学校教育の本質が「いじめ」である

2017年05月06日 18:00

ホリエモン氏の「すべての教育は『洗脳』である」の中で、

具体的に、学校はどんな手段を使ってその洗脳を行い、すべての子どもたちをただの凡人に仕立て上げようとするのか。
「禁止である。」
非常にコストの安い教育手法だ。(P96)

とのべていることは前回お話ししましたが、これは現場経験のある教員からしてみると、看過できないとても重大な指摘です。

なぜかといえば、学級経営がうまいといわれている教師は、この「禁止」をじつに巧妙に使うからです。

教師が「禁止」をする方法とは

教師の間で知られた言葉に、黄金の三日間というものがあります。提唱者で小中学校の教師に大きな影響力のあるTOSS代表向山洋一氏は、以下のように述べています。

大切なことは、何かというと、始業式からできる限り早い時期に組織するということである。遅くても1週間以内、できれば三日間で組織してしまうことである。これは、どれだけ強調してもしすぎることはない。初めて出会った子どもたち、緊張して静かである。新しい担任、新しい学年に期待している。この時なら、担任のいうことを素直に聞く。この間に組織してしまうのだ。組織すると、クラスの動きはスムーズになる。 動き方、ルールが決まっているので、誰でも身を処していける。心地よい流れが生まれるのである。
向山洋一著『教え方のプロ・向山洋一全集 4 最初の三日で学級を組織する』(明治図書)

「心地よい流れ」といっていますが、ようは年度当初に「禁止事項」を明確にし、それを逸脱した児童生徒には、徹底的に厳しく当たれということです。
その「ルール」が客観的に適切かどうかは関係ありません。いち教師が決めた「ルール」を逸脱したことが問題とされます。児童生徒にしても、たしかに「ルール」を逸脱したことに対して叱責されているので、なかなか反論することはむずかしいのです。
そのため、児童生徒は委縮し、じつに秩序だった学級経営が一年間できる、ということです。くりかえしますが、このような学級経営ができる教師は、学校の中では優秀とされますし、学級はとても安定しているように見えます。

これは「いじめ」の構造と相似である

これが何かに似ていると、ふと思いました。それは、「いじめ」の構造です。

文科省はいじめについて

「いじめ」に当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする。
「いじめられた児童生徒の立場に立って」とは、いじめられたとする児童生徒の気持ちを重視することである。

とのべています。この文言から、現場では、「いじめられている子ども」に瑕疵はなく、「いじめている子ども」が100%悪いという対応になります。

じっさいのいじめはもっと巧妙で、「いじめられている子ども」に何らかの「原因」があり(人の話の腰を折る、誹謗中傷が絶えない、いきなり暴力をふるう、あまりにも不潔である)、そういったことを発端にいじめが起きます。「いじめている子ども」たちも、当初は正当な理由でその「原因」を指摘しているように見えます。そんな中で、「いじめている子ども」の保護者に「おたくのお子さんだけが悪いです」といっても納得するわけがありません。
もちろん、「いじめている子ども」たちは100%悪いのです。ですが、たしかに「いじめている子ども」たちにも理があるので、教師の初動の対応は遅れます。そういった「原因」があることが多いので、「いじめらている子ども」もSOSは出しにくいのです。ですから、理由はどうであれ、教師は「いじめ自体」がぜったいによくないと言わなければなりません。

しかし、この構造はなにかに似ています。じつは、教師は率先して「いじめ」の技法を使っています。自分で作った「禁止」事項を使って。それは「正当な理由」で子どもたちを叱責しているように見えます。「いじめている子ども」たちが「いじめられている子ども」を追いつめるように。そうやって子どもたちをコントロールするのです。まさに「いじめ」の構造です。

教師自身が「いじめ」の構造を最大限に生かしているとすれば、学校から「いじめ」なんて、なくなりませんよね。

中沢 良平(元小学校教諭)

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