「長岡市」
- 2016.09.11 Sunday
- 19:48
川端龍子
川端龍子先生は和歌山育ちの人、私との交友は先生が大正十一年日本美術院出品、「闘牛の絵巻物」制作に当たり古志郡二十村の闘牛見物に来越の際道案内せしが機縁となり先生の没年まで交友を続けました。その間先生は日本美術院同人、後青龍社を主宰して遂に日本画壇の第一人者となられ昭和三十四年文化勲章を授輿せられました。生前自宅の前に宏壮なる龍子会館を新築し龍子一代の作品を納め一般公衆の観覧に供せらる。此幅小品なれど真筆。 桐生記
三島億二郎(明治元年撮影)
長陵三洲 (三島億二郎)の書
楽しむところ無くて苦しむところあるは、親子相保たず、いわんや民をや。
楽しむところ有りて苦しむところ無きは、即ち戎狄且つ相親しむ、いわんや
民をや。
「米百俵」
明治17年、集会場の撃石館が長岡城跡に設立されたので、間もなくそこを会場として、小林雄七郎等は、「学術講義会」
を組織して一般の知識向上を図った。その方法は、連続講習の形式であって、講師の小林雄七郎はミルの
「代議政体論」を、 病院長の及川良吉は医学上の諸問題にについて、中学校長の前川亀次郎は学術と真理、
田中春回は論語を、田中訥は法律について、各々講義した。このほか、藤井宣界、渡辺譲三郎等も講師とし
て壇に立ったようである。会員で出席する者は毎回約百名、そのほか遠隔の会員で出席しにくい人々には
この『学術講義録』を送った。
「長岡会所病院」(現・長岡赤十字病院)
第六十九国立銀行本店(北越銀行の前身)=明治30年12月新築
第六十九国立銀行は、明治 11年12月20日に創業ました。当時の長岡は、北越戦争の兵火によって、
旧藩士は 流離し、町民は疲弊し、町並みは荒廃し殆ど見る影もない状態でした。このような惨状に
あった長岡を経済面から復興しようと、献身的な努力を傾けた二人の人物がいました。それは、
三島億二郎と岸宇吉です。三島億二郎は長岡藩士の代表的な人物であり、岸宇吉は長岡商人の
代表的な人物です。 第六十九国立銀行の創立は、実にこの二人の協力の賜物であったのです。
大正4年竣工の第2代目長生橋、橋長872mは当時の木橋としては日本一の長さであった。
現在の長生橋(第3代目)
明治20年以降、長岡の商工業の発展に大きく寄与したのは、東山油田の開発と北越鉄道の開通で
あった。東山油田の本格的な開発が緒についたのは、明治21年以降であった。明治28年には、東山
油田の採掘に 従事する会社、組合の数は三百を越す盛況で、産油額も年産額12万石(県内産油額の
75.6%)となった。翌29年の産油額は17万石(県内産油額の84.3%)と累増し、爾後、明治38年頃まで
順風満帆の時代が続いた。
宝田石油株式会社本社(明治35年頃)
北越鉄道は、明治29年に着工し、明治30年には直江津・柏崎間と沼垂・三条が開通、さらに31年には長岡を
中心とした全線が開通した。沿線の商工業の発達が促進され、米、石油の輸送は大きな恩恵を受け
ることになった=当時の長岡駅。
北越鉄道全通(直江津〜新潟間)の新潟新聞広告=明治31年12月20日付
明治36年に新築の長岡銀行本店。堅牢な土蔵造りでした(長岡市呉服町)
長岡銀行本店の営業室(長岡市本町)
赤れんが造りに高塔が目を引く六十九銀行本店。竣工式には渋沢栄一をはじめ各界の名士約600人
が招かれ、塔とモダンな外観が長岡の一名物になった。
この工事は清水組が新潟方面で名をなした名工事であって、この成功によってその後新潟方面に多くの工事を
