- 作者: ネルソン・グッドマン,Nelson Goodman,戸澤義夫,松永伸司
- 出版社/メーカー: 慶應義塾大学出版会
- 発売日: 2017/02/22
- メディア: 単行本
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ネルソン・グッドマンの『芸術の言語』には、文学・絵画・建築・音楽といったさまざまな表象芸術のカテゴリーを、体系的に位置づけ・比較するという側面がある。
この点で、グッドマンとウォルトンの体系的な比較ができないかということをぼんやり考えている。なぜ両者を比較する必要があるかというと、話は簡単で、上記のようなこと(各芸術形式の体系的な位置づけ)をやっている人が、そもそもこの二人くらいしかいないからだ。
しかし、そもそも枠組が全然違う上、両者とも常識とは乖離した異様な発想をしているので比較もかなり難しい。ところが、実は都合よく、ウォルトン自身がキャリアの初期にグッドマンのプロジェクトを批判した論文がある。これは上記のようなことを考える上でのとっかかりには良いかもしれない。
Kendall L. Walton, Are Representations Symbols? - PhilPapers
Walton, Kendall L. (1974). Are Representations Symbols? The Monist 58 (2):236-254.
表象
タイトルには「表象は記号か」とあるが、ウォルトンの結論は「表象は記号ではない」というものだ。そもそも表象は記号システムではないので、表象芸術を記号システムの枠組で捉えようとするのはまちがいだ。
なお「表象」という語には多様な意味があるが、ここでは基本的に表象芸術に属する作品、ないし表象芸術特有の表象機能を指す*1*2。それは小説、映画、マンガ、絵画、彫刻などを含んでおり、おおむねフィクションと(具象的な)美術を合わせたくらいのカテゴリーだと思っておけばいい。
また注意点として、ウォルトンは、「まじめな主張」と表象をまったく別のものだと見なしている。手紙や新聞記事や論文のように、主張を行なうものは、表象ではない。おそらく、グッドマンは、言語の「まじめな使用」と、表象芸術の間にそこまで差を認めないだろう。一方ウォルトンは「両者にはそもそも何の関係もない」くらいのことを考えている。サールのようにフィクションを「まじめな使用」の派生態と見なす人とも違って、ウォルトンは、表象芸術と、「まじめな使用」の両者を、まったく別の生き物だと見なしているからだ。
記号
グッドマンは、表象芸術を記号システムと見なすが、「記号」という語に厳密な定義を与えているわけではない。しかし、およそ「記号」と呼ばれるものであれば、対象指示denotationが可能でなければならないだろう。もちろん、グッドマンは、指示対象を持たない個別の記号があることを認めるが、記号システムは、原理的には指示対象をもちうるようなものでなければならない。そもそも原理的にさえ指示対象をもたない体系を記号システムとは呼びづらいだろう。
ウォルトンが異論をぶつけるポイントはここだ。表象はそもそも、指示機能をもたなくてもよい。もう少し細かく言うと、グッドマンは、「個体への指示」と「性質(ないしクラス)への指示」の両方を認める。ウォルトンは両者ともに反対している。
主要な議論は2つで、「ウォルトピアの思考実験」と「行為とのアナロジー」によるものだ。
ウォルトピアの思考実験
まえおきしておくと、ウォルトンは、表象が、現実には、個体指示を行なうことがあるという点は認めている。例えば、モーツァルトの絵はモーツァルトという現実の個体を表象する。認めていないのは、それが表象にとって必須の機能であるということだ。これに反対するため、ウォルトンは、個体指示をまったく行なわない表象システムの論理的可能性に訴える。
なお、ウォルトン自身は、「ウォルトピア」という名称を使っていないが、ロペスがこの思考実験に出てくる共同体をWaltopiaと称していたのがおもしろかったので、この名称を採用する*3。
ウォルトピアは次のような仮想の共同体だ。ウォルトピアの人々(ウォルトピアン)は、「人の絵」や「水牛の絵」を描くが、現実の個別の人を絵に描くこともないし、現実の個別の水牛を絵に描くこともない。おそらく、この共同体では、絵は、人や水牛の代用品として、祭祀などの目的のためだけに使用されるのだろう。ウォルトンによれば、ウォルトピアのような共同体が可能であることは、「述べるまでもないほど当然に思われる」らしい(p.244)。ウォルトピアでは、表象は個体指示を行なわない。従って、個体指示なしでも表象システムは存立する。
行為とのアナロジー
一方、ウォルトンは、性質への指示に反対するために、行為とのアナロジーをもちだす。なお、こちらの議論は難しいので、やや丁寧めに説明する。
性質への指示は、個体指示よりも捉えがたいものだが、ウォルトンはこれを、〈個体に特定の性質を述定する〉作用、すなわち述語機能と捉える。
しかし、そもそも何らかの命題を表現するものでなければ、述語機能をもつとは言いがたいだろう。一方表象は、命題を表現するようなものではないため、述語機能をもたないとされる。
改めて書き出せば、以下のようになるだろう。
- 何らかの命題を表現するものでなければ、述語機能をもたない。
- 表象は、何らかの命題を表現するものではない。
- よって、表象は述語機能をもたない。
1は所与の前提としてもちだされているので、ここでは特に問わない。2は何によって擁護されるか。この2の主張は、いわば「表象は表象しない」と言っているようなものなので、きわめて理解しづらいが、ここに出てくるのが行為とのアナロジーだ。
ウォルトンの考えでは、表象は、特定の命題を虚構的真にするものではあるが、特定の命題を表現するものではない。ウォルトンは、表象芸術全般をフィクションのモデルで考えているため、表象芸術全般は、「何らかの命題・事態を、その作品の作品世界で真にする」という機能をもつとされる。そして、この〈命題を虚構的真にする〉機能は、命題を表現することとは異なる。
なぜかと言うと、〈特定の命題を虚構的真にする〉という作用は、〈特定の命題を真にする〉という作用とのアナロジーで考えられるからだ。行為は、まさにこの〈特定の命題を真する〉作用をもつものだ。ウォルトンは特に制度的な行為を考えている。例えばバスケットボール選手は、ボールをリングに通すことで、「スコアを獲得する」という命題を真にする。
しかしわれわれは、行為によって命題を真にすることを命題の表現とは見なさないし、行為が述語機能をもつとも言わない。従って、これと同様に考えれば、表象が命題を虚構的真にすることを、命題の表現と見なす必要はないし、述語機能と見なす必要もない。