとは思わないが、例として)不快としか思えななかった動物の死骸や屍肉に群がる虫を、何かを学ぶことによって興味深い・面白いと感じられるようになったら、きっと新しい世界を獲得できると思うのだ。
そのために、自分自身で興味のある分野を開拓していくのも悪くはないが、自分の考えつくことなんて限界がある。世界をもっと別の見方で捉えるためには、様々な分野に詳しい友人やセンパイが必要なのだ。もっと別の視点を、新しい世界を獲得するためにはどうすればいいのか。退屈しやすい怠惰な人間である私は、そんなことを念頭に置きつつ、センパイ方の話を聞いてみたいと思う。
著者プロフィール
チェコ好き
ブログ「(チェコ好き)の日記」で旅・読書・アートについて書いている、硬派な文化系ブロガー。芸術系大学院卒、専門はシュルレアリスムと1960年代のチェコ映画。なお、今まで旅行したなかでもっとも好きだった国は、チェコではなくイタリアらしい。 Twitter@aniram_czech
※イベント残席残りわずかです。お申し込みはお早めに。