得ることになり、工事をせんとする者は、先ず長岡に来て同行を見学したといわれている。
「 長岡六十九銀行の改築を祝いて 渋沢栄一
“ 梓弓はるの光も長岡に八重咲き匂う山吹の花 ” 」
六十九銀行本店の設計図=塔の部分
六十九銀行本店の設計図=1階営業室の部分
六十九銀行の「花見の宴」=明治45年ころ
六十九銀行の「花見の宴」=明治45年ころ
六十九銀行の「花見の宴」=明治45年ころ
戊辰戦争から復興した長岡市中心街=大正13年の大手通り
大正時代の長岡市表町通り。右側の塔のある建物は六十九銀行本店。
(絵葉書)
大正初期の長岡駅前の地図
大正14年10月1日、旧長岡区裁判所跡地での長岡貯蓄銀行本店の地鎮祭(現北越銀行本店の位置)。
時計塔のある建物は北越新報社本社(現長岡商工会議所の位置)、左の建物は長岡市役所 (大和の位置)
大正ロマン漂う昭和初期の大手通り。塔のある建物は長岡市役所本庁舎(現・大和の位置)、
右は長岡貯蓄銀行本店(現・北越銀行本店の位置)。 手前右は三島億二郎らが創立した長岡会社
病院(長岡赤十字病院の前身)。
長岡貯蓄銀行表町支店新築。設計と施行は深尾建築事務所 深尾貞太郎=昭和2年9月1日
昭和6年新築の長岡貯蓄銀行殿町支店・深尾建築事務所の
深尾貞太郎による設計・施行。頑丈な鉄筋コンクリートと
シャッターは昭和20年8月1日の長岡空襲の戦火にも耐えた。
昭和初期の大雪=長岡市表町通り
昭和初期の大雪=長岡市表町、銀行小路。
昭和初期の大手通り。右の建物は長岡貯蓄銀行(現・北越銀行本店の位置)、左は長岡市役所
(現・大和の位置)、その向こう側の塔の或る建物は北越新報社(現・長岡商工会議所の位置)。
長岡商業銀行宮内支店(後の北越銀行宮内支店)
六十九銀行本店=昭和初期の表町り
六十九銀行本店の営業室=表町通り
六十九銀行本店の絵葉書
六十九銀行は、長岡銀行と合併して長岡六十九銀行を新立することになり、昭和17年9月15日付けで
大蔵省に「新銀行設立の内認可申請書」を提出した。その報告のため全役員は、創業以来、関係の深
かった第一銀行を訪問した際の記念写真。中央が明石第一銀行頭取、その左が鷲尾六十九銀行頭取。
昭和17年9月24日、於第一銀行本店。後方は第一国立銀行初代頭取渋沢栄一の肖像画である。
昭和16年12月8日の日記=真珠湾攻撃・日米開戦
(山本五十六は近衛首相に聞かれたとき、なぜ、「半年か1年なら暴れてみせる」と言ったのか。
「戦ったら負ける。日本は滅びる」と、どうしてはっきり言わなかったのか。戦争が思うように
行かず、自ら退路を断つように最前線へ行き、昭和18年4月18日、ソロモン上空で戦死した。)
昭和19年、六十九銀行の行員による防火演習(表町)
昭和20年8月15日の日記
「ラジオにより休戦の大詔を拝す。三国宣言を受諾のこと。
国民はぼんやりしている。何をやる勇気もないのだ。
国民が悪いのだ! 闇で金もうけばかり考えていた国民だ。」
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昭和20年8月1日、B29爆撃機125機による長岡空襲で焼け野原になった本町・表町地区。
塔のある建物は屋根が焼け落ちた長岡六十九銀行本店。

長岡空襲から復興が始まった表町地区。塔のある建物は長岡六十九銀行本店。
昭和20年8月1日の長岡空襲で市街地の80%が焼失、人口7万4000人のうち死者1,486人に上り
ました。そして、8月15日、終戦となり長岡市は新潟県内における唯一の戦災都市となりました。
