1917年6月26日―。西田幾多郎は日記帳に「夜三木清来る」と書き込んだ。例年どおり小型の博文館日記である。以後、西田の日記には最期まで「三木来る」「三木来訪」「三木へ手紙」などの文字が頻出しつづけることになる。
ただ、このときばかりはフルネームでの記入だ。というのも、これが両者の初対面だったからである。西田幾多郎、47歳。三木清、20歳。
その年の夏、三木は第一高等学校を卒業する。京都は洛北、田中村中河原にある西田邸の門をたたいたのはその直前のこと。西田幾多郎に憧れて京都帝国大学に入学することが決まっており、一高時代の恩師である速水滉(心理学者)の紹介状をちゃんともって来はしたものの、どう切りだしたものかずいぶん当惑しながら待っているところに出てきた西田はすぐにこう声をかけた。
「君のことはこの春東京へ行った時速水君からきいて知っている」(「西田先生のことども」1941年)。4月10日、西田は田端の「天然自笑軒の会」で速水と同席しているから、そのときに聞かされたのかもしれない。三木はほっとする。
三木が帰ったあと茶の間に入って来た西田に、長女の彌生が「今のどなた」と訊ねた(「あの頃の父」1942年)。「今年一高の文科を一番で出た秀才で、僕の講演を聞いて9月から京都の哲学科へ這入って来る。一高の速水君など大変賞めているので楽しみだ」。嬉しそうだったという。
そんな前評判も手伝ったのか、それとも2日前に『自覚に於ける直観と反省』の原稿を版元に送ったところだったから心に余裕があったのか、とにかく西田は高校生の三木に大学の雰囲気などあれこれ親切に教えている。
「哲学を勉強するにはまず何を読めばよいでしょうか」という三木の質問には、「カントを読まねばならぬ」との回答だった。数日後、兵庫県揖保郡の実家で入学までの期間を過ごしていた三木に『純粋理性批判』が届く。あの日、貸すと約束したものだ。手元に見当たらなかったので、西田はわざわざ大学で借りて郵送している(7月4日三木清宛はがき)。
こうして三木の哲学的な読書人生は本格的にスタートした。
1941年5月に発表した「読書論」のなかで、三木は読書の経路をざっくり二つにわけている。一つは「偶然的な」読書。ひとは人生を左右する本と「邂逅」する。もう一つは「計画的な」読書。三木は例によって二つをてきぱきと整理していくのだけど、究極的に後者は前者に回収されるという。論理はこうだ。
「例えば、計画的な読書というのは誰か教師に示された通りに読書することである、しかるにその人が私の教師であるということは一つの邂逅ではないか」。そう書く三木の脳裡には西田の存在が浮かんでいた。このとき44歳。あのころの西田の年齢に近づいていた。けれど、いまだに西田のもとを頻繁に訪ねては知的な刺激を受け取っている。