昭和26年11月、県内教職員が中心となって「再び戦争を起こしてはならない」という願いから
募金がなされ、この『平和像』が長岡駅前の公園に作られました。『平和像』のまわりには市内の
小学生が持ち寄った白い小石が並べられ、『平和像』の体内には、空襲で犠牲となった193人の
児童・教職員の氏名を刻んだ銅板が納められました。
戦後9年目の夏、輪になって踊る長岡市立南部保育園の園児たち。長岡空襲で大きな被害を被った
千手町地区。後ろに見える空襲で焼失した千手小学校の校舎はまだバラック建てである。しかし、
楽しそうな園児たちの姿は日本が平和国家になったことの象徴である。
ずらりならんでこんにちは! おなじみ北銀ホクちゃん エッちゃんのほか、
おさるやアトムの貯金箱もありました。
こんなかわいい贈答用メモもありました。
昭和30年代のの女子行員は、この制服を着用していました。
「ホクギンソング YouTube」で聞いてみて下さい。
ホクギンソング発表会= 長岡厚生会館で
北越銀行脇野町支店 (旧・三島農商銀行)=昭和37年撮影
赤煉瓦造りの北越銀行本店(旧六十九銀行)=昭和36年ころの表町通り
北越銀行本店営業室=昭和36年
昭和37年8月 北越銀行大手支店=大手通り、現在の北越銀行本店の位置
昭和37年8月、長岡祭りで大手通りを行進する中学生の鼓笛隊。左のビルは
大和百貨店、右は北越銀行大手支店(現・北越銀行本店の位置)。
長岡祭りの民謡流しで長岡甚句を踊る北越銀行女子行員。
大手通りの北越銀行大手支店前にて、昭和38年8月。
長岡祭りで長岡甚句を踊る長岡実業女子高等学校の生徒たち。制服姿のときとちがい
ゆかた姿の彼女たちはすっかり「大人の女性」です=昭和38年8月1日
昭和29年の長岡祭り
昭和29年の長岡祭り
長岡市中心街の航空写真、日赤町上空より大手通り、長岡駅、長岡高校を望む=昭和31年
長岡市中心街の航空写真。長岡駅上空より大手通り、日赤町、信濃川を望む=昭和31年
柳原町にあった頃の長岡市役所の航空写真=千手町、西千手町、小頭町、山田町を望む=昭和31年
国鉄の長岡操車場の航空写真、右手前が操車場、その上が南中学校、千手小学校、
左上に長岡工業高校、一番上に信濃川、長生橋を望む=昭和31年
信濃川に架かる越路橋(左)と信越線の鉄橋。向こう側に浦、越路町、岩塚、小国町を望む=昭和31年
こんな大きな火見櫓があったころの与板町商店街=昭和40年頃
宮内駅前の旧国道17号線沿いの町並み。摂田屋方向を見る=昭和45年
「38豪雪」の長岡駅前
北越銀行の屋上より撮影した大手通り十字路=昭和50年頃
上の写真と反対の方向を見る。
表町にあったころの北越銀行本店(六十九銀行本店)。昭和40年に大手通りに新本店が完成して移転、
昭和41年3月に赤煉瓦のこの建物は市民に惜しまれて取り壊された。左側のビルに大手通りにあった
大手支店が表町支店と店名を変更して移転してきた。アーケードの下に「これからは表町支店として
皆さまにご奉仕いたします。」の看板が見える。現在、このビルにはホクギン経済研究所が入居して
いる。
長岡市の中心街=昭和41年8月・長岡祭り
長岡のメーンストリート大手通り。上越新幹線は、まだ開通してなく長岡駅は新築工事中である。
=昭和55年9月。
生まれ変わったメーンストリート「大手通り」。地下駐車場建設、アーケード建て替え工事完了、
シンボルロード整備が完了した=平成10年
長岡祭りで大手通りを行進する小学生の鼓笛隊。
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